機務を掌る
- 伊審徴、字は申図、太原の人である。父の延瓌は高祖に従って成都に入り、崇華公主を娶った。審徴は幼くして孝をもって知られ、母が病んだとき、股の肉を割いて食べさせた。父の任によって蜀州刺史・雲安榷監使を歴任した。広政十四年、高延昭が機務を辞めることを求めたので、急ぎ召されて通奏使・知枢密院事となった。しばらくして、秦・鳳への出兵に際し、城砦の検校を命じられ、まもなく武泰軍節度使を領した。
- 後主はその子の崇度を選んで公主を娶らせ、また寧江軍節度使・同平章事に改め、宣徽南院使を領させ、王昭遠とともに機務を掌らせた。審徴はもと公主から生まれた身であり、若い頃から後主と親しく馴染んでいたので、この頃には事の大小を問わずすべて彼に相談し、審徴もまた常に自ら国家の経営を我が任と心得ていた。宋の軍が国境に入るに及び、審徴は真っ先に降表を捧げて軍の前に赴いたので、当時の人々の多くはひそかに笑った。まもなく宋の太祖は静難軍節度使を授け、乾徳六年、延安に鎮を移された。開宝末、右屯衛上将軍に改められ、太平興国二年、右金吾衛の仗を判し、雍熙五年に卒した。