十国春秋卷五十四 後蜀七 列傳 髙彦儔

要約

高彦儔は太原の人。父暉は宣威軍使であった。後蜀の高祖に従って蜀に入り軍校を歴任し、後主の代に卭州刺史・馬歩軍使を経て、漢兵が陥落させた安都砦を精鋭で追撃し奪回する功を立て、趙州刺史などを歴任し、正式に武定軍節度使を拝した。

周の顕徳の初め、鳳州救援に出兵するも到着前に敗報を聞き、唐倉で軍が潰えて成都に逃げ帰った。観察判官の趙玭が関を閉ざして周に帰したためであった。後主はこれを罪とせず功徳使に改めるにとどめた。

広政二十二年、夔州を守った際、監軍武守謙に「北軍は遠来ゆえ堅守して待つのが上策」と説いたが、守謙はこれに従わず独断で出撃して敗れ、宋の劉光義・曹彬の軍が勝ちに乗じて城壁に登り、彦儔が防戦に出たときには宋軍はすでに城内に入っていた。

判官羅済は成都への逃走や降伏を勧めたが、彦儔は「今また夔州を守れなかった、どのような面目があって蜀の人々に会えようか」「一身だけ生き延びれば成都の一族はどんな報いを受けるか」と応じず、符印を羅済に授けて衣冠を整え西北を再拝し、楼に登って火を放ち焼身して死んだ。

史論では、趙崇溥の餓死と高彦儔の焼身は、後蜀が国を伝えた間の忠烈の士としてこの二人をまず推すべきとされ、後主の母もかつて「緩急の際にはただ彦儔だけが任せられる」と語っていたと記される。

現代語訳全文

夔州陥落と焼身

  • 高彦儔は太原の人である。父の暉は宣威軍使であった。彦儔は高祖に従って蜀に来て、軍校を歴任し、昭武軍監押となった。後主が即位すると、卭州刺史に遷り、馬歩軍使に改められた。たまたま漢の兵が大散関に入り、安都砦を陥落させたとき、彦儔は麾下の部隊を率いて先に進んだところ、漢の人々は砦を焼き桟道を破壊して退避したので、彦儔は精鋭をことごとく用いてこれを追撃し、砦を取り戻して帰還した。まもなく彦儔は趙州刺史を領し、まもなく奉鑾粛衛都指揮副使となり、右驍鋭馬軍都指揮使に改められ、匡聖馬軍都指揮使を加えられ、正式に武定軍節度使を拝した。
  • 周の顕徳の初め、王景・向訓が鳳州を攻めたとき、後主は彦儔に兵を出して包囲を解くよう命じたが、到着しないうちに敗報を聞き、軍は唐倉にあったがそのため潰えて帰った。観察判官の趙玭は関を閉じてこれを受け入れず、城をもって周に帰したので、彦儔は逃れて成都に帰った。後主はこれを罪とせず、右奉鑾粛衛都指揮使とし、功徳使に改めた。
  • 広政二十二年、外に出て寧江軍都巡検制置招討使を授けられ、宣徽北院事・昭武軍節度使を加えられた。宋の軍が夔州に至ると、彦儔は副使の趙崇済、監軍の武守謙に言った、「北軍は遠くから来ている。城を堅く守ってこれを待つのが上策である」と。守謙はその言葉に従わず、独り麾下の兵を率いて出撃した。宋の将である劉光義・曹彬は兵を白帝廟の西に留め、騎将の張廷翰らを遣わして兵を率いさせ猪頭舗で守謙と戦わせた。守謙は敗れて逃げ、廷翰らは勝ちに乗じて城に登り、光義は大軍を率いて続いて到着した。彦儔は麾下の兵を率いて出て防戦しようとしたが、宋の軍はすでに城壁に乗って入っていた。
  • 彦儔は驚き慌てて取り乱し、どうしてよいか分からずにいた。判官の羅済は単騎で成都に帰るよう勧めたが、彦儔は言った、「私は昔すでに天水を失い、今また夔州を守ることができなかった。たとえ人主が私を殺すに忍びないとしても、私にはどのような面目があって蜀の人々に会えようか」と。羅済はまた降伏することを勧めたが、彦儔は言った、「老いた者も幼い者も百口の家族が成都にいる。もし私一身だけが生き永らえたなら、一族はどのような報いを受けるだろうか。私には今日ただ死あるのみだ」と。すぐに符印を解いて羅済に授け、衣冠を整えて西北に向かい再拝し、楼に登って火を放ち焼身して死んだ。

史論

  • 論じて言う。孫欽は果断で謀りごとに優れ、突発の乱を討ったのは、社稷の功臣というべきである。王環は節に殉じて死んだわけではないが、孤城を堅守し、力尽きて捕らえられた点で、これもまた五代のうちの傑出した者ではないか。趙崇溥は餓死し、高彦儔は焼身した。孟氏(後蜀)が国を伝えた間において、忠烈の士としてはこの二人をまず推すべきであろう。後主の母は常々「緩急の際にはただ彦儔だけが任せられる」と言っていたというが、太后はまことに人を知っていたのである。