十国春秋十國春秋卷五十九 南漢二 殤帝本紀(劉玢)・中宗本紀(劉晟)
南漢の第二代・殤帝劉玢(初名は弘度、?–943年)と、第三代・中宗劉晟(初名は弘熙、?–958年)の記。玢は高祖劉龑の第三子で、兄が早世したため嗣いだが、喪中から遊興に耽って政務を捨て、循州に張遇賢の乱を招き、在位二年で弟の弘熙が仕組んだ力士に殺された。二十四歳。弟の晟は兄を弑して即位し、弘杲・弘昌をはじめ諸弟をほぼ皆殺しにして「生地獄」と呼ぶ刑具を設けた。一方で呉懐恩・潘崇徹らを用いて楚から桂管以西を奪い、嶺南全域を領有した。晩年は宦官と女侍中に政を委ね、三十九歳で没した。
年表(20件)
- 光天元年942年高祖の崩御により即位し、名を玢と改めて光天と改元した
- 光天元年942年循州の張遇賢が「中天八国王」と称して反し、討伐軍は銭帛館で敗れた
- 光天元年942年高祖を康陵に葬り、廟号を高祖とした
- 光天二年943年長春宮の宴で晋王弘熙の差し向けた力士に殺された。在位二年、二十四歳
- 光天二年943年越王弘昌らに迎えられて弘熙が即位し、名を晟と改めた
- 應乾元年943年弟の弘昌を都元帥、弘杲を副元帥としたが、五月には讒言により弘杲を殺した
- 應乾元年943年南郊で天を祀って大赦し、乾和と改元して尊号を受けた
- 乾和二年944年刺客を放って弟の越王弘昌を昌華宮で殺し、鎮王弘沢も邕州で殺した
- 乾和三年945年韶王弘雅を殺し、弑逆に加わった劉思潮らを誅し、王翷にも死を賜った
- 乾和四年946年陳道庠を一族もろとも誅した
- 乾和五年947年弘弼ら弟八人を同じ日に殺してその男子も絶やし、湯釜などの刑具を「生地獄」と称した
- 乾和六年948年呉珣・呉懐恩に楚を撃たせ、賀州・昭州を抜いて桂州・全州を掠めた
- 乾和八年950年宮人の盧瓊仙・黄瓊芝を女侍中とし、政務の決裁に参与させた
- 乾和九年951年呉懐恩が桂州を陥れ、宜・連・梧ら諸州を平定して嶺南全土を領有した
- 乾和十年952年桂州で唐の候訓を伏兵で討ち、潘崇徹が蠔石で湖南の王逵を大破した
- 乾和十一年953年湖南の全・道・永の三州を侵し、病床で継興ら五子を王に立てた
- 乾和十二年954年称臣した呉昌文を静海軍節度使兼安南都護とし、弟の高王弘邈を邕州で殺した
- 乾和十三年955年弟の通王弘政を禎州で殺した
- 乾和十四年956年諸弟誅滅を謀った林延遇が没し、その推挙で龔澄枢を承宣院・内侍省の職に抜擢した
- 乾和十六年958年八月、没した。三十九歳。諡は文武光聖明孝皇帝、廟号は中宗、陵は昭陵という
殤帝本紀
出自と即位
- 殤帝は名を玢といい、高祖の第三子。初めの名は弘度で、賓王に封ぜられ、のち秦王に改封された。母の趙昭儀はもとより寵愛がなかった。
- 弘度の兄である耀枢と亀図はいずれも先に死んでいたので、順序では弘度が嗣ぐべきであった。しかし高祖は弘度が自分に似ていないとして、ひそかに王翷と謀り、弘度とその弟の弘熙を邕州・容州に出して、順序を越えて越王弘昌を立てようとした。だが蕭益が力を尽くして諫めたため実行されなかった。
- そこで高祖の崩御により弘度が即位し、名を玢と改め、大有十五年を光天元年と改めた。
光天元年(942年)
- 春三月、母の昭儀趙氏を皇太妃と尊び、弟の晋王弘熙に輔政させた。
- 夏四月、使者の蕭規を唐(南唐)へ遣わして喪を告げ、まもなく法物使の孫恵を遣わして即位を唐に告げた。
- 秋七月、循州の人である張遇賢が反し、自ら「中天八国王」と称して永楽と改元した。帝は弟の越王弘昌を都統、循王弘杲を副として討伐させたが、我が軍は銭帛館で敗れ、二王は遇賢に囲まれた。指揮使の万景忻と陳道庠が力戦して救い出し、難を免れた。
- 同月、邕州を誠州と改めた。
