十国春秋卷七十 楚四 列傳 周行逢
要約
周行逢は朗州武陵の人。若くして無頼で家業に従わず、しばしば法を犯して静江軍の卒に配されたが驍勇であったため次第に裨校へ昇進した。王逵が邊鎬を攻めた際には別に益陽を破って唐兵二千余人を殺すなど武功を重ね、朗州の指揮使十人の中でも謀に長けた人物として知られた。逵の行軍司馬として仕え、劉言と逵の対立に際しては謀策を画してこれを誅殺に導き、逵が朗州、行逢が潭州に拠る体制を築いた。潘叔嗣が逵を殺した後、自ら朗州に拠ることを避けて岳州へ退くと、行逢は牙将李簡の仲介で朗州の人々に迎えられて武平留後を称し、召し出した叔嗣を「主帥を殺した罪は死に当たる」として自ら詰責のうえ誅殺し、湖南全土の武平・武安留後を兼ね、後周から武平軍節度使に任じられた。
農家の出身で微賤より起こったため民の疾苦をよく知り、公正で私心なく治めた。婿の唐德が官吏の補職を求めても「お前の才は官吏に堪えない」と退け、農具を与えて帰すなど身内にも厳格であった。かつて受けた顔の入れ墨も薬で消すことを拒み、漢の英雄黥布の故事を引いて恥じることはないと語った。性格は勇猛果敢で殺戮を好み、驕慢な将士は容赦なく極刑を科し、乱を謀った大将十余人を宴に招いて一挙に誅殺したこともある。妻の勲国夫人厳氏が濫りな処刑を諫めても「これは外事、婦人に何が分かろうか」と怒って退けたが、厳氏がわざと佃戸のもとに移り住み租税を自ら納めて質素に暮らして見せたことで、行逢はようやく法を緩めたという逸話が伝わる。臨終に際しては、隴畝より起こった同僚のうち唯一生き残った衡州の張文表が必ず謀反を起こすこと、そしてこれを討つべき人物が楊師璠であることを予言し、子保権の輔佐を将吏に託した。果たして文表は乱を起こしたが、幼い保権の毅然たる訴えに軍は奮起し、師璠がこれを平定した。しかしその後、宋の南征軍が至ると保権配下の牙校張従富らは混乱の末に抗戦し、保権は捕らえられて宋に帰順、湖南は完全に平定された。行逢は淫祀を廃するなど質実な統治で知られたが、死後、保権が仏教に耽溺し奢侈に傾いたことは、その治世が長く続かない兆しとされた。史臣は、恭孝王の南唐帰服からわずか十余年の間に湖南が三度も姓を変える混乱に見舞われたことを嘆き、得ては失い失っては得て興廃常ならなかったこの時代を振り返り、乱を戡定し国を保つ道はひとえに人の謀にあると総括している。
現代語訳全文
朗州武陵の出自
- 周行逢は朗州武陵の人である。若い頃は無頼で家業には従わず、しばしば法を犯して静江軍の卒に配され発せられたが、驍勇であったため次第に昇進して裨校となった。
- 王逵が邊鎬を攻めた際、行逢は別に益陽を破り、唐兵二千余人を殺してその将李建期を捕らえた。この頃、朗州で劉言の指揮下にあった十人の指揮使は、皆兵を知る者として名を馳せていた。行逢は謀に長け、張文表は戦に善く、潘叔嗣は果敢であり、三人は互いに助け合って功を成すことが多かったが、行逢と王逵は特に情交が親密であった。
- 逵が武安節度使となるに及び、行逢を集州刺史に拝し、逵の行軍司馬とした。逵は劉言と隙があったが、行逢は謀策を画してついに言を襲殺させた。
- 逵は朗州に拠り、行逢は潭州に拠った。顯德元年(954年)、行逢を武清軍節度使に拝し、権知潭州軍府事とした。
- 潘叔嗣がすでに逵を殺すと、ある者はこれに朗州に入るよう勧めたが、叔嗣は「私が逵を殺したのは死を免れるためにすぎない。朗州の地は私の利益にならない」と言い、岳州に還った。そこで客将の李簡を遣わし朗州の人々を率いて行逢を迎え帥とした。
- 行逢は城に入り、自ら武平留後と称し、周に告げた。ある者は潭州を叔嗣に与えるよう請うたが、行逢は「叔嗣は主帥を殺したのだから、罪は死に当たる。もし武安を与えれば、それは私が彼に主公を殺させたことになる」と言い、召して行軍司馬とした。叔嗣は怒って病と称して来なかった。行逢は「これはまた私を殺そうとするものだ」と言い、そこで偽って武安を与えると称して府に召し、到着した時に人を遣わしてこれを捕らえた。庭下に立たせて「お前は小校でありながら大した功もなく、王逵はお前を用いて団練使とした。ところが一旦裏切って主帥を殺した。私はまだお前を斬るに忍びなかったのに、あえて私の命に逆らうつもりか」と責め、ついにこれを殺した。
