十国春秋十國春秋卷五十八 南漢一 烈宗世家(劉隠)・髙祖本紀(劉龑)

南漢の基を築いた劉隠(?–911年、諡は襄、追尊して烈宗襄皇帝)と、その弟で建国者となった劉龑(初名は巖、のち陟、?–942年、廟号は高祖)の記。祖父の劉安仁は上蔡の人で南海に商い、父の劉謙は広州の牙将から封州刺史となった。隠は父の跡を継いで嶺南の群雄を次々に討ち、後梁に帰属して清海軍節度使・南海王に進み、中原から避難した士人を厚く招いて治の基礎を作った。弟の巖は隠の没後に位を継ぎ、乾亨元年に番禺で帝を称して国号を大越、翌年これを漢と改めた。学校を立て貢挙を行う一方、宮室の奢侈と苛烈な刑罰で知られ、交州経略には呉権に敗れて子を失った。

年表(24件)
  • 乾符五年878年黄巣の広州侵攻ののち、父の劉謙が封州刺史・賀江鎮遏使となり兵一万を擁した
  • 乾寧元年894年父の没後に家督を継ぎ、賀江で乱を謀った者を誅して右都押牙・封州刺史となった
  • 乾寧三年896年端州の譚弘玘と広州の盧琚を討ち、李知柔を迎えて清海行軍司馬となった
  • 天復元年901年徐彦若の遺表で留後を代行したが、虔州の盧光稠の伏兵に城南で大敗した
  • 天祐元年904年梁王朱全忠に取り入り、清海軍節度使に任じられた
  • 開平元年907年梁への勧進の功により検校太尉兼侍中を加えられ、大彭王に封ぜられた
  • 開平四年910年南海王に進封された
  • 乾化元年911年三月、劉隠が薨じた。三十八歳。のち襄皇帝と追尊され、廟号を烈宗という
  • 乾化元年911年弟の陟が節度使を継いで名を巖に復し、中国の人士を招いて刺史に用いた
  • 乾化三年913年梁末帝から清海・建武節度使兼中書令に任じられ、南平王を襲封した
  • 貞明元年915年南越王への進封を拒まれたことを恨み、梁への朝貢を絶った
  • 乾亨元年917年番禺で皇帝に即位して国号を大越とし、乾亨と改元して三廟を建てた
  • 乾亨二年918年南郊を祀って大赦し、国号を漢と改めた
  • 乾亨四年920年楊洞潜の請いにより学校を立て、貢挙を置いて進士・明経を及第させた
  • 乾亨八年924年自ら兵を率いて閩を侵し汀・漳の境に駐屯したが、閩人に破られて帰った
  • 乾亨九年925年白虹が白龍に変じた瑞に因んで白龍と改元し、名を龑と改めた
  • 大有元年928年楚が封州を囲むと蘇章が賀江で楚軍を大破し、占いに因んで大有と改元した
  • 大有三年930年梁克貞らが交州を抜いて静海節度使の曲承美を捕らえ、占城の宝貨も得た
  • 大有四年931年楊廷芸が交州を奪回し、逃げ帰った李進は殺され、救援の程宝は戦死した
  • 大有五年932年耀枢・弘度・弘熙ら十九人の子をそれぞれ王に立てた
  • 大有七年934年金銀珠玉で飾った昭陽殿を造り、秦王弘度に六軍を判じさせた
  • 大有十一年938年交州へ救援に向かった子の弘操が、呉権の白藤江の伏杭に敗れて戦死した
  • 大有十四年941年讖書を憚り、「飛竜天に在り」の意で「龑」の字を作って名とした
  • 大有十五年942年三月、没した。五十四歳。諡は天皇大帝、廟号は高祖、陵は康陵という

