十国春秋卷五十六 後蜀九 列傳 黄筌
要約
黄筌は字を要叔といい、成都の人。画をよくして早くに名を得、十七歳で前蜀の後主に仕えて待詔となった。
前蜀の後主が呉道子筆の鍾馗の絵を観せ、拇指を用いる方が力があるはずだと言うと、筌は拇指を使って改めて描き進めた。意に沿わないことを怪しむ後主に、「道子の画は意思が第二指にあり、臣の画は意思が拇指にあります」と答え、後主は悟って喜んだという逸話が伝わる。
広政年間には検校少府監に進み金紫を賜り如京副使に至った。南唐から後主に六鶴が贈られると、筌に命じてこれを便坐の壁に写させ「六鶴殿」と名づけられた。豪貴で図軸を求める者が跡を接ぎ、「黄筌が鶴を画けば薛稷は価を減ずる」という諺まで生まれたほどであった。八卦殿に描いた野雉の絵には、献上された本物の鷹がそれを本物と見誤って羽ばたいたという逸話も伝わる。
花竹は滕昌祐に、鳥雀は刁光に、山水は李昇に、鶴は薛稷に、龍は孫遇にそれぞれ師事しながらも、筆意は豪贍で格律を脱し諸人に勝るところが多かった。奔湍巨浪の描写に長けた孫知微をもってしても、筌に及ばないと自認したという。
後蜀滅亡後は宋に入り、江南の布衣徐熙とともに図画院に隷し、その白兎図は李賛華の千角鹿とともに宋の秘閣の上品とされた。子の居寳・居宷・居実、弟の惟亮もみな画をよくした。
現代語訳全文
生涯と画業
- 黄筌は字を要叔といい、成都の人である。画をよくして早くに名を得、十七歳で前蜀の後主に仕えて待詔となった。
- 前蜀の後主はかつて筌を内殿に召して呉道子筆の鍾馗の絵を観させ、筌に言った、「道子が鍾馗を画くのに右手の第二指で鬼の目を抉らせているが、拇指を用いる方が力があるようだ。」筌に改めて進めさせた。筌はそこで道子の本図を用いず、別に拇指を用いて改めて描き進めた。
- 前蜀の後主はその意に沿わないことを怪しんだが、筌は答えて言った、「道子の画は眼色・意思ともに第二指にあり、臣の画は眼色・意思ともに拇指にあります。」前蜀の後主は悟って喜んだ。
- 広政年間に及んで検校少府監を加えられ、金紫を賜り、たびたび昇進して如京副使となった。たまたま南唐が後主に六鶴を賜ったので、筌に命じて六鶴を便坐の壁に写させた(一に唳天、二に警露、三に啄苔、四に舞風、五に疏翎、六に顧歩という)。名づけて「六鶴殿」といった(また都の西楼といい、楼に堂があり、筌は双鶴・花竹・怪石を画いた、衆はこれを「双鶴庁」と呼んだ)。
- これにより豪貴でその図軸を求める者が跡を接ぎ、時の諺に「黄筌が鶴を画けば、薛稷は価を減ずる」と言われた。
- 八卦殿に野雉を描いたところ、五坊使が鷹を殿下に呈上したとき、鷹はその雉を見て腕をはたくこと数回に及んだ。後主は翰林学士歐陽炯に命じて文を作りこれを記させた。また白兎を練絹に描き、後主はつねにこれを坐の側に懸けた。
- 国が亡びて宋に入り、江南の布衣徐熙とともに図画院に隷した。宋の秘閣の所蔵は、つねに李賛華の千角鹿と筌の白兎とを上品とした。
- 筌の花竹は滕昌祐に、鳥雀は刁光に、山水は李昇に、鶴は薛稷に、龍は孫遇に師事したが、筆意は豪贍で格律を脱し去り、諸人に過ぎるところが多かった。
- これより先、唐の広明年間(880-881年)、処士孫位が初めて新意を出し、奔湍巨浪を画いて水の変化を尽くした。筌と同郡の孫知微はともにその遺法を得た。知微は初め大慈寺寿寧院の壁に湖灘水石の四堵を作ろうとし、営度すること一年に及んだが、ついに筆を下ろそうとしなかった。ある日、倉皇として寺に入り、筆墨を索めることが甚だ急で、袂を奮うこと風のごとく、須臾にして成し、水が輸瀉し跳ね蹙まる勢いを作り、淘淘として屋を崩さんばかりであった。筌もまたこれに及ばないとした。
- 筌の子は五人おり、画をもって名のある者は居寳・居宷・居実、弟の惟亮もまた画をよくした。