- 三年(956年)二月、行逢は自ら武平・武安留後と称し、表を奉じて周に告げた。七月、世宗は行逢に武平軍節度使を授け、武安・静江等の軍事を制置させた。宋の初め、兼中書令を加えられた。建隆三年(962年)十月に卒し、追封して汝南郡王とされた。
- 行逢は元来農家の出で微賤より起こったため、民間の疾苦を知り、精励して治めた。公正で私心がなかった。婿の唐德が官吏の補職を求めた際、行逢は「お前の才は官吏に堪えない。今、お前を私するならそれでよいが、お前が官に居て失態を犯せば、私はあえて法をもって貸すことはできない」と言い、農具を与えて帰した。
- 僚属を辟召する際は皆廉直の士を取り、約束は簡要で、吏民はこれを便とした。自らの生活は非常に質素で、常に「馬氏父子は窮奢極靡であったが、百姓を恤まなかった。今、その子孫は人に食を乞う身となった。それでもなお倣うべきか」と言った。
- 行逢は事に坐したことがあって顔に入れ墨があり、ある者が薬を用いてこれを消すよう勧めたが、朝廷の使者に嗤われることを恐れたためであった。行逢は「私は漢に黥布(顔に刺青のあった英雄)がいたと聞く。それでも英雄たるに害はなかった。私に何の恥があろうか」と言った。
- また性格は勇猛果敢であり、殺戮を好んだ。功をたのんで驕慢な将士は一律に法をもって処断した。大将十余人が乱を謀った時、行逢は諸将を宴に召し、酒が半ばに至って壮士を呼んで彼らを引きずり下ろして斬らせた。全軍は皆畏服した。過ちを犯した民は大小を問わず皆死刑にした。
- 妻の勲国夫人厳氏は「人情には善悪があります。どうして一律に濫りに殺せましょうか」と諫めたが、行逢は怒って「これは外事である。婦人に何が分かろうか」と言った。厳氏は不満に思い、偽って「家の田の佃戸が、あなたがすっかり貴くなられたため農に力を入れなくなったので、見に行きたい」と言った。
- 至ると、そこに住み着いて年を送り、青い裙を身に着けて佃戸を引き連れて租税を城に送った。行逢がこれを止めさせようとしても従わず、「これは官に納める税である。もし主帥の身内だからといって免れさせれば、どうして下の者を率いることができようか」と言った。
- ある日、行逢が彼女のもとを訪れて労い「私は貴くなったのに、夫人はどうして自らこのように苦労するのか」と言うと、厳氏は「あなたは戸長であった頃を思い出されますか。民の租税が期限に遅れれば、常に鞭で打たれる苦しみを受けたものです。今、貴くなられたからといって、どうして畑の間のことを忘れられましょうか」と答えた。
- 行逢は侍女たちに命じて無理やり肩輿に乗せようとしたが、厳氏はついに留まる意志を見せず、「あなたは法の運用が厳しすぎて人心を失っています。留まりたくないのは、もし急に禍が起これば、田野の間の方が逃れて死を免れやすいからです」と言った。行逢はこれによって少し法を緩めた。
- 厳氏は秦人の娘で、父の広逺は馬氏に仕えて評事となり、それゆえ娘を行逢に嫁がせたのである。
- 行逢が死んで保権が立った。
子保権
- 保権は行逢の子である。初め武平軍節度副使であったが、行逢が卒すると、保権は十一歳でありながら大変英爽で胆気があった。宋の太祖は起復検校太尉・朗州大都督・武平軍節度使を授けた。
- これより先、行逢が病篤くなった時、将吏を召して保権を託し、こう言った。「私は隴畝より起こって団兵となり、同時に十人いたが、皆誅殺されて死んだ。ただ衡州の張文表だけが生き残っているが、常に不満を抱き行軍司馬になれずにいる。私が死ねば文表は必ず乱を起こすであろう。楊師璠にこれを討たせるがよい。諸公はよくわが子を補佐し、土地を失わぬようにせよ。もしどうしようもなくなれば、一族を挙げて朝廷に帰順し、虎口に陥ることのないようにせよ」。
- ここに至って建隆三年(962年)十二月、文表が果たして乱を起こした。保権は師璠に衆を率いて文表を討たせ、別に使者を遣わして宋に師を乞うた。折しも江陵の高継冲もまた先にこの事を宋に聞かせていた。
