十国春秋十國春秋卷七十 楚四 列傳(劉言・王逵・周行逢〈子保權〉)
劉言――出自と武平留後への擁立
- 劉言は廬陵の人。はじめ吉州刺史の彭玕に仕え、彭玕に従って楚へ亡命し、文昭王に仕えて辰州刺史となった。
- 恭孝王が弟と国を争い、土木工事で靜江の兵士を酷使したため、靜江指揮使の王逵らが兵の怨みに乗じて武陵に引き返し、留後で王の子の光贊を退けた。ついで節度使で王の孫の光惠も追放し、劉言が驍勇で蛮人の人心を得ていることから、迎えて帥に立てようとした。
- 劉言は王逵らを制御しがたいと知り、「行かねば攻めてくるだろう」と言って単騎で赴いた。到着すると武平留後の代行に推された。
- まもなく潭州の将の徐威が乱を起こし、南唐の中主は邊鎬に朗州を経略させ、馬氏を金陵へ移し、あわせて劉言も召したが、劉言は行かず、王逵と行軍司馬の何敬真らを送って邊鎬を攻め大敗させた。
- 劉言はこうして湖南の旧領をことごとく取り戻した。ただ郴州・連州だけは南漢に帰した。
後周への帰属と王逵との対立
- 劉言は後周に上表して封爵を求め、貢献や茶の販売はすべて馬氏の旧例どおりとした。また長沙は居るに適さないとして治所を武陵に移すことを請うた。後周の廣順二年(952年)のことである。太祖はすべて許し、武平軍を武安軍の上位に昇格させ、劉言を節度使・同平章事に任じ、武安軍を王逵に授けた。
- 王逵は劉言を自分が迎え立てたと考え、へりくだることを拒んだので、二人は次第に不和になった。
- 王逵は「劉言の使える者は何敬真と朱全琇にすぎない。召して殺せば劉言は取れる」と謀った。当時、南漢がしばしば梧・桂・宜・蒙などの州を侵していたので、王逵は劉言を欺いて何敬真らを召し、兵を合わせて敵を攻めようと持ちかけた。劉言は信じて何敬真を南面行営招討使、朱全琇を先鋒使として潭州の兵と合流させた。二人は到着すると王逵の計にはまって殺された。
- 王逵はそこで挙兵して朗州を襲い、劉言を別館に幽閉し、まもなく殺した。
- 劉言が湖南を鎮めたのは三年であった。
童謡の予兆
- これに先立ち、朗州の人は劉言を「劉齩牙」と呼んでいた。馬氏が乱れようとするころ、湘中の童謡に「馬去りて鞭を用いず、齩牙、今年を過ぐ」とあった。邊鎬が馬氏を捕らえて連れ去り、その邊鎬が劉言に追われ、劉言もまた害されたことに符合する。
王逵――出自と長沙からの離反
- 王逵は武陵の人。若いころ靜江軍の卒となり、恭孝王に仕えて靜江指揮使となった。恭孝王が長沙を攻めたとき、王逵を先鋒とした。
- 城が陥落すると、王逵と副使の周行逢に部下の兵千人を率いて長沙の府舎の造営に当たらせたが、労役が極めて厳しく、兵はみな愁い怨んで「囚人でさえ死を免れれば労役をさせられるだけだ。我らは大王に従って万死の中を湖南を取ったのに、何の罪があって囚人のように使役されるのか。しかも大王は終日酒宴に耽り、我らの苦しみを知りもしない」と言った。
- 王逵と周行逢はこれを聞いて「兵の怨みは深い。早く手を打たねば禍いが及ぶ」と語り合い、翌朝の未明に衆を率い、長柄の大斧で門を打ち破って朗州へ逃げ帰った。恭孝王は酔って気づかず、翌日ようやく将の唐師翥を追撃に送ったが、武陵で追いついたところ大敗して帰った。
- 王逵は留後で王の子の光贊を退け、王の孫の光惠を節度使に奉じた。ついで光惠も廃して南唐へ送り、辰州刺史の劉言を帥に推し、自らその副となった。
邊鎬撃退と後周からの任命
- 邊鎬が朗州を経略し、さらに劉言を出頭させようとしたとき、王逵は劉言に「武陵は江湖の険に恃み、甲兵は数万。どうして手をこまねいて人の制を受けられよう。邊鎬は民の撫育に方策がなく、士民は懐いていない。一戦で擒にできる」と説いた。
- 劉言はそこで王逵、周行逢、牙将の何敬真・張倣・満公益・朱全琇・宇文瓊・彭萬和・潘叔嗣・張文表の十人をみな指揮使に任じ、部を分けて兵を発し、長沙の邊鎬を攻めさせた。邊鎬は敗走した。
- 劉言が上表して後周に臣従すると、後周は劉言を武平節度使、王逵を武安節度使とした。
何敬真・朱全琇の誅殺と劉言の殺害