烈宗世家

出自と父・劉謙

  • 烈宗は姓を劉、名を隠という。祖父の劉安仁は上蔡の人。のちに閩中へ移り、南海で商いをしたことから泉州の馬鋪に居を構え、死後そこに葬られた。
  • 父の劉謙は広州の牙将であった。
  • 唐の乾符五年(878年)、黄巣が広州を攻め落として去り、湘・湖の間を掠めた。広州は上表して謙を封州刺史・賀江鎮遏使とし、梧・桂以西を防がせた。一年余りで兵一万・戦艦百艘を擁した。謙の三子は隠・台・巖である。

家督相続と嶺南での台頭

  • 乾寧元年(894年)冬、謙が没した。隠が賀江で喪に服していると、士民百余人が乱を謀ったが、隠は一夜のうちにこれをことごとく誅した。
  • 嶺南節度使の劉崇亀は隠を召して右都押牙兼賀水鎮使に補し、まもなく上表して封州刺史とした。
  • 崇亀が没し、乾寧二年(895年)に薛王李知柔が代わって清海軍節度使となった。三年(896年)冬十二月、知柔が湖南まで来たとき、広州の牙将である盧琚と譚弘玘が乱を起こし、知柔は進めなくなった。
  • 弘玘は端州を守っていたが、隠と深く結ぼうとして娘を娶わせると約した。隠は表向き承知し、迎えに行くと偽って封州の兵を舟に伏せ、夜に端州へ入って弘玘を斬った。さらに広州を襲って琚を斬り、軍容を整えて知柔を迎え入れ、政務に就かせた。知柔は上表して隠を清海行軍司馬とした。
  • 光化元年(898年)冬十二月、韶州刺史の曾衮が広州の将である王懐と結んで広州を攻めたが、隠は一戦でこれを破った。韶州の将である劉潼が滇・浛に拠ると、隠は部下の兵で殲滅した。
  • 数年後、唐は太保・門下侍郎の徐彦若を知柔に代えた。彦若は上表して隠を節度副使とし、軍政を委ねた。

盧光稠との戦い

  • 天復元年(901年)冬、彦若が没し、遺表で隠を留後代行に推薦した。
  • 虔州の盧光稠は数万の衆を擁して州に拠り自ら刺史となり、さらに韶州を取って子の延昌に守らせ、進んで潮州を囲んだ。隠は次第にこれを撃退し、全軍を挙げて韶州を争おうとした。
  • 弟の陟は「延昌には虔州の後ろ盾がある。攻めれば虔州の兵が必ず応じ、応じれば前後に敵を受ける。正面から攻めるべきではなく、計略で取るべきだ」と諫めたが、隠は聞かなかった。
  • 折しも川が増水して兵糧の輸送が続かず、光稠は果たして虔州から兵を率いて来た。その将の譚全播は精兵一万を山谷に伏せ、挑発して戦い、隠が追撃したところで伏兵が発し、隠の軍は城南で大敗して、隠はかろうじて身一つで逃れた。

後梁への帰属と栄爵

  • 天祐元年(904年)、唐は兵部尚書の崔遠を清海軍節度使としたが、遠は江陵まで来て嶺南に盗賊が多いと聞き、また隠を恐れて赴任しなかった。隠は使者を朝廷に送り、梁王の朱全忠に賄賂を贈って地位を固めた。全忠は奏して隠を清海軍節度使とした。
  • この年、隠は佛哲国・訶陵国・羅越国が貢いだ香薬を唐に進上した。
  • 天祐二年(905年)、唐は隠に同平章事を加えた。
  • 二年後、梁王全忠は名を晃と改めて皇帝を称し、開平と改元した。隠はかねてしばしば上書して即位を勧めていたので、擁立の功により開平元年(907年)夏五月己卯、検校太尉兼侍中を加えられ大彭王に封ぜられた。同月、梁は詔して潘州茂名県を越常県と改めさせた。
  • 同年冬十月、軍費を助ける銭二十万を梁に献じ、さらに竜脳の腰帯・真珠の枕・玳瑁の器など百余組、その他も同様に進上した。
  • この年、静海節度使の曲裕が没した。梁は裕の子で行営司馬の曲顥に留後を代行させ、喪を切り上げて安南都護・節度使に任じた。

