十国春秋十國春秋卷八十三 呉越七 列傳(后妃・武肅王の兄弟および子・文穆王の子・忠獻王以下の子孫)
趙國太玄太夫人 水丘氏
- 武肅王(錢鏐)の母。これに先立ち英顯王が母方の一族から妻を娶ったため、二代続けて河南の水丘氏を妻とした。
- 武肅王が貴顕となったので、はじめ河南太君に封じられ、吳興郡太夫人に進み、さらに秦國太夫人に封じられた。
- 武肅王は母に至孝で、後庭の高楼で遊ぶとき、太夫人は高齢で登れなかったので、自ら背負って登った。
- 天復元年(901年)九月に薨じ、錦南鄉に葬られた。武肅王は吳仁璧に志銘を作らせようとしたが、応じなかったので殺した(詳細は吳仁璧の伝にある)。天寳の初め、梁が趙國太玄太夫人を追封した。
武肅王 莊穆夫人 吳氏
- 安國縣の人。父の吳仲忻は浙西觀察判官で、たびたび吏部尚書を贈られた。
- 当初、武肅王が縁談を持ちかけたとき、吳仲忻の家では皆「王は豪放で家業に励まない」として断ろうとしたが、夫人の伯父が人を見る目があると自負しており、強く勧めて成立させた。
- 嫁いでからは閨門を整え、孝敬の礼を尽くした。武肅王は性急であったが、夫人はいつも和やかな顔で諫めた。諸子を分け隔てなく慈しんだ。燕・晉の二国夫人を歴任し、吳越國正徳夫人に至った。
- 夫人が奉國寺に参詣した際、王は絹を積ませて施しに備えさせた。夫人は「私は機織りの労苦を存分に知っています。遊興でにわかに浪費するのは民を憐れむ道ではありません」と言って受け取らずやめさせた。
- 夫人は毎年春になると衣錦軍に里帰りするのを常とした。武肅王は「陌上花開いた、ゆるゆると帰ってきてよい」と言い送った。当時の人はその言葉を歌にし、今も伝わっている。
- 天寳十二年(919年)に薨じ、享年六十二。諡は莊穆。子は十三人。
- なお錦南鄉の慈智寺の西に梁國夫人の墳・扶風夫人の墳・韋夫人の墳がある。いずれも武肅王の夫人だともいうが、その名号は史書に見えないので、疑いのまま残しておく。
昭懿夫人 陳氏
- 文穆王の母。清泰の初め(934年ごろ)に薨じ、晉國太夫人を贈られ、諡を昭懿という。
- 文穆王は極めて孝心が篤く、母方の一族を尊び礼遇して厚く賜与したが、昇進させて重任を与えることはなかった。それゆえ陳姓には功名で名を上げた者がない。
文穆王 恭穆夫人 馬氏
- 安國縣の人。父の馬綽は雄武軍節度使。馬綽ははじめ旧恩により武肅王の妹を娶り、まもなく武肅王は文穆王のために馬綽の娘を娶らせた。これが夫人である。
- 夫人は聡明で職務に勤勉であった。武肅王は内外に芸妓を養うことを禁じていたので、文穆王は三十を過ぎても子がなかった。夫人がそのことを願い出ると、武肅王は喜んで「わが家の祭祀は幸いにもお前が主宰してくれるのだな」と言い、文穆王が側室を迎えることを許した。
- 鄜氏が弘僔・弘倧を、許氏が弘佐を、吳氏が弘俶を生み、その他の妾が弘億・弘偓・弘仰・弘信を生んだ。成長すると夫人は皆分け隔てなく養った。いつも銀の鹿を帳の前に置き、子どもたちをその上に座らせて遊ばせ、喜色を顔に浮かべた。
- はじめ越國莊睦夫人に封じられた。天福四年(939年)に薨じ、享年五十。勅により恭穆と諡し、衣錦軍の慶僊鄉良山村に葬られた。
恭懿夫人 吳氏
- 名は漢月、錢塘の人。父の吳珂は中直指揮使。幼くしてしとやかさをもって文穆王に侍り、忠懿王の生母である。恭穆夫人はこれを非常に可愛がった。
- 夫人は琴を善くし、性は慈愛深く節倹で、黄老の学を好み、常に道士の服を着て、布や練絹だけを用いた。王が重い刑を決めると聞くたびに眉をひそめ、仁恕を説いた。実家の者に昇進の話があると多く厳しく阻み、参内した際には訓戒し、時には叱責した。それゆえ吳氏の一族は夫人の存命中はさほど驕り高ぶらなかった。
- 乾祐二年(949年)十一月、吳越國順徳太夫人に封じられた。廣順二年(952年)六月に薨じ、享年四十。諡は恭懿。
- この秋、勅により慈雲嶺の西原に葬られた。翌年、忠懿王は報恩元教寺を建てて冥福を助け、後に銅像二体を鋳て奉國・金地の二尼寺に納め、孝心を示した。
- 寧國節度使の吳延福は太夫人の弟である。建隆の初め、吳延福ら兄弟五人に謀反の企てがあり、左右は誅殺を勧めたが、王は「亡き母の同胞である。どうして法にかけられよう」と言い、言い終わると嗚咽して涙を流し、吳延福らを外に貶しただけで刑は加えなかった。
仁惠夫人 許氏
- 名は新月、台州の人。音律に長け、文穆王の後庭の楽部はすべて夫人に管掌させた。
- 当初は魯國夫人が孝獻世子を生んだので、侍御の者は皆その方を尊んだ。契雲という女僧が麗春院で香火を司っており、平素から人を見抜けると評判であったが、そのとき夫人に「あの鄜夫人は遠く及びません。あなたはご自愛なさいませ」と言った。
- 文穆王が位を継ぐと、勅により吳越國夫人に封じられた。開運二年(945年)に薨じ、享年四十四。諡は仁惠。
忠獻王 夫人 杜氏
- 内牙都監使であった杜昭達の叔母にあたる。まもなく病で薨じた。
元妃 仰氏
- 湖州の人。父の仰仁詮は牙将として文穆王に仕えて功があり、官は寧國軍節度使まで累進した。
- 天福八年(943年)冬、忠獻王が元妃として迎えたが、まもなく薨じ、国城外の小麥嶺に葬られた。
忠懿王妃 孫氏(俞氏・黄氏を附す)
- 名は太真、錢塘の人。泰寧節度使の孫承祐の姉である。端正で聡明、姻戚や一族との応接には恩礼を尽くした。学問を好んで書を読み、『毛詩』と『魯論』の大義に通じた。
- 若いころから忠懿王によく仕え、一貫して倹約を旨とし、宴会でなければ着飾ることがなかった。
- 忠懿王が常州を征したとき、妃は国城にとどまり、しばしば内侍を遣わして諸将および従軍した将帥の家を見舞った。国人はまるで王命を受けるように敬い畏れた。
- 漢の制で夫人を拝し、周の勅で吳越國賢徳夫人に封じられ、宋の開寳五年(972年)に賢徳順睦夫人に進封された。開寳九年(976年)、王が妃および世子の惟濬とともに入覲すると、吳越國王妃を加封され、惟濬に詔を持たせて賜った。宰相が「異姓を妃に封じた先例はありません」と言うと、太祖は「我が朝から始めればよい。格別の恩を表すのだ」と言った。王は金幣を献じて謝した。まもなく妃が中宮に暇乞いすると、金器・衣料を数知れず賜った。
- この年に帰国し、薨じて石人嶺の下に葬られた。翌年、宋は程羽を遣わして王妃への賻を届け、諡を贈った(諡号は欠)。
