十国春秋卷五十 後蜀三 列傳 太子玄喆

要約

玄喆、字遵聖は後主の元子で、幼くして聡悟、隷書を能くし、常に姚崇の口箴を書いて石に刻ませるなど自らを戒めた。十四歳で秦王に封じられ検校太尉同平章事として六軍諸衛の事を判せしめられ、廣政二十一年に武徳軍節度使、二十四年に侍中兼任、二十五年に皇太子に立てられた。宋の侵攻に際しては元帥に命じられ、精卒万余と美々しく飾った旌旗を率いたが、微雨で旗が濡れるのを嫌って解かせるとたちまち雨が止み再び掲げさせたという逸話や、旗竿が多く倒れ繋がったという不吉な兆しも記される。玄喆は成都を発つ際、姫妾・伶人数十輩を伴って晨夜遊び興じ軍政を顧みず、綿州で剣門陥落を聞くとそのまま東川へ逃げ、数日で軍を捨てて帰った。

宋に降ると、後主と同日に検校太尉泰寧軍節度使を拝命する制書を受け、のち貝州・定州などを歴任、太平興国年間には太原・幽州の征討にも従軍して諸将とともに契丹を徐河で破る功をあげ滕国公に封じられた。左龍武軍統軍・右金吾衛判事などを経て滑州・滁州を知り、滁州で薨じた。享年五十五。侍中を追贈された。貝州在任中、民の納税に不当な附加税を課していたことが後に問題視され是正されている。子は十五人おり、うち隆記・隆詁・隆説・隆詮の四人は進士に及第した。

現代語訳全文

太子玄喆

玄喆は字を遵聖といい、後主の元子である。幼くして聡悟、隷書を善くした。年十四で秦王に封じられ検校太尉同平章事となり六軍諸衛事を判せしめられた。常に自ら姚崇の口箴を書き、諸石に刻んだ。後主は銀器・錦綵を賜った。広政二十一年、武徳軍節度使を領し、二十四年、侍中を兼ねることを加えられ、二十五年、皇太子に立てられた。宋の師が将に至ろうとする時、後主は玄喆を元帥に命じ、精卒万余、旌旗はみな織文繍でこれを為し、錦をもってその杠を綢った。この日、微雨があり玄喆は霑濕を慮って解き去るよう命じたところ、たちまち雨が止み再びこれを旗竿に施した。旌旗数千は多く杠に倒れ繋がれ、識る者はこれを異とした。玄喆は成都を離れる時、姫妾・伶人数十輩を携え晨夜に嬉戯し軍政を恤まなかった。綿州に行くと剣門がすでに破れたと聞き、そのまま東川に奔り、数日にして軍を弃てて遁げ帰った。宋に入ると後主と同日に制を宣して検校太尉泰寧軍節度使を拝せられた。制に言う、「朕聞くならく、魏将が蜀に降るとき君臣ともに散官に列し、隋帝が陳を平らげるとき子弟に封爵を聞かなかったという。皇家は景風に順って行賞し時雨と同じくして師を済す。当に敵境がいまだ賔せざる時には霆をもって戒厳の令を下すも、危邦が命を請うに暨んでは雲は利沢の恩を垂れる。しかも復た婁を降し古封を掌武し崇秩を曲阜とするに至っては、これ伯禽の国、太尉はすなわち周勃の官、山河は九州の雄に距り紱冕は三公の貴に冠す。これを挙げて賞典と為すのは実にこれ異恩である。蜀国の長子孟玄喆、礼法は矜荘、神采は英秀、修途に駚けて早歳に、蜀川に播問す。正朔はいまだ列国に同じくせずして人は世子と称し、車書はすでに大朝に混じて自ら是れ良臣たり。爾は昔三川にありて常に二職に居り、その父の効順を賛け、祖母の高年を保った。予はその心を嘉みし、豈に彛制に限らんや。これに命じて将壇に東夏に陟らせ、武事を南宮に整えさせ、秩を憲め侯に封じ以て殊渥を光かにし、まさに臨戎の寄せを表し、更に光禄の勲を増す。爾はその天子の憂勤を分かち将軍の号を出せ。それ弦を改め調べを易えることを令せんよりは、従容として民を安んじ政を布き条を頒つに若かず。予は誠にこれを望む。家を栄し国に奉じ、爾はそれこれに勉めよ」と。後主が没すると宋太祖は玄喆に羊五百口・酒五百壺を賜い、玄喆は馬二百匹・白玉水晶鞍勒を副えて献じた。まもなく貝州に移鎮し、鎮にあること十余年、太平興国の初め定州に徙った。三年、開府儀同三司を加えられた。四年、太原平定に従い、命によって鎮州駐泊兵馬鈐轄となった。また幽州征伐に従い、率いる所の部隊で城の西面を攻めるに会って班師することとなり、軍器庫使楽可瓊・深州刺史念金鎖・左龍武将軍趙延進・殿前都虞候崔翰・四方館使梁迴・翰林使杜彦圭とともに兵を率いて定州に帰屯するよう遣わされた。まもなく諸将校とともに契丹を徐河で破り、功によって滕国公に封じられた。入って左龍武軍統軍となり右金吾衛の仗を判じた。まもなく滑州を知り、淳化の初め病をもって小郡を求め滁州を知るに移った。薨じた。年五十五。侍中を贈られた。玄喆が貝州にあった時、およそ民が税を輸する者にはみな商算を出させ、その余羨を規って留使の用に備えた。景徳中、都官員外郎孔揆が河北に使いして表してその事を論じ、はじめてこれを除いた。子十五人があり、隆記・隆詁・隆説・隆詮はともに進士に及第した。