十国春秋十國春秋卷八十四 吳越八 列傳(羅隱・顧全武ら)
羅隱の出自と改名
- 羅隱、字は昭諫。新城の人。のちに新城が新登と改称されたので新登県の人とも呼ばれる。祖父の知微は唐の福唐県令、父の修古は開元礼の科に応じた。
- もとの名は横といったが、容貌が見苦しく、進士に十度応じても及第できなかったため、今の名(隱)に改めた。
- 若くから詩をよくし、同族の虬・鄴と並び称され、当時の人は「三羅」と呼んだ。
- はじめ池州の梅根浦に寓居し、刺史の竇潏が別荘を建てて住まわせたので、自ら「江東生」と号した。ほどなく唐の宰相の鄭畋・李蔚に認められた。
唐朝への諫言と諸鎮での不遇
- 長安で病臥していたとき、大旱魃に際して京兆尹に祈雨の法を行わせよとの詔が出た。羅隱は上疏して強く諫め、その言葉は風刺にわたったが、結局用いられなかった。
- その後、羅という尊者に人相を見られ、「君の志は科挙の及第にあるが、官は主簿・県尉止まりだ。受験をやめて東に帰り、覇者の国に仕えれば必ず富貴になる」と勧められた。
- そこで湖南に赴いて幕僚となり、淮南・潤州など諸鎮を渡り歩いたが、いずれも上とそりが合わなかった。
- 招討使の宋威が賊の討伐に出ながら進軍しないのを見て、軍門に赴いて上書した。王仙芝・尚君長らが廬州・寿州を侵し梁・宋を荒らしているのに、天子が十二州を割いて将軍を節度使としたのは、方鎮に将帥がいないからでも朝廷に主がいないからでもない、将軍が隴右から身を起こして二十余年で三度も節旄を握った以上、恩義に報いて命を果たすと見込んでのことだ、と述べ、賊がすでに睢陽の二城を抜き大梁も自衛の板築を始め、人々が将軍の来援を渇望しているのに、将軍は美々しい車馬で東道に遊んでいる、朝廷が八十三州を挙げて将軍に仕えさせているのは護衛のためか、それとも即刻この草賊を掃うためか、と難詰した。宋威はこの書を得てひどく苦り切った。
呉越(武粛王銭鏐)への帰属
- 久しくして杭州に帰り、武粛王に謁見した。受け入れられぬことを恐れ、自作の「夏口詩」を巻頭に掲げて示した。王は詩を読んで大笑し、格別の待遇を加え、書を贈って「王粲は乱世ゆえに遠く劉表を頼り、孔子は故郷なればこそ魯の司寇となった」と言った。羅隱は「もはやここを去るまい」と答えた。
- 武粛王が鎮海節度使に任じられたとき、沈崧に謝表を起草させたところ、浙西の繁栄と富裕を誇る文になった。羅隱はこれを見て、浙西は兵火のあとで日々の用にも事欠く有様、朝廷の執政は賄賂に熱心なのだから、この表を奏上すれば執政の要求を招くだけだと指摘し、「天寒くして麋鹿常に遊び、日暮れて牛羊下らず」という趣旨の文言に改めさせた。朝廷はこれを見て「必ず羅隱の辞だ」と言った。
- 昭宗が名を曄と改めたとき、羅隱の作った賀表は「左は虞舜の全文、右は姫昌の半字」(曄の字解き)と述べ、京師で第一と称された。
後梁への抵抗論
- 梁が唐を簒奪すると、空名の爵位で強藩をつなぎとめようとし、武粛王を呉越両国に進め、羅隱をも諫議大夫として召した。羅隱は応じず、逆に挙兵して梁を討つよう請い、「王は唐の臣であるから、義として北に向かって戈を執るべきだ。たとえ成功せずとも杭州・越州に退き保って自ら東帝となればよい。どうして腕を組んで賊に仕え、永久の恥を残すのか」と説いた。
- 王は当初、羅隱が唐で不遇だったことへの恨みから出た言かと疑ったが、この言を聞いて、用いはしなかったものの内心その義を認めた。
詩による諫めと厚遇
- 王の待遇は日ごとに手厚くなった。当時、西湖から毎日数斤の魚を納めさせ「使宅魚」と呼んでいた。あるとき王が羅隱に「磻溪垂釣図」への題詩を求めると、羅隱は詩に寓意を込めて諷し、王はただちにその徴収を免じた。