- 妃はかつて龍興寺にある物を施した。形は朽ちた木の箸のようで、寺僧は珍重しなかったが、たまたま船の波斯(ペルシア)人に見せたところ「これは日本の龍蕊簪だ」と言い、たちまち一万二千緡で買い取っていった。
- また俞氏という者があり、その家系や封号は伝わらないが、忠懿王の継妃である。宋の太宗のとき、金銀十余万、犀二十株、通犀・頳犀・玉の帯三十二条、水晶の仏像十二点を進めた。その貢献は莫大であったという。
- さらに黄妃という者があり、南屏山の雷峰にある顯嚴院に塔を建てて仏の螺髻の髪を納めた。はじめは百丈十三層を目指したが、財力が足りず、まず七層を建て、後に風水家の説により五層にとどめた。名づけて黄妃塔という。のちにその地に黄皮の木が産するため黄皮塔と訛り、俗に雷峯塔と呼ばれる。塔の高さは四十丈ばかり、層雲にそびえ、金碧はきらめき、飛檐に鈴を垂れ、さまざまに荘厳されていた。建立の際は『華厳経』を石に刻んで塔の下に鱗のように敷き詰めた。その楷書は欧陽詢に酷似していた。忠懿王に建塔の記がある。
武肅王の弟・従弟(錢鏢・錢鐸・楚國公錢鏵・従弟の錢鎰・錢銶)
錢鏢
- 武肅王の同父弟。若くして驍勇で戦を善くした。天祐の初め、淮南の将陶雅が婺州を攻めたとき、錢鏢に兵を率いて救援させたが功はなかった。天寳年間、吳の兵が蘇州を攻めると、錢鏢は杜建徽とともに援けて包囲を解いた。
- その後、高澧が湖州で叛くと、錢鏢は指揮使として王命を受けてこれを討った。翌年、武肅王が湖州を巡視し、錢鏢を刺史に任じた。
- 錢鏢は酒を好んで人を殺し、王の督責を恐れ、四年の冬、都監の潘長と推官の鍾徳を殺して吳へ亡命した。吳の武義の初め、右龍武統軍とされ、その職で終わった。
- 錢鏢が出奔したとき、子が二人あり、長子は生後五年、次子はまだ一歳にもならなかった。武肅王は憐れんで宮中で養い、諸子と机を並べさせ、長子を可團、次子を可圓と名づけた。父が帰って一家が団円することを願ったのである。
錢鐸
- やはり武肅王の同父弟。官は睦州刺史に累進し、安南軍節度使・同平章事を領した。
楚國公 錢鏵
- 字は輔軒。英顯王には五子があり、長が武肅王、次が錢錡、次が錢鏢、次が錢鐸、次がこの錢鏵である。
- 生まれつき手に「王」の文があったが、成長するにつれ次第に消えた。生後まもなく英顯王が世を去ったので、武肅王が手を尽くして養育した。武肅王が薨じると、錢鏵は通常の喪に服して報いたいと願い出た。
- 性は多芸で絵画を善くし、とくに音律に精通した。制を承けて温州・明州の刺史・檢校太尉をたびたび授けられ、奏請により恩州防禦使に遷った。文穆王のときには兩浙行軍司馬に任じられ、拝命の日の儀式はとりわけ盛大であった。まもなく奏して本州團練使に改められ、順化軍節度使となり、楚國公に封じられた。開運二年(945年)に卒し、享年五十五。諡は忠簡。
錢鎰
- 武肅王の従兄。功を積んで龍武統軍となった。田頵が楊氏に叛くと、武肅王は錢鎰を宣州に駐屯させて変に備えた。
- 陳詢が睦州で叛き、吳が陶雅を遣わして侵攻したとき、錢鎰は顧全武・王球とともに従軍中で、吳の人に捕らえられた。まもなく吳越軍が吳の将李濤を捕らえたので、天寳十四年(921年)、吳は錢鎰を返して李濤と交換した。錢鎰は帰って鎮海軍節度副使に任じられた。
錢銶
- 武肅王の従弟。龍紀年間、淮南の六合鎮遏使徐約がすでに蘇州を得ていたので、武肅王は錢銶に兵を率いて攻めさせた。徐約は民を駆り立て、皆その顔に「願戰南都從事」と刺青を入れさせた。やがて形勢が窮すると、配下と泣いて別れ、海に入って死んだ。錢銶はこうして蘇州を落とした。まもなく州はまた陥ちたので、王はまた軍を遣わして平定した。久しくして錢銶に蘇州招緝使を授けた。戦功をもって称された。
- また衢州刺史の錢鋸、睦州刺史の錢鎮も武肅王の従弟で、その名がしばしば史籍に見える。
武肅王の子たち
寧國公 錢元璣
- 武肅王の第二子。母は慶安夫人胡氏。気性は寛厚で、沈着で口数が少なく、儒学と仏教を尊び、奢侈を好まなかった。内外の官を歴任し、赴くところの民は安んじた。
- 官は寧國軍節度使・同平章事・檢校太尉に累進し、宛陵侯に封じられ、のち寧國公に進んだ。長興四年(933年)十二月に卒した。錢元璣は早くに妻を失い、ついに再婚せず、嗣子がなかった。
雲國公 錢傳瑛
- 武肅王の第三子(長子とする説もある)。母は莊穆夫人吳氏。もとの名は傳鍇で、まもなく鍇を瑛に改めた。
- 天性英敏で儒学を篤く修め、書を数千巻集め、騎射を善くし、草書・隷書に巧みであった。徐許の乱では三城都指揮使とともに門を閉ざして賊を防ぎ、功があった。当時、城中に錦織の工人が二百余人おり、皆潤州の者であった。傳瑛はその叛乱を恐れ、王命と偽って「百工は今日の労役をすべて免ずる」と伝え、跳ね門を開いて外へ出した。王はこれを聞いて嘉した。まもなく兩浙副大使を授けられた。
- 天祐三年(906年)九月、唐の哀帝は傳瑛を選んで壽昌公主を娶らせようとし、武肅王に勅を下した。その趣旨は、公主の降嫁の栄誉を受け、大国に嫁いで和鳴の兆しをなす、先帝と卿とはかねて盟約を同じくし賊を掃うことを誓い、高位厚禄で勲功に報いてきたが、縁戚として親を結び、末永く分を連ねたい、かねて愛娘を高門に配そうとしていたが、辺境の戦が止まず婚礼が延びていた、いま先帝の旨に従って盛儀を挙げるというもの。さらに傳瑛は驪龍の頷のような奇光、鳳の羽のような異彩をもち、教えを待たずして帝室の婿たるに足る瑞相があり、媯汭の名門にふさわしい大姫の配偶、張敖のごとき顕族として天子の娘の婚に当たるとして、まず徽章を降し格別の待遇を加える、として傳瑛に大同軍節度使・檢校太傅・同中書門下平章事・駙馬都尉を授け、食邑八百戸を加えた。
- しかし公主は降嫁する前に卒した。傳瑛は夢で公主と語らったことから物の怪の病を得た。久しくして兵を率いて常州を攻めたが功なく、まもなく卒した。享年三十六。太尉を贈られ、雲國公に封じられた。
金華郡王 錢元懿
- 字は秉徽。はじめの名は傳璹、のち傳懿と名乗り、後に元懿と改めた。武肅王の第五子。生まれつき燕のような頷をしていた。
- 鎮海軍右直都兵馬使として家を起こし、まもなく安國衣錦軍防遏指揮使を授けられ、檢校兵部尚書に昇った。
