十国春秋十國春秋卷七十二 楚六 列傳(張佶・蔣勛・姚彦章ほか楚の功臣)
張佶――出自と譲位
- 張佶は長安の人。はじめ宣州の幕僚となったが、観察使の秦彦の人柄を嫌って官を捨てて去った。蔡州を通ったとき、秦宗權に留められて行軍司馬となった。
- 張佶は忠武軍将の劉建鋒に「秦公は激しく猜疑心が強い。滅びるのは間もない。我らはどう身を全うするか」と語った。劉建鋒もちょうど身を危ぶんでいたので、深く結び合った。
- 張佶はのち孫儒の軍で指揮使となった。孫儒が敗れると、衆は劉建鋒を推して節度使とした。陳贍が劉建鋒を殺すと、衆はこぞって張佶を帥に推した。
- 張佶が府に入ろうとしたとき、乗った馬が跳ねて噛みつき、佶の腿を傷つけた。佶は病床から諸将に「私はお前たちの主ではない。馬公は英勇であるから、ともに立てるがよい」と告げた。
- 諸将はそこで陳贍を殺し、邵州から武穆王を迎えた。武穆王が着くと、佶は輿に乗って府に入った。武穆王が平時どおり庭中で拝謁したので、佶はすぐ武穆王を上座に召し、自ら将吏を率いて下に立ち、北面して再拝して位を譲った。
- のち武穆王に代わって兵を率いて邵州を攻めた。数年後、武穆王が上奏して朗州を永順軍に昇格させ、上表して佶を節度使とした。その官のまま没した。
蔣勛――回龍関の開城と後の叛乱
- 蔣勛はもと唐の邵州指揮使。乾寧年間、武穆王が劉建鋒とともに兵を率いて澧陵に至ったとき、蔣勛は鄧繼崇とともに歩騎三千を率いて回龍関を守っていた。
- 武穆王が先に関の下に至り、使者を蔣勛のもとに送った。蔣勛らは牛と酒で軍を犒った。武穆王は使者に「劉龍驤(劉建鋒)は智勇が人に倍し、術者は軫・翼の分野に興ると言う。今、十万の衆を率い精鋭無敵である。君が郷兵数千でこれを拒むのは難しい。先に降って富貴を得て郷里に帰るほうがよいのではないか」と説かせた。
- 蔣勛はもっともだと思い、衆に「東君(劉建鋒)が我らの帰郷を許した」と告げた。士卒はみな歓呼し、旗や鎧・武器を捨てて逃げ去った。武穆王はこうしてそのまま回龍関を越えた。
- その後、蔣勛は邵州刺史の職を求めて得られず、州に拠って乱を起こした。武穆王はそこで定勝寨を攻め破り、軍を率いて城下に迫ってこれを討った。
姚彦章――武穆王擁立の献策
- 姚彦章は汝南の人。若くして沈着勇敢で智略があり、累進して湖南の聴直軍将となった。
- 節度使の劉建鋒が死に、軍中が張佶を帥に推したが、張佶は馬に左腿を傷つけられたため、姚彦章を遣わして邵州の武穆王を迎えさせた。
- 武穆王が躊躇して行かずにいると、姚彦章は「公は劉龍驤・張司馬と一体の人である。今、龍驤は禍に遭い、司馬は腿を傷めた。天命と人望は公を措いて誰に帰そうか。時を失ってはならぬ。疑われるな」と言った。武穆王はそこで意を決し、まっすぐ長沙へ赴いた。
- 事が定まると、姚彦章は衡・永・道・連・郴の五州を取ることを請い、あわせて李瓊が大いに用いるに足ると推薦した。武穆王はすべてその言に従い、果たして期日どおり湖南は平定された。
- 姚彦章は澧州刺史を授けられ、まもなく靜江行軍司馬に任じられた。乾化の初め、寧遠節度副使に遷り容州の事を代行した。
- 劉巖の兵が容州を侵したとき、姚彦章は守り切れず、州民と府庫を移して長沙へ逃れた。ついで呉の鄂州を攻めたが功はなかった。
