十国春秋十國春秋卷七十三 楚七 列傳(彭玕・唐世旻・劉昌魯・龎巨昭ほか楚の臣)
彭玕――出自と挙兵
- 彭玕は代々廬陵の人。唐末に天下が兵乱に阻まれたころ、門籍によって胥吏となったが、大志があり、常に吏の仕事を不満に思っていたので、同僚の多くは彼を疎んじた。
- ある日、同僚の李某が仲間を集めて私的な酒宴を開いたが、彭玕を招かなかった。彭玕は自ら出向いたが、十数人がすでに集まっているのに李は彭玕に膳を出さなかった。彭玕は自分が忌まれていると悟り、わざと帽子を置き忘れて去った。数里行ってから帽子を取りに戻ると、同僚たちは平然と飲み食いしていた。彭玕は笑いを含んで立ち去り、「大丈夫たる者、富貴を得て鼎を列ねて食うべきだ。何を好んでこんな鼠輩と群れて飲み食いする必要があるか」と嘆じた。
- 彭玕の妻がこれを聞き、「箱の装身具を売って酒と食事に換え、返礼をしてはどうか」と言った。彭玕は従い、宴を用意して李の席にいた主客をすべて招いた。酒がたけなわになると、彭玕は客たちに「私は不才で仕事が務まらぬ。諸君、私はこれで身を退き田畑を耕す」と告げた。
- 郷里に帰ると、王嶺という山があった。彭玕は家財を投じ田産を売って鉄を鍛えて武器とし、牛を屠り楮を練って甲冑を作り、兄弟とともに義兵を率いて郷党を自衛するという名目を立て、勇力のある無頼の徒五百余人を集めた。彭玕は副将を立て号令を定め、一郷に雄視した。
彭玕――吉州刺史となる
- 折しも数千の群盗が撫州を掠めた。当時、鎮南節度使の鍾傳は江西八郡を統べていたがこれを制圧できなかった。南城の人の危全諷兄弟も義兵を起こしており、彭玕と連携して力を合わせて攻め、その賊帥を斬ると、群盗は潰走した。鍾傳はこれを聞いて、上表して危全諷を撫州刺史、彭玕を吉州刺史とした。
- 彭玕は本州に帰ると城池を広げ、農を務め兵を訓練し、とりわけ賭博を禁じた。彭玕はかねて李某に恨みを抱いていたので、ここに至って密かにその家で賭博をさせ、その妻子数十人をことごとく誅殺した。
- 禆将の袁大蟲らが密かに「使君が今この位にあるのは我らの力である。それなのに諸将には俸禄を分ける土地もない。どうしたものか」と語り合った。彭玕はこれを聞き、大雪の日に幕下に甲兵を伏せ、夜に諸将を集めて酒を飲ませ、酔ったところですべて殺した。その怨みに報いる激しさはこの類であった。
彭玕――楚への亡命
- 鍾傳が死んで洪州がすでに淮南に帰したのちも、彭玕だけは頑として屈せず、武穆王と好を通じて援兵を乞い、さらに危全諷、信州の危仔昌、虔州の盧光稠らと深く結んで江州の攻略を図った。
- まもなく淮南の将の周本と象牙潭で戦って敗れた。彭玕は退いて兄弟らに新淦の二十里の風岡に寨を立てて防がせた。
- このとき寨中に玉笥山の道士の劉守真がおり、鬼神を駆使することができた。淮南の兵が寨を掠めるたびに劉守真が水を吹き角笛を吹くと、風雨雷電が突然起こり、淮南の人はこれを大いに恐れた。ある夜、劉守真が死ぬと、彭玕は連戦して利あらず、寨を捨てて還った。
- ついで州も捨てて朱川に退いて守り、百姓の戸口千余家をことごとく移して郴州・衡州へ逃れた。武穆王は上表して彭玕を郴州刺史とし、あわせて文昭王にその娘を娶らせた。兄弟はみな県邑に臨んだ。十年ののち彭玕は卒した。
彭玕の学芸と子孫