- 元懿は至孝であった。母の李氏がかつて武肅王に侍って意に沿わず、笞打たれて病となり、発作は毎月のように続いた。元懿は自ら便器の世話をし、薬を量り水を計り、長く帯を解かずに看病した。
- かつて睦州を治めたとき、民間で一夜に何度も火事騒ぎが起こった。楊韞という巫が期日を偽って「某日、某所でまた火が出る」と言い、果たしてそのとおりになった。元懿は「火が巫の言うとおりに起こるなら、巫こそが火だ」と言い、楊韞を市で斬らせた。火はそれきりやんだ。
- 天寳年間、睦州から東陽の判事に移った。東陽の南に白砂神という神があり、村人は多くこれを畏れ祀っていた。毎年三月には必ず大風雨が起こり、白砂から州城を通って民家を数知れず壊した。神はもと龍で、毎年一度東海に戻る際に怪をなすと伝えられていた。元懿がその地に臨むと、朱衣の者が現れて「白砂王は相国を驚かせてはならぬと慮り、すでに南山を通って去りました」と告げる夢を見た。人は皆これを異とした。
- 元懿は遊宴や装飾を好んだ。文穆王が位を継ぐと、いっそう篤く礼遇した。元懿は酒を飲むといつも半ばで地にこぼしたので、王は宴席で銅鑼を元懿の前に置いてそれとなく諷した。元懿は悔い悟り、次第に改めたという。
- 官は賓州・睦州の刺史、清海・武勝等軍節度使、太傅・同中書門下平章事に累進し、太師・中書令に進み、金華郡王に封じられた。廣順元年(951年)、婺州で薨じ、享年六十六。諡は宣惠。墓は金華縣の東北六里にある。
- 元懿は郡を治めること三十年。初めて新定に赴任したとき、方氏という卜者があり、世に亀精と呼ばれていた。占って「太乙は天河に接し、金華に宝貝多し、郡侯は六十六、別処は経過せず」と贈った。果たしてその言葉どおりとなった。
- 子の仁倣は婺州刺史・武勝軍節度使を務めた。
廣陵郡王 錢元璙(子の文奉・文炳)
- 字は徳輝。武肅王の第六子(第四子とする説もある)。はじめの名は傳璙。容姿は堂々として風采がすぐれていた。
- 沂王府咨議參軍・宣武節度判官として家を起こし、散騎常侍に累進して金紫を賜り、まもなく軍事に携わって馬軍廳事指揮使に改まった。
- 武勇都の変で徐綰が淮南の兵を呼び込んで侵攻したとき、顧全武は「楊公は大丈夫だ。いま難を訴えれば必ず我らを憐れむだろう。公子方の中で誰が行けるか」と言った。武肅王は「私はかねて傳璙を楊氏と婚姻させたいと思っていた。今がその時だ」と言い、傳璙を微服させ顧全武の従者として廣陵へ向かわせた。望亭まで来ると、宿屋の老婆がすぐに只者でないと見抜いた。潤州に至ると團練使の安仁義もまた非凡と見て、配下の十人と交換しようとしたが、顧全武は門番に賄賂を贈って夜逃げし、脱することができた。
- やがて吳王楊行密に会うと、傳璙は順逆の道理を説いた。吳王は感動して「これは龍の子だ。子を生むなら錢郎のような子を生みたい。わが子はまことに豚や犬だ」と嘆じ、娘を妻に与え、その日のうちに田頵を呼び返して軍を退かせた。まもなく妻を迎えて錢塘に帰った。
- 縉雲・睦州への出征でいずれも陣を破る功があり、邵州刺史を授けられた。さらに湖州の高澧を征し、東洲を攻めて睦州刺史を授けられ、まもなく蘇州に遷った。たびたび勅により中吳建武等軍節度使・蘇常潤等州團練使・太傅・同中書門下平章事を授けられた。
- 文穆王が立つともとの名を改め、兄弟は皆「傳」を「元」に改めたので、傳璙も元璙と名乗った。
- 元璙は蘇州にあること三十年。性は倹約で恭順沈着、弓馬に長けていた。文穆王のときは王の兄として特に礼遇された。かつて元璙が姑蘇から入朝したとき、王は家人の礼で接し、自ら杯を捧げて長寿を祝い、「これは兄上の位なのに小子が居るのは、兄上の賜りものです」と言った。元璙は伏して「大王の功徳は高く、先王が賢を択んで立てられたのは至公です。君臣の位が定まった以上、ただ恭順を知るのみです」と答えた。互いに顔を見合わせて感泣した。
- 檢校太師・中書令・開府儀同三司に進み、金谷園を作って老を楽しみ、また滮湖のほとりに烟雨樓を建てた。久しくして晉の勅により廣陵郡王に封じられたが、封を受ける前に薨じたので、柩の前で宣旨した。天福七年(942年)三月のことで、享年五十六。王の礼で葬られ、諡は宣義。子に文奉・文炳がある。
錢文奉
- 字は廉卿。廣陵王の第二子。騎射に精通し、馬上で槊を操ることができ、経史・音律・図緯・医薬・打毬にも渉猟して、いずれも一時に冠絶した。
- 蔭により中吳軍牙内都指揮使となり、節度副使に改まって三十年近くを過ごした。天福年間、元璙を継いで節度使となり、檢校太尉兼中書令まで加えられた。
- 文奉は郡中に南園と東莊を造り、吳中の名勝とした。珍しい草木は、その存命中にみな抱えるほどの大きさに育った。また土を盛って山を築くと、それも岩や谷を成した。賓客や旅人を迎え入れて思うままにさせ、自ら知常子と号した。
- 酒は数人分を飲み、しばしば白い騾馬に乗り鶴氅を羽織って花の小径をゆるやかに歩き、あるいは池に舟を浮かべ、遠近に賓客の笑い声が聞こえるとそこへ行って飲み楽しんだ。集めた図書・古器は数知れず、鑑識に長け、当時の名士の多くが身を寄せ、禅僧の法齊らもそれによって生計を得た。
- 当時、丁・陳・范・謝の四人がおり、いずれも廣陵王の食客であった。文奉は彼らを節度推官に任じた。
- これに先立ち、元璙は烏鵲橋に登って禽獣が満ちているのを見る夢を見た。傍らの者が「これは二郎(文奉)の禄料です」と言った。また文奉はかつて天台の僧徳韶に禄命を尋ねたところ、徳韶は「明公は己巳、八十一」と言った。開寳二年(969年)の己巳の年八月十一日に卒し、その言葉がはじめて的中した。諡は威。
錢文炳
- 廣陵王の第(欠)子。開寳の初め、文炳は妻の丘氏を報恩寺のかたわらに葬ろうとして古い墓を掘り、丈余の長さの男の遺骸を得た。東には銅の鐺が並び、西には宝剣と玉環があった。文炳が剣を取ろうとしたとき、黒い蜂が急に刺し、たちまち死んだ。
- 子の錢知玄が号泣して昏倒し、久しくして蘇生し、こう語った。「その男は自ら帝堯の臣、繇余氏と称し、禹を輔けて治水し、功により吳に封ぜられてここに葬られた。お前の父はなぜわが版石を暴き、わが玉櫑を奪ったのか。今は撃ち殺したが、まもなく私の籍に属する。悼み嘆くには及ばぬ」と。
- 好事家はこれを『山海経』の貳負の臣の屍になぞらえ、その話を広く伝えた。
餘姚侯 錢傳□(子の仁俊)
- 武肅王の第八子。母は濟南夫人童氏。性は仁厚で明敏、学問を好み、郡を治めて政治の要諦をよく得た。
