十国春秋卷六十五 南漢八 列傳 邵廷琄

要約

邵廷琄は南漢の後主に仕え、官は内常侍であった。大寶の初め、宋がすでに後周の帝統に取って代わっていたことを受け、国が唐末の乱を承けて五十余年、無事に驕り兵は旗鼓を知らぬ有様であることを憂え、真主が既に世に出ており天下を併せ持とうとするであろうと進言し、宋と好を通じるべきと説いた。

後主はこの直言を悪み深く恨んだ。宋の潘美らが郴州を陥落させるに及んで初めて廷琄の言葉を思い出し、招討使に任じて舟兵を洸口に屯させ宋軍を防がせた。廷琄は逃亡者・叛徒を招き集め士卒を訓練し戦具を修めたので、国人はやや安んじた。

ところが讒言する者があり、無名の書を投じて廷琄の謀反を誣告した。後主は急ぎ使者を遣わし廷琄に死を賜り、士卒は軍門に押し寄せ謀反の形跡なしと訴えたが、救えなかった。人々は共に洸口に廟を立て祀った。

史論では、宋軍南征の際、昭州が陥落すると靳暉は捕らえられ田行稠は逃げ、桂州が破れると李承進は城を棄てて逃げ、韶州が潰えると守臣は捕縛され、風を望んで款を納れる者が続出したことが対比される。これに対し彦贇・光圖が郴州を守って屈せず殉じたことを烈とし、廷琄については、禍を未然に防ぐ進言をしながら讒言によって身を喪ったことを深く惜しみ、南漢の滅亡もまた素衣白馬で降伏する日を待つまでもなかったと結ぶ。

現代語訳全文

邵廷琄

  • 邵廷琄は後主に仕え、官は内常侍であった。大寶の初め、宋がすでに後周の帝統に取って代わっていたので、廷琄は機会をとらえて朝廷に進言して言った、「わが国は唐の乱を承けてここに居ること五十余年、幸いにも中国は多事であったため干戈が及ばず、しかしわが国はますます無事に驕り、兵は旗鼓を知らず、人主は存亡を知りませぬ。そもそも天下の乱は久しく、乱が久しければ治まるのは自然の勢いです。近頃聞くところによれば真主(真の天子)が既に世に出ており、必ずや海内をことごとく併せ持とうとするでしょう。その勢いは一天下に留まりません。どうか兵備を整え、かつ使者を遣わして宋と好を通じられますよう」と(一説には「そうでなければ兵を斂めて自守すべし」という)。
  • 後主は廷琄の直言を悪み深く恨んだ。まもなく宋の将、潘美らが郴州を陥落させると、初めて廷琄の言葉を思い出し、廷琄に詔して招討使とし、舟兵を率いて洸口に屯させて宋軍を防がせた。
  • 廷琄は逃亡者・叛徒を招き集め、士卒を訓練し、戦具を修めたので、国人はこれによってやや安んじた。
  • ところが讒言する者があり、無名の書を投じて廷琄が謀反を企てていると誣告した。後主は急いで使者を遣わして廷琄に死を賜った。士卒は軍門に押し寄せ使者に見えて、廷琄には謀反の形跡が無いと訴えたが、救うことができなかった。
  • そこで人々は共に洸口に廟を立てて彼を祀った(『南海古蹟記』に、東莞鎮の象塔禹餘宮使の邵廷琄が禹餘宮を造った、禹餘宮は漢の離宮である、廷琄の官名がここに再び見える、とある)。

史論

  • 論じて言う。宋軍が南征したとき、昭州が陥落すると靳暉は捕らえられ、田行稠は密かに逃げた。桂州が破れると李承進は城を棄てて逃げた。韶州が潰えると辛延渥・卿文逺は捕縛された。その他の二三の守臣も風を望んで欵(まこと)を納れる者が続出した。
  • それに対して彦贇・光圖が郴州を守るや、抗い罵って屈せず、慷慨として難に殉じたのは、烈と言わずして何であろうか。
  • 廷琄に至っては、薪を徙す(禍を未然に防ぐ)進言をしながら讒言(貝錦)によって身を喪った。言葉がその善(臧)であれば全てこれに背き、言葉が不善(不臧)であれば全てこれに依るというのは、まさに後主のことを言うのではないか。
  • 赫赫たる長城を君自らが壊してしまった。ああ、南漢の滅亡もまた、どうして素衣白馬の日(降伏の日)を待つ必要があろうか。