- 数年後、辰州・溆州の蛮が乱を起こすと、姚彦章は方略を指授してことごとく平定した。天成年間、武穆王が楚国を建てて文武の官を進めたとき、姚彦章は功により左丞相を拝した。
史論
- 論に言う。張佶は甘んじて北面し、節を折って英雄に譲った。賢に推し能に譲るとは、司馬(張佶)にこそ当てはまる。
- 姚彦章は天命と人望をつぶさに述べ、進退を指図し、補佐の力が多くを占めた。
- 蔣勛は終わりを全うしなかったとはいえ、関を開いて備えを撤したことが実に覇業の端緒を開いた。要するにみな武穆王の功臣である。
許德勲――大局を見る眼と武功
- 許德勲は(欠)の人。武穆王に仕えて大将となった。唐の昭宗のとき、淮南が武穆王に共に朱全忠と絶交しようと持ちかけた。許德勲は「全忠は無道だが、天子を挟んで諸侯に令している。明公は王室を奉じているのだから、軽々しく絶交すべきではない」と言った。当時の人は許德勲を大体を知る者と評した。
- 天復三年(903年)、兵を率いて荊南を侵し、帰路に岳州を通ったとき、刺史の鄧進忠に禍福を諭した。鄧進忠は城ごと帰属し、一族を挙げて長沙へ移った。武穆王は鄧進忠を衡州に改任し、許德勲を岳州刺史とした。
- 天祐二年(905年)、淮南が岳州を取ったので許德勲は逃げ帰った。
許德勲――冷業・李饒の撃破
- 開平の初め、長沙の兵が荊南の兵と合流して雷彦恭を討伐した。当時、淮南の将の冷業・李饒が兵を統べて朗州を救援した。武穆王は許德勲にこれを防がせた。
- 許德勲はまず泳ぎの巧みな者五人に木の枝葉で頭を覆わせ、長刀と大斧を持たせて江を下らせた。夜半に冷業の陣営を襲い、突然火を掲げて雷のような喊声を上げた。淮南の人はまったく事態が読めず、全軍が驚き乱れた。
- 許德勲は大軍を進めて攻撃し、大いに破って鹿角鎮まで追撃して冷業を捕らえた。さらに瀏陽の寨を破って李饒を捕らえ、続いて上高・唐年など数十の砦を掠め、冷業と李饒を長沙の市中で斬った。しばらくして右丞相を拝した。
許德勲――君山の戦いと苗璘・王彦章の捕縛
- 呉が苗璘・王彦章に水軍を率いさせて岳州を侵したとき、武穆王は許德勲に兵を率いて君山で防がせた。
- 許德勲は側近に「呉人は我らの不備を衝いてきたのだから、大軍が急に至るのを見れば必ず鳥獣のように散り、戦っても益がない」と言い、水軍を角子湖に隠し、王環に夜のうちに戦艦二千艘を伏せて揚林浦に駐屯させ、呉の退路を断った。
- 明け方、呉軍は荊江口に進み、荊南の兵と合流して岳州を攻めようとして道人磯に出た。許德勲は戦棹虞候の詹信に軽舟三百を率いさせて密かに呉軍の背後を衝かせ、自らは大軍で正面から迫り、前後から挟撃して一昼夜激戦した。呉軍は大敗し、斬獲は数え切れず、苗璘と王彦章を捕虜として帰った。
- のち呉が和を求め、武穆王が許して二人を廣陵へ帰すとき、許德勲に餞別を命じた。許德勲は二人に「楚国は小さいが、旧臣宿将はなお健在である。呉朝には気にかけぬよう願いたい。いずれ多くの駒が馬屋を争うようになってから図られるがよい」と語った。当時、武穆王の諸子が驕奢だったのでこう言ったのである。
- まもなく侍中を加えられ、卒した。子の許可瓊には伝がある。
李瓊――嶺北六州の平定
