十国春秋卷七十三 楚七 列傳 何仲舉

枷を免れ進士に登る

  • 何仲舉は営道の人である。姿容は美しく俊邁絶倫であった。少時、母がかつて仲舉を抱いて月に入る夢を見たという。十三歳の時、家が貧しく税の納入が期限に間に合わなかった。李𢎞臯が営道令であった時、これに怒り、荷校(枷)をかけて獄に繋がせた。
  • ある人が「仲舉はもとより文に巧みで、しかも機敏である」と言ったので、𢎞臯は急いで召し出して問うた、「もしよく詩を作れるなら、私はお前を許そう」。仲舉は筆を執って立ちどころに作った。𢎞臯は大いに驚き異とし、これを聴事に延いて対等の礼で講じた。仲舉はこれより志を鋭くして学問に力を入れた。
  • 天成年間、洛陽に入った。折しも秦王從榮が河南尹であり、身を傾けて士に下った。仲舉は張抗・江文蔚とともにその門に遊び、年を踰えてついに進士第に登った。その居住していた郷を「進賢里」と賜い、「化龍」と名付けた。
  • まもなく帰って文昭王に事え、桂管観察推官となった。折しも王が承制して天策府を建て、十八学士を置いたが、この時、𢎞臯がまさに権柄を執っており、仲舉は私恩に感じ、朝廷に籍を策(つら)ねてはいたが、𢎞臯に事えることはいよいよ恭しかった。𢎞臯はそこで推薦を加え、十八人の数に同じく与った。しばらくして出でて全州刺史となり、まもなくまた衡州に改められ、寿を全うして終わった。
  • これより先、楚の地には詩人が多く、最も著名な者に沈彬・廖凝・劉昭禹・尚顔・斉己・虚中の徒があったが、仲舉は実にその中で伯仲するものであった。諸子の間で、独り𢎞臯が仲舉を推挙することが甚だしく、しばしば衆に対して秋日晩望の詩を吟じた。足を地に頓(とん)して嘆じて言った、「何仲舉はまことに詩家の高逸なる者である」。彼が重んじられたことはこのようなものであった。