十国春秋十國春秋卷七十一 楚五 列傳(后妃・武穆王の弟・武穆王および歴代の王子)

武穆王德妃袁氏

  • 武穆王の德妃の袁氏は、衡陽王(希聲)の生母。すぐれた容色があって武穆王に寵愛され、累進して德妃に封じられた。
  • 文昭王(希範)は衡陽王が先に立ったことを内心恨んでおり、襲位した日から衡陽王の同母弟の希旺を厳しく責め、また德妃にも礼を尽くさなかった。德妃は憂憤の晴らしどころがなく、長らくして希旺に先立って薨じた。

夫人陳氏

  • 夫人の陳氏は文昭王の生母。袁德妃・華夫人とともに武穆王に仕え、寵を受けて実権を持った。
  • 文昭王が生まれた日はちょうど衡陽王と同じであり、衡陽王が先に立って譲る言葉もなかったので、夫人は内心不満を抱き、これにより德妃と隙を生じた。

夫人華氏

  • 夫人の華氏は希杲の生母。希杲が桂州を鎮めて善政を布いたが、文昭王が疑って忌んだ。
  • 夫人は内心恐れ、封邑を削って子の罪を贖いたいと願い出た。王は上辺は慰めたが内心はよく思っていなかった。まもなく夫人は卒し、希杲もついに非業の死を遂げた。

衡陽王夫人楊氏

  • 衡陽王の夫人の楊氏は長沙の人。武穆王のとき、父の楊謚は節度行軍司馬に任じられており、夫人はその次女である。
  • 衡陽王が嗣位すると、楊謚は子の楊昭惲が夫人の縁者であることから衡州刺史に抜擢された。外戚に連なることを恃んで財貨を蓄え大邸宅を構え、二人の子はともに牙内都将となった。若くして豪富に育って気ままにふるまい、下の者を侮ったので、士大夫の多くが憎んだ。
  • 長沙で兵乱が起こると、指揮使の陸孟俊が怒って「楊氏は寵を恃んで義を滅ぼし、長く国の患いとなってきた」と言い、その一族を皆殺しにした。夫人の最期は不明である。

文昭王順賢夫人彭氏

  • 文昭王の順賢夫人の彭氏は、父の彭玕が唐の吉州刺史であった。梁の開平の末に呉に敗れ、衆を率いて武穆王のもとへ亡命した。武穆王はその忠を憐れんで上表して郴州を領させ、あわせて文昭王にその娘を娶らせた。
  • 文昭王が位を継ぐと、彭氏は累進して秦国順賢夫人に封じられ、天福二年(937年)に薨じた。
  • 夫人は容貌は見劣りしたが家政に規律があり、文昭王も大いに憚った。亡くなってのち王は声色に耽り夜通しの酒宴を開くようになり、国事はついに衰えに向かった。
  • かつて夫人が報恩禅院に香を上げたとき、報恩の僧が「夫人はどこの家の婦人か」と問うた。夫人はその物言いが無礼だとして、ただちに輿を呼んで急ぎ帰り、そのことを文昭王に告げた。王は笑って「それは仏家の禅機だ。『彭家の女、馬家の婦』と答えれば禅機はたちどころに解けたものを」と言った。夫人は恥じ入って「わたくしに見性の心得がなかった過ちです」と認めた。その物わかりの良さはこの類が多かった。

廢王夫人某氏

  • 廢王の夫人某氏は、恭孝王が長沙を陥れたとき、廢王が夫人と王子を連れて慈堂に隠れた。まもなく廢王が害され、夫人も杖で打たれて市中で死んだ。国人はこれを痛ましく思った。

恭孝王夫人苑氏

  • 恭孝王の夫人の苑氏は桃源の人。斉の大夫の苑何忌の後裔と伝えられる。夫人は平素から賢婦の行いがあった。
  • 廢王の時代、恭孝王が朗州の壮丁を集めて郷兵とし戦艦を造って潭州を攻めようとしたとき、夫人は「兄弟が攻め合えば、勝っても負けても人の笑いものです」と諫めたが、恭孝王は聞かなかった。
  • まもなく王贇らが僕射河で朗州兵を大破し、恭孝王は軽舟で逃げ帰った。夫人は泣いて「禍いが来る。私は見るに忍びない」と言い、井戸に身を投げて死んだ。

武穆王の弟・馬賨――呉での厚遇と帰国

  • 賨は武穆王の弟。沈着で勇があり、書史に通じていた。はじめ淮西で秦宗權に従って盗賊となり、ついで孫儒に仕えて百勝指揮使となった。孫儒が敗れると賨は呉の兵に捕らえられた。
  • 呉の武忠王(楊行密)は孫儒の残兵を収めて黒雲都と号し、賨を指揮使に任じた。賨は武忠王に従ってしばしば功があったが、自ら誇ることがなかった。
  • 夜に臥すと常に不思議な光があり、武忠王は内心これを愛でた。ゆるやかに「そなたは誰の家の子か」と問うと、賨は「馬殷の弟です」と答えた。武忠王は大いに驚き「そなたの兄は貴くなった。今そなたを帰そうか」と言ったが、賨は答えなかった。
  • 後日また問うと、賨は泣いて謝し「臣は孫儒の敗残兵ですが、幸いにも公は死なせずにおいてくださいました。身を捧げても報いきれません。湖南は隣境ですから、朝夕に馬殷の消息を聞ければ十分で、去ることは望みません」と言った。
  • 武忠王は嘆じて「以前は君の容貌を愛したが、今は君の心を得た。しかし私のために両国の交誼を結び、商人を通わせて有無を交易し互いに助け合うよう努めよ。それも私に報いる道である」と言い、厚く礼して賨を帰した。武穆王は思いがけぬことで大いに喜び、上表して賨を武安節度副使とした。