- 八月、天皇大帝(高祖)を康陵に葬り、廟号を高祖とした。
- 九月、滕紹英を唐へ遣わして仁寿節を賀した。
- 冬十月丙子、張遇賢が循州を陥れ、刺史の劉傅が戦死した。
光天二年(943年)
- 春三月丙戌、帝は殺されて没した。
- 帝は驕り奢って政務を顧みず、高祖の柩がまだ殯にあるうちから伶人を召して音楽を奏させ、宮中で酒を飲み、男女を裸にして楽しんだ。あるいは墨染めの喪服のまま倡女と夜歩きして民家に出入りした。これによって山海の間に盗賊が競って起こったが、帝は顧みることができなかった。側近も意に逆らえば殺されたので、諫める者はいなかった。
- ただ越王弘昌と内常侍の呉懐恩がしばしば諫めたが聞き入れられなかった。一方、晋王弘熙は日ごとに芸妓を献じて帝を放埒へ誘った。帝も諸弟が自分を狙っているのではないかと疑い、宦官に宮門を守らせ、入る者はみな身体検査をさせた。
- 帝は素手の格闘を好んだ。弘熙は指揮使の陳道庠に命じて力士の劉思潮・譚令禋・林少彊・林少良・何昌延の五人を集め、晋王府で角觝を稽古させて献上した。
- その夜、帝は諸王と長春宮で宴を開いてこれを観覧した。帝がひどく酔って立ち上がると、道庠は思潮らとともに帝を抱きかかえて引き倒して殺し、側近の侍従もことごとく殺した。
- 帝の在位は二年、二十四歳。諡は殤。
中宗本紀
出自と即位
- 中宗は名を晟という。初めの名は弘熙で、晋王に封ぜられた。
- 力士に殤帝を弑させた翌朝、百官も諸王も宮に入ろうとしなかった。越王弘昌が諸弟を率いて寝殿で弔哭し、弘熙を迎えて即位させた。名を晟と改め、光天二年を応乾元年と改めた。
應乾元年(943年)=乾和元年
- 春三月丁亥、弟の弘昌を太尉兼中書令・諸道兵馬都元帥・知政事、循王弘杲を副元帥・参預政事とし、陳道庠および劉思潮らにもそれぞれ差をつけて恩賞を与えた。
- 夏四月戊申朔、日食があった。
- 五月、帝は弟の循王弘杲を殺した。帝は兄を弑して即位したので順当でなく、人々が服さないのを恐れ、刑法をいっそう厳しくして威圧した。ところが弘杲がしばしば賊の討伐を請い、ひそかに劉思潮らを誅して外聞を鎮めるよう勧めたため、思潮らは逆に弘杲に二心ありと讒言し、弘杲は禍に遭った。
- 同月、建武節度使の斉王弘弼が入朝を求め、許された。
- 秋七月、指揮使の万景忻が循州で張遇賢を破り、遇賢は嶺を越えて北へ逃げた。
- 冬十月、弟の韶王弘雅に致仕を命じた。
- 十一月丁亥、南郊で天を祀り、大赦して乾和と改元した。群臣は「大聖文武玄徳大明至道大広孝皇帝」の尊号を奉った。
乾和二年(944年)
- 春三月、帝は刺客を使って弟の越王弘昌を昌華宮で殺させた。弘昌が海辺の襄帝(烈宗)の陵に参詣したところを害されたのである。
- 辛卯、戸部侍郎の陳偓を同平章事とした。
- 夏六月乙巳、斉王弘弼を私邸に幽閉した。
- 秋九月庚子朔、日食があった。
- 冬十月、鳳凰が邕州に現れた。丙午、帝は弟の鎮王弘沢を邕州で殺した。
乾和三年(945年)
- 秋八月甲子朔、日食があった。帝は弟の韶王弘雅を殺した。
- 九月、劉思潮・林少彊・林少良・何昌延が誅に伏した。
- 帝は左僕射の王翷がかつて越王弘昌を立てようと謀ったとして、英州刺史に出し、まもなく道中で死を賜った。内外の者はみな恐れて身の安全を保てなかった。
- この年、恵州の水東廟の二神を興祚王・泰民王に封じた。
乾和四年(946年)
- 春二月壬戌朔、日食があった。
- 秋九月、陳道庠が誅に伏し、あわせてその一族と友人の鄧伸も誅された。
- この年、潮州の佐郷県を割いて敬州を置いた。
乾和五年(947年)
- 春二月辛未、北平王の劉知遠が自立して帝となり、あらためて天福十二年と称した。六月、晋主知遠は国号を漢と改めた。