- 彭玕は『春秋左氏伝』に通じ、かつて西京の石経を募り求めて金を厚く与えたので、揚州の人は「十金で一筆を換え、百金で一篇を換える。まして士を得ようとすればなおさらだ」と語り合った。それゆえ士人の多くが彼に身を寄せた。
- 彭玕が没したのち、蛮人の龍寶光という者が裳を裂いて旗とし、内外に「江南へ帰りたい者はこれに従え」と呼びかけ、数百戸を集め、大斧と長刀を持って走り去った。追う者もあえて迫らなかった。
- はじめ彭玕が湖南へ来たとき、呉の人が彭玕の先祖の墓を掘ったところ、長さ二丈ほどの大蛇がいて目がまだ開いていなかったので、これを殺した。
- 最後に馬氏が金陵へ移されると、江南の残った民の多くがこれに従って南唐へ入ったが、ひとり彭玕の子孫だけは恥じて帰らなかった。人は多くその賢を称えた。
唐世旻
- 唐世旻は字を昌圖といい、零陵の人。もとより驍勇で容貌は堂々とし、目は丸く歯が露出していた。黄巣が起こると、唐世旻は郷兵を組織して自ら守った。
- 劉建鋒が武穆王とともに潭州に入ったとき、推されて永州刺史となったが、まもなく州に拠って服従しなかった。王は李唐らに永州を攻めさせ、その守将の鄭封を殺した。城が陥ると唐世旻は力戦して死んだ。
- 民は唐世旻が地を守った功をしのび、象を捕らえて祀った。
劉昌魯
- 劉昌魯は鄴の人。唐の僖宗のとき、黄巣が嶺南を侵した。劉昌魯は高州刺史として群蛮を率い険に拠って防ぎ、黄巣の衆は入ることができなかった。唐はその功を嘉して本州防禦使に抜擢した。
- 南平王の劉隱が嶺南を併呑すると、弟の劉陟に高州を攻めさせ、しばしば劉昌魯を召してその家財を没収しようとした。劉昌魯はそのつど大いに破ったが、自ら劉隱の敵ではないと判断し、血で書を認めて武穆王に送り、急迫した状況をつぶさに述べて帰属を請うた。
- 王は大いに喜び、捉生指揮使の張可求を派遣して境界で兵馬を指揮させ、三千余口を受け入れて帰らせた。当時、王は姚彦章に容州の龎巨昭を迎えさせており、あわせて姚彦章に高州へ赴いて張可求に早く出発するよう促させた。
- 劉昌魯が長沙に至ると、王は永順軍節度副使に任じた。まもなく在官のまま卒した。
龎巨昭
- 龎巨昭はもと唐末の邕・容等州防禦使。累進して寧遠節度使となった。
- 開平の末、南平王の劉隱が弟の劉陟に容州を攻めさせたが、龎巨昭は力を尽くして防ぎ、囲みを解かせた。そこで小吏を間道から送って武穆王に帰順を申し入れた。王は澧州刺史の姚彦章に馬歩軍八千人を率いて迎えさせた。
- このとき容南指揮使の莫彦昭が龎巨昭に「湖南の兵は遠来で疲れている。城を捨てて山谷に潜んで待ち、彼らが入城したところを全軍でその不備を襲えば、楚の将を擒にできる」と説いた。
- 龎巨昭は「私は夜半にひとり気象を占ったが、馬氏はまさに五十余年、湖外に覇を興すことになっている。今、勝ったとしてもその後必ず仇讐となる。牛と酒を用意して迎えるほうがよい」と答えた。莫彦昭が従わなかったので、その夜、自邸で莫彦昭を斬って降伏した。
- 姚彦章は高州に至り、兵を送って龎巨昭の一族と士卒千人を護って長沙へ帰らせた。
- 龎巨昭は星占の学に長けていた。ある人が湖南と淮南の国運の長短を問うと、龎巨昭は「今より後、馬氏は五主、楊氏は三主である」と答えた。童謡から得たものだという。のちすべてその言のとおりになった。
史論