- また羅隱が病臥したとき、王は自ら見舞い、壁に詩を題した。羅隱は末二句を続け、上から紅紗をかけて恩遇の記念とした。
予見の的中と晩年
- 羅隱は軍事を好まなかったが、事の見通しはよく当たった。武粛王が西府に城を築いたとき、賓客・幕僚に見回らせ、「百歩ごとに敵楼を置いた。金城湯池と言ってよかろう」と言うと、羅隱は静かに「敵楼は内向きの方がよろしいでしょう」と述べた。のちに武勇都の変が起き、援兵が外から内を攻める形になったので、人々はその先見を称えた。
- 累進して銭塘県令となり、鎮海軍掌書記・節度判官・塩鉄発運副使を授かり、著作佐郎・司勲郎中を経て諫議大夫・給事中・発運使に至り、金紫を賜った。天宝三年(910年)十一月に没し、年七十七。新登県界に葬られ、沈崧が墓誌を書いた。
人となりと著作
- 文章は気力に富み、性は傲岸だった。かつて船着き場で韋貽範に出会ったとき、面識もないのに船頭に向かって「あれは何の朝官だ。おれの脚の間に挟んだ筆でもあの手合いの何人分かに敵うわ」と大声で言った。貽範は恥じ恨み、のちにこれを理由に羅隱の登用を阻んだ。
- 詩文や戯言もしばしば風刺にわたった。
- 著作に『呉越掌記集』三巻、『江南甲乙集』十巻、『江東後集』三巻、『湘南応用』三巻、『霊璧子両同書』十篇、ほかに『讒書』五巻、『淮海寓言』七巻があるが、多くは散逸して伝わらない。
- 以前、魏に赴いて鄴王の羅紹威を訪ねたとき、入境前に書を送って家系を述べ、紹威を甥の世代と位置づけた。幕府の吏は皆怒り、「一介の布衣が大王を甥扱いとは」と憤ったが、紹威はもともと士を重んじ、「羅隱の名は天下に鳴り、王公大人でさえ軽んじられている。その人が来てくれて甥にしてもらえるなら幸いだ」と言い、旗を立てて郊外に出迎え、きわめて恭しく礼を尽くした。羅隱も遠慮しなかった。出立の際には銭百万を贈られ、なお武粛王への書では紹威を「季父」と称した。
- 青州の王師範もしばしば使者に礼幣を持たせて詩を求め、羅隱の詩を得て大喜びした。また令狐滈が進士に及第したとき羅隱が短い詩で祝うと、父の令狐綯は「子が及第したことより、羅公の一篇を得たことが嬉しい」と言った。当世での重んじられようはこの通りであった。
- 唐末、新城の鼉江の上に常に二筋の気が渡り、昼夜消えなかったが、羅隱と杜建徽が生まれてからは二気は見えなくなった。識者は文武の秀気だと言った。
- 子の塞翁は鎮海節度推官となり、羊の絵を描いて当時抜群と称された。
史論
- 「士は用いられれば虎となり、用いられなければ鼠となる」という諺は本当だ、と論じる。羅隱は進士の試に何度もつまずき、諸州を渡り歩いて疲弊しきっていたが、覇主(銭鏐)に出会って文才が輝き、名を後世に残した。時を得て駆けたというべきである。しかも義憤を面に表して無道の梁を討てと勧め、強藩を軽んじてこれを甥扱いにするなど、大義を堂々と述べた。単なる文士として見るべき人物ではない。
顧全武の出自と董昌討伐
- 顧全武は余姚の人。武粛王に従って親校となり、杜稜・阮結らとともに常に左右に侍した。久しくして武勇都知兵馬使を授かった。
- 董昌が反乱を起こし、その将の徐淑が淮南の将魏約と合流して嘉興を包囲すると、全武は兵を率いて救援に赴き、烏墩・光福の二寨を破って功を立て、還って西陵を守り、淮南の安仁義の軍を防いだ。
- ついで董昌の将の湯臼を石城で破り、余杭を攻めて董昌の将の徐章を捕らえ、袁邠を降伏させ、越州を包囲した。董昌は城に籠もって守り、ついに帝号を捨てた。
