十国春秋卷五十一 後蜀四 列傳 張公鐸

張公鐸

張公鐸は太原平楽の人である。高祖が初めて義勝定遠諸軍を置いた時、公鐸を都知兵馬使とした。長興三年、高祖が東川の兵と彌牟鎮で戦った時、指揮使毛重威・李瑭はともに殺され、趙廷隠らもまた失利して進まなかった。この時、公鐸は後陣にあり、高祖は馬箠を揚げてこれを指し示すと、公鐸は兵を麾いて進み衆を率いて大呼した。所部の兵は一人が百人に当たらぬ者はなく、東川の兵は不意を突かれて蹂躙され潰走し、死者は数千人に及んだ。この役は董璋の敗が実に公鐸の一戦によって勝を決したものである。ほどなく捧聖控鶴都指揮使に遷った。明徳元年、五臣とともに顧命を受けた。後主が即位すると検校太尉を加えられ、李仁罕と権を争って相い協わなかった。仁罕の死には公鐸もまた与って力があった。ほどなく保寧軍節度使兼同平章事を領した。広政四年、軍を罷めた。八年、卒した。公鐸は少きより文史を渉猟し、政を為すこと清厳、至る所民はその恩恵を受けた。卒した日、後主は哭して「厳にして猛からず、清にして隘からず、ただ張公あるのみ」と言った。