- 論に言う。彭玕は呉を捨てて楚に走り、国の姻戚となった。そこにはもとより天意があったのだろう。
- 唐世旻は城に殉じて屈しなかった。彭玕とは異なるが、地を守った功はやはり称えるに足りよう。
- 劉昌魯と龎巨昭は去就が明快で、主を選ぶことができた。いわゆる廃亡と興隆を見通す者ではなかろうか。
拓跋恒――出自と天策府学士
- 拓跋恒はもと姓を元といったが、景莊王の偏諱を避けて今の姓に改めた。若くして才学で称された。
- 武穆王のとき学士兼僕射となった。衡陽王が建国の制度を廃すると、節度判官に格下げされて称された。
- 文昭王が天策府を開き、廖匡圖・李弘臯ら十八人を天策府学士としたとき、拓跋恒が真っ先にその選に加わった。
- 廖匡圖らの多くは軽薄で、酒を飲んで騒ぎ、言葉も馴れ馴れしかったが、ひとり拓跋恒だけは沈黙を守る長者で、直言して強く諫めた。
拓跋恒――上書と失寵
- 天福八年(943年)、文昭王が孔目官の周陟の議を用い、通常の税のほかに大県は米二千斛、中県は千斛、小県は七百斛を貢納させた。
- 拓跋恒は上書して、「殿下は深宮の中で育ち、出来上がった業に恃んで、身は農耕の労を知らず、耳は軍鼓の音を聞かず、馬を駆って遊び、壁を彫り玉のような食に耽っておられる。府庫は尽きたのに浮費はいよいよ甚だしく、百姓は困窮したのに重い取り立てはやまない。今、淮南は仇讐の国であり、番禺は呑み込む志を抱き、荊渚は日々窺い、渓洞の蛮は我らの姑息な扱いに乗じている。諺に『足が冷えれば心を傷め、民が怨めば国を傷める』という。米を納める令を撤回し、周陟を誅して郡県に謝し、急を要さぬ事業をやめ、造営の役を減らされよ。一朝にして禍い敗れ、四方の笑いものとなることのなきように」と述べた。
- 王は激怒した。後日、拓跋恒が拝謁に来たとき、王は門番を呼んで拓跋恒を止め、「私はこの人に会いたくない。二度と入れるな」と言った。拓跋恒は客将の歐弘練に向かって長らく嘆息した。王はいよいよ怒り、拓跋恒との交わりを絶った。
- 病に臥してからようやく拓跋恒の言を思い出して忠であると認め、召して廢王希廣のことを託した。
拓跋恒――継嗣をめぐる諫言と最期
- 希廣は文昭王の同母弟である。文昭王が薨じると衆は誰を立てるか決めかね、当時、恭孝王希萼が武平節度使で諸弟のうち最年長であった。
- 拓跋恒は都指揮使の劉彦瑫に「三十五郎(希廣)が軍府の政を判じているとはいえ、三十郎(希萼)が年長である。使者を送って譲るべきだ。そうしなければ必ず争いの端が生じる」と言った。しかし劉彦瑫らはついに廢王を立てた。
- 拓跋恒はさらにしばしば廢王に位を兄に奉ずるよう勧めたが、王は従わなかった。そこで拓跋恒は張少敵とともに病と称して門を閉ざし出仕しなかった。
- 数年後、恭孝王は果たして国を争い、湖南は大いに乱れた。邊鎬が醴陵に入ると、恭孝王の同母弟の希崇は拓跋恒に書状を持たせて軍門に降らせた。拓跋恒は嘆じて「私は長らく死なずにいたばかりに、小僧のために降伏の書状を届ける羽目になった」と言った。
- のち希崇が南唐に入ると、拓跋恒の最期は知られない。
徐仲雅――天策府学士
- 徐仲雅は字を東野といい、その先祖は秦中の人で長沙に移り住んだ。すぐれた才があり詩文に長けた。昭順観察判官から身を起こした。
- 文昭王が天策府を開き、僚佐の拓跋恒ら十八人を学士としたとき、徐仲雅は十八歳でその列に加わり、楚の人は名誉なこととした。