- まもなく王逵は擁立の功を恃んで「劉言は自分がいなければここまで来られなかった」と考え、その下風に立つまいとして次第に隙が生じ、密かに互いを図るようになった。
- これに先立ち、王逵は潭州を取ったとき何敬真・朱全琇を靜江・武安の副使としていた。この二人は劉言の驍将である。ここに至って何敬真は王逵と折り合わず、朱全琇とともに乱を起こそうと謀った。
- 周行逢は王逵に「劉言はもともと我らと心を同じくせず、何敬真・朱全琇も公に屈するのを恥じている。早く手を打つべきだ」と言い、王逵は「君の言がなければ忘れるところだった」と答えた。
- そこで南漢の侵攻があると偽り、檄を飛ばして二将に防戦を命じた。劉言は愚直で欺かれたと気づかず、ただちに何敬真・朱全琇を派遣した。長沙に至ると王逵は恭しく装って郊外まで出迎え、連日宴を張り、美妓を多く与えて釣った。何敬真らは長逗留して進軍しなかった。
- 王逵は何敬真が酔ったところで、人に劉言の使者と偽らせて「速やかに敵を防がず宴楽に耽っている」と責めさせ、械をつけて西府に送り返すよう命じた。朱全琇はそのまま逃亡したが、兵を送って捕らえ、いずれも斬首してさらした。
- 廣順三年(953年)6月、王逵は大軍を率いて武陵を攻め、指揮使の鄭珓を殺し、劉言を別室に幽閉した。
- 8月、後周に上表して「劉言が朗州をもって南唐に降ろうと謀ったので、衆で廃した」と誣告し、あわせて使府を移して再び潭州を治所とすることを請うた。甲戌、後周の太祖は通事舎人の翟光裔を湖南に遣わして宣撫させ、王逵を武平軍節度使兼中書令に任じた。まもなく劉言は殺された。
- 顯德元年(954年)4月、王逵はまた使府を朗州へ移すことを請うた。
潘叔嗣の反乱と王逵の死
- 顯德三年(956年)、後周の世宗が淮南を征伐したとき、王逵を南面行営都統に拝し、南唐の鄂州を攻めさせた。
- 王逵はもとより豪気で、志を得てからは礼節に拘らず、車馬や服の制度は王者に擬した。
- 当時、岳州の境を通ったとき、団練使の潘叔嗣は王逵のかつての同僚であり、王逵に極めて謹んで接した。王逵の側近たちは潘叔嗣に賄賂を求めたが、潘叔嗣が惜しんで与えなかったので、側近たちはその欠点を讒言した。王逵はこれを信じて面と向かって罵った。潘叔嗣は恥じ恨み、部下に「王逵が戦勝して帰れば、我らは皆殺しだ」と語った。
- 王逵が鄂州に入って長山を攻め落とし、南唐の将の陳澤らを捕らえた2月、潘叔嗣は兵を率いて朗州を襲った。王逵はこれを聞いて軽舟で急ぎ帰り、潘叔嗣と戦って敗死した。
- 王逵が湖南を鎮めたのも劉言と同じく三年であった。
王氏の讖
- はじめ南唐にある術士が「南楚の気色が甚だ良い。王氏が興るであろう」と言った。当時、永州刺史に任じられていた王温がその人ではないかと中主は疑い、使者を送って王温を征南将軍に拝し、印綬と巾帯を賜ったが、密かに巾の中に毒を仕込んでおいた。使者が至って王温が拝命し巾を着けると、たちまち頭が裂けて死んだ。まもなく王逵が挙兵して長沙を襲い占拠したのが、まさにその応であった。
周行逢――出自と台頭
- 周行逢は朗州武陵の人。若いころ無頼で家業を営まず、しばしば法を犯して靜江軍の卒に配された。驍勇によってたびたび昇進し禆校となった。
- 王逵が邊鎬を攻めたとき、周行逢は別に益陽を破って南唐兵二千余人を殺し、その将の李建期を捕らえた。
- 当時、朗州の劉言の麾下に属した指揮使十人はみな用兵で名を知られていたが、周行逢は謀に長け、張文表は戦に巧みで、潘叔嗣は果敢であった。この三人はしばしば助け合って功を成し、なかでも周行逢と王逵は極めて親密だった。
- 王逵が武安節度使となると、周行逢を集州刺史に拝して王逵の行軍司馬とした。王逵と劉言に隙が生じると、周行逢が策を立てて劉言を襲殺させ、王逵は朗州、周行逢は潭州を拠点とした。
- 顯德元年(954年)、周行逢は武清軍節度使に拝され、潭州軍府の事を代行した。
潘叔嗣の誅殺と留後就任
- 潘叔嗣は王逵を殺したのち、朗州に入るよう勧める者があったが、「私が王逵を殺したのは死を免れるためにすぎない。朗の地は私の利益ではない」と言って岳州に帰り、客将の李簡に朗州の人を率いさせて周行逢を迎え帥とした。