開平二年(908年)以後

  • 冬十月辛酉、梁は膳部郎中の趙光裔と右補闕の李殷衡を官告使に充て、隠を清海・静海等軍節度使・安南都護とする詔を伝えさせた。隠は光裔と殷衡を留めて帰さなかった。
  • 開平三年(909年)夏四月庚子、梁は隠を南平王に改封した。
  • 開平四年(910年)春二月、隠は弟の陟に兵を率いさせて高州を攻めさせたが、防禦使の劉昌魯が防いで敗れた。さらに兵を移して容州を攻めたが、寧遠節度使の龐巨昭が防いで落とせなかった。この年、二州はいずれも楚のものとなった。
  • 同年夏四月、梁は隠を南海王に進封した。

死と評

  • 乾化元年(911年)春正月、梁は隠に中書令を兼ねさせた。三月、隠は重病となり、弟で清海・静海節度副使の陟に留後を代行させるよう上表し、丁亥に薨じた。三十八歳。諡は襄。乾亨元年(917年)に襄皇帝と追尊され、廟号は烈宗、陵は徳陵という。
  • 烈宗父子は封州から起こり、多難の世に嶺南でしばしば功を立て、ついに海南を領有した。烈宗はまた賢者を好み士に謙った。
  • 当時すでに天下は乱れ、中原の人士は嶺外が最も遠く難を避けられるとして多く赴いた。唐代の名臣で南方に流されて死んだ者の子孫や、当時の官人で乱のため帰れなくなった者が嶺表に寄寓していた。王保定・倪曙・劉濬・周傑・楊洞潜らを烈宗はみな礼をもって招き、趙光裔・李殷衡は使者として来たのをそのまま幕府に置いて賓客として遇した。後にこれらの人々を用いて治を成したという。

髙祖本紀

出自と嗣立

  • 高祖は名を龑といい、初めの名は巖。代祖(劉謙)の庶子で、母は段氏。巖を外の家で生んだが、武皇后が段氏を殺して自分の子として養った。
  • 長じて騎射に巧みで、身長七尺、手を垂らすと膝を過ぎた。烈宗が行軍司馬であった頃、巖も薛王府咨議参軍に招かれ、まもなく名を陟と改めた。烈宗が両鎮の節度使を兼ねると、陟を副使に推した。
  • 当時、交州の曲顥、桂州の劉士政、邕州の葉広略、容州の龐巨昭がそれぞれ管内に割拠し、盧光稠は虔州に拠って嶺上を攻め、その弟の光睦は潮州に、子の延昌は韶州に拠った。高州の劉昌魯、新州の劉潜および江東の七十余の砦も多くは制御できなかった。
  • 烈宗はそこで軍事をすべて陟に任せ、陟は諸砦をことごとく平らげ、降す者は降し逃げる者は逃がし、その間に官属を置き換えて嶺表に雄視した。
  • 烈宗の臨終に際し、陟は遺命を奉じて清海軍留後を代行した。乾化元年(911年)三月のことである。

乾化元年(911年)

  • 夏五月甲辰、梁は陟を清海軍節度使とした。陟は名を巖に復した。
  • 巖は中国の人士を多く幕府に招き、外に出しては刺史としたので、これ以降、刺史に武人はいなくなった。
  • 冬十一月、広州で白鹿を獲た。巖は絵に描いて梁に献じた。耳に二つの欠けがあった。
  • 十二月、巖は虔州の譚全播が病んだと聞いて兵を出し韶州を攻めて破った。刺史の廖爽は楚へ出奔した。戊午、梁は静海留後の曲承美を節度使とした。同月、巖は容管および高州を取った。
  • この年、閩が員外郎の崔(名は欠字)を遣わして我が先王(烈宗)を祭った。

乾化二年(912年)

  • 夏四月、梁は我が兵と楚が相攻めているとして、右散騎常侍の韋戩らを潭・広の和平調停使とし、あわせて巖に検校太保・同平章事を加えた。
  • この年、使者を遣わして金銀・犀角・象牙・雑宝貨・名香などを梁に貢いだ。その価は数十万に及んだ。梁は客省引進使の韋堅を返礼に遣わし、堅の帰還に際してさらに銀・茶などを献じ、その価は合わせて五百余万に及んだ。
  • 広州が白龍の出現を報じた。