- 李瓊はもと孫儒の軍将。孫儒が死ぬと武穆王に従って湖南に入り、麾下に属して親従都副指揮使となった。驍勇で胆略に富み、当時並ぶ者がなかった。
- 武穆王が潭州に赴いて軍府の事を掌るとき、李瓊を残して代わりに邵州を攻めさせた。
- 光化元年(898年)、姚彦章が李瓊を大将に足ると推薦し、嶺北七州遊奕使に任じられた。兵を率いて衡州を攻め、楊師遠を斬る功を立てた。ついで永州を囲み、唐世旻は逃げて死んだ。
- 翌年また郴州を攻めて守将の陳彦謙を殺し、進んで連州を攻めると魯景仁は自殺した。一年足らずで連・邵・郴・衡・道・永の六州がことごとく平定されたのは、みな李瓊の力である。
李瓊――秦城の奇襲と桂管の平定
- まもなく桂管の劉士政は軍が境内に入るのを恐れ、親校の陳可璠・王建武らに兵を率いて全義嶺を守らせた。武穆王が劉士政に使者を送ったが、境上で陳可璠が関を閉ざして入れなかった。武穆王は怒り、李瓊と秦彦暉に兵七千で攻めさせた。
- 折しも陳可璠が県民の耕牛を奪って軍を犒ったので、県民は深く怨み、進んで前鋒の道案内を買って出て、「西南に小径があり、秦城まで五十里、単騎なら通れる」と密かに告げた。
- 李瓊は歩騎三百を率い、枚を銜んで夜に秦城を襲い、垣を越えて侵入し、王建武を捕らえて戻った。明け方、白絹に縛りつけて陳可璠の塁の下に運んで見せたが、陳可璠がなお信じなかったので、その首を斬って塁の中へ投げ込んだ。桂の人はみな震え上がった。
- 李瓊は兵を進めて陳可璠とその将士三千人を捕らえ、ことごとく穴埋めにした。続いて桂州へ兵を進めると、秦州より南の二十余の砦は風を望んで潰走し、ついに劉士政を降伏に追い込み、その属する桂・宜・巖・柳・象の五州の地をすべて取った。これも李瓊の力である。
- 武穆王はその功を嘉して李瓊を桂州刺史に遷し、まもなく上表して靜江軍節度使とし、ついで同平章事を加えた。天祐二年(905年)に卒した。
- 李瓊は健啖で、一食に肉十数斤、大きな塊のまま食らったので、軍中では「李老虎」と呼んだ。これに先立ち、桂州の児童は集まって遊ぶたびに「大虫が来た」と叫んで走り回っていた。李瓊が桂管を落とすに及び、識者はその応であると考えた。
秦彦暉――淮南軍の撃破と朗州の攻略
- 秦彦暉は秦宗權の族弟。はじめ武穆王らとともに孫儒に従って淮南を掠め、のち武穆王に仕えて親校となった。
- 李瓊が桂州を破ったとき、秦彦暉も大将として諸軍を統べ現地にあり、斬獲の功はすでに多かった。在城都指揮使に改められた。
- 開平の初め、淮南の将の劉存らが軍を率いて辺境を騒がせたので、武穆王は秦彦暉に水軍を率いて東下させた。秦彦暉は劉存と越堤で戦い、淮南軍は敗れた。
- 劉存らは幾度も勝てず、武穆王に書を送って和を求めた。王が許そうとすると、秦彦暉は「淮南の人は詐りが多い。我が軍を怠らせようとしている。信じてはならぬ。急いで撃つべきだ」と言い、水を挟んで陣を敷いた。劉存が遠くから「降る者を殺すのは不吉だ。公は子孫のことを考えないのか」と呼びかけると、秦彦暉は「賊がわが境に入ったのに撃たずして、何の子孫か」と答え、兵を大いに進めて劉存らを捕らえ、岳州を落とした。