- そのころ蘇州が陥落して成及が淮南に捕らえられ、武粛王は急ぎ全武を召して西陵に赴かせ淮南に備えさせようとしたが、全武は「越州は賊の根本です。もう落ちる寸前なのに棄てるのですか。まず越を取り、そののちに姑蘇を回復するのが得策です」と請うた。
- 当時、董昌の兄の子の真は驍勇で戦上手であり、全武は一年余り攻めても落とせなかった。ところが真は裨将の刺羽と不和になり、羽の讒言で殺されたため、董昌の軍は崩れ、全武は董昌を捕らえて誅した。この一戦では、先登・伏兵・捕虜・囲城・降敵のいずれにおいても全武の功が最も多かった。
蘇州方面での戦功と秦裴の助命
- 翌年、全武は海路から嘉興に至り、淮南の十八営を破って淮南将の魏約を捕らえた。まもなく松江を抜き、無錫を破り、常熟・華亭を続けて取り、海賊の王騰を追い払った。
- さらに蘇州を攻めて臺濛を走らせ、周本を破り、向かうところ敵なく、ついに蘇州を陥れ、崑山を落として守将の秦裴を降した。
- 秦裴が崑山を守ったとき、全武は一万の兵で包囲した。裴はしばしば出撃し、弱兵に甲を着せて矛を持たせ、壮兵に弓弩を引かせたので、全武はたびたび撃退された。ついに力尽きて降ったとき、武粛王は千人分の食事を用意させたが、裴が出してきた疲弊兵は百人にも満たなかった。王が「これほど弱兵でよく長く抗した」と怒ると、裴は「私は義として楊公に背けなかった。今は力尽きて降ったので、心から降ったのではない」と答えた。全武が強く助命を勧め、王は許した。当時の人は全武の度量の大きさを称えた。
神福に捕らわれ、呉との縁組を成す
- 天復元年(901年)、武粛王が賊に殺されたという噂が流れ、呉王は李神福に軍を率いて杭州を取らせた。全武は八つの寨を並べて待ち受けたが、神福と長く対峙するうち、神福は杭州の捕虜をわざと自分の寝所に出入りさせ、「杭の兵は強い。わが軍は今夜のうちに退くべきだ」と諸将に言って見せた。捕虜は逃げ帰って全武に告げ、全武は謀とは気づかなかった。
- 夕暮れ、神福はわざと疲弊兵を先に行かせ、都将の呂師造に青山の下で伏兵を置かせ、自ら殿軍に立った。全武はもとより神福を侮っていたので追撃し、伏兵に遭って神福に捕らえられた。王はこれを聞いて驚き泣いて「わが良将を失った」と言った。
- 翌年、呉は秦裴の身柄と引き換えに全武を返し、全武は帰国できた。
- そこへ武勇都の変が起きた。徐綰が叛いたとき、王は全武に東府の防備を命じたが、全武は「東府は心配ありません。心配なのは淮南です。徐綰は追い詰められれば必ず淮南兵を呼び、事は小さくすみません。楊公は大丈夫ですから、難を訴えれば必ず憐れんでくれましょう」と述べた。王はもっともだとした。
- 全武はさらに「私一人では成し遂げられません。同行できる公子を選んでください」と言い、王は「かねて銭伝璙に楊氏の女を娶らせたいと思っていた」と答えて、伝璙を全武に随行させ広陵へ遣った。徐綰は果たして宣州の田頵を呼んだが、全武らが広陵に着くと呉王は娘を伝璙に嫁がせ、田頵を急ぎ召し返した。頵は不満のまま帰った。このとき全武の力で楊氏と縁組しなければ、杭州・越州は危うかった。
晩年と逸話
- まもなく陳詢が睦州で叛き、淮南が陶雅に援兵を出させると、全武は指揮使として王球とともに陶雅を防いだが利あらず、数年後に没した。
- 以前、全武が越の地に邸宅を建てたが、竣工の際に梁も柱も戸も窓もことごとく水を噴き出し、ついに住むことなく死んだ。人々は「宅泣」と呼んだ。
- また一説に、全武は若いころ落ちぶれて素行が定まらず、頭を剃って僧になっていたことがあり、そのため側近は「僧」の語を口にするのを憚ったという。
