十国春秋卷五十六 後蜀九 列傳 居寳

生涯(黄筌次子)

  • 居寳は字を辞玉といい、筌の次子である。父とともに後主に仕えて待詔となり、のちにたびたび昇進して水部員外郎となり、宋に入って翰林図画院に隷した。
  • 居寳は花鳥・松石を画くことに巧みで、あわせて八分書を善くし、四十歳にならずして卒した。
  • これより先、道士張素卿はかつて青城山丈人峯に五嶽四瀆の真形および十二渓女数壁を画いていたが、後主はたびたび居寳の父筌を遣わしてこれを手摸させたが、ついに似ないものであった。のちに素卿の八仙真形図を持って献じる者があり、後主は嘆じて言った、「神仙の能あるにあらざれば、神仙の質を為すこと無し。」そこで居寳に命じて八分書でこれに題させた。

居宷――生涯(黄筌季子、附伝)

  • 居宷は字を伯鸞といい、筌の季子である。花竹・翎毛を画くことに巧みで、後主に仕えて翰林待詔となり、筌とともに恩寵を被り、殿庭墻壁・宮闈屏障を図画したことは記し尽くせないほどであった。
  • 広政十五年(952年)、後主は葛仙山に往かせ、帰りに彭州棲真南軒に至って、水石の一堵を描かせたところ、未の刻から酉の刻を越えずして完成し、観る者はその敏妙に嘆じた。
  • また常に後主の命を奉じて筌とともに「秋山図」を画き、江南からの信幣に答えた。学士徐光溥は「秋山図歌」を作ってこれを美えた。
  • 国が亡びて後主に随って宋に入り、宋の太祖はその名を聞き知り、たびたび朝請大夫・寺丞・上柱国を授けて紫金魚袋を賜った。太宗はさらに眷遇を加え、居宷に名画を捜訪させ品目を詮定させたところ、当時みな敏手とされた。居宷が描く太湖石は、とりわけ父を過ぎるものがあった。

居実――生涯(黄筌の子、附伝)

  • 居実は筌の第何子か分からないが、『会禽図』一巻が世に伝わる。