十国春秋十國春秋卷五十七 後蜀十 列傳(術士・宦官・佞臣・僧道)

巻の構成

  • 後蜀十。呉任臣(検討官)の撰。列伝として周仲明・胡韞・虞洮、楊千度、梁守珍、安思謙・王昭遠・趙彦韜、僧曉微・僧可朋・僧仁顯・僧曇城・僧曉巒、杜仁傑・楊僊公・黄萬戸・申天師・馮僊・彭曉・丁元和・韋昉・屈突無為を収める。

周仲明

  • 家系は不明。成都に住み、術数で名を知られた。
  • 明徳元年(934年)、高祖の病が危篤になったとき、司空の趙季良が仲明を召し、高祖の寿命はどれほどかと問うた。仲明は「陛下は真の王となり蜀を二十年領するはずでしたが、帝位に登られた以上、寿命の助けにはなりません」と答えた。
  • 季良が「周公が武王の身代わりを祈った金縢のようなことはできぬか」と問うと、仲明は「これは天数であって人力の及ぶところではない」と答えた。
  • 季良がさらに国の命運の長短を問うと、仲明は「二紀(二十四年)の後に真人が現れ、天下は一統されるでしょう」と答えた。後にその言葉はいずれも的中した。

胡韞

  • 天文の学に精しく、明徳年間の初めに司天少監に任じられた。
  • 明徳三年(936年)、熒惑(火星)が積尸星を犯した。後主は積尸が蜀の分野に当たると考えて恐れ、祓いをしようとして韞を召して問うた。
  • 韞は答えた。十二次では井宿五度から柳宿八度までが鶉首の一次であり、鶉首は秦の分野である。蜀は秦に属するとはいえ、その極南の端にすぎない。前代でも火星が鬼宿に入った応験は多く秦にあった。晋の咸和九年(334年)三月に火星が積尸を犯し、四月に雍州刺史の郭権が殺された。義熙十四年(418年)に火星が鬼宿を犯し、翌年に雍州刺史の朱齢石が殺されたが、蜀はいずれも無事であった、と。後主はそこで祓いをやめた。

虞洮

  • 蜀の人。『霊枢』『素問』の医家の説を学んで名があった。
  • 高祖が西川を鎮していた頃、董璋が長く消渇の病に苦しみ、押牙の李彦を遣わして医者を求めた。高祖は洮を差し向けた。
  • 洮が梓州に着くと璋は「百人の医者にかかっても少しもよくならないのはなぜか」と尋ねた。洮は「公の病は水を渇望するだけでなく、実は士を渇望しておいでです。士を得れば薬なしで癒えましょう」と答え、璋は大いに喜んだ。当時、璋は東川に拠る志を抱いていたので、洮は言葉に託して探りを入れたのだが、璋は気づかなかった。
  • 洮はさらに論じた。天に六気があり、降って六淫となり、六淫が六疾を生んで六腑を害する。六気とは陰・陽・風・雨・晦・明であり、六淫はこれに従い、六疾とは寒熱が腹に入り心を侵すもので、六腑はこれに従う。心は離宮、腎は水の蔵であり、明暗の労苦から百病が生じる。おおよそ見聞きすることが煩わしければ必ず損なわれる。心が煩わしければ乱れ、事が煩わしければ変事が起き、機が煩わしければ好機を失い、兵が煩わしければ反乱が起きる。五音が煩わしければ耳を損ない、五色が煩わしければ目を損ない、美味が過ぎれば病を生じ、男女の交わりが過ぎれば寿命を縮める。古の男子は皆これを戒めた。公はいま万の思案を抱え、日々万機に追われ、外では音曲に、内では女色にふけっておられる。渇の病が癒えにくいのはそのためではないか、と。璋は感心して洮を帰した。

楊千度

  • もと役者で、市中で猿の芸を得意とし、常に十数頭を飼って人の言葉を覚えさせていた。
  • ある日、内厩の猿が綱を切って殿上の閣に逃げた。後主が人に射させたが当たらず、千度に捕らえるよう命じた。千度が謝恩を終えると、十数頭の猿がみな殿上に向かって手を組んで拝礼した。後主は大いに喜び、千度に緋の衫と銭帛を賜り、教坊に召し入れた。
  • ある宦官が、猿がなぜ人語を解するのかと問うと、千度は「猿は獣で実は人語を解しません。私は常々霊砂を与えて獣の心を変え、それから教えるのです」と答えた。宦官はその説をたいそう訝った。好事家はその趣旨をまねて、霊砂を鸚鵡や犬・鼠に与えて調教した。