- 崑山を囲んでいたとき、全武が秦裴に降伏を促す檄を送ると、裴は函に封じて返答をよこした。全武は大喜びで諸将を集めて開かせたところ、中身は仏経一巻だった。全武は大いに恥じ、「裴は死を恐れず、わしをからかったか」と言い、以後いっそう激しく攻め、水を引いて城に灌ぎ、ついに城を破った。
杜稜の出自と八都
- 杜稜、字は騰雲。新城の人。父の仲明は仕えず、累りに水部員外郎を贈られた。
- 唐の乾符・広明のころ(874-881年)、盗賊が満ちあふれ、両浙を荒らさぬ日がなかった。杭州は諸県の郷兵を訓練して討たせ、稜は東安都将として軍を「武安営」と号し、董昌・徐及・凌文挙らとともに杭州八都と称された。八都は董昌を長とし、武粛王をその副とした。
- 武粛王の功業が日に日に盛んになり、僖宗が杭州刺史に任じると、稜は子らに「わしは人を責めるとき十罰を超えれば心が痛む。ところが銭公は斬決を下すたびに談笑して平然としている。大事を成すのは必ずこの人だ」と語り、心を傾けて仕えた。
潤州平定と東安城の防戦
- 潤州の牙将の劉浩がその帥の周宝を追い、宝は常州に走った。浩は薛朗を推して帥とした。武粛王は稜に成及・阮結とともに討たせ、その将の丁重徳・趙君度を破り、常州を取り、周宝を奉じて杭州に帰った。奏請により稜は常州制置使となった。
- 稜は兵を子らに分け、建思には内を治めさせ、建徽には外を防がせ、建孚にはその間を往来して調整させ、いずれも武芸で名を得た。
- 龍紀元年(889年)、宣州の将の田頵・李友が攻めてきて、地下道を掘り、夜、甲兵が土中から稜の寝室に入り、寝台の上で稜を捕らえて連れ去ったが、まもなく釈放して帰した。
- 大順二年(891年)、武粛王は淮南がしばしば辺境を侵すので、稜に東安城を築いて守らせた。稜は地形の険易を測り、費用を見積もり、山を城とし地を巡らせて濠とし、十か月で完成させた。
- 昭宗が武粛王に鎮海節度使を領させると、稜はその副使となった。
- 乾寧二年(895年)、武粛王が董昌討伐を命じられると、董昌は淮南に援軍を乞い、淮南の将の田頵・安仁義が兵を率いて東安を攻めた。稜は城に拠って守ったが、水が乏しく、井戸を百尺掘っても泉に当たらなかった。稜が黙して神に祈ると泉が湧き出た。
- 頵と仁義は淮南の勇将と称され、櫓は空に届き矢石が飛び交ったが、稜は機に応じて防ぎ、城下で日々殺した淮南兵は数知れなかった。淮南兵は百方手を尽くしても落とせなかった。このため紫渓・保城・建寧・靖江の四鎮の民はみな東安に集まって身を守り、その恩を慕ってこの井戸を「杜公井」と呼んだ。
- 翌年、董昌が誅され、威勝軍は鎮東と改称された。唐は武粛王を鎮海・鎮東節度使に任じ、稜を両浙諸軍都指揮使・行軍司馬に進めた。
- さらに翌年、安仁義が婺州を攻めると、武粛王は稜に救援させた。仁義は兵を睦州攻めに転じたが、ついに落とせなかった。
晩年と武勇都への諫言
- 稜は累進して潤州刺史となり、没した。新城県の西に祠を立てるよう命じられた。のちに子の建徽が貴顕となったので太師を贈られた。
- 以前、孫儒が死んで士卒の多くが浙西に逃げ込んだとき、武粛王はその剽悍さを愛して中軍とし「武勇都」と号した。稜は「狼子野心、いずれ必ず禍となります。土地の者に代えてください」と諫めたが、王は聴かなかった。徐綰の乱が起きたのち、王は使者を遣って稜を祭り、その先見を顕彰した。
- 建思・建孚・建徽はのちにみな功名を顕した。建徽には別に伝がある。
成及の出自と武粛王への功
- 成及、字は弘済。銭塘の人。祖父の克評は唐の嘉王府長史、父の貞は唐の国子博士。及は篤実な性で郷里に重んじられた。
