学士から周行逢への抵抗
- 徐仲雅、字は東野。その先祖は秦中の人であったが、長沙に移り住んだ。俊才があり詩文に長じ、昭順観察判官として仕官の道を起こした。文昭王が天策府を開くと、僚佐の拓跋恒ら十八人が学士とされたが、仲雅は年十八にしてその列に加わった。楚人はこれを栄誉とした。
- 当時、湖南の豪族は奢侈を極め、上下ともに風潮となっていた。仲雅はこれによって公府の制度が奢僭に過ぎることに言及し、典故を引いてこれを正そうとしたが、文昭王は頷きはしたものの、ついに用いることはなかった。
- 廃王希廣の変に及んで、仲雅は門を閉ざして出なかった。唐の辺鎬が潭州に入ると、ますます姿を隠して荒野に遯れ、凍え飢えを免れなかった。
- 周行逢が武安節度使となると、真に仲雅を知っていたわけではなかったが、その名を浮ついて慕い、節度判官に署した。仲雅は言った。「行逢は昔、私に仕えていたのに、どうして幕吏の職を以て私を辱めるのか」。病と称して辞退したが、行逢は無理にこれを脅迫し、面と向かって文牒(辞令)を受け取らせた。それでもなお辞して赴かなかったので、行逢は怒ってこれを邵州に放逐した。
- しばらくして召し還した。折しも行逢の誕生日に、諸道が各々使いを遣わして祝賀した。行逢は誇らしげな様子で仲雅に言った。「私は湖湘をことごとく領有し、兵は強く風俗は豊かである。四隣は私を畏れているであろう」。仲雅は言った。「公の部内には司空が川に満ち、太保が地に遍く、誰があえて畏れずにいられましょうか」。これは行逢が署けた官職が冗濫(濫発)であることを譏ったものであった。
- まもなく行逢が僚吏を大いに宴し、席上で名を呼ぶ声に誤りが多かった。仲雅は生来滑稽な性質で、戯れて言った。「五月五日に舌を剪らなかったので、こんなに間違えるのだろう」。行逢は大いに怒り、再び邵州に放逐した。仲雅の名望のため、あえて誅を加えることはしなかった。
- 仲雅は廬山寺に廬を結び、暇な日には僧たちが椶(しゅろ)の木の皮を剥ぐのを見て、詩を詠んで志を示した。彼の気概を負って屈しない様は皆このようなものであった。