- 当時、湖南は豪奢で贅沢が上下の風となっていた。徐仲雅は公府の制度に話が及ぶと、奢侈僭上が甚だしすぎると典故を引いて正した。文昭王はうなずいたものの、ついに用いなかった。
徐仲雅――周行逢との軋轢
- 廢王希廣の変が起こると、徐仲雅は門を閉ざして出なかった。南唐の邊鎬が潭州に入ると、いよいよ姿を隠して逃れ、寒さと飢えを免れなかった。
- 周行逢が武安節度使となったが、真に徐仲雅を理解したわけではなく、その名声を慕って節度判官に任じた。徐仲雅は「行逢は昔、私に仕えていた。それが幕吏の職で私を辱めるとは」と言い、病と称して辞退した。
- 周行逢が強く迫って脅したので、面前では文書を受けたが、なお辞して赴かなかった。周行逢は怒って邵州へ追放し、まもなく召し戻した。
- 周行逢の誕生日に諸道がそれぞれ使者を送って祝賀した。周行逢は得意げに徐仲雅に「私は湖湘を領有し、兵は強く風俗は豊かだ。四隣は私を恐れているだろうな」と言った。徐仲雅は「公の領内は司空が川に満ち太保が地に遍く、誰が恐れずにおられましょう」と答えた。官職の濫設を皮肉ったのである。
- まもなく周行逢が僚吏を大いに宴に招いたとき、席上で発音を多く誤った。徐仲雅は滑稽な性格で、「5月5日に舌を切っておかなかったので、こんなに言い違えるのですね」とふざけた。周行逢は激怒し、再び邵州へ追放したが、徐仲雅の名望のためあえて誅殺しなかった。
- 徐仲雅は山寺に庵を結び、暇な日に僧たちが棕櫚の木の皮を剥ぐのを見て、志を託して「葉は新蒲の緑に似て、身は乱錦のごとく纏う。君が千度剥ごうとも、意気は自ら天を衝く」と詠んだ。その気概が屈しないさまはみなこの類であった。
劉勍
- 劉勍はどこの郡の人か史書に伝わらない。累進して靜江指揮使となった。
- 文昭王のとき、溪州刺史の彭仕然が蛮兵を率いて辰州・澧州を侵した。劉勍は廖匡齊とともに兵を率いて溪州を衝いた。彭仕然は逃げて山寨を守ったが、険しい岩壁が切り立って急には登れなかった。劉勍は梯と桟道を作って三重に囲んだ。廖匡齊は力戦して死んだ。
- 劉勍はどうにもならないと判断し、風に乗じて火を投じ、続いて火矢でその営寨を焼いた。彭仕然は窮迫して溪州・錦州の万山の中へ逃げ込んだ。劉勍がさらに火を放って山を赤く焼くと、彭仕然はようやく子の師暠を送って降伏を申し入れた。
- 劉勍が軍を長沙へ還すと、王は溪州を便利な地に移し、彭仕然を刺史に任じ、銅柱を立てて後世に示した。劉勍は錦州刺史に改められた。この戦役で蛮を平定した功は劉勍が第一であった。
張少敵
- 張少敵は永順節度使の張佶の子。文昭王のとき都指揮使となり、袁友恭とともに王の側近であった。
- 安州の李金全と襄州の安從進が叛くと、晋の高祖は詔して王に出兵させた。王は張少敵に水軍を率いて漢陽へ向かわせ、米五万斛を漕運して軍に供給した。李金全らが敗れると張少敵は帰還した。
- まもなく文昭王が没し、将吏が擁立を議した。当時、恭孝王が永州の事を掌り、諸弟のうち年長であったので、張少敵は迎えることを請うた。しかし劉彦瑫・李弘臯らは天策府都尉の希廣を立てようと固執し、「都尉は嫡嗣であるから襲位すべきだ」と言った。