馬賨の進言と官歴

  • しばらくして武穆王が天子への入貢を議したとき、賨は「楊王は地が広く兵が強く、我が郡と接している。彼と好を結ぶほうがよい。大きくは急場に援けを得られ、小さくは商旅の便が通じる」と言った。
  • 武穆王は色をなして「楊王は天子に仕えていない。ひとたび朝廷が討伐すれば罪は我らにも及ぶ。やめよ。この議は二度と口にするな」と言った。
  • 開平の末、武穆王が天策府を開くと、賨を左相とした。まもなく朗州留後となり、ついで永順軍節度使・同平章事に拝された。
  • 天成の初め、武穆王が楚国を建てると、賨を靜江軍節度観察使に改めた。後唐の明宗の制文に「爾賨、名は四輔に尊く、位は三師に冠たり。既に品秩の昇遷にあらず、井田をもって増益しがたし」とあり、当時の人は誉めすぎだと評した。

武穆王の弟・馬存

  • 存も武穆王の弟。武穆王に従って征討し、功を積んで永州刺史となった。
  • 開平年間、靜江節度使の李瓊が卒したので、武穆王は存に桂州の事を掌らせた。まもなく王が天策府を開くと存を右相とし、ほどなく永順軍節度使を領させ、王の娘を広南(南漢)へ送り届けた。
  • 数年後、呉の上高を攻めて捕虜を得る功があったが、まもなく卒した。

武穆王の子・馬希振とその子光惠

  • 希振は武穆王の嫡長子。累進して武順節度使に至り、侍中を加えられた。詩句をよくし吟詠に耽り、常に詩僧の虚中を書斎に招いて飽くことなく詩を応酬した。しばしば別荘を築いて休息を楽しみとした。虚中がその池亭に題した「嘉魚は深き処に在り、幽鳥は立つこと多時」の句は、その実際を記したものだという。
  • 衡陽王はもともと希振の庶弟で、母の寵によって立てられたので、希振は官を捨てて道士となった。清泰年間に卒し、長沙の陶浦に葬られた。墓を掘ったとき石碣を得たが、その文に「亂石の壤、絶世の岡、谷変じて庚戌、馬氏に王なし」とあった。馬氏の諸子が辛亥の年に江南へ移されたが、国が変わったのは実際には庚戌の年であったことを指す。
  • 光惠は希振の子。廣順の初め、王逵らに推されて武平節度使を代行したが、王逵と何敬真および諸軍指揮使の張倣が軍府の事を決裁した。
  • 恭孝王がその状況をつぶさに南唐に伝えると、南唐の中主は使者を送って厚い賞で王逵らを招諭した。王逵らはその賞を受け取りながら使者を放って詔には答えず、南唐もあえて咎めなかった。
  • しかし光惠は愚かで懦弱、酒を好んで政務を怠り、人心を服させられず、まもなく廃されて金陵へ送られた。

馬希旺

  • 希旺は衡陽王の同母弟。官は親従都指揮使に至った。
  • 文昭王は衡陽王が先に立ったことを恨み、嗣位すると希旺を厳しく責めて礼遇しなかった。希旺の母の袁德妃が希旺の官を返上して道士にすることを請うたが、文昭王は許さず、軍職を解いて竹屋・草門に住まわせ、兄弟の宴集に加われないようにした。
  • 德妃が薨じると、希旺も憂憤のうちに卒した。

馬希杲

  • 希杲は武穆王の第(欠)子。文昭王のとき累進して靜江節度使・同平章事となった。
  • 希杲は善政を布いたが、監軍の裴仁煦がしばしばその短所を王に讒言し、「希杲は人心を集めており、放置すれば尾大の患いとなる」と言った。王の心は動いた。
  • 折しも南漢が蒙州・桂州を侵し、文昭王が自ら兵を率いて桂州に赴いた。希杲は不安になり、母の華夫人に王を全義嶺で迎えさせ、「希杲の政治が不出来で敵の侵入を招き、殿下自ら険路を渡られる労を煩わせました。すべてわたくしの罪です。封邑を削り掖庭の掃除に当たって希杲の罪を贖いたく存じます」と謝させた。
  • 王は「私は久しく希杲に会っていない。その治績が特にすぐれていると聞いたので見に来ただけで、他意はない」と答えた。
  • まもなく漢の兵が退くと、希杲を朗州の知事に移し、なお靜江の節鎮は元のまま領させ、しばらくして侍中を加えた。
  • 十年後、希杲がまた朗州の人心を得たので、文昭王はしばしば人を遣わして動静を窺わせた。希杲はいよいよ恐れ、病と称して帰任を求めたが許されず、まもなく医者を診察に遣わすと称して毒殺した。朗州の人で悲しまぬ者はなかった。