- 乾符年間、聞人宇に代わって八都の一に属し、富陽鎮をもって静江都将と称した。劉漢宏が乱を起こすと、武粛王に従って討ち平らげ功を立てた。
- まもなく武粛王が団練使となると、及はその副使となった。及は武粛王と行動をともにし、攻略の密謀は多く及から出た。及は子の仁璛に王の娘を娶らせ、両家の情はきわめて厚かった。
- 北関鎮将の劉孟安が二心を抱き、席上で剣を抜いて王に襲いかかったとき、及は縄床を掲げて王を庇い、王は難を免れた。偏将の盛造がただちに孟安を捕らえて誅した。この功で散騎常侍に進み、再び静江鎮将となった。
常州・潤州の平定と蘇州陥落
- 光啓年間、薛朗討伐を命じられた。常州刺史の丁従実が牛酒を用意して浙の軍を犒い、諸将に美女まで贈ったが、及はそれを受け取ったうえで斬り、他の贈り物は一切受けなかった。こうして常州を克し、まもなく潤州を平定して、兵部尚書・本州防禦使を授かった。
- 龍紀二年(890年)、阮結に代わって潤州制置使となり、累進して検校司空となった。
- 乾寧三年(896年)、蘇州刺史に転じた。当時淮南兵が蘇州を包囲し、常熟鎮使の陸郢、巡検の郭用がその一味の趙邯とともに城を挙げて弘農王楊行密に応じた。邯は自らの手で母と妻子を殺して盟を固め、城は陥ち、及はにわかに捕らえられた。
- 弘農王は、及の家に蓄えてあるのが図書と薬物ばかりだと聞いて大いに感心し、行軍司馬に任じた。及は拝したうえで泣いて「私の一族百口は銭公のもとにいます。蘇州を失って死ねなかった身が、どうして富貴を求められましょう。わが一身で百口の命に代えたい」と言い、佩刀を抜いて自殺しようとした。弘農王はその手を押さえて止め、府舎に住まわせた。
- 翌年、淮南の将士の魏約らが浙に捕らえられると、弘農王は及を留めても益がないと考え、魏約との交換を口実に及を帰した。武粛王はこれを許し、及を鎮海軍節度副使とし、奏請して司徒、のち太傅に進めた。
武勇都の変での功
- 武勇都の変に先立ち、軍中では溝渠工事の労役が過酷だとして不満の声があり、及はしきりに工事の中止を請うたが聴かれなかった。まもなく乱が突発し、武粛王は衣錦軍から戻ったものの城に入れなくなった。
- 及は建王の旗鼓と大きな牙旗・傘蓋を借りて節を掲げ、自ら先駆けて徐綰らと戦った。その隙に王は微服で城内に入り、大混乱の兵を配置し直すことができた。乱の平定には及の功が最も大きかった。
- 武粛王は性が厳しく短気で、摘発があれば即座に斬決させたが、及が来ればどんな怒りも和らいだ。寵遇はそれほどであった。
- 累進して賛正安国功臣・保大・彰義等軍節度使・開府儀同三司・検校太尉となり、太師兼侍中を贈られ、六十七で没した。
- 及は天宝の初め(908年ごろ)、梁の廟諱を避けて姓を咸に改めた。子孫は当時なお本姓を称した。
馬綽
- 馬綽は余杭の人。人柄は淳直で、常に忠節をもって自らを任じた。
- はじめ武粛王とともに董昌に仕えた。董昌が王に部隊を点検させたとき、名簿を紛失したが、王は一人ずつ唱えて生死も健否も一つも間違えなかった。綽はひそかに王に「あの老人はもともと猜疑心が強い。公の記憶力に驚いて、必ず害しようとするだろう」と告げ、白紙を数枚渡して、あたかも軍籍を代わりに書いているように装わせた。王はその心遣いに感じて深く恩に思い、従妹を綽に嫁がせた。
- 綽はまもなく董昌に従って越州に赴いたが、昌が僭号すると家を棄てて武粛王のもとに奔り、諸城都指揮使を授かった。
- 徐綰・許再思の乱では懸門を開く功があり、武粛王はただちに文穆王に綽の娘を娶らせた。これが恭穆夫人である。