- まもなく荊南の兵と合流して朗州を攻めた。当時、朗州の帥の雷彦恭は沆江を引いて州城を巡らせ守っていた。秦彦暉は禆将の曹德昌に壮士を率いさせ、夜に水門から侵入させ、内外で火を挙げて呼応した。秦彦暉は鉦鼓を鳴らし大喊声を上げ、門を壊して突入した。雷彦恭は廣陵へ逃げ、その弟の彦雄らを捕らえて帰った。
- こうして澧州の向瓌、辰州の宋鄴、溆州の昌師益らがみな渓洞の諸蛮を率いて帰属し、数年たたずして湖南はほぼ平定された。この功は秦彦暉が第一であった。のち累進して(欠)となり、卒した。
王環――黄州の急襲と荊南の撃破
- 王環は勇悍な人柄で兵法に通じ、武穆王に従ってしばしば征討に功があった。乾化年間、岳州都指揮使を授けられた。
- 当時、刺史の許德勲が水軍を率いて辺境を巡視していたところ、夜半に南風が激しく起こった。王環は風に乗って黄州へ向かい、縄で城壁に登って州の役所へ直進し、呉の刺史の馬鄴を捕らえ、大いに掠奪して帰った。
- 許德勲が「鄂州が我らを待ち伏せたらどうする」と言うと、王環は「我が軍が黄州に入ったことを鄂州の人は知らない。不意にその城を通り過ぎれば、彼らは自分を守るのに手一杯で、我らを迎え撃つ余裕などない」と答えた。そこで旗を広げ鼓を鳴らし帆を揚げて堂々と進んだ。鄂州の人はまったく不意を突かれ、果たして狼狽して迫ることができなかった。
- 天成三年(928年)、六軍副使に改められ、劉郎洑で荊南と戦って大勝し、荊南は和を請うた。武穆王が王環にすぐ荊南を取らなかったことを責めると、王環は「江陵は中原と呉・蜀の間にあり、四方から攻められる要地である。存続させて我らの防壁とすべきである。一時の心を快くして唇歯の形勢を自ら失ってよいものか」と答えた。王は時勢を弁えていると大いに喜んだ。
- 王環は前後で呉の兵を六度、荊南の兵を二度破り、名声は一時に轟いた。
- 王環は戦うたびに士卒に先んじ、衆と苦楽をともにした。常に鍼と薬を身近に置き、戦いが終わると負傷者を陣幕の前に呼んで自ら手当てをした。麾下の士卒は互いに「我らは死に場所を得た」と喜び合った。それゆえ向かうところ勝利を収めた。数年たたずして卒した。子の王贇には伝がある。
高郁――楚の富国策
- 高郁は揚州の人。聡明で計略に富んだ。乾寧の初め、武穆王が湖南留後となると高郁を謀主とし、都軍判官に任じ、互いに意気投合した。
- 王ははじめ淮南・荊南・広南の強大さを恐れ、金帛を贈って結ぼうと議した。高郁は「成汭は地が狭く兵が少なく、我らの患いとするに足りない。劉龑の志は五管にあるだけだ。楊行密は公の仇讐であり、万金を贈っても歓心を得られない。それより上は天子を奉じ、下は士民を撫し、兵を訓練して覇業を修めれば、誰が敵となろうか」と言った。そこで王ははじめて京師への貢納を修め、四方の境は安らいだ。
- 開平のころ、高郁はさらに王に勧めて、京都から襄・唐・郢・復などの州に至るまで各地に邸務を置いて茶を売らせ、利は十倍近くに達した。また民に自ら茶を作らせて商旅に流通させ、その税を取ったので、歳入は一億を数えた。
- 高郁はまた、湖南が商旅の集まる地であり鉛と鉄を多く産することに着目し、王に鉛銭・鉄銭を鋳造して銅銭と併用するよう勧めた。商人は境を出れば鉛銭・鉄銭が使えないので、すべて他の物産に換えて去った。こうして百貨が流通し国は日ごとに富んだ。