乾化三年(913年)

  • 春正月、梁は巖に検校太傅を加えた。
  • 二月、梁主の朱鍠(末帝)が即位し、巖を清海・建武節度使兼中書令に任じ、南平王の封を襲がせた。
  • 冬十月、楚王の娘を妻に求め、楚王馬殷が承知した。

乾化四年(914年)

  • 春二月、王は供軍巡官の陳用拙を呉越へ遣わした。
  • この年、鬱林州の宝圭洞で、玉宸道君および葛真人の石像を南海に迎え、石室に安置した。

貞明元年(915年)

  • 秋八月、王は楚へ赴いて花嫁を迎えた。楚は永順節度使である王の弟の馬存に迎えさせた。
  • 冬十一月乙丑、梁は貞明と改元した。この年、梁主は名を瑱と改めた。
  • 王は、梁が呉越王銭鏐を国王としながら自分は郡王にとどまるのを不満とし、梁に南越王への封と都統の加号を求めたが、梁主は許さなかった。王は僚属に「いま中国は入り乱れて誰が天子か分からぬ。どうして万里の山海を越えて遠く偽りの朝廷に仕えられようか」と言い、これより朝貢の使者は絶えた。

貞明二年(916年)

  • 記事なし。

乾亨元年(917年)

  • 秋八月癸巳、王は番禺で皇帝に即位し、国号を大越、大赦して乾亨と改元した。
  • 梁の官告使であった趙光裔を兵部尚書・節度副使、楊洞潜を兵部侍郎・節度判官、李殷衡を礼部侍郎とし、いずれも同平章事を兼ねさせた。また唐の太学博士であった倪曙を工部侍郎とし、まもなく尚書左丞に改めた。百官を置いた。
  • 三廟を建て、祖父の安仁を太祖文皇帝、父の謙を代祖聖武皇帝、兄の隠を烈宗襄皇帝と追尊した。
  • 広州を興王府と改め、南海を咸寧・常康の二県に分けた。また循州の治を龍川県に移し、循州帰善県に禎州を置いて帰善・海豊・博羅・河源の四県を属させた。興寧県を斉昌府に昇格させ、合浦県の地に常楽州を立て、あわせて博電・零緑・塩場の三県を置いて属させた。峻霊山を峻霊王に、儋州昌化県の山を鎮海広徳王に封じた。
  • 冬十月、帝は客省使の劉瑭を呉へ遣わして即位を告げ、あわせて呉王に帝を称するよう勧めた。
  • この年、閩王が子の王延鈞のために嫁を迎えに来たので、帝は娘の清遠公主を閩に嫁がせた。
  • 乾亨重宝銭を鋳造した。玉堂珠殿を建てた。

乾亨二年(918年)

  • 冬十一月、帝は南郊を祀り、大赦して国号を漢と改めた。
  • このとき国費が不足したので、鉛銭も鋳造し、十枚を銅銭一枚に当てた。

乾亨三年(919年)

  • 春正月、越国夫人の馬氏を皇后に冊立した。
  • 秋九月丙寅、梁は帝の南平王の官爵を削り、呉越に檄して兵を出し討伐させようとしたが、呉越王は命を受けたものの動かなかった。

乾亨四年(920年)

  • 春三月、帝は兵部侍郎の楊洞潜の請いに従い、初めて学校を立て、選部を置いて貢挙を行い、進士・明経十余人を及第させた。唐の旧例に倣い、以後毎年の恒例とした。
  • 冬十二月、使者を遣わして蜀と好を通じた。
  • この年、興王府の湞陽県を割いて英州を置き、韶州の保昌県に雄州を置いた。
  • この年、文徳殿が完成し、著作郎の陳光乂が賦を献じて珠数斤を賜った。

乾亨五年(921年)

