十国春秋十國春秋卷八十五 呉越九 列傳(高彦・沈夏ら)
高彦とその子の高渭
- 高彦は海塩の人。はじめ同県の沈夏とともに武粛王の内意を受け、密かに都将の徐及を誅し、その首を持って王のもとに帰った。前後の従軍で功が多く、海昌鎮将に抜擢された。
- 湖州刺史の李継徽が郡を捨てて淮南に奔ると、彦は王に従ってその地を巡察した。王はこれ以来彦に目をかけ、嬰蘭堂の壁に「この一片の地は、心ある人に付与すべし」という趣旨の詩を題した。立ち去るとき彦に「わしはこの州をお前に授ける。よく撫育せよ」と言い、奏請して湖州制置使に進め、まもなく本州刺史に昇らせ、遥かに費州を領させ、検校司空・渤海公を加えた。
- 彦の性は淳厚で、湖州に十一年在任し、政治は寛容簡素を旨としたので民は大いに便とした。
- 天祐三年(906年)冬、道場山の僧の如訥と訣別して没した。如訥は口が拳を容れるほど大きく手は膝を過ぎるほど長く、彦は常に師の礼をもって仕えていた。
- 高渭は彦の長子。はじめ湖州で父に従っていた。武粛王が衣錦城を巡っていたとき徐綰・許再思の乱が起き、外郭を焼き掠めて内城に迫った。彦は変を聞いてただちに渭を救援に出した。渭は部下を率いて霊隠山へ直行したが、伏兵に遭って殺された。のちに淮南が徐綰を檻送してくると、王は綰の心臓をえぐって渭の霊に供えさせた。
朱行先
- 朱行先、字は蘊之。海塩の人。燕のような顎、虎のような頭、猿のような長い腕をもち、射を得意としたので、当時の人は「小由基」(養由基の再来)と呼んだ。
- 建寧都将から身を起こし、湖州刺史の高彦に仕えてしばしば戦功を立てた。武粛王は節度左押牙・親衛第三都指揮使に抜擢した。
- 高彦の子の高澧が敗れると、行先は部衆を率いて自ら帰順し、協力勤王功臣の号を賜り、さらに佐正匡国功臣を加えられ、検校尚書右僕射・御史に進んだ。
- まもなく静海鎮遏使となり、任地では恩と威を並び行い、大いに名声を得た。在任十五年。宝大元年(924年)七月、任地で没した。年七十二。銀青光禄大夫・上柱国を贈られた。
- 弟は三人で行存・行勤・行忠。子は従訓・智紹(仕えず)・元晟・元杲(ともに節度正散将)・元昇(節度下将)・元宝・元勝・元贇の八人。
黄晟
- 黄晟は明州鄞県の人。はじめ望海鎮の募兵に応じたが、鎮では体格の立派な者を合格の基準としており、晟は背が低く容貌も冴えなかったため選に漏れ、鎮の都虞候の林膺の下に配属された。
- のちひそかに本郷に帰って人を集め、平嘉埭に拠った。当時、権知州の楊僎が招いて平嘉浦将に任じ、その衆は千余人となった。
- それ以前、劉漢宏が台州の賊の婁文に明州の事を知らせていたが、文は楊僎に敗れ、その一味の杜宗が寧海鎮から郷民を率いて奉化に屯した。晟は平嘉埭から部下の兵で攻め、多くを斬り捕らえた。
- ほどなく余姚鎮将の相嘉が越州を侵し、董昌が防いだが不利だった。明州刺史の鍾季文が檄を発して晟に兵を統べさせ、相嘉を攻めて殺した。董昌は賊平定の功として晟に左散騎常侍・浙東道東西副指揮使を授けるよう奏請した。
- 鍾季文が没すると、晟は本州刺史となった。
- 晟は士を礼遇し、前進士の陳鼎・羊紹素を賓客として招いた。江東の儒者の多くが身を寄せた。
- 董昌が僭号して改元すると、晟も書を送って諫めた。武粛王が挙兵すると、晟は衆を率いて呼応した。
- 在任十八年で没した。天宝二年(909年)のことである。遺言の上疏では子を後継に願わず、府庫の蓄えにはすべて「送使」(国庫に送る)と札を付けさせた。その忠順ぶりはこの通りであった。
司馬福
- 司馬福は蘇州の人。はじめ武粛王の水軍に属し、遊奕都虞候となった。
