十国春秋十國春秋卷六十九 楚三 廢王馬希廣・恭孝王馬希萼(弟希崇)

楚の廢王馬希廣(字は德丕)と、その兄で恭孝王となった馬希萼の二代を記す。文昭王馬希範の死後、劉彦瑫らが遺命と称して弟の希廣を立てたため、最年長の兄希萼が納得せず、兄弟の争いが国を割いた。希廣は温順だが決断を欠き、僕射洲の勝利でも兄を討たず、南漢や諸蛮の侵攻を受けて長沙を落とされ、希萼に死を賜った。希萼は南唐に藩を称して長沙を奪ったが、政は乱れて王逵・周行逢に背かれ、徐威らの乱で弟の希崇に位を奪われる。希崇が南唐の邊鎬に降り、馬氏一族は金陵へ移されて楚は滅んだ。

年表(16件)
  • 天福十二年947年漢主から天策上将軍・武安軍節度使を授かり楚王に封じられる
  • 天福十二年947年弔問に来た兄希萼を碧湘宮に留めて拝謁を許さず確執が始まる
  • 乾祐元年948年南漢が賀州・昭州を陥れ、救援に向かった徐知新らが大敗する
  • 乾祐二年949年僕射洲で希萼を大敗させたが、兄を傷つけるなと王贇を呼び戻す
  • 乾祐二年949年漢から太尉を加えられる
  • 乾祐三年950年希萼が諸蛮を率いて益陽・迪田を攻め、南唐に藩を称して援軍を得る
  • 乾祐三年950年湄州で劉彦瑫が大敗し、希萼は順天王を称して長沙へ侵攻する
  • 乾祐三年950年許可瓊が希萼に降ったため長沙が陥落し、王は慈堂に隠れる
  • 乾祐三年950年希萼に捕らえられて投獄され、戊申に死を賜る
  • 保大八年950年希萼が楚王を自称し、希崇を節度副使・判軍府事とする
  • 保大九年951年南唐から天策上将軍・中書令とされ、楚王に封じられる
  • 保大九年951年王逵・周行逢が朗州へ逃げ帰り、劉言を武平留後に推す
  • 保大九年951年徐威らの乱で希萼が幽閉され、弟の希崇が武安留後に立つ
  • 保大九年951年廖偃・彭師暠が希萼を衡山王に立て、希崇は南唐の邊鎬に降る
  • 保大九年951年文肅王以下の一族と将佐千余人が南唐へ移され、楚が滅ぶ
  • 保大十年952年南唐主に拝謁して引き留められ、数年後に金陵で薨じる

廢王馬希廣の出自と擁立

  • 廢王は名を希廣、字を德丕といい、文昭王(希範)の同母弟。武穆王の第三十五子にあたる。性格は謹直温順で、文昭王に格別に可愛がられた。
  • 文昭王は生前、直言する拓跋恒を嫌い、門番に命じて拝謁を拒ませていたが、病床に伏してからようやく拓跋恒を思い出して召し、希廣のことを託した。
  • 文昭王が薨じたとき後継が定まらず、都指揮使の張少敵と都押牙の袁友恭は、武平節度使で永州の事を知る希萼が先王の諸弟のうち最年長であるから嗣ぐべきだと主張した。
  • 一方、長直都指揮使の劉彦瑫、天策学士の李弘臯・鄧懿文、小門使の楊滌はいずれも希廣に恩義があり、希廣を立てようとした。拓跋恒もしばしば希廣に位を希萼に譲るよう勧めた。
  • 劉彦瑫らは「今日は軍政が我々の手中にある。天が与えるのに取らず他人に渡せば、後日どこに身の置き所があるか」と言った。希廣は自ら決断できず、劉彦瑫らはついに遺命と称して希廣を推戴し軍府の事を代行させた。文昭王薨去の四日後、乙未のことである。

後漢の成立と冊封

  • 天福十二年(947年)夏6月、晋主の劉知遠が国号を漢と改め、なお天福の年号を用いて使者を派遣し布告した。
  • 秋7月甲午、漢主は希廣を天策上将軍・武安軍節度使・江南諸道都統兼中書令とし、楚王に封じた。