- 鎮東軍親巡都指揮使・土客諸軍安撫使・光禄大夫・竇州刺史をたびたび授けられ、金吾衛大將軍員外置同正員・檢校司空に進み、明州刺史に改まり、餘姚侯に封じられた。寳大元年(924年)に卒し、享年三十。
- 東府にいたとき牡丹を植えるのを非常に好み、群がり並んだ木々は色も香りもみな格別で、人は「花精」と呼んだ。子は仁俊。
錢仁俊
- 機敏で智略があった。文穆王が位を継いだとき、多くの将が強さを恃んで府に押しかけ、劉仁杞らの誅殺を求めた。王が仁俊に命じて教えを宣べさせると、その言葉は明快で趣旨が行き渡り、諸将は皆恐れ入って退散した。王は仁俊の力量を大いに認めた。
- 錢元㺷・錢元珦が王に罪を得たとき、王は将吏で彼らと通じた者を調べ、連座が広がろうとした。仁俊は「昔、光武帝が王郎に勝ち、曹公が袁紹を破ったとき、いずれも書簡を焼いて動揺する者を安んじました。今それに倣うべきです」と諫めた。これにより内外は落ち着いた。
- 忠獻王のとき、仁俊は内外馬歩都統軍使であった。仁俊の母は杜昭達の叔母であった。富人の程昭悦は私怨から、闞璠が杜昭達と謀って仁俊を奉じて乱を起こそうとしていると誣告した。王はそこで闞璠と杜昭達を殺し、仁俊の官を奪って東府に幽閉した。程昭悦はさらに仁俊の旧吏である慎温其を捕らえ、仁俊の罪を証言させようとした。取り調べのたびにあらゆる拷問が加えられたが、慎温其は屈しなかった。王はその節義を嘉し、顕職に抜擢した。まもなく程昭悦が誅され、仁俊は釈放された。
- 廣順元年(951年)、忠懿王は仁俊に罪がないとしてその官爵を復した。威武軍節度使・檢校太保を歴任して卒し、諡は安簡。
大彭侯 錢傳球
- 武肅王の子。武勇都の変のとき、傳球はまだ幼かった。淮南の将田頵が人質を求めてきたので、王は傳球を遣わそうとしたが、傳球は承知しなかった。王は怒って殺そうとした。事が収まると、王はその内牙兵の印を取り上げた。後に大彭縣侯に封じられた。
扶南侯 錢元㺷・淮陰侯 錢元珦
- いずれも武肅王の子。錢元珦は順化節度使・同平章事として明州を判した。驕り高ぶって法を犯したので、文穆王は庶人に落として別室に幽閉した。
- 錢元㺷は武肅王の愛子で、たびたび軍功があり、兵を賜っていた。土客馬歩都指揮使・静江節度使兼中書令に累進した。文穆王のときには恩を恃んで驕り高ぶり、軍馬を増やして王に不満を抱いた。王が人を遣わして兵仗を返上して温州の判官に出るよう諷したが、元㺷は承知しなかった。
- そこで銅官廟の役人が王の意を受け、「元㺷が腹心を遣わして吳越の主となれるよう神に祈っている」、また「蠟丸の書を水路から出入りさせ、元珦と謀って社稷を危うくしようとしている」と密告した。文穆王は騎馬を走らせて元㺷を宮中の宴に召し、来たところで左右が「元㺷の懐から刃が落ちた。不測を謀るものだ」と偽って告げ、その場で撃ち殺し、あわせて元珦も殺した。
新安侯 錢傳璛
- 「琇」に作るものもある。武肅王の第十四子。鎮海節度右押牙・充上直都知兵馬使・檢校尚書左僕射として家を起こし、のち湖州刺史として出、太尉に進み、新安侯に封じられた。
- 天寳十四年(921年)、楚の武穆王の娘の馬氏を娶ったが、まもなく傳璛が死んだ。馬氏は悲嘆のあまり生きる気力を失った。
- 天福年間、南漢主が侍郎の盧膺に楚の使者歐陽練を伴わせて馬氏を継室として迎えに来た。漢主の母はもと馬氏の娘だったので、旧縁を続けようとしたのであり、楚の文昭王も内々にこれを取り持った。しかし馬氏は涙にくれ、再嫁しないと誓い、生涯を吳越で終えた。
霅國公 錢傳璟
- 武肅王の第十五子。はじめ湖州刺史を授けられた。唐の天祐四年(907年)、哀帝が駙馬に選び、武肅王に勅を下した。その趣旨は、卿の功は宰相に高く爵は封土に極まり、年月を記す史書を輝かせ、瑞兆に等しい、朕は薄徳の身で大業を負い、旧勲に対して先志を落とすまいとして、あらためて婚姻を選び姻戚を厚くしたい、というもの。子の傳璟は礼を学び詩を聞き、忠孝を身につけており、前代であれば何晏のような風貌で嘉名を著し、近朝であれば郭子儀のような功高い家の愛子である。美点が備わった以上、明らかな恩を降し、右揆の栄に昇らせ九卿の秩を正すべきだとして、傳璟に檢校尚書右僕射・守司農卿・駙馬都尉を授けた。傳璟は後に霅國公に封じられた。
吳興侯 錢元琳
- 武肅王の第二十三子。右千牛衛大將軍を歴任した。
寧明王 錢元璝
- 武肅王の第二十八子。若いころから剛直で詩と武を好み、長じて従軍して功があり、知福州彰武軍事まで歴任した。号令は厳明で、配下に敢えて犯す者はなかった。
- 元璝は兄弟の間で疑われることなく、文穆王・忠懿王ら諸王に仕えて臣下の礼を尽くしたので、上下はついに和睦した。建隆六年に卒し、享年六十七。寧明王を追封された。
錢元弼
- やはり武肅王の子。文穆王がはじめて秀州を置いたとき、元弼を刺史とした。元弼は政治に方策があり、勤務評定で最上とされ、一時に名を知られた。
武肅王の子女について
- 武肅王の実子は三十八人。史伝に見えるのは、文穆王および元璣ら諸王子のほかに、永嘉侯の傳璲、金華侯の傳㻑、錢塘侯の傳琰があり、封爵の伝わらない者としては駙馬都尉の傳𤩽、静海軍節度使の元祐、および元璉・元□・元琢・元璞・元璫・元珣・元□・元琛・元瑾・元裕・元璠・元朂・元禧があって、合わせて三十三人になる。また寳正・長興のころには温州刺史の元邧・元珪もあるが、誰の子かは詳らかでない。
文穆王の子たち
孝獻世子 錢弘僔
- 文穆王の第五子。忠遜王と同じく魯國夫人酈氏の生んだ子である。
- もと梁の沙門寳誌の銅碑の記に「真人あり冀州に在り、口を開き弓を張る、左右の辺、子子孫孫、萬萬年」とあり、これにより南唐は子を弘冀と名づけ、文穆王の諸子も皆「弘」の字を連ねてこれに応じた。弘僔の名もそれによる。
- 王は四十歳になっても嫡嗣が立たなかったので、弘僔が生まれると特に愛した。たびたび奏して兩浙副大使・果州團練使・檢校太尉を授けられ、建国に際して世子に立てられた。
- これに先立ち、王が世子府を造ったとき、「どこに鹿の干し肉があるか」という謡が流れた。また死の直前、住まいの屏風に「四月二十九日、大いに群仙を会す」と書きつける者があり、その署名は数か所に及んだ。天福五年(940年)、果たして病で薨じ、享年十六。孝獻と追諡され、錢塘の天竺の前山(楓林塢)に葬られた。まもなく世子府は瑤臺院と改められた。