  • 夏六月丁卯朔、日食があった。
  • この年、尚書左丞の倪曙を同平章事とした。

乾亨六年(922年)

  • 夏四月、帝は術者の言に従い、災を避けるため巡幸して梅口鎮に赴いた。閩の将である王延美が兵を率いて襲おうとしたが、斥候の報せで帝は夜のうちに逃れて難を免れた。
  • このとき帝は平頂の帽を作ってかぶり、国中の風俗が一変して、みな安豊頂を好むようになった。

乾亨七年(923年)

  • 夏四月己巳、晋王の李存勗が皇帝に即位し、国号を大唐、同光と改元した。
  • 冬十月辛未朔、日食があった。同月、越常県をまた茂名県に戻した。

乾亨八年(924年)

  • 夏四月、帝は自ら兵を率いて閩を侵し、汀・漳の境に駐屯したが、閩人に撃破されて帰った。
  • この年、南宮を造った。王定保が「南宮七奇賦」を献じてこれを讃えた。

乾亨九年(925年)=白龍元年

  • 春正月、宮苑使の何詞を唐へ遣わし、「大漢国王、書を大唐皇帝に致す」と称させ、あわせて強弱を探らせた。二月甲申、詞は魏に至り、帰って唐主は驕り淫らだと報告した。帝は大いに喜び、これ以後は中国と通じなくなった。
  • 帝はことのほか誇示を好み、嶺北の商人が南海に来ると多く召して宮殿に上らせ、珠玉の富を見せつけた。自ら「家は本と咸秦(関中)にあり、蛮土に王たるのは恥だ」と言い、唐の天子を「洛州刺史」と呼んだ。
  • 夏四月癸亥、日食があった。
  • 冬十二月、白い虹が白龍に変じて南宮の三清殿に現れた。帝は乾亨九年を白龍元年と改元し、名を龑と改めた。
  • 長和国の驃信である鄭仁旻が布燮の鄭昭淳を遣わして朱鬃の白馬を贈り婚を求めた。帝は襄帝(烈宗)の娘である増城公主を嫁がせた。長和とは唐の南詔である。

白龍二年(926年)

  • 夏四月、唐主が弑されて没し、李嗣源が即位して天成と改元した。
  • 秋八月乙酉朔、日食があった。

白龍三年(927年)

  • 秋八月乙卯朔、日食があった。
  • 冬十二月、帝は康州へ行幸した。

大有元年(928年)

  • 春二月丁酉朔、日食があった。
  • 三月、楚が水軍を大挙して侵入し封州を囲んだ。帝は『周易』で占い大有の卦を得たので、大赦して大有と改元した。左右街使の蘇章に戦艦百艘を率いさせて封州を救わせ、賀江で楚軍を大敗させた。帝は章を封州団練使に遷した。
  • このとき欽州の民が羅浮山を掘って古剣を得て献じた。篆文に「已と水と宮を同じくし、王将た耳口尹を同じくして来たりて口上の山に居り、山岫護ること重重たり」とあった。
  • この年、長和の鄭仁旻が丹薬を服用して死んだ。

大有二年(929年)

  • 記事なし。

大有三年(930年)

  • 秋九月、将の梁克貞・李守鄘を遣わして交州を伐ち、これを抜いて静海節度使の曲承美を捕らえ、その将の李進に守らせた。
  • 冬十月、克貞は占城に入り、その宝貨を取って帰った。
  • 承美が南海に至ると、帝は儀鳳楼に登って捕虜を受け、承美に「そなたは常々我が国を偽りの朝廷と呼んでいたが、いま縛られているのはなぜか」と詔した。承美は叩頭して死を請い、帝はその罪を赦した。

大有四年(931年)

  • 冬十一月甲申朔、日食があった。
  • 十二月、愛州の将である楊廷芸が叛いて交州を攻めた。廷芸はかねて仮子三千人を養い、ひそかに交州奪回を図っていたが、守将の李進は賄賂を受けて報告しなかった。
  • ここに至って帝は承旨の程宝に兵を率いて救援させたが、到着前に城は陥ち、進は逃げ帰った。帝は進を殺した。宝は交州を囲んで戦死した。