- 張少敵は「国家の大事は一つの道理に拘るものではない。変に応じて通ずればこそ長く保てる。嫡庶など言うに足りようか。永州(希萼)は年長で性は剛強、必ず都尉の下に立たぬことは明らかだ。しかも武陵の九溪の蛮と往来して非常に親しい。必ず蛮軍を引き入れて乱を起こす。もし都尉を奉ずるなら、長期の策を考えて永州を制し、動けなくさせねばならぬ。さもなくば社稷は危うい」と言った。
- 劉彦瑫らは従わなかった。張少敵は退いて「禍いはここから始まるか」と言い、病と称して出仕しなかった。
廖匡圖とその弟廖匡齊
- 廖匡圖は虔州虔化の人。父の廖爽は鎮南軍留後の盧延昌に仕えて将となり、盧延昌が上表して梁から廖爽に韶州刺史を授けさせた。
- 武穆王のとき、広南に攻められて一族を挙げて亡命し、従う部曲は数千人に及んだ。王はその豪族で人数が多いことから、拒んで受け入れまいとした。ある人が「廖とは料である。馬が料を得れば必ず肥える。これは国が強大となり覇を唱える兆しだ。なぜ拒むのか」と諫めたので、王は恩礼をもって遇し、上表して廖爽を永州刺史とした。
- 廖匡圖はもとより若くして文辞に巧みで、江南観察判官を授けられた。文昭王のとき天策府学士に選ばれ、徐仲雅・李弘臯らとともに十八人の列に入った。数年後、在官のまま卒した。文集一巻がある。
- 廖匡圖の弟の廖匡齊は功により決勝指揮使に任じられた。溪州の蛮が乱を起こしたとき戦死した。文昭王が使者を送ってその母を弔うと、母は泣かずに使者に「廖氏の三百口は王から衣食の恩を受けています。一族を挙げて死を捧げても報いるに足りません。まして子一人のことなど。王には気にかけられませぬよう」と言った。文昭王は母を賢として、その家を厚く恵んだ。
史論
- 論に言う。拓跋恒は逆鱗に触れて直諫し、古の遺直に恥じない。
- 徐仲雅は志を守って屈せず、ついに始めから終わりまで全うした。
- 劉勍は溪州の戦役で伏波将軍(馬援)に劣らず、銅柱に銘を刻んだのは立派である。
- 張少敵の嗣位についての議論は利害が明瞭で、父の風格を十分に備えていた。
- 廖氏一家に至っては文武がともに備わり、あるいは身を捧げて殉じ、文昭王にとってはむしろ栄誉が施されたというべきであろう。
丁思覲
- 丁思覲はその家系が伝わらない。文昭王の牙将であり、累進して天策副都軍使となった。
- 当時、中原は大いに乱れていたが、文昭王は奢侈な欲望が尽きず、工事に費用を浪費していた。丁思覲は上書して強く諫め、「先王は卒伍から起こって攻戦によってこの州を得、朝廷に依って隣敵を制し、国を三代に伝え、数千里の地を有し、十万の兵を養っておられる。今、天子は都を追われ朝廷に主がない。まさに霸者が功を立てる時である。まことに国中の兵をことごとく率いて荊・襄から京師に向かい、天下に義を唱えられれば、桓公・文公の業である。それをどうして国費を浪費して土木を極め、女子供のような楽しみに耽られるのか」と述べた。
- 王は怒ってその官爵を削った。丁思覲は目を怒らせて王を直視し、「若造はついに教えられぬ」と言い、喉を絞めて死んだ。
戴偃
- 戴偃は金陵の人。若くして吟詠に巧みで仕官を求めず、玄黄子と自称し、人は多く処士と呼んだ。唐末に乱を避けて湘陰に住んだ。
- 折しも文昭王が奢侈を極め、国中がその苦しみに耐えかねていたので、戴偃は漁父詩百篇を作って諷刺した。王は詩を得て激怒した。