兄希萼との確執の始まり

  • 天福十二年(947年)冬10月、王の兄の希萼が朗州から弔問に来た。乙巳に趺石に到着すると、王は劉彦瑫の言を用い、侍従都指揮使の周廷誨に水軍を率いて希萼を迎えさせ、将士に武装を解いてから入るよう命じた。
  • 周廷誨と張少敵は王に「王が国を譲れるならそれでよいが、そうでなければ早く除くべきだ」と進言した。王は泣いて「わが兄である。どうして殺せようか。国を分けて治めればよい」と言い、碧湘宮に留めて拝謁を許さず、厚く贈り物を与えた。希萼は憤然として去った。
  • この冬、晋の客省使の王筠を漢へ帰した。

乾祐元年(948年)――南漢の侵攻と兄弟の争訟

  • 春正月乙卯、漢が大赦して乾祐と改元。己未、漢主が名を暠と改め、丁丑に萬歳殿で崩じた。2月辛巳、周王の承祐が帝位を継いだ。
  • 秋8月、南漢主が知制誥の鍾允章を遣わして婚姻を求めたが王が許さなかった。南漢主が怒って允章に「馬公はなお南土を経略できるか」と問うと、允章は「馬氏は内争に追われており、我が国を害する余力はない」と答えた。南漢主は「希廣は懦弱で吝嗇、士卒は久しく戦を忘れている。まさに我が進取の秋だ」と言った。
  • この月、兄の希萼はしばしば漢に訴え、王と別々に職貢を修めて封爵を受け、邸を置いて藩を称したいと請うた。王は歐弘練・張仲荀の謀を用い、漢の執政に厚く賄賂を贈ってその請いを拒ませた。
  • 9月、漢は王の兄弟に和睦を諭し、別に兄の希萼にも書を賜って親睦を勧めた。
  • 冬10月丁酉、王は漢に除夜遊春図・女俠画障・真珠枕、および端午の金銀彫床など諸品を献じた。
  • 12月辛巳、南漢の西北面招討使の吳懷恩が賀州を侵した。王は決勝指揮使の徐知新・任廷暉に兵を率いて救援させた。しかし南漢はすでに賀州を落としており、城外に大穴を掘って竹の簀で覆い、さらに塹壕から穴を通して仕掛けを設けていた。徐知新らが城を攻めると南漢兵が穴から仕掛けを作動させ、楚軍はことごとく落ちて千人単位で死んだ。徐知新らが敗れて帰ると王は怒って斬った。南漢兵はさらに昭州を陥落させた。
  • 癸未、兄の希萼が漢に銀器千五百両を献じた。漢主は詔を下して慰諭し、「職貢には旧来の規程があるが、険路を越える労を思い、あえて卿の意に背かぬ。善を誘い忠を勧めるのが朕の本心である。今後の献上は希廣と相談し、和を保って体制を乱さぬように」と告げた。希萼は従わなかった。

乾祐二年(949年)――僕射洲の戦い

  • 春正月、戍将の徐進が風陽山で蛮を破り、五千級を斬った。夏5月、太白が昼に現れた。6月癸酉朔、日食があった。
  • 秋8月、希萼は朗州の壮丁をすべて動員して郷兵とし靜江軍と号し、戦艦七百艘を造って潭州攻撃を謀った。王はこれを聞いて「朗州はわが兄である。争ってはならぬ。国を譲るべきだ」と言ったが、劉彦瑫・李弘臯が強く反対したので、岳州刺史の王贇を都部署・戦棹指揮使とし、劉彦瑫にその軍を監させた。
  • 己丑、僕射洲で希萼を大敗させ、戦艦三百艘を鹵獲した。王贇が希萼にあと一歩まで迫ったところ、王が使者を送って「わが兄を傷つけるな」と呼び戻したので、王贇は兵を引いて帰った。希萼は赤沙湖から逃げ帰った。妻の苑氏は希萼が必ず禍いに遭うと察し、井戸に身を投げて死んだ。
  • 秋9月、王は漢に絹二万疋、白金一万五千両、玳瑁で宝飾した龍鳳の床一具、盤龍の椅子と踏み台各一合、戯龍二、銀の食器六十八点、真珠花・銀果子あわせて千両を献じた。
  • 冬10月、漢は王に太尉を加えた。丁亥、王の弟で靜江節度使の希瞻が卒した。