- 周行逢は入城して武平留後を自称し、後周に告げた。ある者が潭州を潘叔嗣に与えるよう請うと、周行逢は「潘叔嗣は主帥を殺した。罪は死に当たる。もし武安を与えれば、私が主公を殺させたことになる」と言い、召して行軍司馬とした。
- 潘叔嗣は怒って病と称して来なかった。周行逢は「これはまた私を殺す気だ」と言い、偽って武安を与えると称して府に召し、命を受けさせた。到着すると人をやって捕らえ、庭下に立たせて「お前は小校にすぎず大功もなかったのに、王逵が団練使に取り立てた。それを一朝にして反いて主帥を殺した。私が斬るに忍びずにいるのに、あえて私の命に逆らうのか」と責め、殺した。
- 顯德三年(956年)2月、周行逢は武平・武安留後を自称し、上表して後周に告げた。7月、世宗は周行逢を武平軍節度使・制置武安靜江等軍事に任じた。
- 宋の初めに兼中書令を加えられ、建隆三年(962年)10月に卒し、汝南郡王を追封された。
質素な政治と厳酷な統治
- 周行逢はもと農家の子で微賤から身を起こしたので民間の疾苦を知り、精励して政に当たり、公正で私がなかった。
- 婿の唐德が官吏の職を求めたところ、周行逢は「お前の才では官吏は務まらぬ。今えこひいきしてやることはできるが、在官中に不始末があれば、法をもって許すわけにはいかぬ」と言い、農具を与えて帰した。
- 僚属を招くにはみな清廉な士を取り、規則は簡潔で、官吏も民も便利とした。
- 自身の暮らしは極めて質素で、常々「馬氏父子は奢侈を極めて百姓を顧みず、今その子孫は人に食を乞うている。まだ真似すべきだろうか」と言った。
- 周行逢は罪に問われた過去があるため顔に入れ墨があった。薬で消して朝廷の使者に嗤われぬようにと勧める者があったが、「漢に黥布があったが英雄であることを損なわなかったと聞く。私が何を恥じよう」と答えた。
- また性格は勇猛で殺戮に果断であった。功を恃んで驕慢な将士は一律に法で処断した。大将十余人が乱を謀ったときは、諸将を宴に招き、酒宴の半ばで壮士を呼んで引きずり下ろして斬り、全軍が畏服した。民の過ちは大小を問わずみな死罪とした。
妻の嚴氏の諫め
- 妻の勲国夫人の嚴氏が「人情には善悪がある。どうして一様に濫殺してよいのか」と諫めると、周行逢は怒って「これは外の事だ、婦人に何がわかる」と言った。
- 嚴氏は不快に思い、「家の田の小作人が公が貴くなったからと農に励まない。見に行きたい」と偽って出かけ、行くとそのまま住まいを構えて老いを過ごした。季節ごとに青い裙をつけ、小作人を連れて租を城内へ納めに来た。周行逢が止めようとしても従わず、「これは官の物の税である。主帥が自分の家だけ免除しては、どうして下を率いられよう」と言った。
- ある日、周行逢が出向いて労い、「私は貴くなったのに、夫人はなぜ自ら苦労するのか」と言うと、嚴氏は「公が戸長だった頃を思い出されよ。民の租が遅れれば常に鞭打たれて苦しんだ。今貴くなったからといって、どうして田畑のことを忘れられよう」と答えた。
- 周行逢が妾たちに命じて無理に輿に乗せようとしても、嚴氏はついに留まる気がなく、「公は法の運用が厳しすぎて人心を失っている。私が留まりたくないのは、突然禍いが起きたとき、田野の間なら死を逃れやすいからだ」と言った。周行逢はこれによってやや厳しさを緩めた。
- 嚴氏は秦の人。父の廣遠は馬氏に仕えて評事となり、娘を周行逢に嫁がせた。
- 周行逢が死んで保權が立った。
周保權――即位と張文表の乱
- 保權は周行逢の子。はじめ武平軍節度副使となった。周行逢が卒したとき保權は十一歳で、英明で胆力があった。宋の太祖は起復検校太尉・朗州大都督・武平軍節度使を授けた。
- これに先立ち、周行逢は病が重くなったとき将吏を召して保權を託し、「私は田畑から身を起こし団兵となったが、同時の十人はみな誅殺され、ただ衡州の張文表だけが残っている。しかし彼は行軍司馬になれなかったことを常に不満に思っており、私が死ねば必ず乱を起こす。楊師璠に討たせよ。諸公はわが子をよく補佐して領土を失わせるな。どうにもならぬときは一族を挙げて朝廷に帰し、虎口に陥らせるな」と言い残した。