瓊山侯 錢弘僎
- 文穆王の長子。静海軍節度使・温州刺史を歴任し、瓊山侯に封じられた。
- 文穆王の子は十四人。弘僎以下、弘儇・弘侑・弘侒・孝獻世子・忠獻王・忠遜王・弘偡・忠懿王・弘億・弘儀・弘偓・弘仰・儼(すなわち弘信)の順である。ただし弘侑は養子である。
錢弘儇
- 字は智仁。文穆王の第二子。もとの名は弘偁。性は質素倹約を好み、騎射を善くし、書をよくし、文才がありながら自らそれを隠した。
- 上直副兵馬使・檢校尚書右僕射として仕官し、二十余歳で東府安撫使に遷った。政務の要諦に通じ、吏は欺くことができなかった。文穆王はこれを嘉して金の酒器一副を賜り、あわせて睦州を兼領させた。
- 当時、福州が帰附したばかりで、将校の間に恨みのある者が互いに誣告しあった。弘儇は左右に「人にはそれぞれ恨みがある。誣告が一度始まれば疑心と恐れが行き交う。それが国家が心を推して遠人を懐ける道であろうか」と言い、すべて取り上げなかった。
- まもなく静海軍節度使・判軍州事となり、徭役を均等にし、淫祀を廃し、養っていた芸妓をすべて放った。食事は塩漬けの魚と菘菜だけであった。
- 顯徳年間、西府に入覲したとき、永嘉の人は交代させられるものと思い、車の前に伏して止めようとした。弘儇は先に籠輿に侍妾を乗せて出したところ、衆は弘儇が乗っていると思って取り囲んで引き返させた。民に慕われることはこのようであった。
- 久しくして彰武軍節度使・知福州事に改まった。温州の人は皆道で泣き町で号泣し、「公よ早く帰られよ」と言い、家族を連れて従う者もあった。これを「随使百姓」と呼んだ。
- 制を承けて太尉をたびたび授けられ、丞相を拝した。乾徳四年(966年)、閩で卒した。柩が温州を経て会稽へ帰るとき、三州の民で号泣し身をよじる者が非常に多かった。享年五十四、諡は節惠。
- 弘儇の弟に弘侑があり、文穆王の第三子で、西安侯に封じられた。衣錦軍に住む者の多くはその後裔である。
吳興郡王 錢弘偡
- 字は惠達。文穆王の第八子。母は陳氏。内牙諸軍都知兵馬使・檢校司空として家を起こし、十八歳で湖州刺史として出た。
- ある妖巫が役所の門の大木に登り、勝手に鬼神の言葉を騙って州の人を怯えさせた。弘偡は「妖は人によって起こる」と言い、弩をつがえて射させた。巫は果たして命乞いをしたので、百叩きにして境外へ追放した。一州は大いに服した。
- 弘偡は吏務に明るく、詩を作ることができ、しばしば秀句があった。忠懿王が位を継ぐと、いっそう恭敬に仕えた。顯徳年間、王城が火災に遭うと、器物や装身具をすべて献上した。
- たびたび奏して特進檢校太尉・宣徳軍節度使を授けられ、吳興郡王に封じられた。建隆の初め、宋の勅により同中書門下平章事を授けられたが、まもなく飲酒が過ぎて薨じ、享年三十八。諡は恭義。忠懿王は慟哭し、弘偡の子らを手厚く遇した。これに先立ち大星が西北に落ち、一月余りして弘偡が世を去った。
錢弘億
- 字は延世。文穆王の第十子。母は沈氏。懐妊したとき文穆王が僧が寝所の帳に入る夢を見たので、幼名を和尚といった。天資は俊抜で文章を善くした。
- 二十歳で内牙諸軍左右都虞候・檢校左僕射となった。開運年間、福州救援の軍を起こしたとき、忠獻王は鉄銭を鋳て将士の禄を増やそうとした。弘億は諫めて八つの害を挙げた。第一に、新銭が行われれば旧銭は皆隣国へ流出する。第二に、自国で使えても他国で使えなければ商人は動かず物流が滞る。第三に、銅の禁は厳しくても民は密かに鋳造する。まして家には鍋釜、野には犂があり、犯法者が必ず多く出る。第四に、閩は鉄銭を鋳て乱亡した。手本にならない。第五に、国用は幸い豊かなのに、自ら窮乏を示すことになる。第六に、禄賜には定めがあり、理由なく増やせば飽くなき心を開く。第七に、法を変えて弊害が出ても急には戻せない。第八に、「錢」は国姓であり、これを改めるのは不吉である。王はこの言を善しとして取りやめた。
- まもなく忠懿王の丞相となった。折しも内牙指揮使の鈄滔が乱を謀り、供述が弘億にも及んだ。左右は徹底追及を勧めたが、王は弘億のことなので表沙汰にせず、鈄滔を處州に貶し、弘億を明州刺史として出した。
- 弘億は明州でよく善政を行い、一切の臨時徴発の旧制をすべて廃した。顯徳年間、王が民丁を調べて軍を増やそうとしたとき、州県の長吏はそれに乗じて過酷な取り立てをした。弘億は自筆の上疏でその弊害を述べ、言葉は切実で理も通っていた。王は感じ悟ってやめさせた。
- 王はかつて丞相以下と、民の労苦・安楽はすべて君主の奢倹によると論じ、詩二章を作って志を寄せた。弘億もまた、北方の諸侯は多く奢侈な巧品を貢いで君の心を惑わしていると述べ、詩を献じて風刺した。王は長く感嘆し、詩を賜って褒め称えた。
- 弘億の娘はかねて王の母方の伯父吳氏の子と婚約していたが、その後、吳氏一族の驕縦が日ごとにひどくなったので、弘億はきっぱり交際を絶った。人は皆その剛正を称えた。
- 建隆の初め、奉國軍節度使・檢校太保に昇り、名が宋の宣祖の諱に触れるため錢億と改めた。晩年、金の甲を着た神が死期を告げる夢を見て、壁に「奉國節度使、ただ年三十九」と書きつけ、賓客を大いに集めて酒を酌み交わし別れを告げ、三日病臥して没した。諡は康獻。
彭城侯 錢弘儀
- 文穆王の第十一子。建隆の初め、宋の諱を避けて錢儀と改めた。鎮東軍安撫使として家を起こし、乾徳のころ奏して越州觀察使を授けられた。
- 旱魃で租税が納まらない年、錢儀は私財八百をもって代納した。越の民で徳としない者はなかった。それゆえ再任され、通算三十年近く在任した。
- 仏典を深く信じ、越にあって多く仏事を営み、雲門の僧重曜と親しく交わった。宋の太宗が即位すると金紫光禄大夫・檢校太保を加えられ、開國彭城侯に封じられた。忠懿王が入朝すると、錢儀も東府から至り、太宗の詔で慎瑞師三州觀察使に改められ、のち金州觀察使に改まった。太平興國四年(979年)、京師の賜邸で卒し、享年四十八。安化軍節度使を贈られ、京城の東、臨汴鄉の邊公原に葬られた。
- 錢儀は草書に巧みで囲碁を善くし、いずれも上品に達していた。音律に通じ新曲を作ることができ、とりわけ琵琶に長けて当世に絶した。