乾祐三年(950年)――蛮兵の攻勢と南唐への通款

  • 夏6月、希萼が辰州・溆州および梅山の蛮を誘って益陽を攻めた。蛮はかねて長沙の府庫の富を聞いていたので争って出兵した。王は指揮使の陳璠に防がせたが、淹溪の戦いで陳璠は敗死した。
  • 秋8月戊戌、希萼はまた諸蛮を率いて迪田を破り、楚の鎮将の張延嗣を殺した。王は指揮使の黄處超を救援に送ったが敗死した。さらに牙内指揮使の崔洪璉に兵七千を率いさせ、湘郷・玉潭に駐屯させて諸蛮を防がせた。
  • この月、漢は蒙州の城隍神を靈感王に封じた。王の請いによる。
  • 9月辛巳、希萼は漢に別途、京師に進奏務を置くことを請うたが、漢主は詔をもって丁重に断り、玉璽の書を賜って和睦と敦睦を勧めた。
  • この月、希萼は朝廷が王ばかりを庇うことに激怒し、使者を送って南唐に藩を称し、援軍を乞うて攻撃を求めた。南唐は希萼に同平章事を加え、鄂州のその年の租税を与え、さらに楚州刺史の何敬洙に軍を渡らせて希萼を援けさせた。
  • 冬10月丙午、王は漢に急を告げ、荊南・嶺南・江南が連合して湖南の地を分割しようとしていると訴え、澧州に兵を駐屯させて江南・荊南から朗州への援路を扼するよう乞うた。

湄州の敗戦と長沙の危機

  • 乾祐三年(950年)冬10月丁未、王は劉彦瑫を戦棹都指揮使・朗州行営都統とした。劉彦瑫は朗州の境内に入り、戦艦が通過するごとに竹を運んで後方を断った。
  • 折しも希萼は朗州の兵と蛮兵六千、戦艦百艘を送り、湄州で戦った。劉彦瑫は風に乗じて火を放ったが、まもなく風向きが変わって火が戻り、劉彦瑫は逃げ戻ろうとしたが江路はすでに断たれており、戦死者と溺死者は数千人に上った。
  • 王はこれを聞いて涙を流すばかりで、なす術を知らなかった。王は平素ほとんど恩賞を与えなかったが、ここに至って多量の金帛を出して士卒の心を買おうとした。
  • ある者が「天策左司馬である王の弟の希崇が流言で人心を惑わし、謀反の意図は明らかだ。殺すべきだ」と告げたが、王は忍びず「自ら弟を害しては、あの世で先王に何と申し開きするか」と言った。
  • 馬軍指揮使の張暉が別路から朗州を攻めたが、龍陽に至って劉彦瑫の敗報を聞き、退いて益陽に駐屯した。希萼はさらに指揮使の朱進忠らを送って益陽を急襲させた。張暉は部下を欺いて「自分は麾下を率いて敵の背後に出る。お前たちは城中に留まり、合流して敵を図ろう」と言い、出るとそのまま竹頭市から長沙へ逃げ帰った。朱進忠は城中に主将がいないと知って急襲し、士卒九千余人がみな死んだ。
  • 11月甲子朔、日食があった。王は僚属の孟駢を送って希萼を説得させたが、「大義はすでに絶えた。あの世でなければ会わぬ」と返答された。
  • 朱進忠が希萼に自ら兵を率いて長沙を取るよう請うた。辛未、希萼は子の光贊を残して朗州を守らせ、領内の兵をことごとく動員して侵攻し、順天王を自称した。
  • 王は大いに恐れて漢に援軍を乞うた。漢は出兵を議し朱令温を都部署としたが、内乱が起きて軍は出なかった。