- 綽は累進して鎮東軍節度副使・両浙行軍司馬・睦州刺史となり、のち雄武軍節度使・検校太傅・同平章事に進んだ。天宝十一年(918年)に検校太尉を加えられ、久しくして没した。年七十一。
阮結
- 阮結、字は韜文。銭塘の人。唐末、杭州が八都を編成したとき、結もその副となった。
- 結は武粛王の側近く出入りして親校と呼ばれた。中和二年(882年)、劉漢宏討伐の功で散騎常侍を授かった。光啓三年(887年)、常州を征し、また潤州を平定し、累りに戸部尚書を加えられた。光啓四年(888年)、潤州制置使となり、刑部尚書を加えられた。
- はじめ徐約の一党三千余人が降ってきたとき、結はこれを慰撫したが、居場所を失った彼らが甘露寺で騒ぎを起こし、結を長江に投げ込んだ。これがもとで病を得て没した。年四十六。
史論
- 武粛王は驍勇の資質をもって草莽から身を起こし、多くの人材と力が一時に集まった。顧全武や成及のような者は、よく仕えるべき主君を選んだといえる。杜稜は子の代まで美風を継ぎ、馬綽は娘を王家に嫁がせ、豊沛の旧知が寵を受けたのに比べても格別厚遇された。阮結は悍卒の変に遭ってその才を用い尽くせなかったが、忠誠に二心なく、他の諸公に劣るものではない。
杜建徽の若年と父稜への継承
- 杜建徽、字は延光。杜稜の末子。強勇で兄たちとは異なり、常に山中の別荘にいて、私かに「軍州押牙」と署して棟に記した。郷里の者が見て驚き、父の稜に告げた。稜が叱責すると、建徽は「大丈夫たる者、たかが一軍の押牙で止まるものですか。従軍のはじめから人を志さぬ者はいません」と答えた。
- 稜が武粛王に帰服すると、建徽は父の命で王に忠勤を尽くし、たびたび従軍して至るところで功を立て、軍中で「虎子」と呼ばれた。
- 乾寧の初め(894年ごろ)、董昌討伐に従って左肩に矢を受けたが、なお戦って退く気配を見せなかった。
- ほどなく稜が常州制置使に移ると、建徽が代わって武安都将となった。稜が淮南に捕らえられて帰ってきたとき、軍中が厳整で制度が変わっていないのを見て大いに称えた。
- 稜は臨終に家財を諸子に分けたが、建徽にだけは笏を授け、「これはわしが歴任の際に手にしてきたものだ。お前だけがこれを伝えられるから与えるのだ」と言った。
徐綰の乱と陳詢の叛
- 徐綰・許再思の乱のとき、建徽は武安都指揮使として新城から救援に入った。賊が木を積んで北門を焼こうとすると、建徽はその木をすべて鉤で引き取って焼き払い、賊の気勢を挫いた。
- まもなく武粛王が衣錦城から戻り、建徽・馬綽・王栄らに諸門を分屯させた。江を渡って越州に拠るよう勧める者がいたが、建徽は剣を按じて叱り、「事が成らぬなら共にここで死ぬまで。どうして東へ渡って賊に命を売り渡せようか」と言った。王はその言を非凡として渡江をやめた。
- 天復三年(903年)、睦州刺史の陳詢が叛いた。詢は建徽と姻戚だったので、王は建徽にも二心があるかと疑い、ひそかに馬綽にその意向を探らせた。建徽は「陳氏は恩に背き義に反して自ら滅びを招いた。私は姻戚である以上疑われるのも道理だが、繰り返し書を送って諭してきたことは天地が照覧している。城を抜いて書を手に入れてもらえば、この心は明らかになろう」と述べた。
- のちに詢の側近の吏が奔ってきて、建徽が詢に送った書が手に入った。いずれも大義をもって責める内容で、叛意を示す言葉は一つもなかった。王は建徽が長者であると知り、長年の疑いが一度に解け、銭百万緡を賜った。
- 建徽の兄の建思は建徽と仲が悪く、このとき変事を告げて「建徽は私かに武器を蓄え、謀反を企てている」と言った。武粛王は急ぎ親校に捜索させたが、建徽は食事中で意に介さず、使者を寝所にまで入らせた。何も出てこず、王はいよいよ建徽を親任した。