- 天宝二年(909年)、淮南人が蘇州を包囲し、内外の連絡が絶えた。王が援軍を渡したものの消息が知れなかったところ、福は水中に潜って三日で城内に入り、返報を得て再び出たので、援軍と城中の弓矢が呼応できるようになった。
- この戦いで、淮南人は城の周囲に水中の柵を巡らし、網に鈴をつけて水底に沈め、潜行する者を防いでいた。福は泳ぎが巧みで、まず大きな竹で網に触れさせ、淮南人が鈴の音を聞いて網を引き上げる隙に通り抜けて城内に入った。出るときも同じ手を使った。人々はみな神業と思った。
- 福はもともと髭が多かったが、このとき髭を剃り落として敵の目をくらまし、敵はついに正体を見破れなかった。
- 都指揮使に進んだ。武粛王が呉江に城を築いて軍鎮を置いたとき、福に主管させ、そのままその職で老いた。
孫琰
- 孫琰は臨海の人。驍勇で知略があり、当時の人は「孫百計」と呼んだ。功を積んで牙将となり、蘇州を守った。
- 天宝二年(909年)、淮南の将の周本・呂師造が蘇州を囲み、百通りもの攻め手を尽くした。最後に洞屋(屋根つきの攻城車)を押し立てて城に迫り、幕を張ったように兵を覆った。琰は機に応じて、竿の先に輪をつけ、綱を垂らして錐を投げ、これを引き剥がしたので、攻め手は身をさらすことになった。投石機が来ると網を張って防いだので、石は網に当たって止まり、まったく効かなかった。淮南兵はついに夜のうちに逃げ去った。
呉敬忠
- 呉敬忠は於潜の人。武粛王に従い、八都の兵で劉漢宏を討って功があった。王が出兵して淮南を助け田頵を討ったとき、敬忠は先登して陣を破り、ついに勝報をもたらして帰った。
- 梁の太祖が王を呉越両国に封じたのち、敬忠も積功により正国功臣・浙西営田副使を授かり、累りに太師を加えられた。
- 兄の呉順は功により鎮海軍保城都指揮使・検校司空に抜擢され、弟の呉訢は太傅に至った。子は八人で、いずれも本国に仕えて顕貴となった。
滕彦休
- 滕彦休は出身地が原文に欠けている。幼くして聡明で弁才があった。
- 天宝八年(915年)、契丹に使いして大いにその心をつかんだ。
- 翌年ふたたび答礼の使者として赴いたとき、契丹の兵が梁の蔚州を攻めていた。敵楼が理由もなく自ら崩れ、契丹軍がこれに乗じて、時をおかず攻め落とした。契丹主は彦休を伴って城を巡り、これを見せたうえで、彦休に「述呂」という名を賜った。
- 天宝十三年(920年)五月、武粛王はまた彦休を契丹に遣わし、あわせて犀角・珊瑚などの品を贈らせた。契丹主は大いに喜び、彦休に官を授けて帰らせた。
- 彦休が契丹へ往復したのは四度に及び、海沿いに進み河を遡り、険阻を踏破した。隣国と睦みを結んだ功はこの人が最も大きい。
史論
- 高彦は子を難に赴かせ、志は君父にあった。公を思って私を忘れた者といえよう。朱行先は身を束ねて正しきに帰し、比類も傷とならなかった。司馬福・孫琰・呉敬忠は身を戦陣に置いて智勇をともに奮い、王臣として恥じるところがない。黄晟は心から恭順であり、滕彦休は君命を辱めなかった。いずれも佳き評判を得た。まことに善いことである。
呉公約
- 呉公約、字は処仁。余杭の人。黄巣の乱で杭州八都が編成されたのち、さらに分派して十三都と称されたが、公約はその一つを担った。
- 公約はもとより胆略があり、県の豪族だった。朱直が挙兵したとき応募して西の討伐に加わり、功により西桂鎮遏使となった。
- まもなく董昌に従って西の辺境で黄巣を防ぎ、御史中丞を加えられた。奏請により都の定員を置き、硤石を訓練の場に改め、敵の鋒先をくじいて日々名声が上がった。
- 武粛王が越州を破ったとき、公約は勇猛に先登した。戦いが終わると千牛衛将軍・粛政隊長に任じられた。