梁守珍

  • 後主のときの宦官。広政年間、毎年十二月になると内官がそれぞれ羅で作った輪や金の花の木を献じ、きらびやかさを競った。
  • 守珍は後主の心をつかもうと、忘憂の花を採ってその上に金糸を施し、「独立仙」と名づけた。皆これに及ばないとした。

安思謙

  • はじめ高祖に仕えて茶酒庫使となった。後主が即位すると張公鐸らとともに李仁罕を讒言して殺させ、これによって次第に登用された。まもなく山南西道節度使に抜擢された。
  • 広政年間、また張業を都堂で誅殺するのに加わった。さらに旧将をすべて除こうと謀り、趙廷隠の地位に代わろうとして、密かに廷隠が謀反したと告げたが、李廷珪が力を尽くして救ったため事なきを得た。
  • まもなく兵を率いて鳳翔を救援したが、長く功なく、まず糧を運んで後図を策すよう請うた。後主は興州の米を送ったものの、この時から思謙を疑い、側近に「思謙が朕のために進んで功を取ろうとするか、見ておれ」と言った。
  • まもなく思謙は鳳州で処分を待ったが、後主は不問に付した。成都に帰ってからは左匡聖馬歩都指揮使・保寧軍節度使を領した。
  • 思謙はこの頃から次第に恥じ恐れて落ち着かなくなった。宮門が戒厳されたとき、自分を狙うものと思い込んで不遜な言葉を発し、しかも宿衛の兵を統べる立場で多くを誅殺して威と恩を誇示した。
  • 当時、壮年でありながら思謙に退けられた衛士がいたが、後主は名簿に留めるよう命じた。思謙は別の罪を着せてこれを殺した。後主の不満は積もった。
  • 思謙の子である安扆・安嗣裔らも父の威を笠に着て国中で横暴を働いた。思謙が入朝したとき、後主は力士に撲殺させ、あわせてその子らも誅した。広政十七年(954年)春二月のことである。

王昭遠

  • 成都の人。幼くして父を失い貧しく、十三歳のとき東郭の僧である智諲のもとに童子として身を寄せた。
  • 高祖が西川を鎮していたとき、府署で僧に斎を供した。昭遠は手ぬぐいと履を持って智諲に従って入り、高祖はその利発さを愛した。当時、後主は勉学中であったので、昭遠を側近に留めて仕えさせ、たいそう親しまれた。
  • 後主が即位すると捲簾使とし、まもなく茶酒庫使に遷した。
  • 広政十一年(948年)、枢密使の王処回が私邸に退けられた。後主は枢密使の権が重く制御しがたいと考え、昭遠を通奏使・知枢密院事とし、機務をすべて委ねた。府庫の金帛も思うままに取らせて咎めなかった。
  • 眉州刺史を領し、永平軍節度使として出た。数か月後、昭武の李継勲が眼病で職務に堪えず、閑職に移す議が起きると、昭遠はただちに永平を継勲に譲った。一年余り後に寧江軍節度使を授かった。
  • 李太后はしばしば穏やかに昭遠を用いるべきでないと言ったが、後主は従わなかった。まもなく山南西道節度使・同平章事を兼領した。参内して謝するとき通奏の職の解任を求め、左街使の張仁貴を副使・知枢密として代わらせた。
  • 昭遠は兵書を読むのを好み、自ら方略に自信を持っていた。それ以前、後主が宋に使者を通じようとしたとき、昭遠は不可と強く争った。
  • 折しも判官の張廷偉が昭遠に、并州(北漢)と好を通じ、南下させて我が方も黄花・子午谷から兵を出して呼応せよと説いた。昭遠はこれを容れ、後主に密かに北漢と約して宋を掣肘するよう勧めた。
  • 宋軍が境内に入ると、昭遠は趙崇韜とともに兵を率いて防いだ。成都を出発するとき、後主は左僕射の李昊らに郊外で送別させた。昭遠は酒に酔って腕をまくり、「この行は敵を破るどころではない。この二、三万の刺青の悪童どもを率いて中原を取るのは掌を返すようなものだ」と豪語した。行軍中は鉄の如意を手に軍事を指揮し、意気揚々として自らを諸葛亮に比した。
  • 漢源に至って剣門が既に破られたと聞くと、腿は震え顔色を失い、言葉も乱れた。崇韜が陣を敷いて戦おうとしたとき、昭遠は胡床に座り込んで立てなかった。まもなく崇韜が敗れると、兜を脱ぎ鎧を捨てて東川へ逃げ、倉庫の下に隠れ、嘆き悲しんで泣き続け目が腫れ上がり、ただ羅隠の「運去りては英雄も自由ならず」の句を口ずさむばかりであった。
  • まもなく追撃の騎兵に捕らえられて汴京へ送られた。宋の太祖が「なぜ孟昶をそそのかして劉鈞と結ばせたのか」と詰問すると、昭遠は「臣は愚かで無知でしたが、ただ本国に忠を尽くしただけです」と答えた。太祖は釈放して左領軍衛大将軍を授けた。
  • はじめ昭遠が辺境を巡って文州に至ったとき、古い墓に生けるがごとき屍を見た。大中年間の文州歩軍都虞候であった文和の墓であった。昭遠は改葬させた。その夜、夢に文和が現れ「私は既に太乙真人の侍者となった。あなたには兵刀の厄があるはずだが、私を葬ったので禍を免れられる」と告げた。ここに至ってその通りとなった。昭遠は開宝年間に没した。