馬希瞻

  • 希瞻は武穆王の庶子。天成三年(928年)、袁詮の軍を監して劉郎洑で荊南の兵を破る功があり、まもなく靜江軍節度使を授けられた。
  • 恭孝王と嗣王の希廣が国を争ったとき、二王はいずれも希瞻の兄であったので、使者を送って強く諫め、続いて痛哭したが、二王は従わなかった。
  • 希瞻は馬氏一族が必ず滅ぶと悟り、憂いに堪えず、背に疽を発して卒した。

馬希能・馬希貫

  • 希能は武穆王の子。国が亡んで南唐に帰し揚州に住んだ。後周が揚州を陥れると詔を下して安撫した。まもなく揚州が再び南唐の手に入ると、希能らは後周に帰し、左屯衞大将軍を授けられた。
  • 希貫は武穆王の第(欠)子。国が亡んで南唐に入り、希能らとともに揚州に住み、のち後周に帰して千牛衞大将軍を授けられた。

馬希隱――桂管の失陥

  • 希隱は武穆王の第(欠)子。文昭王が立つと、希隱を靜江軍節度副使に任じた。
  • 当時、恭孝王と嗣王の希廣が交戦しており、南漢の中宗はその衰えに乗じて、密かに内侍の吳懷恩を西北招討使として南境に駐屯させ、進取の機を窺わせた。嗣王も指揮使の彭彦暉に龍峒に駐屯させて備えさせた。
  • 折しも恭孝王が衡山から使者を送って彭彦暉を桂州都監・在城外内巡検使・判軍府事に抜擢したので、希隱は内心これを嫌い、密かに使者を送って檄で蒙州刺史の許可瓊を桂州へ呼び寄せた。
  • そこで吳懷恩が進んで蒙州を占拠し、桂管の西南を侵して大いに騒がせた。希隱と許可瓊はなす術を知らず、ただ酒を酌み交わして向かい合って泣くばかりだった。
  • 南漢の中宗はそこで希隱に書を送り、「武穆王は楚全土を領して富強と安寧を五十余年保った。それがまさに三十五舅・三十舅の兄弟が戈を交え互いに食い合い、先人の基業を挙げて仇讎に北面させることになった。今、南唐の兵がすでに長沙を占拠したと聞く。桂林も続いて取られると推察する。当朝は代々の友邦であり、加えて婚姻の縁もある。この傾危を見て救援に赴かずにおれようか。すでに大軍を発し水陸ともに進めた。ただ相公舅には永く節旄を擁して方面を守っていただきたい」と伝えた。
  • 希隱は書を得て僚佐と降伏を議したが、支使の潘玄珪が不可とした。まもなく吳懷恩が城下に迫り、希隱は将士を率いて門を破って全州へ逃げ、嶺北の地はことごとく南漢の有となった。
  • 希隱はのち南唐に入り、ついで後周に帰して節度行軍司馬を授けられた。

馬希濬・馬希知・馬希朗

  • 希濬は武穆王の第(欠)子。国が亡んで南唐に入り、兄の希崇に従って揚州に住んだ。顯德三年(956年)に後周の世宗が揚州を下し、詔をもって手厚く安撫した。まもなく揚州が再び南唐の地となると、希崇が兄弟らを率いて後周に帰し、後周は希濬に節度行軍司馬を授けた。その職で終わった。
  • 希知は武穆王の第(欠)子。兄弟十七人とともに後周に帰し、節度行軍司馬となり、久しくして卒した。
  • 希朗は武穆王の末子。国が亡んで南唐に降り、ついで後周に入り、世宗は希朗に行軍司馬を授けた。
  • 武穆王の子は総じて三十余人だが、今日史籍に見えるのは、衡陽王ら四王のほかは希振・希旺・希杲・希瞻・希崇・希能・希貫・希隱・希濬・希知・希朗の十余人にすぎない。

文昭王の諸子・廢王の諸子・恭孝王の子光贊

  • 文昭王の子は名も人数も伝わらない。恭孝王が長沙を陥れたとき、馬軍指揮使の李彦温が戦棹指揮使の劉彦瑫とともに王子を奉じて袁州へ向かい南唐へ亡命し、のち金陵で没した。
  • 廢王の子も名と人数が伝わらない。朗州兵が長沙を陥れたとき、王子は慈堂に隠れて出られず、その後の所在は不明である。李彦温と劉彦瑫は別に廢王の諸子を奉じて南唐へ亡命し、金陵で没した。
  • 光贊は恭孝王の子。恭孝王が長沙へ向かうとき、光贊を残して朗州を守らせた。長沙が陥落すると光贊を武平軍留後に任じ、何敬真を朗州牙内都指揮使として兵を率いて守らせた。王逵の乱に際して光贊の従兄の光惠が推されて州事を掌り、光贊は退けられた。