十国春秋卷七十二 楚六 列傳 許德勲
要約
許德勲は武穆王馬殷に仕えた大将。唐の昭宗の時、淮南との盟約破棄を諮る議論に対し「全忠は無道とはいえ天子を挟んで諸侯に命令している以上、王室に仕える身が軽々しく絶ってはならない」と諫めて大局を心得た人物と評された。天復三年、荆南を攻略した帰途、岳州刺史鄧進忠に禍福を説いて城ごと帰順させ、自らその岳州刺史となったが、天祐二年に淮南に奪われて逃げ帰った。開平の初め、淮南の将冷業・李饒が朗州救援に来た際は泳ぎの得意な兵五人に木の枝葉で頭を覆わせて夜襲させ、火と喊声で敵陣を混乱させたのち大軍で追撃して両将を捕らえ、瀏陽寨をも破るなど大功を立て、右丞相を拝命した。のちに呉の使者苗璘・王彦章が水軍で岳州に侵攻すると、正面から戦わず水軍を隠し戦艦二千艘で退路を断つ計略を用い、一昼夜の激戦の末に大勝して両将を捕虜とした。二将を広陵へ送還する宴では、楚には旧臣・宿将がなお健在であると諭し、当時驕り奢っていた武穆王の諸子の行く末を暗に戒める言葉を残した。まもなく侍中を加えられて没した。子の可瓊にも別に伝が立てられている。
現代語訳全文
許德勲
- 許德勲(原文に本貫は闕けている)は武穆王に仕えて大将となった。唐の昭宗の時、淮南は武穆王と共に朱全忠との関係を絶とうと約したが、徳勲は言った、「全忠は無道とはいえ、天子を挟んで諸侯に命令しています。明公は王室に仕える身、軽々しく絶ってはなりません」。当時の人はこれを見て徳勲は大局を心得ていると評した。
- 天復三年(903年)、兵を率いて荆南を攻略し、帰途岳州を通った際、刺史の鄧進忠に禍福を説くと、進忠は城を挙げて帰順し、一族を挙げて長沙に移った。武穆王は進忠を衡州に改め、徳勲を岳州刺史とした。
- 天祐二年(905年)、淮南が岳州を取ったため、徳勲は逃れ帰った。開平の初め、長沙の兵が荆南と会して雷彦恭を討伐した際、淮南の将である冷業・李饒が兵を統率して朗州を救援したので、武穆王は徳勲に命じてこれを拒がせた。
- 徳勲はまず泳ぎの得意な者五人に木の枝葉で頭を覆わせ、長刀・巨斧を持たせて川に浮かせて下らせ、夜中に冷業の陣営を襲わせた。突然火を挙げ喧しい声を雷のように轟かせると、淮南の人々はまったく予測できず、軍全体が驚き乱れた。徳勲はそこで大軍を指揮して進撃し、これを大いに破った。鹿角鎮まで追撃して冷業を捕らえ、また瀏陽寨を破って李饒を捕らえた。続いて上高・唐年の数十の砦を掠め取り、冷業・李饒を長沙の市中で斬った。しばらくして右丞相を拝命した。
- 呉の使者である苗璘・王彦章が水軍を統率して岳州に侵攻してきたとき、武穆王は徳勲に命じて兵を率い君山で防がせた。徳勲は左右の者に言った、「呉人は我々の不備を突こうとしている。大軍が急に到着するのを見れば、必ず鳥や獣のように散るだろうから、正面から戦っても益はない」。そこで水軍を角子湖に隠し、王環に夜、戦艦二千艘を伏せさせ揚林浦に屯させて呉の帰路を絶たせた。
- 夜明け頃、呉人は荆江口に軍を進め、荆南の兵と会して岳州を攻めようとした。徳勲の軍が道人磯に出ると、徳勲は戦棹虞候の詹信に命じて軽舟三百艘を率いさせ、密かに呉軍の後方を邀撃させ、自らは大軍でその前方を圧した。前後から挟撃し、まる一昼夜激戦した末、呉軍は大敗し、斬獲は数えきれないほどであった。苗璘と王彦章を捕虜として連れ帰った。
- その後、呉人が和を求め、武穆王は二人を広陵へ帰すことを許し、徳勲に彼らを送別の宴で送らせた。徳勲は彼らに語って言った、「楚国は小さいとはいえ、旧臣・宿将がなお健在です。どうか呉朝はこれを念頭に置かれませぬよう。いずれ多くの駒が皁棧(馬小屋)を争うようになれば、その後に図ることができましょう」。当時、武穆王の諸子は驕り奢っていたので、徳勲はそのことに言及したのである。
- まもなく侍中を加えられ、卒した。子の可瓊には伝がある。