趙彦韜

  • 興州順政の人。本州の義興軍裨校であった。広政年間の末、後主は彦韜を興国軍討撃使の孫遇および楊蠲とともに宋への間諜として遣わした。
  • 汴に着くと彦韜はひそかに後主が北漢に宛てた蝋丸入りの帛書を持ち出して報告し、あわせて両川を取れる情勢を述べた。
  • 宋の太祖は遇と蠲もあわせて赦し、兵を挙げて西へ入り、彦韜を嚮導とした。まもなく興州を陥れると彦韜を本州馬歩軍都指揮使とし、さらに本州刺史に遷し、澧州に移した。
  • 彦韜は凶暴軽率で不法な行いが多かった。管内の民に盗賊に財物を奪われたと訴える者があり、取り調べて事実でないと分かると、彦韜は自ら手を下して殺し、心臓と肝を抉り取った。民が汴に赴いて冤を訴え、宋の太祖は大いに怒って杖刑に処し蔡州へ配流した。

史論

  • 論に曰く。安思謙は功ある者を妬んで陥れ、続いて驕慢に振る舞った。凶悪な最期は当然である。王昭遠は臥龍の器でもないのに勝手に諸葛亮になぞらえ、漢源の敗戦では涙をとめどなく流した。『易』にいう「負い且つ乗る(分不相応の地位にある者)」とはこれであろう。趙彦韜は敵国に内情を売り、故郷に敵を招き入れた。二心の罪は逃れようがない。

僧曉微・僧可朋・僧仁顯・僧曇城・僧曉巒

  • 僧曉微は道行があり、隆州の地に庵を結んだ。明徳元年(934年)、宝林院の西に碑が立てられた。
  • 僧可朋は丹稜の人。詩をよくし酒を好んだ。貧しくて酒代を払えず、詩を作って代わりとすることがあり、自ら「酔髡(酔いどれ坊主)」と号した。若い頃は盧延譲・方干と詩友であった。蜀に来て歐陽炯と親しくなり、炯は可朋を孟郊・賈島に比して後主に強く推薦し、後主は銭帛を格別に賜った。
  • その夏、炯が同僚と浄衆寺で涼をとり、林の亭に酒肴を並べて皆が心置きなく飲んでいた。寺の外では農夫が炎天下に背を焼かれながら草を取り、疲れ果てても鼓を打ち鳴らしてやめなかった。同席していた可朋は「耘田鼓」の詩を作って炯に献じた。農家の田の鼓と王孫の宴席の鼓、どちらも鼓を打つのに、一方は何と楽しく一方は何と苦しいことか。上には烈日、下には焦土がある。天よ、どうか雨を降らせて桑や麻を実らせ、倉を満たして飢えも寒さもない上下一様の世にしてほしい、という趣旨である。言葉は平易だが理を極めており、炯はただちに賓客に酒宴を撤収させた。
  • 可朋には千余篇の詩があり、『玉塁集』と称する。洞庭湖を詠んだ「水は天の影を涵して広く、山は地を抜いて形高し」、また「虹は千嶂の雨を収め、潮は半江の天を弄す」の句など、いずれも佳句である。
  • 僧仁顯は博識で文章に巧みで、荷沢院に住んで著述に励んだ。広政年間に『華陽記』を撰し、その中で関侯(関羽)の墓が草場にあり、廟が荷聖寺の前にあることを弁じ、先人の欠落や誤りを多く正した。
  • 僧曇城は申天師の高弟。幼くして六書に精通し、常に李陽冰の篆法を学んでその妙域に達した。
  • 僧曉巒は(欠字)夢亀の弟子。草書を修めて張旭の筆意を得、曇城と同時に並び称された。

