十国春秋卷七十三 楚七 列傳 戴偃

漁父詩で諷諫する

  • 戴偃は金陵の人である。若くして吟詠に巧みで、仕官を求めず、自ら玄黄子と称した。人々の多くは彼を処士と号した。唐末、乱を避けて湘陰に来た。折しも文昭王が奢靡(贅沢)を窮めることに務め、国中がその苦しみに堪えなかったので、偃は漁父の詩百篇を作ってこれを諷刺した。
  • 王はこの詩を得て大いに怒った。ある日、賓佐を顧みて「戴偃とはどのような人物か」と尋ねた。この時、賓佐はまだ王の意向を測りかねていたので、急いで言った。「偃はもとより詩人であり、流輩に深く推許されております。今はちょうど貧しく困窮していますが、大王が参軍・主簿の間に置かれれば十分でしょう」。王は言った。「先ごろ私に献じた詩は、大いに魚釣りの輩に類するものであった。碧湘湖を賜ってそこに住まわせるがよい」。
  • その日のうちに湖上に移り住まわせ、公私ともに彼と通じることを禁じさせた。偃はこのため窮え飢えることがますます甚だしくなった。妻に語って言った、「私はお前と結髪し、一男一女をもうけたが、今の勢いでは両方とも全うすることはできない。子供を分けて逃げるべきだろう」。そこで骰子(さいころ)を投げ、妻と約束して、「多く出た方が男児を得て、少なく出た方が女児を得る」とした。やがて偃の目は少なかったので、娘を連れて慟哭しながら別れた。
  • 偃は嶺南に逃れようとして永州に至ったが、文昭王がすでに薨じたと聞いて、そこで留まった。一説には、偃は譏(そし)りに座して獄に繋がれ、ついに餓死したという。楚の人々は思覲と並び称した。

史論

  • 論じて言う。思覲は喉を絶ち、偃もまた窮え飢えた。彼らの言葉はその善なることが具(つぶさ)に示されているのに、これに背いたのはどうして文昭王というべきであろうか。しかしその身が滅びるに至らなかったのは幸いであった。