長沙の陥落

  • このとき蛮兵が玉潭を包囲し、朱進忠が兵を率いて加勢したので、崔洪璉は敗れて長沙に帰り、玉潭は陥落した。
  • 希萼は江を遡って岳州を攻めたが、刺史の王贇は城を固めて戦わなかった。希萼が二心があると責めると、王贇は「君王が長沙に入り同胞を傷つけずにおられることを願う。臣が節を尽くさぬはずがあろうか」と答えた。希萼は兵を引いて去った。
  • 辛卯、湘陰を通過するとき焼き討ちと掠奪をした。長沙に至ると希萼は湘江の西に陣を敷き、歩兵と蛮兵は嶽麓に、玉潭から来会した朱進忠も江西に陣を張った。
  • 王は劉彦瑫を送って水軍指揮使の許可瓊に戦艦五百艘を率いさせ、城北の津から南津まで連ねて駐屯させ、弟の希崇を監軍とした。また馬軍指揮使の李彦温に騎兵を率いて駝口に駐屯させ湘陰路を扼し、歩軍指揮使の韓禮に二千人を率いて楊柳橋に駐屯させ柵路を扼させた。
  • 強弩指揮使の彭師暠が城に登って水西の軍を望み見て、許可瓊と水陸から挟撃することを王に請い、王も許した。しかし許可瓊はすでに密かに希萼に通款していた。王はその心を知らず、なお諸将に許可瓊の指揮を受けさせた。許可瓊は常に塁を開いておいて士卒に朗州軍の進退を知らせず、時に江を巡視すると偽って水西で希萼と会い、内応を約束した。
  • しばらくして潭州に大雪が四尺も積もり、両軍とも戦えずに苦しんだ。王は巫覡と僧侶の言を深く信じ、土をこねて鬼神の像を作って江上に置き、手を挙げて朗州兵を退ける形にした。また高楼に大きな像を作り、手で水西を指して怒りの目で睨ませた。さらに僧たちに昼夜仏経を誦させ、自らも黒衣をまとって拝み、宝勝如来を念じてこれを禳災と称した。
  • 甲辰、朗州の歩軍指揮使の何敬真が蛮兵三千を楊柳橋に布陣させ、韓禮の旌旗が乱れているのを見て「敵はすでに怯えている、破りやすい」と言った。このとき朗州の雷暉が潭州兵の服を着て韓禮の陣に潜入し、剣で韓禮を斬りつけたが当たらなかった。全軍が動揺したところを何敬真が乗じて攻め、楚軍は大敗した。韓禮は傷を負って逃げ帰り、自宅で死んだ。
  • ここに朗州軍が水陸から長沙を急攻した。希萼が長樂門を攻め、牙将の吳宏・楊滌が門中で戦って希萼はやや押されたが、まもなく許可瓊が全軍を挙げて希萼に降ったので、吳宏・楊滌も潰走し、長沙は陥落した。
  • 王は夫人と王子を連れて慈堂に隠れた。朗州兵と蛮兵は三日にわたって掠奪し、官吏や民を殺し家屋を焼いた。武穆王父子が蓄えた宝貨はすべて蛮の里に持ち去られ、宮殿家屋はことごとく灰燼に帰した。
  • 李彦温は清泰門を攻めたが落とせず、劉彦瑫とそれぞれ千余人を率い、文昭王および王の諸子を奉じて袁州の希唐のもとへ向かった。張暉は希萼に降った。吳宏と彭師暠は希萼に会ったがいずれも許されて殺されなかった。希崇は将吏を率いて希萼のもとへ赴き、即位を勧めた。

