十国春秋卷五十五 後蜀八 列傳 趙玭

秦州を挙げて周に降る

  • 趙玭は澶州の人であり、家は財に富んでいた。晋の天福年間、粟を納めて辺境の費用を助けたことにより、集賢小史に補せられ、濮州司戸参軍に調任された。刺史の白重進は彼が若いことから、事を試させようとして、滞っていた獄案を彼に授けたところ、玭は判決を下し、すべて理にかなうものであった。重進が虢州・成州の刺史に移ると、続けて彼を従事に招いた。
  • たまたま契丹との争いが起こり、雄武節度使の何重建が地を献じてきた。広政年間、後主は韓継勲に命じて雄武軍の節鎮を領させたが、成州はその支郡であったので、そこで玭を秦・成・階等州の観察判官に任じた。周の将である王景らが秦・鳳を侵すと、継勲の軍は敗れ、秦州を棄てて成都へ逃げ帰った。このとき高彦儔の援軍がちょうど潰えて秦州へ帰る途中であったが、玭は門を閉じてこれを受け入れず、すぐに官属を召してこれに諭して言った、「今、中朝(宋)の兵甲は天下に敵なく、西征に用兵して以来、戦って勝たぬことはなく、蜀中から遣わされた将は皆武勇の者、兵卒は皆驍勇な者であるが、それでも殺戮され逃亡した者以外にほとんど生き残る者がない。我々はどうして座してその禍を受けるに忍びようか。危を去って安に就くのは、まさに今日をおいてない」と。人々は皆頭を垂れて命に従い、玭はついに城を挙げて周に降った。
  • 周の世宗は彼に藩鎮を命じようとしたが、宰相の范質が不可としたので、郢州刺史を授け、汝州・密州・沢州の刺史を歴任した。周が滅びると、また宋に降り、宗正卿となった。乾徳の初め、外に出て秦州刺史となり、二年、左監門衛大将軍・判三司に改められた。玭は狂躁で強情であったが、後に趙普が材木を売買して利を規(はか)ったことを詆(そし)ったところ、王溥らが玭が大臣を誣告したと奏したので、宋の太祖は大いに怒り、武士に命じて彼を打たせ、汝州の牙校に黜けた。太平興国三年に卒した。享年五十八。