- 忠懿王がかつて兄弟を集めて宴を開いたとき、錢儀に弾かせたかったが面と向かって命じにくかったので、別に一つの榻を設け、七宝の琵琶を置いて黄色い錦で覆っておいた。酒がたけなわになると、錢儀は果たして王に「これは忽雷ではありませんか。一曲奏して王の長寿を祝いましょう」と申し出た。当時、王の叔父の元璫もまた音律に通じていたので、王は拍子を取らせた。曲が終わると王は大いに喜び、錢儀に北綾五千段、元璫に銭千緡を賜り、当時の美談となった。
- 錢儀が没した年、重曜は錢儀が天人の服を着て雲に乗って現れ「弟子はすでに天に生まれました」と言う夢を見た。目覚めて書を送り、その夢を詳しく述べたうえ、「公の行いを見るにこの兆しにふさわしい。しかし世の禄はいくばくもない。いっそう修行を進められよ」と書いたが、書状が届く前に錢儀はすでに世を去っていた。
- 十年後、墓が盗賊に暴かれたが、その顔は生きているようであった。旧吏の吳玄素が柩を越へ運び帰り、秦望山の重曜の塔のかたわらに葬った。妻の何氏はたびたび廬江夫人に封じられた。
錢弘偓
- 字は贊尭。文穆王の第十二子。性は仁孝で、母の陳氏に恭しく勤めて仕えたことで知られた。
- 衢州刺史となると、政治は寛恕で重厚、民の多くが慕った。折しも旱魃の年に当たり、領民が他州へ食を求めて移ろうとしたが、去るに忍びず、皆で役所に来て告げてから出発した。弘偓はそのために涙を流した。
- 忠懿王が立つと、非常に篤く友愛した。顯徳五年(958年)に卒し、内外で嘆き惜しまない者はなかった。享年二十五。
- 子の錢昭度は字を九齡といい、供奉官に至った。俊敏で詩を善くし、警句が多く、集十巻が世に行われた。
錢弘仰
- 文穆王の第十三子。母は周氏。騎射を善くし、儒術に通じ、とくに書法に精しかった。台州刺史に累進した。性は厳しく急であったが、政事は寛やかで簡素であり、吏民は畏れ服した。顯徳五年(958年)二月に卒し、享年二十四。諡は成顯。
- 子の錢昭序は字を著明といい、学問を好み書を集めるのを喜び、多くを自ら書写した。宋に入って知通利軍となり、勤勉で有能と知られた。
錢儼
- 字は誠允。文穆王の第十四子で、忠懿王の異母弟。もとの名は弘信、のち「弘」を去って錢信と名乗り、宋の淳化の初めに儼と改めた。
- 儼が生まれた夕べ、母の崔夫人は目を閉じたとき一人の僧が帳の前に座っているのを見、目覚めても目に浮かぶようであった。そして儼を生んだ。父の文穆王は喜び、金銀の大銭を鋳させて産湯の祝いの品とした。満一歳になるころには、府中の鍵の札の文字を一度見れば記憶できた。
- 文穆王が危篤のとき、儼は別院にいたが、突然驚いて泣き、養母に「いま白髪の翁が私に早く王のもとへ行けと呼ぶ夢を見た」と言い、大声で泣いた。言い終わらぬうちに訃報が届いた。
- 幼いころ僧となり、長じては謹慎で学問を好み、厳寒や酷暑でも書物を離さなかった。忠懿王が国を継ぐと、鎮東軍安撫副使を領するよう命じられた。顯徳四年(957年)、奏により衢州刺史に任じられ、のち知婺州武勝軍事となり、光禄大夫に進み開國伯に封じられた。
- 宋の太祖が揚州を平定すると、儼を遣わして祝賀させた。太祖は閤門副使の武懐節に詔を持たせて迎え労わり、帰るときには玉帯・名馬・錦綵・器皿を賜った。
- 開寳三年(970年)、兄の弘偡に代わって知湖州・充宣徳軍安撫使となった。忠懿王が常州を攻めたときは、儼に漕運を監督させた。
- 太平興國二年(977年)、忠懿王に従って宋に朝し、郊宮の祭祀に侍った。詔により儼の班列は節度使の下に置かれた。太宗はかつて天駟監に行幸して従臣に馬を賜ったとき、担当者に「錢儼は儒者だから、おとなしい馬を選んで与えよ」と勅した。
- 新媯儒州觀察使をたびたび授けられ、なお知湖州を兼ね、また隨州觀察使となり、まもなく兄の錢儀に代わって金州觀察使となり、判和州として出た。真宗が位を継ぐと檢校太傅を加えられ、階は特進に至った。在職十七年、咸平六年(1003年)に卒し、享年六十七。昭化軍節度使を贈られ、諡は静宣。和州に葬られた。子の錢昭慈もまた文名があった。
- 儼は博識で見聞が広かった。若いころ人から大きな硯を贈られる夢を見、以後、文辞は敏達で豊かになった。当時、国内の文章は羅隠と崔仁冀が推されていたが、儼は彼らと肩を並べた。太宗の朝に『皇猷録』を献じ、咸平のころにはまた『光聖録』を献じた。著作に前集五十巻・後集三十巻、『吳越備史遺事』『忠懿王勲業志』『錢氏戊申英政録』若干巻があり、また『貴溪叟自序伝』一巻を作った。
- 酒を善くし、百杯飲んでも酔わなかった。外郡にいたとき相手のいないのを憂え、ある者が「一人の軍校がいくらか比肩できましょう」と言った。儼がその様子を尋ねると「飲めば飲むほど手つきが恭しくなります」と答えた。儼は「それは常態が変わっているので、善く飲むとは言えぬ」と言った。
- 儼が湖州を鎮めたとき、裏庭の芙蓉の枝に黄玉の玦が一つ貫かれていた。枝先は入り組んでおり、どこから通したのか分からなかった。儼は幹を切って玦を取り、献上した。人は真の仙人が遊びに来てこれを残し世を驚かせたのだと言った。これも不思議な事である。
忠獻王・忠遜王・忠懿王の子たち
富水侯 錢昱
- 字は就之。忠獻王の長子。忠獻王が薨じたとき、錢昱はまだ襁褓の中にあり、国人は忠遜王を立てたので、錢昱を咸寧・大安の二宮使とした。忠懿王が位を継ぐと、制を承けて秀州刺史を授けた。
- 宋の太祖が位に即くと、錢昱は入貢し、江南の使者とともに後苑での宴と弓射に侍った。江南の使者が先に的に中てると、錢昱にそれを解くよう命じ、弦の音とともに的中したので、玉帯を賜った。
- 宋が蜀を平定すると、錢昱はまた入朝して賀し、帰って台州刺史・領徳化軍節度使・本路安撫使となった。まもなく静海軍節度使・温州刺史を領し、彰武軍節度使に転じた。
- 宋軍が江南を討つと、錢昱は東面水陸行營應援使となった。忠懿王に従って宋に朝し、白州刺史を授けられた。
- 錢昱は『太平興國録』一巻を上って台省の官に換えてほしいと求めた。太宗はその才を賞し、学士院に詔して麻制三篇と高麗への返書一通を試させ、秘書監・判尚書都省に任じた。当時、役所の建物を新しく修めたので、錢昱が記を撰んで奏上した。またかつて鍾繇・王羲之の墨蹟八巻を献じ、詔で褒められた。太宗は錢昱が書を善くすると聞き、筆と紙を進めさせ、御書の金花扇二本・『急就章』一本・宸翰三十軸を賜った。