- ほどなく劉浩を平定した功で散騎常侍に進んだ。徐約が蘇州を都としたとき、武粛王は公約に討伐を専任させ、特に北面諸軍行営招討使を授けた。翌年春に蘇州を克したが、公約は軍功を人に譲り、自分の部隊を王に返した。王はいよいよその忠を嘉し、義和鎮遏使兼本軍水陸都遊奕使を授けた。
- まもなく淮南人が侵入すると、公約は境域を防いでたびたび敵の鋒先を挫き、工部尚書に進み、まもなく刑部・戸部に移った。
- 乾寧四年(897年)に没し、羅隱がその墓誌を書いた。
- 公約は欲が淡く、得た軍需はいつも部下に分け与えるのを常とした。将となって数十年、家に余分な財産はなかった。外に出れば将士を励まし、内に入れば子弟を教え諭し、当時の賢将と称された。
章魯封
- 章魯封は桐廬の人。たびたび進士に応じたが及第しなかった。優れた才があり、若いころは羅隱と並び称された。
- 武粛王は董昌を破ったのち、魯封を表奏孔目官に招いたが、魯封は拒んで受けなかった。武粛王が吏に笞打たせたので、しぶしぶ職に就いた。累進して蘇州刺史となった。『章子』三巻を著して世に行われた。
饒景
- 饒景は青州淄水の人。唐の広明年間(880-881年)に杭州が八都を建てたとき、景は唐山都将となった。
- 天宝年間、武粛王に仕えて鎮海軍紫渓鎮遏使となり、たびたび防禦の功があった。天宝十四年(921年)に没し、王は梁に奏聞して太保を贈られ、金昌県の金山郷に葬られた。
- のちに墓の木はみな高さ百尺、抱えるほどの太さになり、これを損なおうとする者は必ず怪異に脅かされてやめたという。
薛居正
- 薛居正は銭唐の人。武粛王に仕えて太尉に至り、没して貞顕と諡された。霊石山の麓に葬られ、墓前には常に紫藤が三つの峰を巡って生い茂っていた。
謝鶚
- 謝鶚は南康の人。唐の進士に及第した。幼いころ、渓で水浴びをしていると人が珠を一器くれて「これを呑めば明晰になる」と言う夢を見、細かな珠を六十余顆呑んだ。長じて詩をよくし文名があった。武粛王に仕えて官職に就いた(官名は原文に欠く)。
- 宝大年間、朱行先が勤王の務めのさなかに没したとき、鶚がその墓誌銘を撰した。文章は雅やかで豊かで、当時の人に高く評価された。
- 銘の趣旨は次の通り。傑出した英才として生まれ、その姿は世に抜きん出ていた。もとより兵法に通じ武経に精しく、二度戈を挙げて妖気を払い清めた。以来その勇は群を抜き、家名を大いに広めた。功績が明らかになると威名も高まり、静かにあっては謙譲敬慎を守り、動いては順逆をわきまえた。侯王はその忠信を賞し、格別の功がなければ要地の鎮を任せることはなかった。呉を匡す志は大きく、越を佐ける功は完全で、君主一人の心にかない、百官が賢者として推した。まさに符節を割いて重い権を分かとうとしていた矢先、思いもよらず梁木は崩れ、逝く川とともに去った。生きては忠臣となり、没しては遺策を残した。その立派な後嗣は帝の恩沢を恭しく承ける。今、赤い旗が導き、玄宮(墓室)はすでに開かれた。万歳千秋、芳しきその面影とは永遠に隔てられる。
鍾匡範
- 鍾匡範は唐の鎮南節度使の鍾伝の第二十子。鍾氏が滅びると、母とともに帰順し、武粛王に厚く礼遇された。
- 匡範は王に、雲鶴・通天・離水の犀の帯一囲いと玉の盂一つを献じた。玉盂は、五羽の雀の雛を中に入れて覆い、炭火で長く熱してから開けて見ると、雛はすでに飛び去っていたという不思議なものであった。
- 武粛王は盂だけを受け取って帯は返し、銭二万緡を贈った。匡範は帯を携えて碧波亭に行き、許彦方に帯を締めさせて水中を歩かせたところ、水が七尺ほど割れて瑞石山まで進み、そこから岸に上がった。国中の人は大いに驚いた。
