李令 — 夢の予兆と荔浦県令
- 李令は江南の人。唐の時代に大きな県の役職を歴任し、仮の官位として大理評事にまで至った。世が乱れ、年老いてからは官途への意欲を失い、広陵の法雲寺の西に居を構えて余生の地と定めた。
- あるとき夢を見た。草の束を頭に載せ、口に一振りの刀をくわえ、両手にもそれぞれ刀を持って水中を歩いて行くという奇怪なもので、自分でもひどく不思議に思った。
- まもなく孫儒が広陵を攻め落とし、その部将の李瓊が法雲寺に駐屯した。李瓊は常に李令の家に身を寄せ、李令を父のように敬って、きわめて親密に交わった。
- 武穆王(馬殷)が湖南に入ると李瓊はこれに従い、李令も連れて同行した。李瓊はのちに桂管観察使にまで昇進し、李令を荔浦県令に推挙した。草を頭に載せ刀を持って水を行くという夢が、この官職(荔浦令)と符合したのだと語り伝えられる。
侯元亮 — 「鬧侯」と呼ばれた好客の人
- 侯元亮は武穆王に仕えて湘東県令となり、退官後は長沙に住んだ。
- 客をもてなすことを好み、宴会を開かない日がないほどだったため、人々は彼を「鬧侯(にぎやかな侯どの)」と呼んだ。
王仝 — 蛮族との戦いに殉じ神と祀られる
- 王仝は湘郷の人。武穆王のとき江華指揮使となり、蛮族の将と戦って戦死した。
- 郷里の人々は安化の東に廟を建てて「王司徒」と号し、その地には今も司徒嶺という地名が残る。
邵岳 — 全州の判官から国子司業へ
- 邵岳は京兆の人。唐末の大乱に家族を連れて湖南へ移った。彭玕が全州刺史であったとき、招かれてその判官となった。
- 賊の魯仁恭が連州に侵入した際、国子司業に転じて州の政務を代行し、そのまま桂陽に一家を構えた。子の邵崇徳は道州録事参軍を務めた。
朱葆光 — 唐への忠節を守り衡山に隠棲
- 朱葆光は先祖が京兆の人で、のちに南陽へ移り住んだ。朱氏(朱全忠)が唐の帝位を簒奪すると、顔蕘・李濤らとともに家族を連れて湖南へ来て、潭州に仮住まいした。
- 元日や冬至の節会のたびに衣冠を正して南嶽の祠の前に立ち、北の方角(旧唐の都)を望んで慟哭した。それが二十年近くも続いた。のちに李濤が中原へ帰ると、朱葆光は衡山に居を定めてそこに落ち着いた。
- 長沙が陥落したのち、子の朱昂は宋に入って工部侍郎となった。朱昂は若いころ熊若谷・鄧洵美と同門で学んだ。当時、朱遵度が万巻の書に通じて「朱万巻」と呼ばれていたため、朱昂は「小万巻」と称された。
- 顔蕘もまた湖南で没した。生前みずから墓誌を草し、そこに交友関係の得失を書き連ねていた。
陶英 — 昭州に隠れた元太尉
- 陶英は字を世民といい、代々青州の人。唐末に累進して太尉となった。
- 天祐二年(905年)、時政を批判する上書を行って梁王朱全忠の怒りを買い、そのために征南将軍に任じられて八万の兵を率い昭州の鎮守に出された。実際は中央から遠ざけるための措置であった。
- 翌年(906年)唐が滅びると、災いを恐れて昭州の誕山に隠れ、一家を挙げてそこに住んだ。武穆王が国を建てても、陶英は交際を一切絶って通じなかった。
- 同じころ李という太尉がおり、のちに陶英の家と代々姻戚を結んだため、人々はその山下の峒(谷あい)を「陶李峒」と呼んだ。
黃匪躬 — 武穆王に厚遇された詩人官僚
- 黃匪躬は連州の人。幼くして詩名があり、同郡の張鴻・卲安石・呉靄とともに才華をうたわれた。唐の光啓三年(887年)に進士に及第した。