- 知宋州として出、工部侍郎に改まり、壽州・泗州・宿州の三州を歴任したが、おおむね善政はなかった。至道年間、郊祀に際して昇進すべきところ、太宗は「錢昱は貴家の子で、丞郎に任ずるのはふさわしくない」と言い、郢州團練使に進めた。咸平二年(999年)、表を上って入朝したが、病のため謁見に及ばず卒した。享年五十七。太師を贈られ、富水侯に封じられ、開封府汴陽鄉に葬られた。
- 錢昱は叔父の錢儼とともに文章で名を知られ、中朝では二陸(陸機・陸雲)になぞらえられた。また琴と絵を善くし、聡明で碁の棋譜を再現でき、酒は一斗余り飲んでも乱れなかった。とりわけ学問を好み、書を集めるのを喜び、詩を多く詠み、常に中朝の卿大夫と唱和した。
- ある日、沙門の贊寧と竹に関する故事を並べ合い、互いに知るところを記したところ、錢昱は百余条を得た。そこでまとめて『竹譜』三巻とした。
- 生涯の旧友と終日談笑しても、家の諱を口にしたことがなかった。『貳卿文稿』二十巻がある。晩年は貪欲で放縦になり、称すべき名節がなかった。
- 子は錢百人・錢渉・錢登・錢絳。錢渉は雍熙年間に進士に及第し、錢絳は内殿承制に至り、たびたび郡を治めて有能と称された。
西平侯 錢郁
- 忠獻王の第二子。鎮東軍節度副使・秀州刺史に累進し、宋に入って知全州に改まり、太保に至って卒し、西平侯を追封された。
- 忠獻王の一族の中にはまた錢仁熙という者があり、よく書を読み絵に長け、とくに水牛を巧みに描き、多くは絹の団扇に写した。
- 錢氏の子弟は皆文才に優れ、風流な遊びを好んだ。かつて霅上の瓜を取り、それぞれ種の数を言い当てさせ、割って確かめ、外れた者が宴を張った。これを「瓜戦」と呼び、今も風雅な戯れとして伝わる。
錢昆
- 字は裕之。忠遜王の子。宋に帰して進士に及第し、三司度支判官に累進し、七州の知事を歴任した。政治は寛やかで簡素を尊び、秘書監で致仕して卒した。享年七十六。
- 錢昆は詩賦を善くし、また草書・隷書に巧みで、文集十巻がある。性として蟹を好み、かつて地方官への転出を求めて「ただ蟹があって通判のいない土地さえ得られれば、かねての願いは満たされる」と言った。
錢易
- 字は希白。忠遜王の子。忠懿王が宋に入ったとき一族は皆官に補されたが、錢易と兄の錢昆は記録から漏れた。そこで志を立てて読書に励んだ。
- 十七歳で進士に挙げられ、崇政殿で三篇の試験を受け、正午前に書き上げた。しかし論者はその軽率さを嫌って落とした。再び進士に挙げられ、府試で第二となったが、自分は第一のはずだと思い、上書して「朽索之馭六馬」の賦を試題としたことを論じた。その意が譏刺に及んだので、真宗は第二に下し、濛州團練推官に補し、光禄寺丞に改めた。
- 当時、錢惟演が台閣の席に参ずるにあたり、実際に制詞を草したのは錢易であり、朝廷はこれを美談とした。まもなく知制誥・判登聞鼓院に抜擢され、卒した。享年五十九。
- 錢易は才学が敏捷で豊かであり、数千百言も筆を執ればたちどころに仕上げた。また細字の書も大字の行草も善くした。仏書を読むのを喜び、道蔵を調べた。『金閨瀛州西垣制集』一百五十巻、『青雲總録』『青雲新録』『南部新書』『洞微志』一百三十巻がある。
世子 錢惟濬
- 字は禹川。忠懿王の嫡子。顯徳二年(955年)に生まれ、ただちに世子と称された。表により鎮海鎮東兩軍節度副大使・檢校太保・鈐轄兩浙管内土客諸軍事を授けられた。
- 建隆年間に檢校太傅を加えられ、二年に建武軍節度使を領した。乾徳の初めに檢校太尉を加えられ、その年の冬に宋に朝した。六年にはまた宋に朝して郊祀に侍った。
- 開寳二年(969年)、鎮東等軍節度・浙江東西道觀察處置・兩浙制置營田發運等使に充てられた。まもなく京師に朝すると、宋の太祖は苑中の宴に召し、黄門に簫韶の楽を奏させ、諸王と同席させ、玉帯・珠飾りの衣・水晶の轡をつけた御馬を賜った。四年にもまた宋に朝し、寵遇はますます厚かった。
- 宋兵が江南を征したとき、惟濬は忠懿王に従って常州を落とし、功により同平章事を加えられた。太宗が即位すると兼侍中を加えられた。太平興國二年(977年)、母妃の喪に遭い、起復して鎮東大將軍・右金吾衛大將軍員外置同正を加えられた。
- 忠懿王が入朝しようとしたとき、惟濬が先に方物を貢いだ。太宗は戸部郎中の侯渉を泗州まで遣わして迎え労わらせた。三年、忠懿王が領土を献じて封を改められると、惟濬もまた淮南節度使に移り、郊祀の恩により檢校太師を加えられた。太原平定に従い、幽薊を征し、のち大名への行幸にも随行した。雍熙年間には安州の鎮を歴任し、端拱の初め、宋の太宗の籍田の礼に際して蕭國公に封じられた。
- 忠懿王が薨じると起復して兼中書令を加えられた。惟濬は諸王子とともに、綾羅・犀玉の帯・笏・犀角・象牙・丁香・瑪瑙の鞍と轡・金玉珠翠の装身具・器皿など数十万点を献上し、さらに女楽十人を進めたが、太宗は受け取らず、それぞれに錦綵三十段を賜って帰らせた。
- 淳化の初め、杭州が武肅王に唐・梁以来の歴朝から賜った玉帯・竹冊各三副、鉄券一枚、詔誥百余函を献上した。太宗は詔して惟濬に返させた。まもなく急死し、享年三十七。邠王を追封され、諡は安僖。汴京の南に葬られた。
- 惟濬は財を軽んじてよく人に与えたが、酒に溺れたため長寿を得られなかった。子は錢守吉・錢守讓。錢守吉は宋の西京作坊使、錢守讓は字を希仲といい、宋の東染院使に累進し、学問に勤め文集二十巻がある。その子の錢恕の妻は曹王元偁の娘、長安縣主である。
彭城郡王 錢惟治
- 字は世和。もと忠遜王の長子で、忠遜王が東府に移されたときに生まれた。忠懿王がこれを非常に愛し、自分の子として養った。
- 幼いころから読書を好み、八歳で兩浙牙内諸軍指揮使・判軍糧營田事を授けられ、のち徳化軍使に改まり、檢校太保・台州團練使に遷った。乾徳四年(966年)、宋の制により寧遠軍節度使・檢校太尉を授けられ、なお牙職を兼ねた。世子惟濬の節旄と同じ日に届いたので、国人はこれを栄誉とした。
- 宋軍が江南を討つと、惟治は忠懿王に従って兵を率い常州を落とし、勲功により奉國軍節度使に改まった。忠懿王が宋に朝したときは、惟治に軍国の事を代行させた。王が帰ると惟治を入貢させ、惟治は私に塗金の銀の香獅子・香鹿・鳳・鶴・孔雀、宝飾りの漆器、金と磁器の器一万点、吳の繚綾千疋を献じた。暇乞いの日、宋の太祖は襲衣・玉帯・塗金の鞍と轡をつけた馬・金銀の器・絹綵を万を超えて賜った。太宗が位を継ぐと檢校太尉に進められた。