- 一説に、この帯はもと唐の玄宗の愛玩品で、西川に残されていたのを蜀の商人が鍾伝に献じ、伝が常に宝としていたものだという。
陳長官
- 陳長官は武粛王に仕えて寧海県令となった。王が州県の賦税を増やすよう命じると、長官は上書して極諫した。王は激怒して獄に下したが、長官は死を賭して争い、増税は取りやめとなった。
- 寧海はもともと難しい県と言われたが、租税が他の県より格段に軽いのは、すべてこの人の力である。今なお廟に祀られている。
童頵
- 童頵は青渓の人。もとより勇力があり、武粛王の時代に多くの功労を立て、西扇都巌将に任じられた。
- 王が賜った誥の趣旨は、頵は早くから軍門に属して久しく巌界に駐在し、歳月を重ねても警備に手抜かりがなかった、自分は大業を継いで恩沢を広く施すにあたり、この勤勉さを見て昇進を示すべきであり、これまでの精励を固め今後の励みとせよ、というもので、銀青光禄大夫・検校太子賓客兼監察御史・上柱国を授け、十将に充て、他はもとのままとした。
- 没して青渓の仁寿郷に葬られた。
鍾廷翰
- 鍾廷翰は出身地が原文に欠ける。湖州に流寓し、もとより賢者の名があった。武粛王が安吉主簿の代行を命じた牒の趣旨は、廷翰は儒者として身を修め早くから官途に就き、霅水のほとりに寓居して年月を重ね、清廉謹直の規範を守り温和恭順の道を備えている、今、登用を願い出たので特に人材を選ぶこととし、安吉の属城で印曹の吏が欠けているから代行させる、公正に励め、補佐の能力が聞こえてくれば抜擢の褒賞を惜しみはしない、というものであった。その後の消息は不明。
楊巌
- 楊巌は弘農の人。父の楊承休は唐の刑部員外郎。天祐年間、給事中の鄭祁の副使として武粛王を呉王に冊封する使者となったが、淮南の道が塞がって帰れず、そのまま杭州に留まった。
- 承休は赴く際に巌を連れていた。巌は武粛王父子に歴仕し、累進して丞相に至った。
- 子の楊郾は任子(父の功による蔭官)で尚書職方員外郎を歴任した。郾の子の楊蠙は早世し、蠙の子の楊侃は十歳で「雪賦」を作ることができた。忠懿王が宋に入ると、郾は侃と一族を率いて随行し、宋州に仮寓した。
許俊
- 許俊は塩官の人。十八歳で武粛王に従い、驍勇で知られた。たびたび戦功を積み、節度使都押牙兼御史中丞に至った。宝正三年(928年)に没した。
孫陟
- 孫陟は新城の人。武粛王の時代に杭州刺史を歴任し、検校尚書を加えられた。のち常州を防禦し、兵を動かして督戦するうち陣中で没した。恤礼をもって邑の太平郷に帰葬され、銀青光禄大夫・上柱国を贈られた。
聞人凝
- 聞人凝は天宝十六年(923年)に富春県令となり、県庁を建て直し、廃れたものを興す功があった。
張瑗
- 張瑗は武粛王に仕えて累進し司空に至り、出て華亭に鎮した。普照寺のある僧が人情に疎く、精進料理で応対した。瑗はこれを恨み、密かに王に願い出て寺の裏手に三本の河を掘り、運河として完成させたので、寺は落ち着かなくなった。
劉甫
- 劉甫は先祖が泉州の人で、閩県に移り住んだ。(欠字)王の時代に閩を捨てて呉越に仕え、そのまま郷里に戻らなかった。その清廉と孝行を称えられた。子の劉若虚も宋で名を知られた。
蔣勛
- 蔣勛は晋の呉郡太守の蔣樞の子孫。唐末に婺州の東陽へ避難し、(欠字)王に仕えて金紫光禄大夫・検校司空兼御史大夫となり、そのままそこに居を定めた。
王畊
- 王畊は出身地が原文に欠ける。絵をよくし、とりわけ牡丹に精しく、当時の画壇の第一人者となった。その後の消息は不明。
沈夏
- 沈夏は海塩の人。武粛王が董昌とともに越州で劉漢宏を討ったとき、塩官都将の徐及が沈夏と高彦に部隊を率いて合流させた。