- ある日、王が賓客の佐に「戴偃はどのような人物か」と尋ねた。賓佐は王の意図を測りかね、慌てて「戴偃はもと詩人で、同輩から深く推賞されています。今は貧しくやつれておりますから、大王が参軍や主簿の職に置かれれば十分でしょう」と答えた。
- 王は「近ごろ私に献ずる詩は釣り人の類である。碧湘湖を賜って住まわせるがよい」と言い、その日のうちに湖上へ移らせ、公私ともに交流を禁じた。
- 戴偃はこれによっていよいよ困窮して飢えた。妻に「私はそなたと結ばれて一男一女をもうけたが、今の勢いでは二人とも養えぬ。子を分けて逃れよう」と言い、賽を振って妻と「目が多いほうが男の子、少ないほうが女の子」と約した。結果、戴偃の目が少なかったので、娘を連れて慟哭して別れた。
- 戴偃は嶺南へ逃れようとしたが、永州まで来て文昭王がすでに薨じたと聞いて思いとどまった。一説には、戴偃は諷刺の罪で投獄され、ついに餓死したという。楚の人は丁思覲と並べて称した。
史論
- 論に言う。丁思覲は喉を絞めて死に、戴偃も困窮して飢えた。その言うところは善であったのに、このように背かれた。
- 文昭王を何と言おうか。彼が身の生きているうちに国が亡ばなかったのは幸いであった。
何仲舉
- 何仲舉は営道の人。容姿が美しく、俊敏さは並ぶ者がなかった。幼いころ、母はしばしば何仲舉を抱えて月に入る夢を見た。
- 十三歳のとき、家が貧しく納税が期限に間に合わなかった。営道令の李弘臯は怒って首枷をかけて獄に繋いだ。ある人が「仲舉は文才があり機敏です」と言ったので、李弘臯はただちに召して「詩が作れるなら罪を許そう」と問うた。仲舉は筆を執ってたちどころに詠んだ。李弘臯は大いに驚嘆し、庁舎に招いて対等の礼で接した。仲舉はこれによって発奮して学に励んだ。
- 天成年間に洛陽へ上った。折しも秦王從榮が河南尹として身を低くして士を遇していたので、仲舉は張抗・江文蔚とともにその門に出入りし、一年余りで進士に及第した。
- その住む郷を「進賢」、里を「化龍」と名付けることを賜った。まもなく帰国して文昭王に仕え、桂管観察推官となった。
- 王が制を承けて天策府を建て十八学士を置いたとき、李弘臯がちょうど実権を握っていた。仲舉は個人的な恩を感じ、中央で名を成した身でありながら李弘臯にいよいよ恭しく仕えた。李弘臯はそこで推挙して十八人の数に加えた。
- 久しくして全州刺史として出、ついで衡州に改まり、天寿を全うした。
- これに先立ち、楚の地には詩人が多く、最も著名なのは沈彬・廖凝・劉昭禹・尚顔・齊已・虚中らであり、仲舉は実に彼らと肩を並べた。とくに李弘臯が仲舉を推すことは甚だしく、しばしば衆の前でその「秋日晩望」の詩を吟じ、足で地を踏み鳴らして「何仲舉こそ詩家の高逸の士だ」と嘆じた。その重んじられようはこのようであった。
劉昭禹
- 劉昭禹は字を休明といい、桂陽の人。湖南の県令から身を起こし、武穆王父子に仕えて容管節度推官・天策府学士を歴任し、嚴州刺史で終わった。詩三百篇があり、一巻の集となって世に行われている。
- 劉昭禹は若くして林寛を師とし、詩作に刻苦して風雨を厭わなかった。平生、詩を論じて「五言は四十人の賢人のようなもので、一字でも乱雑に置けば酒屋肉屋の輩になってしまう」と言い、また「句を探すのは玉の匣を得るようなもの。精を尽くして求めれば必ずその宝を得る」と言った。
- かつて「句は夜深きに向かって得られ、心は天外より帰る」という詩句を作った。また「送休上人之衡岳経費冠卿旧居」の二章は当時大いに称された。