- さらに納税者に銭の代わりに帛を用いさせた。湖南の民はもともと養蚕を習わなかったが、これによって機織りが呉越をしのぐまでになった。
- 武穆王が領土広く実力を蓄え、封爵を得て諸鎮と対抗できたのは、高郁の謀るところが多い。しかし内外でその功を妬む者もまた、誰もが彼を害したがった。
高郁――離間と誅殺
- これに先立ち、後唐の莊宗が洛陽に入ったとき、武穆王は子の文昭王を派遣して入貢させた。莊宗はその機敏さを愛で、わざと「近ごろ馬氏は高郁に国を奪われると聞くが、このような子がいるなら、高郁にどうして取れようか」と言った。
- 南平王の高季昌もしばしば流言を流して高郁を離間しようとしたが果たせず、そこで衡陽王希聲に書を寄せて高郁の功名を大いに称え、兄弟の交わりを結びたいと申し出た。衡陽王は当時、節度副使として中枢で実権を握っていたからである。さらに諜者に「高公は楚が高郁を用いていると聞いて大いに喜び、馬氏を亡ぼすのは必ず高郁だと考えている」と言わせた。衡陽王はもとより愚かで、そのまま信じ込んだ。
- 文昭王もまた莊宗の言に疑いを抱き、高郁を除く意を持つようになった。
- 天成年間、外戚の楊昭遂が高郁に取って代わろうと謀り、しきりに高郁の短所を讒言した。衡陽王は機を捉えて武穆王に会い、高郁の誅殺を請い、「高郁は奢侈僭上で法を守らず、外では隣藩と結んでいる。除かねば尾大の患いとなる」と言った。王は「わが大業を成したのは高郁である。やめよ、その言をなすな」と答えた。
- 衡陽王が強く兵権の剥奪を請うたので、高郁を行軍司馬に左遷した。高郁は怒って「私は君王に長く仕えてきた」と言い、急いで西山に居を営んで老いを送ろうとし、「狂犬の子も大きくなれば人を噛むようになる」と言った。衡陽王はこれを聞いていよいよ怒った。
- 天成四年(929年)7月、命令を偽って府舎で高郁を殺し、内外に高札を掲げて高郁が謀叛したと誣告し、その一族と党与も誅殺した。
- 武穆王は老いて政務を顧みず、高郁の死を知らなかった。この日、大霧が四方を塞いだ。王は怪しんで側近に「私は昔、孫儒に従っていたが、孫儒が罪なき者を殺すたびにこの異変が起こった。馬歩獄で冤罪の死者が出たのではないか」と言った。まもなく吏が事情を告げると、王は胸を叩いて号泣し、「私は老いぼれて政は自分から出ておらず、勲功ある旧臣を無残な冤罪に遭わせてしまった」と言い、近侍を顧みて「私もここに長くはあるまい」と言った。
- 高郁は才があったが性は貪欲で、奢侈を好んだ。常用の井戸が不潔だとして銀の板で四方を囲い「拓裏」と名付けたので、これに乗じて妬む者が害する口実を得た。
- また辰州の民の向氏が、火を焚いたところ龍が一匹立ち上り、四方に風雷と急雨が起こって消し止められず、まもなく灰燼となったが角だけは焼け残り、玉のように白く輝いた。向氏はこれを宝として蔵していた。高郁は代価を払って強引に取り上げた。ある術士は「高司馬は禍いに遭うだろう。不祥の物を用いて災いを招くとは」と言った。まもなく誅殺された。
- 高郁は死後、暗く曇った日にしばしば姿を現して祟ったという。
史論
- 論に言う。楚は蛮方に位置し、北は呉会に臨み、南は嶺表に迫り、中間には江陵がある。征討も防禦も諸臣なくして功はなかった。
- 許德勲・李瓊・秦彦暉・王環はいずれも威風堂々たる虎の臣であり、まことに国を守る干城の人選であった。
