十国春秋卷五十七 後蜀十 列傳 趙彦韜

生涯

  • 趙彦韜は興州順政の人で、本州の義興軍禆校となった。広政末年、後主は興国軍討撃使孫遇および楊蠲とともに彦韜を宋への諜(間者)として遣わした。汴に至ると、彦韜は密かに後主が北漢と交わした蝋丸の帛書を取って告発し、あわせて両川は取ることができるという状況を述べた。
  • 宋の太祖は遇・蠲をともに赦し、兵を挙げて西に入らせ、あわせて彦韜を嚮導とした。まもなく興州が陥落すると、ただちに本州馬歩軍都指揮使とし、さらに本州刺史に遷し、澧州に移した。
  • 性は兇暴で軽率であり、行うところの多くは不法であった。部内の民が財物を盗み劫われたことを訴えたが、これを鞫問して実がないとするや、彦韜は自らこれを殺し、心肝を探り取った。民家が汴に至って冤を訴えると、宋の太祖は大いに怒り、杖して蔡州に配流した。

史論

  • 論じて言う。思謙は功を忌み傾軋し、続いて跋扈した、その凶しく終わったのは当然である。昭遠は臥龍(諸葛亮)のような人ではないのに、みだりに諸葛に擬した。漢源の敗れに涙を沱々と流したのは、ほとんど『易』にいう「負いてかつ乗る」者ではないか。彦韜は敵国に情を通じ、桑梓(故郷)に冦を招いた、二心の罪は逭れることができない。