十国春秋卷五十五 後蜀八 列傳 韓保貞

要約

韓保貞、字は永吉、潞州長子の人。父昭運は後蜀の高祖に従って西川に入り珍州刺史となった。保貞は初め押牙として仕え、高祖即位により豊徳庫使兼広義庫使に、後主の代には眉州刺史・枢密副使、さらに漢州刺史・宣徽北院使に進んだ。

後主が方士の術を用い良家の子女を後宮に多く採ろうとした際、保貞は切に諌め、後主は大いに悟ってその日のうちに退けさせ、保貞に金数斤を賜った。

鳳翔の侯益が帰順を申し出た際、北路行営都監として岐陽の攻略を命じられたが、味方の趙匡賛が城を棄てて逃げ、大将李廷珪の軍も子午谷で敗れ、諸将との謀議も合わず、保貞はついに成果なく成都に還った。

その後、雄武軍節度使として隴州に出兵するも功なく引き返し、広政十四年には配下の不法を咎められかけたが赦された。まもなく寧江軍節度使、宣徽南院使などを加えられ、子の崇遂を公主に娶らせるなど厚遇された。荊南が宋に降ると峡路都指揮制置使として夔州の防備を計画した。

宋が挙兵すると興元の防衛にあたったが、王全斌が到来すると興元を棄てて西県を保ち、出撃をためらい、宋の史延徳に破られ逃げるも捕らえられ、汴京に護送された。宋の太祖は殿に召して労い、袍・笏・金帯・邸宅を賜ったが、正式に任官しないうちに没した。右千牛衛上将軍を贈られた。

現代語訳全文

潞州から蜀へ

  • 韓保貞、字は永吉、潞州長子の人である。父の昭運は高祖に従って西川に入り、高祖が尊号を称するに及び、珍州刺史に任じられた。保貞は初め高祖に仕えて押牙となり、高祖の即位に及んで豊徳庫使兼広義庫使とされた。後主が即位すると、累進して眉州刺史・枢密副使となり、まもなくまた漢州刺史となり、宣徽北院使を拝した。
  • 後主が方士の房中の術を用い、良家の子女を多く採って後宮に充てようとしたとき、保貞は切に諌め、後主は大いに悟って、その日のうちにこれを退けさせ、保貞に金数斤を賜った。

岐陽の謀と晩年

  • まもなく鳳翔の侯益が款を送ってきたので、保貞に命じて北路行営都監として岐陽を図らせた。当時、晋昌節度使の趙匡賛もまた帰順しようと謀っていたが、王景崇に迫られて城を棄てて東へ奔り、たまたま大将の李廷珪の軍が子午谷で敗れたので、保貞の軍は陳倉に留まったが、張䖍釗・龎福誠と謀議が合わず、これによって侯益もまた翻意し、保貞はついに成都に還った。
  • まもなく雄武軍節度使となり、兵を率いて新関に出て隴州に至ったが、漢の兵が固く守っていたため、保貞は功なくして帰り、また雄武に屯した。広政十四年、成都に赴いたとき、親しい吏である楊虔範という者が保貞の不法を訴えたので、後主は虔範を斬って保貞に謝罪させたが、保貞は釈放して問わなかった。まもなく寧江軍節度使に改められた。李昊が度支を辞退したので、詔をもって保貞にこれを代わらせ、まもなくまた宣徽南院使・山南節度・左衛聖歩軍節度指揮使を加えられ、奉鑾粛衛馬歩軍都指揮使に遷り、またその子の崇遂を選んで公主を娶らせた。
  • まもなく、荊南の高継冲が土地を宋に納めたので、後主はこれを聞き、詔をもって保貞を峡路都指揮制置使とし、夔州に屯して辺境の事を計画させ、検校太尉兼侍中に遷した。まもなく宋が挙兵したと聞き、保貞を山南節度・興元武定縁表諸砦屯駐都指揮使とした。王全斌が到着するに及び、保貞は興元を棄てて西県を保ったが、宋の軍が進んでこれを包囲すると、保貞は臆病でおびえてあえて出撃せず、人を遣わして山を頼り城を背にして陣を結ばせ自ら固めようとしたが、宋の将である史延徳に破られ、独り麾下だけを率いて逃げたが、延徳がこれを追って捕らえ、王全斌のもとへ送り、駅伝で汴京に護送した。宋の太祖は殿に召し上げて労い問い、袍・笏・金帯・茵褥・鞍勒馬を賜り、なお立派な邸宅を賜ったが、官に任命されないうちに卒した。右千牛衛上将軍を贈られた。