- 秋九月、帝は弟の斉王弘弼・貴王弘道・定王弘益・弁王弘済・同王弘簡・益王弘建・恩王弘暐・宜王弘照を殺し、その男子をことごとく殺して娘たちを後宮に入れた。帝は諸弟が自分の子と国を争うのを恐れ、同じ日にみな殺したのである。
- この年、湯釜・鉄林・刳剔などの刑具を設け、「生地獄」と呼んだ。
乾和六年(948年)
- 夏六月戊寅朔、日食があった。
- 秋八月、帝は工部郎中・知制誥の鍾允章を楚に遣わして婚を求めたが、楚王の馬希広は許さなかった。帝は怒って允章に「馬公はなお南方を経略できるか」と問うた。允章は「楚は兄弟が争っていて滅亡を免れるのが精一杯です。どうして我が国を害せましょう」と答えた。帝は「その通りだ。希広は懦弱で吝嗇、その士卒は長く戦を忘れている。いまこそ我が進取の秋だ」と言った。
- 冬十二月辛巳、巨象指揮使の呉珣と内常侍の呉懐恩に兵を率いさせて楚を撃たせ、賀州を攻めた。楚は決勝指揮使の徐知新に兵五千を率いさせて救援に向かわせたが、到着前に我が軍は既に賀州を抜いていた。珣は城下に大きな落とし穴を掘り、竹の簀で覆って土をかけておいた。楚兵が城に迫るとことごとく穴に落ち、死者は数知れなかった。
- 懐恩は勝ちに乗じて昭州を陥れ、珣はさらに桂州を侵し、最後は全州を掠めて帰った。
乾和七年(949年)
- 夏六月癸酉朔、日食があった。
- 冬十二月、帝は英州に行幸し、野人から神丹を受け、御雲華石室に納めて蔵した。
乾和八年(950年)
- 冬十一月甲子朔、日食があった。
- この年、宮人の盧瓊仙と黄瓊芝を女侍中とし、朝服・冠帯を着けて政務の決裁に参与させた。宗室と旧勲の臣はほぼ誅殺し尽くされ、ただ宦官の林延遇らが権を握って内外で専横したが、帝はもはや顧みなかった。
乾和九年(951年)
- 春正月、郭威が大梁の崇元殿で即位し、国号を周、広順と改元した。
- 冬十一月、内常侍の呉懐恩を西北招討使とし、兵を率いて桂州の境に駐屯させ、ひそかに楚を攻める謀を進めた。楚は指揮使の彭彦暉を龍峒に駐屯させて備えた。
- 当時、楚王の弟である馬希隠が桂州を治めていたが、ひそかに蒙州刺史の許可瓊を召した。可瓊は我が兵の圧迫を恐れて蒙州を棄て桂州へ向かい、懐恩はその隙に乗じて蒙州を取り、進んで桂管を侵掠して大いに騒がせた。
- 同月、帝は希隠に書を送った。その大略は、唐(南唐)の兵はすでに長沙を占め、桂林も必ず奪われよう、本朝は代々の友邦であり婚姻の縁も重ねている、この危機を見て救わずにいられようか、すでに大軍を発して水陸から進ませている、というものであった。希隠は書を得たが躊躇して決しかねた。
- 丙寅、懐恩は兵を率いて不意に城下に至り、希隠と可瓊は全州へ逃げ、桂州は陥落した。懐恩はさらに方略をもって宜・連・梧・厳・富・昭・柳・龔・象などの州を平定し、これによって初めて嶺南の地をすべて領有した。
- 十二月、内侍省丞の潘崇徹と将軍の謝貫に兵を率いさせて郴州を攻めさせた。唐将の辺鎬が兵を出して救援に来たが、崇徹は義章で唐兵を破り、郴州を取った。捕虜とした敗兵はみな片腕を切り落として返した。
- 帝はこれ以来ますます得意になり、ひそかに巨艦指揮使の暨彦贇に兵を率いて海に出て商人の金帛を掠めさせ、離宮を作って遊猟した。さらに南宮・大明・昌華・甘泉・玩華・秀華・玉清・太微の諸宮を修築し、その数は数千に及んで数えきれなかった。殿の傍らにはみな宮人を置いて夜明けを知らせさせ、「候窓監」と名づけた。
- 宴会のたび帝は一人で殿の庭に居り、陪席の臣僚はみな彩り豊かな亭を組んで殿の両隅に並び座った。宴が酣になると役人が檻に入れた獣を進め、両側には戈と戟を構えさせた。帝は自ら弓矢を持って殿を下り、役人が獣の檻を前に引き出す。獣がためらいながら出て庭を駆け上がると、帝は弓を引いて射、両側の戈戟がいっせいに突いて獣を仕留めた。その遊びはみなこの類であった。