- 高郁は帷幄で奔走し、国を富ませ財を潤した。古の名臣といえどもこれに何を加えよう。それが横死の憂き目に遭い、自ら忠良の士を捨てた。鳥が尽きれば弓は蔵われるとはいえ、道行く人にも深く痛ましい。哀しいことである。
李唐
- 李唐はもともと武穆王の麾下に属して牙将となった。秦彦暉らが嶺北を平定したとき、李唐は張圖英とともに実際にこれを副えた。
- まもなく永州を破り、そのまま永州刺史に遷った。翌年、進んで道州を攻めた。当時、蔡結が道州に拠り、蛮兵を竹藪の隘路に伏せて李唐の軍を待ち構えていたので、李唐ははじめ敗れた。
- 李唐は胸を撫でて考え、「蛮が恃むのは山林の険阻だけだ。平地なら我らに勝てるはずがない」と悟り、風に乗じて火を放った。光は天を焦がし、四方見渡す限り近づけないほどだった。道州の蛮はみな鳥獣のように散り、李唐は道州を陥れて蔡結の首を斬った。
- 覇業の興隆にあたって名将と称される者のうち、李唐は許德勲・李瓊に次ぐ位置を占める。
楊定真
- 楊定真は武穆王に仕えて靜江軍使となった。開平の初め、淮南の将の劉存らが侵攻し、その軍容は甚だ盛んで、王はかなり恐れる様子を見せた。
- 楊定真は祝って「我が軍の勝ちです」と言った。王が理由を問うと、「戦は懼れれば勝ち、驕れば敗れます。今、淮南の兵はまっすぐ我が城に迫っており、これは驕って敵を侮っている。そして王には懼れる心がある。だから必ず勝つとわかるのです」と答えた。のち果たして劉存を捕らえて殺した。王はその先見に感服した。
- まもなく水軍都指揮使に遷った。乾化のころ、呉の将の陳璋が岳州を侵して刺史の苑玫を捕らえた。王は楊定真に軍を率いて救援させ、陳璋はついに功なく逃げ去った。その後の消息は不明である。
袁詮
- 袁詮は武穆王のとき六軍使となり、副使の王環とともに劉郎洑で荊南の兵を破る功があった。
- 衡陽王が薨じると、袁詮は潘約らとともに朗州に文昭王を迎えて正統に嗣位させた。急変のときに軍府が動揺せずに済んだのは、袁詮の力によるところがある。のち累進して(欠)となり、久しくして卒した。
吕師周――呉からの亡命と蛮の平定
- 吕師周は揚州の人。豪快で義俠心があり、天文暦数と兵書に一通り通じていた。父の吕珂は呉の武忠王に仕えて黒雲都指揮使を拝し、吕珂が卒すると師周が代わった。
- 弘農王のとき、師周は兵を率いて上高に駐屯したが、自ら三代続いた将家であるから禍いを免れまいと恐れ、常にほしいままに酒を飲み、酒仲間と集って飲み、酔えば立って舞い、悲歌慷慨して涙を流した。弘農王はこれを聞いて異心があるのではと疑い、人を遣わして動静を偵察させた。
- 師周はいよいよ恐れ、禆将の綦母章に「私は楚の人と境を接して敵対しているが、常にその陣営の上の雲気を望むに甚だ良く、たやすく敗れそうにない。馬公は長者で士を礼遇すると聞く。私は楚へ逃れて死を免れたいと思うが、どうか」と言った。綦母章は「公自ら図られよ。私の舌は断たれても言葉は漏らさぬ」と答えた。
- 師周は兵を率いて境上へ狩りに出るふりをして亡命し、綦母章はその妻子を逃がして後を追わせた。