廢王の死

  • 乙巳、希萼が府に入って政務を執り、城を閉じて手分けして王および掌書記の李弘臯、その弟の李弘節、都軍判官の唐昭胤、鄧懿文、楊滌らを捕らえ、ことごとく捕縛した。
  • 希萼が王を詰問して「父兄の業を継ぐのに長幼の序はないのか」と言うと、王は「将吏に推され朝廷に任命されたので、私の意ではない」と答えた。希萼は憐れんで「これは鈍い男だ、悪事などできまい。ただ側近に惑わされただけだ」と言い、投獄させた。
  • 翌日、李弘臯・李弘節・唐昭胤・楊滌を切り刻んで食らわせ、鄧懿文を市で斬った。
  • その後、希萼が部下に「希廣を生かしたいがどうか」と問うたが、誰も答えなかった。かつて王に笞打たれたことのある朱進忠が「大王は三年血戦してようやく長沙を得た。一国に二主は容れられぬ。後日必ず後悔されよう」と答えた。
  • 戊申、王に死を賜った。王の夫人某氏も杖で打たれて市中で死んだ。王は刑に臨んでもなお仏典を誦していた。彭師暠が瀏陽門の外に葬った。

童謡の予兆

  • これに先立ち、潭州では道の両側に槐を植えることが多かったが、廢王のときすべて柳の幹に植え替えられた。また住民は夜になると争って草鞋を編むのを生業とし、その音が内外に聞こえた。
  • そこで童謡に「湖南に長街あり、柳を植えて槐を植えず、百姓は逃げ散るにまかせ、藁を打って草鞋を編む」と歌われた。識者は、長街とは内外の路、槐を植えないとは兄弟が親愛を失うこと、草鞋とは遠行の履物で百姓が逃亡する意である、と解した。その予兆はこのようであった。

史論

  • 論に言う。諺に「断つべきときに断たねば、かえってその乱を受ける」とある。
  • 僕射洲の勝利のとき朗州はほとんど支えきれなかったのに、廢王は「わが兄を傷つけるな」と言った。希崇が背いたとき、みなが大義親を滅すと言ったのに、廢王は「自ら弟を害してはあの世で先王に会えぬ」と言った。
  • 宋の襄公の空虚な名分を慕って、袁譚のような実際の禍いを醸したのである。君子が、身を喪い国を滅ぼしたのも当然だと評するのはもっともである。

恭孝王馬希萼の出自と即位

  • 恭孝王は名を希萼、武穆王の庶子(第三十子)。剛情で人に無礼だった。その同母弟の希崇はとりわけ狡猾で陰険だった。
  • 廢王希廣が襲位したとき、希崇は天策左司馬の職にあり、密かに希萼へ書を送って「劉彦瑫らが先王の命に背き長を廃して幼を立て、大倫を犯している」と伝えた。希萼を煽る意図であった。希萼は果たして激怒し、兵を興して国を争った。
  • 長沙が陥落すると、希萼は内外巡検侍衞指揮使の劉賓に命じて放火と掠奪を禁じさせた。希崇はさらに推戴を勧め、希萼は天策上将軍・武安・武平・靜江・寧遠等軍節度使・楚王を自称した。
  • 希崇を節度副使・判軍府事とし、湖南の要職はすべて朗州の人で占めた。漢の乾祐三年、南唐の保大八年(950年)11月丁未のことである。
  • ついで子の光贊を武平留後とし、何敬真を朗州牙内都指揮使として兵を率いて守らせた。また拓跋恒を召して用いようとしたが、拓跋恒は病と称して出仕しなかった。
  • この年、潭州に龍喜県を置いた。

保大九年(951年)――南唐への通款と内政の乱れ

  • 春正月、後周の主の郭威が皇帝に即位し、廣順と改元した(希萼は南唐の正朔を奉じて保大の年号を用いていた)。
  • 2月甲辰、王は掌書記の劉光輔を南唐に遣わして入貢させた。
  • 3月、南唐は王を天策上将軍・武安・武平・靜江・寧遠等軍節度使兼中書令とし、楚王に封じ、右僕射の孫晟と客省使の姚鳳を冊礼使とした。
  • この月、劉光輔が金陵に至った。南唐主は厚遇したが、劉光輔は「湖南は民が疲弊し主は驕っている。取ることができる」と密かに告げた。そこで南唐主は営屯都虞候の邊鎬を信州刺史とし、兵を率いて袁州に駐屯させ、密かに侵攻を謀った。
  • 王は志を得ると旧怨を思い出しては際限なく殺戮し、酒に耽り淫蕩に流れ、軍府の事はすべて希崇に委ねた。希崇もまた私曲が多く、刑政は乱れ、朗州の旧将たちにも離反の心が生じた。
  • また小門使の謝彦顒はもと王の家僕だったが、容貌によって寵愛を受け、后妃たちと同席するまでになり、常に希崇と肩を並べて歩き、その背を叩くこともあったので、希崇は恨みを含んでいた。慣例では府の宴で小門使は鉞を持って門外に立つのに、王は謝彦顒を同席させ、時に諸将の上席に列したので、諸将はみな不満を抱いた。