- 建隆三年(962年)12月、張文表は果たして乱を起こした。保權は楊師璠に討伐を命じ、別に使者を送って宋に援軍を乞うた。折しも江陵の高繼冲も先にこの事を報じていた。
宋軍の南下と楚地の平定
- 翌年(963年)春、宋の太祖は中使の趙璲に詔を持たせて張文表を諭させたが、保權の奏がついで到着したので、山南東道節度使の慕容延釗を湖南道行営南面都部署、宣徽院使の李處耘を都監とし、淄州刺史の尹崇珂、申州刺史の聶章、郢州刺史の趙重進、判四方館事の武懷節、氈毯使の張繼勲、染院副使の康延澤、内酒坊副使の盧懷忠らを率いて南征させ、さらに安・復など十州の兵を発して襄陽で合流させた。
- 宋軍が江陵に至り趙璲が潭州に着いたときには、張文表はすでに平津亭で大敗し、楊師璠に捕らえられて切り刻んで食われていた。
- 保權の牙校の張從富らは、張文表が平定されたのに宋軍が進み続けるので襲われるのを恐れ、ともに拒んで守った。慕容延釗は閤門使の丁德裕を先行させて安撫させたが、城下に至ると張從富らは拒んで入れず、領内の橋をすべて撤去し、舟を沈め木を伐って路を塞いだ。丁德裕は詔を奉じないとして軍を退いて待った。
- しばらくして慕容延釗が奏聞すると、宋の太祖は中使を送って「もともと大軍を発したのはお前の難を救うためだ。妖孽が滅んだ以上、我らはお前に大恩がある。それなのに王師を拒むとは何事か。自ら塗炭を招いて民を重ねて煩わすな」と諭し、急ぎ慕容延釗に進軍を命じた。
- 保權は澧州の南に軍を出したが、交戦するまでもなく風を望んで潰え、朗州に戻った。家屋や倉庫を焼き、住民は谷へ逃げ散り、城郭は空になった。
- 宋軍は長駆して朗州城を落とし、張從富を西山の下で捕らえ、南市で梟首した。
- これに先立ち、李處耘は捕虜のうち肥えた者数十人を選んで側近に食わせ、若く壮健な者には入れ墨をして武陵に帰した。武陵の人は捕らえられた者が宋軍に切り刻んで食われたと聞き、みな恐れて潰走した。
- 保權は大将の汪端に脅かされ、家族を連れて江の南岸に逃げ隠れたが、宋の将の田守奇に捕らえられて帰された(顯德からかぞえて宋の乾德元年にあたる963年3月壬寅のこと)。
- そこで武懷節が兵を分けて岳州を落とした。汪端はなお衆を擁して侵掠していたが、まもなく捕らえられて市中で磔にされた。湖南はすべて平定された。
- 周氏が湖南を鎮めたのは二代八年であった。この戦役で宋は州十五、監一、県六十六、戸九万七千三百八十八を得た。
保權の後半生と亡国の予兆
- 保權は宋に至ると上章して罪を待ったが、太祖は詔をもって許し、襲衣・金帯・鞍勒の馬・敷物・銀器千両・帛二千疋・銭千貫を賜り、千牛衞上将軍を授け、京城の旧邸を修繕して邸宅とし住まわせた。あわせて朗州に汝南王周行逢の墓を増築させた。
- 乾德五年(967年)、保權は累進して右羽林統軍となり、太平興國元年(976年)に并州の知事となり銭三百万を賜った。雍熙二年(985年)に卒す。享年三十四。
- はじめ周行逢は淫祀を害とし、領内の祠廟のうち前代の功績や民への功のないものはすべて取り壊した。ところが保權が立つと仏教を過度に信仰し、毎年大会を設けて僧に斎を施すこと四か所に及び、国費を計り知れないほど費やした。また僧を得度させ寺を建てない日はなく、群僧を府中に召して講唱させ、自ら香炉を執り香を焚いて聴聞し、僧衣の者を見れば三尺の童子であっても必ず地に伏して拝んだ。君子は彼が世を長く保てないと悟った。
- また周行逢が死ぬころ、湖南の婦女はみな縫い目のない衣を着て「散幅」と呼んだ。ある人は「福がすでに散り破れている。長く続くはずがない」と言った。やがて身は没し地は失われ、符讖のとおりになった。
史論
- 論に言う。恭孝王が南唐に帰したとき、湖南の半ばはすでに南唐の有となっていた。しかし将帥の人選を誤り、統御を失って、長沙で釁が起こり武陵で戈が振るわれた。
- そのため十余年の間に、わずか数州の地が三たび姓を替え、得たり失ったりして興廃が定まらなかった。
- 乱を鎮め国を保つ鍵はまさに人の謀にある。信ずべきことではないか。