大有五年(932年)

  • 夏四月庚辰、熒惑が積尸を犯した。
  • この年、帝は子を諸王に立てた。耀枢を雍王、亀図を康王、弘度を賓王、弘熙を晋王、弘昌を越王、弘弼を斉王、弘雅を韶王、弘沢を鎮王、弘操を万王、弘杲を循王、弘暐を恩王、弘邈を高王、弘簡を同王、弘建を益王、弘済を弁王、弘道を貴王、弘照を宜王、弘政を通王、弘益を定王とした。まもなく弘度を秦王に移した。

大有六年(933年)

  • 秋九月辛巳、太白が右執法星を犯した。

大有七年(934年)

  • 春(月は欠字)、帝は内宮に昭陽殿を造った。殿は金を天井に、銀を床に用い、軒・柱・垂木にはすべて白金を張った。殿下には水路を設けて真珠を沈め、また水晶と琥珀を琢って日月を作り、東西の玉柱の上に据えた。帝は自ら額の文字を書いて掲げた。
  • 秋七月、左僕射の何瑱を遣わして呉越国王を祭らせた。
  • 冬十二月辛巳、皇后の馬氏が没した。
  • この年、帝は秦王弘度に六軍を判じさせた。弘度は小人どもと親しんだので、同平章事の楊洞潜が厳しく諫めたが帝は聞かなかった。洞潜は病と称して退き、久しく召されぬまま没した。

大有八年(935年)

  • 春三月、四つの星が斗宿に集まった。

大有九年(936年)

  • 夏四月、帝は将の孫徳威を遣わして楚の蒙・桂二州を侵させた。楚王が自ら歩騎を率いて防ぎ、我が兵は蒙州から引き揚げた。
  • 冬十月、宗正卿兼工部侍郎の劉濬を中書侍郎・同平章事とした。
  • 十一月丁酉、契丹主が石敬瑭を天子に立て、国号を晋、天福と改元した。

大有十年(937年)

  • 春三月、帝の病が癒えたので大赦した。
  • 交州の牙将である皎公羨が安南節度使の楊廷芸を殺して代わった。
  • 冬十月、唐(南唐)が使者を遣わして即位を告げてきた。

大有十一年(938年)

  • 春正月己酉朔、日食があった。
  • 冬十月、楊廷芸の旧将である呉権が愛州から挙兵して皎公羨を攻めた。公羨は賄賂を送って援兵を乞うた。
  • 帝は乱に乗じて交州を取ろうと、子の万王弘操を静海軍節度使として交王に改封し、兵を率いて救援させ、自らも軍を率いて海門に駐屯して後詰とした。弘操は戦艦を率いて白藤江から交州へ向かった。
  • 折しも権はすでに公羨を殺しており、兵を率いて迎え撃った。権はあらかじめ河口に大きな杭を多数打ち込み、先端を尖らせて鉄をかぶせておいた。そして軽舟を潮に乗せて挑戦させ、偽って逃げて誘った。我が軍が舟を追って進んだところ、潮が引いて戦艦はみな鉄の杭に引っかかって戻れなくなり、大敗して溺死者は数知れず、弘操も戦死した。帝は激しく慟哭し、残兵を収めて引き揚げた。

大有十二年(939年)

  • 秋七月庚子朔、日食があった。
  • (月は欠字)、諫議大夫の李紓を楚へ遣わして旧好を通じ、楚も使者を送って来聘した。
  • この年、門下侍郎・同平章事の趙光裔が没した。帝はその子で翰林学士承旨・尚書左丞の趙損を門下侍郎・同平章事とした。

大有十三年(940年)

  • 冬十月、都官郎中の鄭翺を唐へ遣わして仁寿節を賀した。
  • 十一月丁丑の望、月食があった。
  • この年、同平章事の趙損が没した。寧遠節度使の王定保を中書侍郎・同平章事としたが、まもなく彼も没した。