- のち梁に仕え、江西の鍾傳の幕下で奏記(文書起草)をつかさどった。武穆王はかねて彼を慕っており、使者の任務で黃匪躬が湖南に来たときは大いに喜び、その家の租税と賦役をすべて免除した。
- 黃匪躬が固辞すると、武穆王は「老夫はかねてよりあなたの清らかな風格に一度も接し得ぬことを恨みに思っていた。いま幸いにお会いできたが、湯沐の資を献ずるにも足りぬのではと案じるばかりだ」と言った。その重んじられ方はこれほどであった。
孟賓于 — 詩才で名を成し、生死の淵を詩に救われる
- 孟賓于は字を国儀といい、連州の人。幼くして父を失い、努力して学問に励み、母に孝行を尽くしたことで知られた。
- 中央の工部侍郎李若虚が湖南に来たとき、孟賓于は自作の詩数百篇を『金鼇集』と名づけて献じた。李若虚はこれを称賛し朝廷で推挙したため、名声はいっそう高まった。
- 晋の天福年間(936-944年)に進士に及第したが、まもなく戦乱のため郷里に帰った。文昭王(馬希範)が府を開くと零陵従事に任じられたが、重く用いられることはなかった。
- 恭孝王(馬希萼)が金陵に入ると、孟賓于はみずから南唐に帰属し、豊城主簿を授かり、のち塗陽県令に移った。しかし収賄の罪に問われて死刑を宣告された。
- このとき宋の翰林学士李昉は孟賓于と同年の進士であり、彼に詩を贈った。南唐後主はその詩を見て死一等を減じ、官も元に復した。まもなく退官して玉笥山に隠れ、みずから「羣玉峯叟」と号した。
- 一年余りののち水部員外郎として再び起用されて金陵に出仕し、金陵平定後は連州に帰って老いを送り、八十七歳で没した。文集一巻がある。
- 孟賓于は詩才を自負し、後進を引き立てることを好んだので士人の間で評判は高かったが、身の処し方はあまり潔白でなく、世に譏られた。
- 江南に帰属した当初、孟帰唐という子を挙げた。この子も詩をよくし、廬山の国学で学んでいたとき、隣室の学生と同じ佳句を得たと言い争い、ついに江州で訴訟沙汰にまで及んだ。宋の開宝年間(968-976年)に大理丞にまで昇ったが、当時の人はなお彼を指して「これが詩で訴訟をした書生だ」と言った。
翁宏 — 「落花人獨立」の作者
- 翁宏は字を大挙といい、桂州の人。昭州・賀州のあたりに寓居し、詩の巧みさで名を知られた。
- 暁の月を詠んだ句、人を送る句、そして宮詞の「落花人獨立 微雨燕雙飛」の一連が、当時もっとも称賛された。
- 同郷に裴諧という者がいた。唐の詩人裴説の弟で、武穆王のとき桂嶺に隠棲し、やはり詩をよくした。湘江を詠んだ句もまた佳句とされた。
廖融 — 衡山に隠れて仕えず
- 廖融は字を元素といい、衡山に隠居して、隠者の任鵠・王正已・凌蟾・王元らと交わった。
- 仙を夢む詩、檜を題する詩、退いた宮妓の詩など、その作は一時にもてはやされた。
- 武穆王・文昭王の二代を通じて乱を避けて仕官せず、ついに南嶽で生涯を終えた。
王元 — 詩の巧みな隠者
- 王元は字を文元といい、桂林の人。隠居して世に出ず、詩に巧みであった。
- 祝融峯に登った詩、廖融に贈った詩はいずれも文人たちを心服させた。のち長沙で没した。
伍彬 — 亡国後に宋へ
- 伍彬は邳陽の人。もとより詩をよくし、はじめ(欠字)王に仕えた。国が滅んだのち宋に入り、官を解かれたときの詩を残した。
- また劉章という者も同じく(欠字)王の代に仕え、蒲鞵(草履)を詠んだ詩が世に伝わり、文人たちに大いに賞賛された。
朱遵度 — 「朱万巻」と呼ばれた蔵書家
- 朱遵度は青州の人。家に蔵書が多く、ひととおり読み通してほぼ通暁していたため、当時の人は博学と称して「朱万巻」と呼んだ。
