十国春秋卷八十五 呉越九 列傳 沈行思
要約
沈行思、一名行瑜は湖州の巡校将。高澧が出奔した際、都将盛師友とともに城門を閉じた功を立てたが、自らも専城(州の長官)の地位を望み、同僚の陳環に取り計らいを頼んだ。しかし環はすでに武肅王から行思を国に帰らせるよう密命を受けており、「面と向かって功績を比べ可否を決めよ」と偽って府城へ呼び寄せ、家族もひそかに国へ送り届けた。王のもとに参上した行思は厚遇されたものの、後に環の欺きに気づいて深く恨みを抱くに至った。
王が国城に至った際、行思と環は共に北郊で出迎えていたが、行思は自ら大きな槌を取って環を打ち殺し、王の舟に走り込んで自らの功績と師友・環による讒言離間を訴えた。折しも随行していた師友との対質の場で行思はいきなり威鎗を奪って師友を刺そうとし、左右の者に取り押さえられた。武肅王は「早くから横暴を知っていた」として龍丘山で行思を斬らせたが、一族には遺骸を収めて葬ることを許した。師友はこの功により婺州刺史に抜擢された。
史論は、呉越開国の諸将の多くが恂恂和雅であった中で、行思の残忍な性質と専城への野心が同僚を殺す事態を招いたことを「匹夫の勇」と評し、自ら罪咎を招いた戒めの例として位置づける。
現代語訳全文
専城への野心と最期
- 沈行思、一名行瑜、(闕)の人であり、功を積んで湖州廵校将となった。初め高澧が出奔した際、行思は都将の盛師友とともに城門を閉じた功があった。武肅王が湖州を巡視するにあたり、師友に随行を命じたが、行思には牧守(州の長官)となることへの望みがあり、同僚の陳環に語って言った、「盛君がやってくれば、どうして印綬を帯びて帰らずにいられようか。そうでなければ、私はその後どこに身を置けばよいのか。君は私のためにこれを取り計らってほしい」と。当時、環はすでに密命を得て、行思を国に帰らせるよう仕向けられていた。そこで彼を騙して言った、「二人の功にはもとより優劣はない。しかし王のお考えはまだ測りかねる。すぐに府城に出向いて、面と向かって功績を比べ、可否を決めるのがよいだろう」と。行思はそこで王のもとに参上し、王もまた彼を厚遇した。環は行思の家族を送り届けたが、そこに至って行思は初めて環の欺きに気づき、深く環を恨み、不満の情を抱くに至った。
- 王が国城に至ろうとしたとき、行思と環は共に北郊で出迎えていたが、行思は自ら大きな槌を取って環を打ち殺し、王の舟に走り込んで自分の以前の功績を陳べ、さらに師友と環が自分を讒言し離間させようとした状況を述べた。このとき師友がちょうどそこに随行しており、急いでこれを引いて対質させたところ、行思はいきなり威鎗を奪って師友を刺したので、左右の者がすぐに彼を取り押さえた。王は言った、「私は早くからお前が横暴であることを知っていたので、任用したくなかった。城門を閉じた功を考え、他郡の牧に任じようと思っていたのに、今このような振る舞いをするようでは、誰がこれを容認できようか」と。命じて龍丘山で斬らせ、その一族には遺骸を収めて葬ることを許した。師友はついに婺州刺史に抜擢された。
史論
- 論に曰く:呉越開国の諸将で麾下に隷属した者の多くは恂恂(つつましく)和雅で、祭遵・羊祜の遺風を慕っていた。沈夏はひとり我がままに殺戮を好み、我が子を愛しながらもこれを噛み殺すほどの残忍な性質の人であった。行思は専城の地位を狙って野心を抱き、鞅鞅(不満げ)として自らを見失い、同僚を戕害し、自ら罪咎を招いた。かの言うところの「匹夫の勇」に他ならないのではないか。