大有十四年(941年)

  • 夏五月、太尉・工部侍郎の盧膺、尚儀の謝宜清、尚衣の高素清を呉越へ遣わし、亡き王の弟である銭伝璛の妻であった馬氏を娶りたいと求めたが、実現しなかった。
  • 十二月、帝は病床に就いた。ある蕃僧が「讖書に劉氏を滅ぼす者は龔である、とあり、陛下の御名は甚だ不吉です」と言った。帝はそこで「龑」の字を新たに作って名とした。『周易』の「飛竜天に在り」の意を採り、「儼」と読ませた。
  • この年、使者の区延保を遣わして唐に聘した。

大有十五年(942年)

  • 春三月、帝は不予となった。子の秦王弘度と晋王弘熙がともに驕り放埒であるのに対し、越王弘昌は孝行で慎み深かったので、右僕射兼西御院使の王翷と謀り、弘度を邕州に、弘熙を容州に出鎮させて弘昌を立てようとした。議が定まったところへ崇文使の蕭益が見舞いに来た。帝が相談すると、益は嫡子を長幼の順で立てる義を固く主張したので、取りやめとなった。
  • 丁丑、帝は没した。五十四歳。諡は天皇大帝、廟号は高祖。陵は康陵といい、興王府城の東二十里の漫山にある。陵の中は鉄で固められ、開けることができない。

高祖の人となり

  • 高祖が生まれたとき、日者が見て代祖に「公の諸子のうち、末の子が最も貴い」と言った。
  • 人となりは弁が立ち観察に鋭く権謀に富み、性として奢侈を好んだ。南海の珍宝や翡翠の羽をすべて集めて宮室を飾り、殿閣や秀華の諸宮を建てて壮麗を極めた。
  • 晩年に南薫殿を作り、柱はすべて透かし彫りにし、礎石ごとに香炉を置いて香を焚き、香気はあっても形は見えないようにした。左右を顧みて「隋の煬帝は車を論じて沈水香を焚いたというが、かえって粗雑だ。私の二十四具が仙人の技を秘めているのに及ぶまい。堯・舜・禹・湯には及ばずとも、風流天子であることに変わりはない」と言った。
  • また刑罰が残酷で、殺戮をためらわなかった。湯釜や鉄の寝台などの道具を備え、鼻に水を灌ぐ、舌を切る、四肢を裂く、肉を抉る、炙る、煮る、蒸すといった刑法があった。ときには水中に毒蛇を集めて罪人を投げ込み、「水獄」と呼んだ。あるいは湯釜にかけた後さらに日に晒し、塩と酢をかけると、肌は腐り爛れてもなお歩き立つことができ、長い時間をかけて死んだ。
  • 槌や鋸を交互に使えば血肉が飛び散り、無念の叫びが庭に満ちた。帝は必ず便殿に簾を垂れて見物し、涎を垂らして喉を鳴らし、思わず口を動かした。役人は帝が常態に戻るのを待ってから罪人を引き下げた。人々は帝を「まことの蛟蜃(人を呑む水の怪物)」と評した。
  • 後にはとりわけ猜疑が強くなり、士人は子孫のことを考えて動くと見て、もっぱら宦官を任用した。これによって国中で宦官が大いにはびこった。

史論

  • 論に曰く。私は南漢の逸事を採録して、先主が人を殺すのを見るたび喜びを抑えられず、さらに水獄・湯釜・鋸引き・皮剥ぎ・炙りの刑を作ったことに至り、思わず巻を閉じて嘆じた。『十国世家』に「牢の犠牲を人のごとく見なし、嶺南の民は劉氏に遭う」とあるのは、決して誇張ではない。五代の世、中原は次々に変わり民の生活は困窮の極みにあった。わずかな広南の地にあって徳を施さず無辜に虐政を及ぼしたのは、天が乱に飽きず、わざわざ手を借りてこの一方の民を苦しめたということか。そうでなければ、国を三世に伝え六十年の年を保ったことを、私は彭城劉氏のために説明できない。