十国春秋卷五十七 後蜀十 列傳 王昭逺

要約

王昭遠は成都の人で、幼くして孤貧の身であった。十三歳で東郭の僧智諲の童子となり、後蜀の高祖に慧黠を愛されて後主の側に仕えることとなり、たいへん親しく用いられた。

後主が即位すると捲簾使から茶酒庫使に遷り、広政十一年、後主は昭遠を通奏使・知樞密院事として機務を委ね、府庫の金帛を思うままに取らせた。永平軍節度使・寧江軍節度使を経て山南西道節度使を兼領した。李太后は重用を諌めたが、後主は従わなかった。

兵書を好み方略に長けると自負した昭遠は、宋への通使に固く反対し、判官張廷偉の勧めに従い北漢と密約し、蜀は子午谷から呼応する策を進言した。宋軍が国境に入ると趙崇韜とともに拒戦に赴き、出立に際し「二、三万の悪少年らを率いて中原を取ること掌を返すがごとし」と豪語し、自ら諸葛亮になぞらえて意気揚々としていた。

しかし剣門陥落の報を聞くと股が慄え色を失い、崇韜が陣を布く際も胡牀に拠って立つことすらできなかった。崇韜の敗北とともに冑を脱ぎ甲を弃てて逃げ、東川の倉舎に隠れて涙を流し、ただ羅隠の詩「運去りて英雄自由ならず」を誦するのみであった。

追撃の騎兵に捕えられ汴京へ送られ、宋の太祖に問い詰められると「愚かで知らず、本国に忠であっただけ」と答え赦され、左領軍衛大将軍とされた。開宝年間に没した。

現代語訳全文

生涯

  • 王昭遠は成都の人で、幼くして孤貧であった。十三歳のとき東郭の僧智諲に依って童子となった。高祖が西川を鎮めていたとき、府署で僧に飯を供したが、昭遠は巾履を持って智諲に従って入った。高祖はその慧黠を愛し、当時後主がまさに学に就いていたので、そこで昭遠を留めて左右に給事させ、たいそう親しく用いた。
  • 後主が帝位を嗣ぐと、昭遠を捲簾使とし、しだいに茶酒庫使に遷した。広政十一年、樞密使王処回が私邸に帰るよう命じられた。後主は樞密使の権が重く制しがたいと考え、そこで昭遠を通奏使・知樞密院事とし、機務をひとえに委ねた。府庫の金帛はほしいままに取らせて問わなかった。
  • 眉州刺史を加領させ、出でて永平軍節度使とした。数ヶ月もせず、昭武の李継勲が目の病で政務を執れなくなり、閑地に処すことが議論されると、昭遠はただちに永平を継勲に譲った。一年余りで寧江軍節度使を授けられた。李太后はつねに従容として昭遠を用いるべきでないと言ったが、後主は従わなかった。
  • まもなく山南西道節度使・同平章事を兼領し、入って謝し通奏の職を解くことを求めたので、ついに左街使張仁貴を副使・知樞密としてこれに代えた。
  • 昭遠は兵書を読むことを好み、たいそう方略を自負していた。これより先、後主が宋に通使しようとしたとき、昭遠は固く争ってこれを不可とした。たまたま判官張廷偉が昭遠に、并州(北漢)と好を通じ、兵を発して南下させ、我らは黄花・子午谷から出兵してこれに応じるよう説いた。昭遠はその言を然りとし、後主に密かに北漢と約して宋を撓ませることを勧めた。
  • 宋の軍が国境に入ると、昭遠は趙崇韜とともに兵を率いて拒戦し、成都を発つに際し、後主は左僕射李昊らに命じて郊外で餞させた。昭遠は酒たけなわに臂をまくり上げて言った、「私のこの度の行は敵に克つばかりでなく、まさにこの二、三万の雕面の悪少年らを率いて中原を取ること、掌を返すがごとしだ。」出立するや、手には鉄如意を執って軍事を指麾し、意気揚々として自ら諸葛亮になぞらえた。
  • 漢源に至ろうとして剣門が既に破れたと聞くや、股が慄え色を失い、発言も次第を失った。崇韜が陣を布いて戦おうとするとき、昭遠は胡牀に拠って立つこともできなかった。まもなく崇韜が敗れると、冑を脱ぎ甲を弃てて走り、東川に投じ、倉舎の下に隠れ、悲しみ嘆いて涙を流し、目は腫れ尽くし、ただ羅隠の詩「運去りて英雄自由ならず」を誦するばかりであった。
  • まもなく追撃の騎兵に捕えられ、汴京に送られた。宋の太祖はこれを詰って、「お前はなぜ孟昶を誘って劉鈞と結んだのか」と言った。昭遠は「臣は愚かで知りませんでした、ただ本国に忠であっただけです」と答えた。太祖はこれを釈し、左領軍衛大将軍を授けた。
  • 初め、昭遠が辺境を巡って文州に至ったとき、古い墓に生けるがごとき屍を見た。それは大中年間の文州歩軍都虞候文和の墓であった。昭遠はこれを重ねて葬るよう命じたが、夜の夢に和が現れて言った、「私は既に太乙真人の侍者となった。あなたにはいずれ兵刀の厄があるだろうが、私を葬ってくれた以上、禍を免れることができるだろう。」ここに至って果たしてその言が験された。昭遠は開宝年間(968-976年)に卒した。