十国春秋卷五十一 後蜀四 列傳 侯宏実

侯宏実

侯宏実は千乗の人である。幼くして家貧しく、年十三、簷の下に仮寐していたところ、たまたま暑月に大雨があり、虹が黄河から水を飲むかのように現れ、にわかに宏実の口を貫き、久しくしてようやく没した。母がこれを見て奇とし、覚めて後、宏実に異あったかと問うたところ、答えて「先ほど河を濡し水を取って腹に果てて帰る夢を見ました」と言った。数月を居て蜀僧が門に至り宏実の母に言った、「女弟子は九九(八十一日)の後、福として児子を得るであろう。気力があるかどうか」と。母は宏実を呼んでこれを相させたところ、僧は徐にこれを視て言った、「これは蜺竜(虹の竜)である。真の竜にはあらざれば官は必ず顕貴となろうが、法として当に郷井を離れ江海に食禄すべし。ただ三宝を欽崇すれば令終を獲ることができよう」と。まもなく宏実は後唐に仕えて河中都指揮使となった。同光三年、魏王継岌が蜀に入るや李紹琛の部下に隷したが、紹琛が漢州を破ると、高祖は兵を率いて紹琛を執え、宏実は李肇とともに高祖に虜とされた。そこで宏実を牙内馬歩指揮副使に命じた。まもなく兵を率いて董璋が閬州を攻め下すのに会い先登して陣を陥し、一軍の推す所となった。彌牟鎮の戦いでは宏実は行間にあり、董璋が敗れると宏実もまた功を論ぜられた。高祖が即位すると奉鑾粛衛指揮副使に改められた。この歳、遺詔を受けて趙季良らとともに政を輔け、秩を侍中に進められた。宏実は眉州刺史・寧江・武泰節度使を歴任し、一官二鎮はみな大江に近く、晩年には禅院を興造し転蔵経を開き第宅を広く建てた。ついに善終を得た。母は年八十一にして後に累って太夫人に封じられた。ことごとく蜀僧の言のようになった。