- 契丹の耶律徳光の招きを避け、妻子を連れ書物を携えて商人にまぎれて文昭王のもとに亡命した。しかし文昭王の待遇はきわめて薄く、朱遵度は門を閉ざして人と交わらなかった。
- 学士たちは文章を作るたび、古今の事の始末をまず朱遵度に尋ねたので、国中の人は彼を「幕府の書棚」と呼んだ。
- のち金陵へ移り、高潔を守って仕官せず、『鴻漸学記』千巻、『羣書麗藻』千巻、『漆経』若干巻を著した。
劉昌嗣 — 漢への節を守り姓を変えて農耕に終わる
- 劉昌嗣は湘郷の人。はじめ後漢の隠帝に仕えて磁州・相州二州の刺史となった。隠帝が殺害されると、衡山に身を避けた。
- 恭孝王が衡山にいたとき何度も賓客の礼をもって招いたが応じなかった。周行逢が潭州を占拠すると幕僚になるよう強要されたが、劉昌嗣は「自分はかつて漢の朝廷に身を捧げた。伯夷・叔斉のようにはなれずとも、せめて梅福にならうことはできよう」と言い、姓を范と改め「愚叟」と号して、自ら耕して生涯を終えた。
何景山 — 周行逢に沈められた掌書記
- 何景山はもと唐の進士で、若くして文名があった。湖南に入って王逵の掌書記となったが、日ごろ周行逢の人柄を軽んじていたため、周行逢は彼を恨みつつも手を出す機会がなかった。
- 周行逢が潭州を支配すると、何景山を益陽県令に任じた。まもなく事にかこつけて捕らえて縛り、江に投げ込みながら「お前はいつも王逵を助けていた。王逵はもう死んだ。龍君に伝えよ、二度と帰ってくるなと」と言い放った。
鄧洵美 — 詩賦の才に恵まれながら暗殺される
- 鄧洵美は連州の人。鋭敏な才があり、詩賦に巧みであった。当時、湖南で博学をうたわれた宋昂は、誰の作にも満足しなかったが、ただ鄧洵美にだけは及ばないと認めていた。
- 天福年間、孟賓于とともに李若虚に推挙されて洛陽に入り、晋の進士に及第した。のち郷里に帰り、周行逢に書状を奉って館駅巡官に任じられた。
- 鄧洵美は容貌が醜く背が曲がっていたので、人は「鄧䭾(せむしの鄧)」と呼んだ。性格も偏屈で同僚に好かれず、そのため周行逢の待遇もしだいに薄くなり、府の属官でありながら生活に窮することが多かった。
- 同年進士の王溥・李昉は中央で顕職にあった。王溥は鄧洵美の不遇を聞き、「自分は彩衣を着て黄閣に登ったが、君はなお粗末な庵に困窮している」という意の詩を贈った。これを見て周行逢もいくらか待遇を厚くした。
- まもなく李昉が給事中として楚に来て、旧交を温め、思わず涙して悲しみ、詩を唱和して一日中語り合った。周行逢は自分の隠しごとを漏らしたのではないかと疑い、鄧洵美を易俗場の官に左遷し、さらに人を遣って山賊を装わせ官舎に押し入って殺させた。これを聞いた者で痛惜しない者はなかった。
- 鄧洵美は晩年に妻を娶ったが子がなく、三人の娘は困窮していた。醴陵の盧氏は鄧洵美の名を聞いて憐れみ、娘たちを迎え取って学者の家に嫁がせた。
- なお、それ以前に江南の太常丞陳度に「薛孤延聞雷賦」があり、当時の名士たちに高く評価されていたが、鄧洵美の文集にも同じ作があり、語句はほぼ同じで冒頭と末尾がわずかに違うだけであった。結局どちらの筆になるものか定まらなかった。
江禮 — 宋軍に抗して湘陰に戦死
- 江礼は清流の人。周氏(周行逢父子)の時代に潭州判官を務めた。
- 乾徳元年(963年)に宋軍が湖南に侵入すると、将吏の多くは降伏を勧めたが、江礼ひとりは郷兵二千人を率いて湘陰で慕容延釗に立ち向かい、力戦して戦死した。清流の人々はその義を称え、祠を建てて祀った。
