十国春秋卷七十 楚四 列傳 王逵

要約

王逵は武陵の人。若くして静江軍の卒となり、恭孝王希萼に仕えて長沙攻略では先鋒を務めた。だが陥落後、周行逢とともに配下の兵千人を率いて府舎修築の苦役を課され、囚人のように使役される衆の怨みが募ると、これに乗じて明け方、長柄の巨斧で門を斫り破って朗州へ逃げ帰った。留後の王子光贊を廃して王孫光惠を、次いで辰州刺史劉言を推して帥に立て、自らはその副となった。邊鎬の湖南経略に際しては劉言に献策し、周行逢や何敬真ら牙将十人をことごとく指揮使に任じさせて長沙を攻めさせ邊鎬を敗走させたが、その擁立の功を恃みしだいに劉言の下風に立つのを恥じるようになった。周行逢の勧めに従って劉言配下の驍将何敬真・朱全琇を防戦と偽って長沙に招き、酒色でもてなして油断させたうえ、酔ったところを謀って捕縛・誅殺した。広順三年、大兵を率いて武陵を攻め、劉言を幽閉、武平軍節度使・兼中書令となった。逵は礼節にこだわらず車服も王者に擬すほど驕慢となり、旧同僚潘叔嗣を側近の讒言により面罵して深く恨みを買い、鄂州出征中に叔嗣が朗州を急襲すると急ぎ引き返したが敗れて討ち死にした。湖南を治めること三年、劉言と同じであった。

現代語訳全文

出自と長沙攻略

  • 王逵は武陵の人である。若くして静江軍の卒となり、恭孝王に仕えて静江指揮使となった。恭孝王が長沙を攻めた際、逵を先鋒とした。
  • 城が陥ると、逵と副使の周行逢に、その配下の兵千人を率いさせて長沙の府舎の修築に当たらせたが、その使役は非常に苦しく、兵は皆愁い怨んで「囚人でも死は免れれば労役をさせられる。われわれは大王に従い万死を冒して湖南を取ったのに、何の罪があってこのように囚人のごとく使役されねばならぬのか。まして大王は終日酒に酔い歌にふけって、われわれの苦しみを知らぬのか」と言った。
  • 逵と行逢はこれを聞いて互いに「衆の怨みは深い。早く手を打たねば禍が及ぶ」と語り合い、その日の明け方、衆を率いて長柄の巨斧で門を斫り破って朗州へ逃げ帰った。恭孝王はちょうど酔っていて気づかなかった。翌日、初めて将の唐師翥を遣わして追わせたが、武陵で追いつくと師翥は大敗して還った。
  • 逵はついに留後の王子光贊を黜け、王孫の光惠を奉じて節度使とした。まもなくまた光惠を廃して唐に送り、辰州刺史の劉言を推して帥とし、自らはその副となった。
  • 邊鎬が朗州を経略し、劉言を召して朝させようとした際、逵は言に「武陵は江湖の険を負い、甲兵数万を擁している。どうして手をこまねいて人に制されようか。鎬の撫字(統治)には方策がなく、士民は服していない。一戦で擒にできる」と告げた。
  • 言はそこで逵と周行逢、牙将の何敬真・張倣・満公益・朱全琇・宇文瓊・彭萬和・潘叔嗣・張文表の十人をすべて指揮使に任じ、部隊を分けて兵を発し、長沙で鎬を攻めさせた。鎬は敗走した。言は表を奉じて周に臣従した。周は言を武平節度使とし、また逵を武安節度使とした。
  • まもなく逵は擁立の功をたのみ、「言は自分がいなければここまで至らなかった」と考え、その勢いは言の下に立とうとしなくなった。これにより次第に隙が生じ、密かに互いに図ろうとする心が生まれた。
  • これより先、逵が潭州を克した際、何敬真・朱全琇を静江・武安の副使としたが、この二人は言の驍将であった。この頃、敬真は逵と不協和で、全琇と謀って乱を起こそうとした。周行逢は逵に「劉言は元々われわれと同心ではない。敬真・全琇もまた公の下に屈するのを恥じている。早く手を打つべきだ」と告げた。逵は「あなたの言葉がなければ、どうして忘れずにいられよう」と答えた。
  • そこで南漢に侵されていると偽って言い、二将に檄を発して兵を率い防がせようとした。言は性格が愚直でその欺きに気づかず、すぐさま敬真・全琇を遣わした。長沙に至ると、逵はわざと恭敬をよそおって郊外に出迎え、連日宴飲して美しい妓女を贈って歓待した。敬真らはそれによって長逗留し進軍しなかった。
  • 逵は敬真が酔ったところに乗じ、人をやって言の使者と詐り、敵を急いで防がずもっぱら宴に耽っていると咎めさせ、械(かせ)をかけて西府に連れ帰るよう命じた。全琇はそれに続いて逃げようとしたが、兵を遣わして追わせ捕らえ、皆その首を斬って晒した。
  • 広順三年(953年)六月、逵はここに至って大兵を率いて武陵を攻め、その指揮使鄭珓を殺し、劉言を別室に幽閉した。八月、周に上表して言が朗州をもって唐に降ろうと謀っていると誣告し、衆をもってこれを廃したとし、また使府を移して再び潭州を治所とするよう請うた。甲戌、周の太祖は通事舎人の翟光裔を遣わして湖南を宣撫させ、そのまま逵を武平軍節度使・兼中書令に任じた。まもなく言は殺された。
  • 顯德元年(954年)四月、逵はまた使府を請い、なお朗州に徙した。三年(956年)、周の世宗が淮南を征する際、逵を南面行営都統に拝命し、唐の鄂州を攻めさせた。
  • 逵は元来雄豪であり、志を得た後は礼節にこだわらなくなり、車服・制度は王者に擬するほどであった。ある時、岳州の界を通過した際、団練使の潘叔嗣は逵の旧同僚であり、逵を大変丁重に遇した。逵の側近たちは叔嗣にたびたび賂を求めたが、叔嗣は物惜しみして与えなかったため、側近たちはその短所を讒言した。逵はこれを信じて叔嗣を面詈した。叔嗣は恥じ恨んで部下に「逵が戦に勝って還れば、われらは生き残る者はいまい」と語った。
  • 逵は鄂州に入り、まさに長山を攻め落とし、唐将の陳澤らを捕らえていた。二月、叔嗣は兵をもって朗州を襲った。逵はこれを聞いて急ぎ軽舟で帰り、叔嗣と戦って敗死した。
  • 逵は湖南を鎮すること亦三年、言と同じであった。かつて南唐に術士がいて、「南楚の気色は非常に良く、まさに王氏が興るだろう」と言った。当時、永州刺史に除せられていた王温がおり、中主はこれこそその人物だと疑い、使者を遣わして温を征南将軍に拝させ、印綬と巾帯を賜ったが、密かにその巾の中に毒を仕込ませた。使者が到ると、温は拝命して巾を着けたが、まもなく脳が裂けて死んだ。まもなく逵が兵を挙げて長沙を襲い、これを占拠した。まさにその応であった。