杜仁傑

  • 導引と丹薬の術に長けた。高祖が西川を鎮していた頃、仁傑は蜀に来て至真観の壁に詩を残した。
  • その詩の趣旨。大地が載せ天が覆うこの世界で、天象と地形はいずれが先に兆したのか。五行が巡り日月が運行し、流れては大河となり四海と九河を導き、そびえては山となって岳や嶺と呼ばれる。天壇こそ道の妙を極める所で、峻険で孤高、たどり着きがたい。日の出入りに残照が見え、東西に海の果てまで連なり、たちまち光が輝き出す。大いなる龍の燭も細やかな蛍の火も、常に現れるのではなく感応に応じて出る。笙の音は高く響き、鶴の姿はしとやかで、仙人の路がその要所に集まる。青い螺のような山は玉の簪を積み、左に参・井の星を望み、右に丹の竈がある。青空に二つとない洞窟が口を開く。昔、王者がここへ来て告祭し、軒轅(黄帝)に始まり近くは徽宗の廟に及び、柴を焚く望祭を代々親しく行った。だが大いなる劫の灰が起こって天まで焼き、棟や梁は崩れ朱や縹の彩色も失せ、鹿や猪の群れが蓬や竹に入り混じる。自分は何のために一度ここへ来て弔うのか。荒廃に堪えかね、この大いなる造化を思う。聖人が作り賢者が継ぐのであり、まして玄元(老子)の言葉は秘奥で、探れば探るほど遠く、理はいよいよ輝いて微細である。この理が万有を運び、文は簡潔でも剽窃ではない。願わくは後世に永く伝わる詔とならんことを、という趣旨。

楊僊公

  • 淄州・斉州あたりの道士。年齢を知る者がなかった。当時、白髪の老人が「子供の頃から見た」と語ることがしばしばあった。
  • 鍛冶屋で鉄槌を借りて自分の頭頂を打ち、また人に力任せに搗かせても少しも損なわれなかった。時折山に入って虎や豹と戯れ、手で撫でると皆おとなしく去った。
  • 高祖の改元の前年に蜀へ来て峨眉山に住んだ。その後の消息は不明。

黄萬戸

  • 若くして高唐観の道士となり、道士の張君に六丁の法を学んだ。常に一本の鉄鞭を持ち、病を治せば必ず効いた。
  • 当時、戎州刺史の文思輅もまた幻術を使い、紙を切って魚の形にして盆に投げると生きているようであった。やがて萬戸の鉄鞭を取り上げて帰ったが、涪州のあたりで鞭は忽然と消え、萬戸のもとへ戻った。
  • 高祖が宮中に召し、諸皇子を見せると、萬戸は後主を指して太子とすべきだと言った。高祖は大いに驚嘆した。萬戸はまた符を投げて鉄に変えて食べることもでき、その他の術もみなこの類であった。

申天師

  • 唐の玄宗の後裔。青城山で修道し、不思議な験があった。
  • 広政年間の末、後主はもっぱら庭園に耽り、珍しい花木が一時に極盛であった。天師はそこで紅梔子の種を二粒献じた。その花はまだらの紅で六弁、香気が人に染みた。
  • 後主はたいそう愛重し、団扇に描かせ衣服に刺繍させ、あるいは絹や鵞毛で作らせて髪飾りとし、「紅梔子花」と呼んだ。詔して天師に束帛を賜ったが、天師は手当たり次第に人に分け与え、ついに行方が知れなくなった。
  • 天師の著書に『怡神論』若干巻がある。一説にその名は迅という。

馮僊

  • 果州の人。父の馮勝は(欠字)将軍。勝の子(馮僊)は岳門山で修煉し、ある日、父母に別れを告げて仙去した。
  • 勝は仙去した場所に堂と柱を立てて「子僊観」とし、その山を「子僊山」と名づけた。

彭曉

  • 字は秀川、永康の人。広政年間の初め、朝散郎・守尚書祠部員外郎を授かり紫金魚袋を賜った。
  • 修煉養生の道に長け、別号を「真一子」といった。魏伯陽の『参同契』を九十章に分けて注し、火候の九転に対応させた。残りの「鼎器歌」一篇は真鉛が一を得ることに対応させ、さらに八つの環からなる図を作って「明鏡図」と呼んだ。
  • いま『参同契分章通真義』三巻と『明鏡図訣』一巻が世に行われる。

丁元和・韋昉・屈突無為

  • 丁元和は素性不明。広政年間に後主に詩を投じた。九重の城の中では人が貴ばれ、五等の諸侯は都の外で尊ばれるが、どうして布衣の雲水の客に及ぼうか、名利を天地に懸けることもない、という趣旨である。
  • 韋昉は蜀の人。ある夜、涪陵江に船を泊めていたとき龍女に出会い、馬で迎えられて宮に入った。まもなく及第し、十年後に簡州の知事として出た。ある夜、龍女が使いを送って呼び寄せると急死した。事が朝廷に聞こえ、勅により昉を「北海水仙」に充てた。
  • 屈突無為は成都の人。神仙の術があり、自ら「神和子」と号した。百年を過ぎてなお霊異を現したという。