李觀象 — 三たび主を変えた策士
- 李観象は桂林の人。はじめ劉言に仕えて掌書記となった。恭孝王の弟の馬希崇が恭孝王を衡山に幽閉したとき、劉言は簒奪の罪を討つとして潭州に兵を進めようとした。
- 李観象は劉言に説いた。「馬希萼の旧将がまだ長沙にいる以上、彼らが公と隣り合うことを望むはずがない。まず馬希崇に檄を送ってその首を取らせ、しかるのち潭州を図れば、坐したまま手に入ります」。劉言はこの計に従い、馬希崇は楊仲敏らの首を軍前に送り、劉言は湖南を得る勢いを一気に強めた。
- 劉言の死後は周行逢に仕えて節度副使となった。周行逢の性格は苛酷であったため、災いが及ぶのを恐れ、粗末な紙の帳・紙の掛け布で寝起きする清貧ぶりを装って周行逢の心をつかんだ。周行逢はこれを信じて重用し、軍府の事は大小を問わずすべて李観象の裁決を仰いだ。
- 周行逢は臨終に際し、子の周保権に李観象を師の礼で遇するよう命じた。
- まもなく張文表の乱が起こり、張文表が滅ぼされたのちも宋軍が引き揚げず進んで来た。周保権が李観象に諮ると、彼は答えた。「文表討伐のために援軍を請うたのに、文表が破れてなお軍が帰らぬのは、朝廷が南方に事を構えるつもりだからです。わが国が頼みとしたのは北の江陵でしたが、その江陵がすでに手をこまねいて自らを救えぬ以上、抗おうとするのは煮え立つ鼎に入った魚が鰭を振り尾を動かすようなもの。よくお考えになり、子孫万世の利を失われませぬよう」。周保権はやむなく郊外に出て宋軍を迎えた。
- 宋の太祖は降伏を勧めた功を高く評価し、李観象を大いに抜擢した。
- 李観象は才略に富んだが嫉妬深く、人の長所を覆い隠すのを好んだ。零陵の儒士蒋密は詩をよくし風雅の趣を得ていて、桑を詠んだ句が作者たちに認められていた。李観象はこれを聞くと驚いたふりをして「それは私の詩だ。蒋密にそんなものが作れるものか」と言った。士林はこれによって彼を軽んじた。
曹衍 — 不遇の文人、『湖湘馬氏故事』を撰す
- 曹衍は(欠字)の人。若くして文辞で名を知られたが、不遇で世に用いられなかった。
- 周行逢が湖南を支配していたころは、官途の登用が門閥の蔭位ばかりを重んじたため、庶民の子であった曹衍は何度も文章を献じても採用されず、郷里に退いて教授を業とした。
- 張文表が叛くと招かれて幕職に就いたが、事が敗れて逃亡し、赦免を得てようやく世に出た。困窮して身の立てようがなかったので、古い伝聞を集めて『湖湘馬氏故事』二十巻を撰し、宋に赴いてこれを献上した。宋の太宗はその貧しさと老いを憐れみ、将作監丞を授けた。
蕭某 — 筧頭神の加護
- 蕭某は臨江の人。(欠字)王に仕えて将校となったが、罪に問われて斬罪となるところ、妻とともに逃亡して国境を出た。王は厳しく捜索した。
- 夜、川に阻まれて進めず、旅館の樋(とい)の受け槽に隠れた。湖湘の地では樋を「筧」という。夜が明けようとするころ、筧を叩いて「あなた方夫婦は早く逃げよ、追手が来る」と告げる者があった。急いで行って難を逃れた。
- 蕭某はこれを神の助けと考え、代々これを祀って「筧頭神」と呼んだ。以後、楚の人はその家を「筧頭神の蕭家」と呼んだ。
雞狗坊の卒長 — 甘蔗栽培の名手
- 鶏狗坊の卒長は姓名が伝わらない。馬氏の時代、子母蔗(さとうきび)の栽培に長け、水やりや植え付けに独自の方法があって大いに繁殖させ、ついに湖南の園芸家の第一人者となった。
- 甘蔗には蠟蔗・荻蔗・赤崑崙蔗の三種があり、一時はこの上ないほど盛んに作られた。