- 劉昭禹は詩に巧みで、また節を折って賢者に頭を下げることを好んだ。ある日、席上で石文德の詩を見て驚嘆し、「君は文苑の雄である」と言って文昭王に力説して推薦し、ともに天策府に属させた。その虚心さはこの類が多かった。
石文德――秦国夫人の挽歌
- 石文德は連州の人。容貌は見劣りし背も低かったが、学を酷愛し墳典史書を博く読み、目を通せば忘れなかった。かつて范曄の『後漢書』を読んで疵瑕数百条を摘出して論駁したので、識者は劉知幾の『史通』も及ばないと評した。
- もともと草書・隷書と詩律は得意でなかったが、ある日、晋人の法帖数紙を手に入れ、殷璠の詩選を読んで力を尽くして模倣した。久しくして同輩を遥かに抜き、ついに詩に巧みとなった。
- 湘水・漢水の間を遊歴したが名を知られず、文昭王のとき長沙に家を借り、しばしば詩を献じて登用を求めたが、王は容貌が醜いため礼遇しなかった。石文德はこれによって甚だ困窮した。
- 折しも南宅王子という者がもとより士を重んじて門下に招いた。王は大いに怒り、庭で石文德を辱めて追放しようとした。
- まもなく端午の宴会があり、石文德は「艾虎」の長篇を賦した。学士の劉昭禹はこれを見て大いに称賛し、王に力説したが、王はやはり感心しなかった。
- 秦国夫人が薨じたとき、天策学士たちがそれぞれ挽詞を撰して進上した。石文德も十余章を献じ、その一つに「月は湘浦に沈んで冷やかに、花は漢宮に謝して秋なり」とあった。王は詩を得て大いに驚き、「文德はこれほどの才を持つのに、私はただ容貌によって軽んじた。それでは南宮の小僧のほうがよほど人を見る目があるではないか」と言い、挽歌の第一に格付けし、制を承けて水部員外郎を授け、非常に重用して、その郷を「儒林」と名付けた。
- 後日、長春堂で宴を開いたとき、王は玉杯を出して詩を賦す者に賞として与えた。李弘臯の詩が先に成ってこれを得たが、石文德が続いて進上したものはさらに優れていた。王はさらに玉の蟾蜍の水滴を賜った。これによって諸学士の多くがその才を妬んだ。
- まもなく讒言に遭って融州刺史として外に出された。当時、文昭王は造営と征討を絶やす日がなく、諸州から楩柟の材や皮の鎧を徴発すること千万を数えた。石文德は上書して強く諫め、あやうく王の怒りに触れるところだったが、劉昭禹の尽力による救いで免れた。まもなく卒した。
- 石文德は剛直で人に迎合せず、晩年はとりわけ著述を好み、『大唐新纂』十三巻を撰した。事実に採るべきものが多く、世は博聞をもって彼を認めた。
林崇禧
- 林崇禧は博識で文章に巧みであり、同輩が推服した。官は武安節度掌書記に至った。撰した武威王廟碑は楚の人が多く伝誦した。
路洵美
- 路洵美は祁陽の人。唐の宰相の路巖の三世の孫である。路巖は貶謫されて嶺外で死に、その子の路琛が湘潭の地に難を避けてそのまま住み着いた。
- 路洵美は文章に長けた。王子の希杲が靜江を鎮めたとき、推薦されて連州従事を授けられた。久しくして病を理由に辞し、家で没した。
- 子の路振は聡明で並外れており、十歳で『陰符経』の講義を聴いたが、百字ほどで止めた。路洵美が最後まで学ばせようとすると、路振は「百字で道理を説き尽くしていますから十分です」と言った。路洵美は大いに非凡だと思った。のち宋に入って進士に及第した。