生涯
- 安思謙は初め高祖に仕えて茶酒庫使となった。後主が即位すると、張公鐸らとともに李仁罕を讒殺し、これによりしだいに用いられ、まもなく山南西道節度使に擢用された。
- 広政年間、また急な命により張業を都堂で誅殺することに従った。まもなくまた旧将をことごとく除こうと謀り、趙廷隠の地位に代わろうとして、密かに廷隠に謀反ありと告げたが、李廷珪が力を尽くして救ったため事は解けた。
- まもなく兵を率いて鳳翔を救ったが、軍は長く戦功がなく、まず糧を運ぶことを請うて後図とした。後主は興州の米を発してこれを饋わせたものの、心中では思謙を疑い始め、左右に「思謙が朕のために進取するだろうか」と語った。
- しばらくして、思謙は鳳州で罪を待つこととなったが、後主はこれを釈して問わず、まもなく成都に帰らせて左匡聖馬歩都指揮使・保寧軍節度使を領させた。思謙はこれより次第に慚愧し不安になり、たまたま宮門が戒厳になると、思謙は自分が図られようとしていると考え、発言が不遜になり、また宿衛の兵を典るところとなって、多くの誅戮を行い威福を示した。
- この時、壮年でありながら思謙に斥けられた衛士がいたが、後主はなお留めて籍に隷することを命じた。思謙は他の罪を口実にこれを殺した。後主は積もる不平を平らげることができず、また思謙の子扆・嗣裔らはみな父の威を頼んで国中に恣横した。
- 思謙が入朝すると、後主はついに力士に命じてこれを撲殺させ、あわせてその子も誅した。時に十七年(954年)春二月のことであった。