- 武穆王は師周が来たと聞いて大いに喜び、「私はまさに南の嶺表を図ろうとしていた。この人を得れば十分だ」と言い、馬歩軍都指揮使とした。師周は兵を率いて嶺南を攻め、清海節度使の劉隱と十余度戦って昭・賀・梧・蒙・龔・富の六州をことごとく取った。上表して昭州刺史を授けられた。
- 二年後、辰州の蛮の宋鄴が湘郷を侵し、溆州の蛮の潘金盛が武岡を侵した。武穆王は檄を飛ばして師周に衡山の兵を率いて防がせた。師周は藤にすがり崖を伝って兵を飛山洞に入れ、潘金盛の陣営を襲って捕らえ武岡へ送った。続いて兵を移して宋鄴を撃つと、宋鄴は蛮の昌師益とともに衆を率いて降り、蛮の洞はことごとく平定された。師周はのち病で卒した。
苑玫
- 苑玫は蔡州の人。武穆王のとき功を積んで指揮使に至った。撫州の危全諷が洪州を攻め、武穆王に援兵を乞うたので、王は苑玫に袁州刺史の彭彦章と合流して救援に出させたが、まもなく淮南の将の米志誠に破られた。
- ついで岳州刺史に遷ったが、淮南節度副使の陳璋が岳州を襲い、苑玫を捕らえて去った。苑玫は果敢で胆力に富んだが、ついに運に恵まれず敗れた。
李鐸
- 李鐸は武穆王に仕えて従事となり、都統判官から身を起こした。建国して制を承けて官属を置くと、李鐸は司徒に改められた。
- 衡陽王が藩鎮の儀を用いたときも判官のままであった。文昭王が天策府学士を立てたとき、李鐸もその選に加わった。
何致雍――皖口の神託
- 何致雍は商人の子。幼くして英明で学問を好んだ。かつて叔父に従って皖口に舟を泊めたとき、叔父は夢に、官吏のような姿の者が馬に乗り冠と蓋を従えてしばしば岸辺を行き来し、舟中の人物を名簿に点検するのを見た。
- 突然、一人が後ろから「何僕射がここにおられる。慌てて驚かせるな」と叫び、「承知、失礼のないように」と応じた。叔父が目覚めて舟中の人に尋ねたが、何姓の者は一人もいなかった。
- 翌日、風濤が激しく起こり、周囲の舟は多くが転覆したが、致雍の舟だけは無事だった。叔父は致雍に「我が家は代々貧賤で、私ももう老いた。何僕射とは必ずお前のことだ。よく身を大切にせよ」と言った。
- まもなく致雍は武穆王に認められ、節度判官から身を起こした。王が建国すると戸部侍郎・翰林学士に任じられた。文昭王が武安節度使となると、致雍を再び判官に改め、累進して検校僕射となり、官にあって卒した。ついに皖口の神の言のとおりであった。
- 致雍は文章に巧みで、その著した天策寺碑銘は楚の人がよく称賛した。
黄損
- 黄損はどこの郡県の人か不明。武穆王のとき兵部侍郎に任じられた。
- 武穆王が没し、諸子に兄弟が相次いで継ぐよう遺命した。諸将が兵を発して辺境を守ってから喪を発すべきだと議したとき、黄損は「我らは君を喪ったが、君はある。何の備えが要るのか」と言った。そして衡陽王に、朝廷および諸鎮に使者を送って哀を告げ嗣位を称し、始めから終わりまで正しく行うよう勧めた。人々はみな黄損が大体を弁えていると称えた。
潘起
- 潘起は(欠)の人。武穆王に仕えて累進し、靜江節度判官・吏部侍郎となった。剛直な性格で少しも人に手加減しなかった。
- 衡陽王が喪に服す日に鶏五十羽を殺して膳としたので、出棺のときにもなお鶏の羹を数器たいらげた。潘起はこれを皮肉って「昔、阮籍は喪中に蒸し豚を食べた。世に賢者が絶えたわけでもあるまいに」と言った。
- 文昭王が天策府の学士を立てたとき、潘起も十八人の列に加わった。