- 翌年春、宋の太祖は中使の趙璲を遣わして詔をもって文表を諭させたが、保権の上奏がその後に続いて到った。そこで山南東道節度使の慕容延釗を湖南道行営南面都部署とし、宣徽院使の李処耘を都監とし、淄州刺史の尹崇珂、申州刺史の聶章、郢州刺史の趙重進、判四方館事の武懐節、氈毯使の張継勲、染院副使の康延澤、内酒坊副使の盧懐忠らを率いて南征させた。また安州・復州など十州の兵を発して襄陽で合流させた。
- 宋の師が江陵に至り、趙璲がまさに潭州に到ろうとした時には、文表はすでに平津亭で大敗し、師璠に捕らえられ臠にして食われていた。
- 保権の牙校張従富らは、文表がすでに平定されたのに宋の師がなお進み続けていることを、襲撃されるのではないかと恐れ、互いに拒み守ろうとした。延釗はそこで閤門使丁徳裕に先行して安撫させたが、城下に到ると、従富らはこれを拒んで受け入れず、部内の橋梁をことごとく撤去し、舫船を沈め、木を伐って道を塞いだ。徳裕は詔を奉じていないとして退軍し、しばらく待った。延釗がこれを上奏すると、宋の太祖は中使を遣わして諭させた。「もとより大軍を発したのはお前たちの苦難を救うためである。妖孽(張文表)はすでに滅ぼされた。これは我が大いなる恩恵をお前たちに施したものである。それなのに逆に王師を拒むのはなぜか。自ら塗炭を招き、重ねて生民を騒がすことのないようにせよ」。急ぎ延釗に進軍を命じた。
- 保権は澧州の南に軍を出したが、交戦するに至らず風を望んで潰走し、朗州に還った。廬舎・廩庫を焼き払い、住民は逃げ惑い城郭は空になった。宋の師はそこで長駆して朗州城を攻め落とし、従富を西山の下で捕らえて南市で梟首した。
- これより先、李処耘は捕虜のうち肥えた者数十人を選んで側近に食わせ、若く強壮な者には入れ墨をして武陵に放ち帰した。武陵の人々は捕らえられた者が宋の師によって次々と臠にして食われたと聞いて、大いに恐れて潰走した。
- 保権は大将汪端に脅されて家族を連れて江の南岸に逃げ隠れたが、宋将の田守竒に捕らえられ連れ戻された。ここに至って武懐節が兵を分けて岳州を攻め落とした。汪端はなお衆を擁して寇掠を続けていたが、まもなく捕らえられ市で磔にされた。湖南はことごとく平定された。
- 周氏が湖南を治めること凡そ二世八年であった。この一戦により、宋は州十五・監一・県六十六、戸九万七千三百八十八を得た。
- 保権は宋に上章して罪を待ったが、太祖は優詔してこれを釈放し、襲衣・金帯・鞍勒馬・茵褥・銀器千両・帛二千匹・銭千貫を賜り、千牛衛上将軍を授けた。京城の旧邸院を修築して邸第とし、そこに居らせた。また朗州に命じて汝南王行逢の墓を増築させた。
- 乾德五年(967年)、保権は右羽林統軍に累遷した。太平興国元年(976年)、并州の知事となり、銭三百万を賜った。雍熙二年(985年)に卒し、享年三十四であった。
- 初め、行逢は淫祀を患いとし、管内の祠廟で前代に功があり民を益した者以外はすべて取り壊させた。しかし保権が立つと、酷く仏教を信じ、毎年僧を斎する大会を四カ所で設け、国の費用を計り知れないほど費やした。また僧を度し寺を建てることが絶えず、さらに群僧を府中に召して講唱させ、自ら炉を執り香を焚いてこれを聴いた。緇衣(僧衣)を着た者を見れば、たとえ三尺の童子であっても必ず地に伏して拝礼した。君子はこれをもって、その治世が永く続かないことを知った。
- また、行逢が死のうとする時、湖南の婦女は皆縫わない□(底本欠字)を着るようになり、これを「散幅」と名づけた。ある者は「福(幅)がすでに破れ散っているのだから、どうして久しく続こうか」と言い、まもなくその身は没し国も亡んで、ついに符讖となった。
史論
- 論じて言う。恭孝王が唐に帰服した時、湖南の半壁はすでに唐の所有となっていたが、将帥が人を得ず、統御の道に背いた。長沙の禍いは武陵に発端し、干戈を揮ってついに十余年の間に、わずか数州が三度も姓を変えるに至った。得ては失い、失っては得て、興廃は定まらなかった。乱を戡定し国を保つ道は、まさに人の謀にあると言えよう。なんと信ずべきことであろうか。