顕位と晩年
- 浙東営田副使・常州刺史・行軍司馬に進み、城南に邸宅を構えるにあたっては王自ら設計に加わった。
- 天宝八年(915年)、王子の銭伝珍を京師に送り、梁の寿春公主を娶らせた。まもなく涇源節度使に進んだ。
- 天宝十六年(923年)、王が呉越国を建て天子の制に倣うと、建徽を左丞相とした。朝会のたびに王は必ず目で見送って「今日わしが一方に僭しているのは杜丞相の力だ」と言った。
- 建徽は四代の王に仕え、累官して国子祭酒・涇源・昭化諸軍節度使・丞相兼中書令、鄖国公に封ぜられた。乾祐三年(950年)に没し、年八十八。太師を贈られ、諡は威烈。
- 建徽の子孫兄弟は高官が門に満ちたが、本人は倹素を尚び、供の者も数人を超えず、財物は郷里や親族に多く分け与えた。
- 忠献王のとき、孫昭達が内牙都監使となって邸宅を盛大に造り、建徽に見せようとした。建徽は「乳臭い若造が物を知らぬからこうなる」と言った。ほどなく昭達は果たして罪を得て誅された。
- 若いころは驍悍で、敵に臨めば単衣のまま陣に入り、馬に甲もつけずに駆けた。王の弟の銭鏢に従って姑蘇を救援したとき、敵と遭遇したが橋が断たれていた。建徽は馬に鞭打って一気に渡り、岸に着くと馬は斃れたが、本人は平然としていた。その馬を埋めて「馬冢」と呼んだ。
- 老いても騎乗をやめず、常に広場で打毬をした。興が乗ったとき、古傷の中の矢尻が腕から飛び出したこともあり、当時の人はその壮健さに感嘆した。
鮑君福
- 鮑君福、字は慶臣。唐の太子少保の鮑防の子孫。のちに越に移って余姚の人となった。祖父の興、父の璨はいずれも仕えなかった。
- 君福は幼くして貧しく、寡黙で口数が少なく、篤実で胆略があった。余姚に口径一丈余りの井戸があり、君福はいつもその上に平気で寝そべって恐れる色がなく、郷党は異とした。従軍すると驍勇果敢で知られた。
- はじめ劉漢宏の部下の牙将だったが、曹娥埭の戦いで武粛王に帰順した。王は一軍を率いさせ「向明都」と号した。君福はいつも兜を傾け、腕に弓をかけ、矢束を差し、馬上で双剣を飛ぶように振るって陣中を出入りし、稲妻のように見えたので、人々は「鮑閙」と呼んだ。
- 累りの戦功で衢州応援指揮使となった。刺史の陳璋が叛き、淮南人がその地に入って君福に郡の職を受けるよう脅した。君福は応じなかった。武粛王は害されることを心配して、ひそかに帛書を賜り、しばらく命を受けて時を稼ぐよう指示したが、君福は死ぬまで拒み通し、守りの李元嗣が酔ったのを見計らって馳せ帰った。
- まもなく衢州刺史を授かった。呉の将の周本が信州を守り、しばしば信安の境を侵したが、君福が数騎を率いて追撃するたび、本はすぐに逃げ去った。
- 天宝十一年(918年)、王子の銭伝球が信州を攻めたとき、従軍して呉将の李師造を斬り、偏将の馮敏らを捕らえ、功は諸軍の第一だった。文穆王が清海節度使を領すると副使に招かれた。
- 郡を離れようとしたとき、武粛王は「これまでは任地で戦っていただけで、まだ副使の才を尽くしていない」と労い、再び任地に戻した。君福は衢州に通算十二年在任した。
- のち湖州に移り、累進して鎮海軍節度副使・浙西行営司馬となり、奏請により登州刺史・保大保順等軍節度使・検校太尉・同平章事兼侍中を授かった。天福五年(940年)に没し、年七十七。開府儀同三司を贈られ、諡は忠壮。
- 君福には銭塘に賜田があり、今の「鮑家田」がそれである。子の脩譲には別に伝がある。
曹圭