王逵・周行逢の離反

  • 王は府舎が焼失したため、朗州の靜江指揮使の王逵と副使の周行逢に朗州兵を率いて宮室を造らせたが、労苦に対して恩賞がなかった。
  • 壬申の朝、王逵と周行逢はその衆を率いて朗州へ逃げ帰った。このとき王は酔って目覚めていなかった。
  • 癸酉、王はようやく湖南指揮使の唐師翥を追撃に送ったが、王逵らは伏兵で攻撃し、唐師翥はかろうじて身一つで逃れた。
  • 王逵らは王の子で留後の光贊を退け、王の兄の子である光惠を推して州事を掌らせ、まもなく節度使に立てた。
  • 夏6月、王逵らは光惠が愚かで懦弱、酒を好むとして、辰州刺史の劉言を推して武平留後を代行させ、南唐に旄節を求めて上表した。南唐が許さなかったので、後周にも藩を称した。

徐威らの反乱と希崇の即位

  • 秋9月、王は許可瓊が不満を抱いていると疑い、蒙州刺史として外に出した。馬歩都指揮使の徐威、左右軍馬歩使の陳敬遷、水軍都指揮使の魯公綰、牙内侍衞指揮使の陸孟俊を派遣して柵を立て朗州兵に備えさせたが、慰撫を加えなかった。
  • 戊寅、王が端陽門で酒宴を開いたが、徐威らは招かれず、希崇も病と称して来なかった。徐威らはついに乱を起こした。
  • 人にまず気の荒い馬十余匹を噛ませて府内に追い込み、壮士に鞭を持たせて続かせ、府に突入して武器庫を掠め、縦横に人を撃った。王は垣を越えて逃げたが徐威らに捕らえられ幽閉された。また謝彦顒を捕らえ、頭頂から踵まで切り刻んで殺した。
  • 希崇を武安留後に立てた。希崇は彭師暠に王を衡山県に幽閉させた。
  • 劉言は希崇が立ったと聞いて潭州へ兵を進め、簒奪の罪を討つと称した。壬午、益陽の西に布陣した。希崇は恐れ、癸未に兵二千を出して防ぎ、また朗州に使者を送って和を請い、隣藩として結ぶことを約束した。
  • 劉言の幕僚の李觀象は劉言に「希萼の旧将佐がまだ健在であるから今は図れない。檄を送って希崇にその首を取らせれば、湖南を併呑できる」と説き、劉言は従った。
  • 希崇は劉言の勢いを恐れ、ただちに都軍判官の楊仲敏、掌書記の劉光輔、牙内都指揮使の魏師進、都押牙の黄勍ら十余人の首を斬り、前の辰陽令の李翊に持たせて朗州へ送った。ところが到着したときには腐敗して見分けがつかず、劉言と王逵はともに「楊仲敏らの首ではない」と偽って言い、李翊は恐懼して自殺した。
  • 希崇は襲位したものの、やはり次第に酒に耽り淫蕩に流れ、国人は懐かなかった。

