十国春秋卷七十四 楚八 列傳 許可瓊
要約
許可瓊は許德勲の子で、功を積み水軍指揮使に至った。朗兵の内侵に際し廃王希廣の命で戦艦五百艘を率い城北の津を守って防戦したが、恭孝王希萼から湖南分割を条件に密かに厚利で誘われて心が動き、彭師暠が主張した水陸挟撃の策を密かに妨害しながら、廃王には「臣は代々楚将、必ず大王に背きません」と装って腹心として重用され日々金を賜るほど信頼を得た。師暠が可瓊の裏切りを見抜いて瞋目して叱り誅殺を進言しても、廃王は「もと許侍中の子である」として疑わず、可瓊は夜ごと単舸で敵陣と密会を重ねて内応を約束し、蛮兵が城の東から放った火に乗じて全軍を挙げて希萼に降り、長沙陥落を決定づけた。しかし恭孝王のもとでも功に見合う賞を得られず不満を募らせ、蒙州刺史に左遷されると、王の弟希隱の勧誘に応じて独断で蒙州を棄てて桂州を襲い指揮の彭彦暉と戦った。南漢軍の圧迫を受けて全州に逃れ、そこで没するという不遇な末路をたどった。史論では、彦瑫とともに国を敵に売り家名を汚した「馬氏の罪人」として厳しく断じられ、可瓊の裏切りは呉宏・楊滌ら最後まで節を守った諸臣に照らして愧じるべきだとも評されている。
現代語訳全文
内応して長沙陥落を招く
- 許可瓊は、侍中の徳勲の子である。功を積んで水軍指揮使に至った。朗兵が内侵すると、廃王希廣は可瓊に命じて戦艦五百艘を率いて城北の津に屯し、南津に属させて戦うこと日があった。恭孝王は密かに使いを遣わして厚利をもって啖(さそ)い、湖南の地を分けることを約した。可瓊は心が動き、そこで力を尽くして彭師暠が挟撃しようとする謀を沮んだ(この事は師暠伝に見える)。しかも廃王には、「臣は代々楚将であり、必ず大王に背きません。希萼にどうしてできることがありましょうか」と言った。
- 廃王は大いに可瓊を腹心として頼み、日々可瓊に金を賜り、しばしばその陣営を訪れて密議した。可瓊は常に塁を閉ざして士卒に朗軍の進退を知らせなかった。廃王はもとより稚愚(幼く愚か)であり、嘆じて言った、「可瓊はまことの将軍である。私はまた何を憂えることがあろうか」。可瓊はこれによって姦をなすことができ、常に夜に単舸に乗って江を巡ると称し、密かに恭孝王と水西で会い、内応を約束した。
- ある日、師暠は可瓊を見て瞋目してこれを叱り、入って廃王に見(まみ)えて言った、「可瓊はまさに叛こうとしています。国人は皆これを知っています。どうか速やかに誅して後患を遺さないでください」。廃王は言った、「可瓊はもと許侍中の子である。どうしてそのようなことがあろうか」。まもなく朗軍が長沙を攻めることがますます急を告げたが、可瓊はもはや敵を拒ぐ計をしなかった。にわかに蛮兵が城の東より火を縦つと、可瓊はついに全軍を挙げて降った。
- 恭孝王が長沙に入ると、賞は可瓊に及ばず、頗るその不満を疑い、蒙州刺史として出した。折しも王の弟希隱が静江節度副使となり、指揮の彭彦暉と相容れず、密かに人を遣わして可瓊に告げた。可瓊はまさに南漢の圧迫を畏れていたので、すぐに蒙州を棄てて桂州に趣き、彦暉と搏戦した。彦暉は衡山に奔り、南漢の呉懐恩がまた蒙州に拠って桂管を掠めた。可瓊はついに衆を率いて全州に走り、そこで卒した。
史論
- 論じて言う。彦瑫は措置が方に乖き、禍いを君父に遺し、身を隣国に竄(かく)した。百たび死んでも贖うことはできない。可瓊は閫外(軍の指揮権)の寄任を受けながら国を敵に与え、その家声を隕(おと)した。呉宏・楊滌ら諸臣に照らせば愧じるところがある。要するに皆いわゆる馬氏の罪人であろう。