- 曹圭はもと歙州の人。父の信は嘉興監事を務め、のちに歙から杭に移って臨平鎮将となった。八都が編成されたとき、信は嘉興の東境を守り、そのまま臨平に居を定めた。
- 圭が生まれる前、信は一人の男が「私はあなたの子となり、二千石の位に至る」と告げる夢を見て、まもなく圭が生まれた。
- 圭は若くから気概に富み、唐末に武粛王に仕えて嘉興都将となった。淮南兵が嘉興を包囲すると、圭は同族の曹師魯とともに城を巡って固守した。淮南の望気者は「これは孤城だが、中に貴人がいる。まだ図れない」と言った。
- 当時は軍馬が満ちあふれ昼夜戒厳だったが、圭は日々師魯と城楼に登って音楽を奏でさせ豪飲し、矢石が降る中を平然としていた。まもなく囲みは解けた。圭は功により蘇州制置使に抜擢された。
- 天宝の初め(908年ごろ)、淮南兵がふたたび姑蘇を包囲した。正月十五夜にあたり、圭と師魯らは盛大に灯籠の宴を張り、捕らえた賊の捕虜をみな自由に見物させて余裕を示した。まもなく囲みも解けた。
- 久しくして浙西営田副使・検校太傅となり、蘇州で没した。
- 師魯は背が低いが知略に富み、武粛王はしばしば「今の晏嬰だ」と称し、人々は「曹晏嬰」と呼んだ。ついに任地で没した。圭の子の曹仲達には伝がある。
屠瓌智
- 屠瓌智、字は宝光。先祖は河東の人で、晋の将軍の屠撃の子孫。祖父の代に澉川へ避難し、海塩の人となった。母の顧氏が璧を抱いて光を放つ夢を見て生んだので瓌智と名づけた。
- 瓌智は容貌が偉大で、幼くから勇略があり、文章もよくした。唐の時代に何度も科挙に応じたが及第しなかった。
- 武粛王が郷兵を起こして黄巣を追ったとき、瓌智は剣を執って従い、たびたび計略を献じて幕府の謀議に参加した。董昌が僭号すると、瓌智は真っ先に討伐を勧め、昌が誅されると功により指揮使を授かった。
- 乾寧四年(897年)、顧全武とともに王の弟の銭鎮を副けて海路から嘉興を救い、賊将の楊勝・頓金ら二十余人を生け捕りにし、功により遥かに常州刺史を領した。
- 翌年春、越州指揮使に移った。光化元年(898年)、衢州刺史の陳岌が叛くと、瓌智はまた全武らとともに討ち平らげた。光化三年(900年)、湖州の守りに転じた。
屠瓌智の戦死
- 徐綰・許再思の乱のとき、湖州刺史の高彦は子の高渭を瓌智とともに救援に出した。渭が「今日は日が悪い」と言うと、彦は「君父の難に赴くのに吉日を選ぶことがあるか」と言った。瓌智は机を押しのけて立ち上がり、「主君の命に背くのは不忠、萎縮して進まぬのは不勇。忠に死に勇に死ぬのが大丈夫の分だ」と言った。
- 渭とともに霊隠山の賊の砦に直行したが、敵の勢いは盛んで幾重にも包囲された。二人は朝から日暮れまで数里を転戦し、体中に百か所も傷を負い、時に刀を振るって叫び、手ずから賊の首領数人を捕らえて馬上で斬った。矢が尽き援軍も絶え、空の弓で防いだが、伏兵が現れてついに二人とも殺された。時に年五十二。
- 武粛王はその忠を憐れみ、衣冠で招魂して葬らせた。天宝五年(912年)、特に忠義軍匡国功臣・武康節度使・銀青光禄大夫・検校尚書右僕射・開府儀同三司・上柱国を贈られた。
- 子の屠昱は龍驤・澉水鎮遏使(原文に欠字あり)節度使、屠晟は湖州判官となった。
- 瓌智はかつて志を詠んだ詩に「身を軽んじるのはみな義のため、主に殉じてはじめて忠となる」と作ったが、この最期はまさにその予言どおりとなった。
史論
- 鄖国公(杜建徽)は将相を出入りして文武ともに備わり、爵位を得て長寿を全うしたが、これは僥倖ではない。鮑君福は戦いに巧みで、曹圭は守りに巧みで、いずれも古の名将の風があった。屠瓌智は身を顧みず、ついに命を捧げ、今なお忠烈と称えられて衰えない。