衡山王への擁立と南唐の進攻

  • 保大九年(951年)丙戌、衡山指揮使の廖偃が彭師暠とともに王(希萼)を衡山王に立て、県を府とし、江を断って柵とし、竹を編んで戦艦とした。王は彭師暠を武清軍節度使とし、徒衆を募ると数日で一万余人に達した。判官の劉虚已を南唐に送って援軍を求めた。
  • 徐威らは希崇のすることでは必ず成功しないと見、また朗州と衡山の脅威を恐れ、希崇を殺して自ら弁解しようとした。希崇はこれを察して大いに恐れ、密かに客将の范守牧に上表させて南唐に出兵を請うた。南唐主は邊鎬に袁州から兵一万を率いて長沙へ向かわせた。
  • 冬10月辛卯、邊鎬は兵を率いて醴陵に入った。癸巳、希崇は使者を送って軍を犒った。壬寅、天策学士の拓跋恒に書状を持たせて邊鎬のもとへ降伏させた。癸卯、希崇らは邊鎬に従って城に入った。邊鎬は瀏陽門の楼に宿舎を構え、湖南の将たちがこぞって祝賀した。
  • このとき湖南は飢饉だったので、邊鎬は大いに倉の穀を出して賑給し、楚の人は大いに喜んだ。
  • 癸丑、南唐の武昌節度使の劉仁贍が岳州を取り、降伏した者を撫して受け入れたので、人々は国が滅んだことを忘れた。

馬氏一族の移送と楚の滅亡

  • この月、邊鎬は希崇に一族を率いて南唐に朝するよう促した。一族は集まって泣き、邊鎬に厚く賄賂を贈って長沙に留まることを乞おうとした。邊鎬は薄く笑って「国家と公の家は代々六十年近く仇敵だったが、あえて公の国を窺う意はなかった。今、公の兄弟が争って困窮し自ら帰服したのだ。もし二心を抱けば不測の憂いがあろう」と言った。
  • 11月辛酉、文肅王以下の諸族と将佐千余人をことごとく南唐へ移した。悲嘆しながら舟に乗り、見送る者の号泣が川と谷に響いた。
  • かつて童謡に「鞭で馬を打てば馬は急ぎ走る」とあったが、ここに至って符合した。
  • 辛未、邊鎬は先鋒指揮使の李承戬に兵を率いて衡山へ向かわせ、王(希萼)に南唐入りを促した。庚辰、王は部下一万余人とともに潭州から東へ下った。
  • 12月、南唐主は王を江南西道観察使・守中書令として洪州に鎮させ、なお楚王の爵を賜った。希崇は永泰軍節度使兼侍中として舒州に鎮させ、なお揚州に居住させた。
  • 保大十年(952年)冬12月、王は南唐主に拝謁した。南唐主は彼を引き留め、数年後に金陵で薨じた。諡は恭孝。
  • 後周の世宗が淮南を征伐して揚州が陥落すると、詔して馬氏の子孫を撫安した。まもなく南唐が揚州を回復すると、希崇はその兄弟十七人を率いて後周に亡命し、右羽林統軍を拝命した。他の者もみな大将軍や節度行軍司馬となった。

馬氏一族の驕奢と滅亡の予兆

  • もともと馬氏は富強で諸国に並ぶ者がなく、諸院の公子は長幼あわせて八百余人に及び、みな奢侈に努めたので、当時「酒嚢飯槖(酒と飯の袋)」と呼ばれて多く非難された。
  • 公子たちはこれを聞いて不平を鳴らした。国師の張氏が彼らを騙して「そうした非難は国運が長くないことを恐れてのものだ。君らの兄弟の多さで代わる代わる治めれば八百年は保てる。何を憂え何を懼れることがあろう」と言った。
  • 当時、鄧翁という者がこれを聞いて嘆き、「文武の道に意を用いず、かえって虚誕の説を容れて安んじている。彼らが溝壑に死ぬ日を私は見ている」と言った。邊鎬の軍が至ると、逃げ散って飢えと寒さで死んだ者が半数を超えた。
  • 楚は唐の乾寧三年、丙辰の年(896年)に武穆王が湖南に自立してから、南唐の保大九年辛亥(951年)に滅ぶまで、あわせて五十七年であった。
  • 武穆王が湖南に入ったとき、地を掘って石の讖を得た。「龍、頭を挙げ、猪、尾を掉る」とあり、世人はみな先兆があったとした。
  • また民謡に「三羊五馬、馬子は群を離れ、羊子に舎なし」とあり、識者は湖南と淮南の国運がまさにこれに応じたと解した。