- あるとき夜の酒宴でひどく酔い、伶人の尚玉楼の首に瓜を置き、剣を抜いて斬りつけ、剣の切れ味を試すついでに首も斬り落とした。翌日、酔いが醒めて再び玉楼を召して侍らせようとすると、側近が既に殺したと申し上げた。帝はただ嘆息するばかりであった。
- この年、唐は全州・道州の刺史を任じて我が軍に備えた。
乾和十年(952年)
- 夏四月丙戌朔、日食があった。
- 同月、唐の統軍使である候訓と全州刺史の張巒が桂州を侵した。我が兵は山谷に伏せて待ち、唐兵が城下に至ると伏兵が四方から起こって挟撃し、訓は敗れて死に、巒は全州へ逃げた。
- 冬十二月、湖南の王逵が兵および洞蛮の兵合わせて五万を率いて郴州を侵した。内侍省丞の潘崇徹が軍を率いて救援に向かい、蠔石で遭遇した。崇徹は高みに登って眺め「湖南の兵は疲れて隊伍が整っていない。破れる」と言い、放って撃たせて大破した。倒れた屍は八十里に及んだ。
- この年、宜州の崖山・東璽の二県を廃した。
乾和十一年(953年)
- 春正月、兵を分けて湖南の全・道・永の三州を侵した。
- 秋九月、帝は病床に就き、子の継興を衛王、璇興を桂王、慶興を荊王、保興を禎王、崇興を梅王に立てた。癸亥、大赦した。
乾和十二年(954年)
- 春正月丙子朔、周は顕徳と改元した。壬辰、周主が没し、丙申、晋王の柴栄が皇帝位を嗣いだ。
- 同月、帝は自ら藉田を耕した。呉昌文を静海軍節度使兼安南都護とした。はじめ呉権が交州に拠り、権が死ぬと子の昌岌が立ち、昌岌が没すると弟の昌文が立って我が国に称臣したので、この任命があった。
- このとき給事中の李璵を遣わして旌節を持たせ招かせた。璵が白州まで来ると、昌文は人を遣わして「海賊が乱を起こして道が通じない」と言って止めさせ、璵はついに行けなかった。
- 夏四月戊午、帝は弟の高王弘邈を邕州で殺した。
乾和十三年(955年)
- 春二月庚子朔、日食があった。
- 夏六月戊午、帝は弟の通王弘政を禎州で殺した。
- この年、博白県緑含村の民が、山谷が深く人跡まれで米一斗が一、二銭であり、鵞鳥ほどの大きさで五色、冠があって尾のたいへん長い鳳がいる、と申し出た。役人がこれを報告した。
乾和十四年(956年)
- 春三月乙未、甘泉宮使の林延遇が没した。延遇は陰険で謀略に富み、帝が諸弟を誅滅したのはみな延遇の謀によるものであった。その死に国人は祝い合った。
- 延遇は臨終の際、内給事の龔澄枢を自分の後任に推薦した。帝はその日のうちに澄枢を承宣院と内侍省を掌る職に抜擢した。
- この年、周が使者を遣わして来聘した。帝は嶺南の強大さを誇示しようとして、接待役に茉莉を使者に贈らせ、その名を「小南強」と名づけた。相手を皮肉ったのである。
乾和十五年(957年)
- 冬十二月、中書侍郎・同平章事の盧膺が没した。
- この年、帝は唐の兵がしばしば周に敗れたと聞いて憂色を浮かべ、使者を中朝(周)へ遣わして朝貢しようとしたが、また湖南に阻まれた。そこで戦艦を整え武備を修めたが、やがて「我が身が無事なら幸いだ。後世を憂えている暇があるか」と言った。
- また常々自ら星を知ると称していたが、月食が牛宿・女宿の間で起こったとき、書を取り出して占い、「私に当たる」と嘆じ、そのまま酒に溺れて夜通し飲んだ。
- この年、儋州の富羅県と万安州の富雲・博遼の二県を廃した。
乾和十六年(958年)
- 春(月は欠字)、興王府城の北に葬地を卜し、甕を運んで墓室を築いた。帝は自ら臨んで視察した。
- 秋八月辛巳、帝は没した。三十九歳。諡は文武光聖明孝皇帝、廟号は中宗、陵は昭陵という。