姚彦章
- 姚彦章は汝南の人。若くして沈着剛勇で智略があった。官を重ねて湖南聴直軍将となった。
- 節度使の劉建鋒が死ぬと、軍中は張佶を推して大将とした。佶は馬に左股を傷つけられたため、彦章を遣わして邵州で武穆王を迎えさせた。武穆王は躊躇して行こうとしなかったが、彦章は言った、「公と劉龍驤・張司馬は一体の人です。今、龍驤は禍にあい、司馬は股を傷つけました。天命と人望はあなたを措いて誰に属しましょうか。今を逃してはなりません。どうか疑わないでください」。武穆王はそこで決意し、真っすぐに長沙へ赴いた。
- 事が定まると、彦章は衡・永・道・連・郴の五州を取ることを請い、また李瓊が大いに用いるに足る人物であると推薦した。武穆王はすべてその言に従い、果たして期日通りに湖南は平定された。彦章に澧州刺史を授け、まもなく静江行軍司馬に任じた。
- 乾化の初め、寧遠節度副使に遷り、容州を権知した。ちょうど劉巖の兵が容州を侵したとき、彦章は守り切れず、州の民と府庫を移して長沙に逃れた。その後また呉の鄂州を攻めたが功はなかった。
- 数年たって辰・漵の蛮が乱を起こすと、彦章は方略を指図してことごとくこれを平定した。天成年間、武穆王が楚国を建てて文武の官を進めるに差があったが、彦章は功によって左丞相を拝命した。
史論
- 論じて言う。張佶は喜んで北面し、身を屈して英雄に節を折り、賢を推し能に譲った点では、司馬(の徳)はまさにこれを備えていた。姚彦章は天意と人望を具に説き、進退の指図と補佐の功が多くを占めた。蔣勛は最後を全うしなかったとはいえ、開国のために備えを撤かせ、実際に覇業の端緒を開いた。要するに、みな武穆王の功臣なのである。