- 忠懿王が再び入覲した際もまた国事を代行した。折しも厩が火事になると、惟治は兵を率いて高みに臨んで見下ろし、腹心十数名に剣を執らせて「後ろを振り返る者は斬る」と令した。まもなく火は消えた。妻の一族で配下に属する者がそのとき自ら法を犯したので、府門で背を杖打たせた。
- 王が領土を献じると、宋は考功郎中の范旻を知杭州とした。惟治は兵と民の図籍、倉庫の鍵を范旻に引き渡し、弟の惟渲・惟灝とともに宋に帰り、鎮國軍節度使を領するよう改められた。
- 惟治は草書・隷書が抜群で、とくに二王(王羲之・王献之)の書を好み、いつも「心が手を御し、手が筆を御すれば、法はおのずとその中にある」と言った。かつて鍾繇・王羲之・唐の玄宗の墨蹟あわせて七軸を装丁して献じた。太宗はかつて翰林の賀丕顕と惟治の書を評して「錢氏は皆、浙僧亞棲の筆跡を真似るので筆に骨がない。ただ惟治だけが巧みだ」と言った。
- 雍熙三年(986年)、太宗が大挙して幽州を征したとき、惟治に知真定府・兼兵馬都部署を命じた。前日、内殿での宴で惟治が詩を献じると、太宗は見て喜び、酒の半ばで小黄門を遣わして北面の任を密かに諭した。赴任すると兵を訓練し士を饗し、政務に精励した。
- もともと惟濬は忠懿王の嫡嗣ながら放蕩で自制がなかったので、王はかねて惟治を重んじていた。ある夜、忠懿王が急病になると、王妃は符と鍵をすべて集めて惟治に託した。王が薨じると起復して檢校太師となり、たびたび表を上って節鎮を辞したが許されなかった。
- 後に心の病を得て家事が乱れ、僕が姦通のもつれから人を屋敷内で殺した罪に問われたが、真宗は取り調べを止め、右監門衛上將軍に貶すにとどめた。晩年は資産が尽き、真宗はその貧しさを憐れんで特に右武衛上將軍に転じ、月俸十万を与えた。左驍衛上將軍・左神武統軍を累加され、卒した。享年六十六。太師を贈られ、彭城郡王を追封され、洛縣の邙山にある先王の墓域に葬られた。
- 惟治は学を好み、家に法帖・図書一万余巻を集め、異本が多かった。生涯、皮日休・陸亀蒙を慕って詩を作り、集十巻がある。また「寳子垂綬連環詩」があり、世に多く称された。書跡は常に人に秘蔵された。祁國夫人元氏を娶り、後に瑯琊郡夫人水丘氏を娶った。子の錢丕は幼くして学に篤く、宋に仕えて光禄少卿で終わった。
- 惟治がはじめ明州を鎮めたとき、甲を着た神人が現れて「我は西嶽の神である」と言い、その顔に欠けた文字があったので土を捧げて埋める夢を見た。後に果たして華州の節鉞を領すること二十年に及んだ。
英國公 錢惟演
- 字は希聖。忠懿王の次子。宋に帰して右神武將軍を歴任した。博学で文章を善くし、学士院で試験に召されたとき、笏の上で草稿を立ちどころに仕上げ、真宗は善しとした。
- 翰林學士・工部侍郎・樞密副使・會靈觀使兼太子賓客を歴任し、さらに祥源觀を領し、工部尚書に昇った。仁宗が立つと兵部尚書に進んだが、まもなく太后の姻戚であることから罷免され、保大軍節度使・知河陽となった。一年余りで入朝を請い、中書門下平章事を加えられて判許州となった。朝廷に再任用されることを望んで京師に留まったので、台官に弾劾され、急ぎ去った。
- 天聖の初め、武勝軍節度使に改まり、翌年入朝して、先祖の墓が洛陽にあるので宮の鍵を守りたいと上言し、判河南府となった。さらに泰寧軍節度使に改まった。惟演はもとより権要の任を望み、志を得ずに鬱屈していたが、仁宗が籍田を耕すに際して祭祀への随侍を求め、留められて景靈宮使となった。太后が崩じると平章事を解かれ、崇信軍節度使となった。
- まもなく特に侍中を贈られ、英國公を追封された。太常の張瓌が「文墨」の諡を請うたが、のち文僖と改められた。その顛末の多くは『宋史』に詳しいので、ここには記さない。
- 惟演の文辞は清麗で、名は楊億・劉筠と伯仲した。書は読まぬものがなく、家に蔵する文籍は秘府に匹敵した。とくに後進を励ますことを喜んだ。著書に『典懿集』三十巻があり、また『金坡遺事』『飛白書叙録』『逢辰録』『奉藩書事』若干巻を著した。常に「私が生涯で足りぬのは、黄紙の上に署名できなかったことだけだ」と言った。中書の任を経なかったからである。
- 子は錢曖・錢晦・錢暝、従弟は錢易、錢易の子は錢彦遠・錢明逸。父子兄弟が相次いで制策で科挙に登り、錢氏一時の盛りとなった。
錢惟濟
- 字は巖夫。忠懿王の第六子(『錢氏家乗』は第八子とする)。七歳のとき王が漢南に封を移され、奏により本府元從指揮使に補された。諸衛將軍を歴任し恩州刺史を領し、東染院使に改まり、正式に封州刺史に任じられた。
- その後、郡の統治を試したいと請い、宋の真宗は知絳州を命じた。ある民が桑を植えていたところ、盗人がその桑を奪おうとして得られず、自分の腕を傷つけて桑の持ち主が自分を殺そうとしたと誣告した。長く拘留されても事実が明らかにならなかった。惟濟は盗人に食事を与えて観察したところ、盗人は左手で匙と箸を持った。惟濟は「右手で人を傷つければ傷は上が重く下が軽い。ところがお前の傷は下が重い。まさに左手で右腕を傷つけたのだ。自分でやったのではないか」と言った。盗人は誣告の罪を認めた。
- まもなく永州團練使に遷り、知成徳軍に改まった。仁宗のとき檢校司空を加えられた。ある民が偽の白金を質に入れて銭を借り、その家が訴え出た。惟濟は「盗まれたと触れ回り、高い懸賞を示せ。質に入れた者が残りの代金を求めに来るはずで、そこで捕らえられる」と言った。果たしてそのとおりになり、杖で打ち殺した。
- 吉州防禦使に改まり、虔州觀察使を授けられ、まもなく知定州となり、武昌軍節度觀察留後に昇った。
- 惟濟は賓客を好み、宴や慰労を盛大に行ったので家に余財がなく、公使銭の負債は七百余万に達した。卒すると平江軍節度使を贈られ、諡は宣惠。賻として銭三百万・絹千疋を賜った。著書に『玉季集』二十巻がある。
- 惟濟は吏才に富んだが、性は苛酷で残忍であった。赴任先では連座が広がって獄が満ち、重罪人を市で処刑し、時には手足を切断し胆や肝を抉り出すことも常であった。知定州のとき、ある婦人が先妻の子を虐げ、銅銭を焼いて腕を灼いた。惟濟はその婦人の生んだ子を取って雪の中に置き、婦人に枷をはめて見に行かせ、子は死んだ。その惨酷ぶりはおおむねこの類であった。
- 忠獻王・忠懿王の親族・従兄弟の子は全部で六十八人あるが、いま伝記に見えるのは十余人にすぎず、他は詳らかにできない。