- 王は二人を見て大いに喜び、寝所に招き入れて言った。「わが東征の軍はすでに十分だ。渡江の役でお前たちを煩わせはしない。ただ徐及はもともと強暴で、わしが養っておける者ではない。わしが東へ渡れば必ず後患となる。わしのために彼を殺せ。郡守の位で報いよう。人に叛逆を教えるのではない。この土地が戦乱に苦しんでいる以上、不仁の者は駆逐して民の生育を休ませねばならぬのだ」。夏らは再拝して命を受け、王は手厚く送り返した。
- 帰ると夏は徐及に「董公と銭公が兵で賊を討っているが、将軍が部下を助けに出したと聞いて喜色を浮かべておられた。ただ常に東北を気にかけ、そこで事が起これば後顧の憂いになると言っておられる。我らはまさに将軍を後ろ盾と頼んでいる」と告げた。徐及の軍師の某は夏を疑い、備えるよう勧めたが、及は聴かなかった。夏は部下と謀って及を殺し、及の軍勢は分裂した。
- 夏は凶暴な性で、すぐには帰順せず、得た七千余人を臨平山の下に集め、幼弱な者をすべて殺して三千人にまとめ、嘉興に赴いて呉公約を捕らえ、海に出て乱を起こした。まもなく公約を釈放して帰し、そこでようやく杭州に奔った。
- 武粛王は寛大に迎え入れ、夏はたびたび従軍して、奏請により武勝軍都指揮使、遥領の彝州刺史を授かり、検校司空を加えられた。
- しかし任地に着くとすぐ殺戮を事とし、側近で使えぬ者はただちに殺した。王はその所業を大いに嫌った。さらに北部に私邸を構え、その規模は公府に等しかった。長子が過ちを犯すと自らの手で斬った。王は子を食い殺すような男だとしていよいよ不快になり、婺州刺史として外に出した。
- そこへ淮南の将の陶雅がその境を侵したが、王は時を移して救援せず、まもなく東陽が陥落した。夏は捕らえられ、まもなく殺された。
沈行思
- 沈行思、一名は行瑜。出身地は原文に欠ける。功を積んで湖州巡校将となった。
- 高澧が出奔したとき、行思は都将の盛師友とともに城門を閉ざして守る功を立てた。武粛王が湖州を巡ったとき、師友を随行させたので、行思は牧守の位を望む気持ちが強く、同僚の陳環に「盛君が来れば印綬を佩びて帰るのではないか。そうでないなら私はこの後どこに落ち着けばよいのか。君、私のために取り計らってくれ」と言った。
- 陳環はすでに密旨を得て行思を都に帰らせるよう命じられていたので、「二人の功に優劣はない。それに王のお気持ちはまだ測りがたい。急ぎ府城に赴き、面と向かって功績を比べ、可否を決めるべきだ」と偽った。
- 行思はそこで参上して勤王したところ、王も厚遇した。陳環が行思を家まで送り届けたとき、行思は初めてだまされたと悟り、環を深く恨み、不満を抱くようになった。
- 王が都城に近づくころ、行思と環はともに北郊で出迎えた。行思は大槌を取って環を撲殺し、王の舟に駆けつけて自分の以前の功を訴え、さらに師友と環が自分を讒言していたと述べた。折しも師友も従っていたので、王はただちに呼んで対質させた。すると行思は衛兵の槍を奪って師友を刺し、左右の者に取り押さえられた。
- 王は「わしは早くからお前が強暴なので任用したくなかった。しかし城を閉ざした功を思って他郡の牧を与えようとしていた。今このような所業では、誰が容れられようか」と言い、龍丘山で斬らせ、その家に遺骸の収葬を許した。師友はついに婺州刺史に抜擢された。
史論
- 呉越の建国期、麾下の諸将には温厚で和やかな者が多く、後漢の祭遵や晋の羊祜の遺風を慕う者ばかりだった。ところが沈夏だけは恣意的で殺戮を好み、愛子にまで手をかけた。まことに天性の刻薄な人間である。沈行思は一城の主の座を望んで不満を抱き、同僚を殺して自ら罪を招いた。いわゆる「匹夫の勇」とはこのことではないか。