十国春秋十國春秋卷五十 後蜀三 后妃・皇子・公主の列伝

高祖皇后李氏

  • 高祖(孟知祥)の皇后李氏は、後唐太祖李克用の弟である克讓の娘である。
  • 高祖が教練使であったころ、太祖はその才を非凡と見て、弟の娘を妻あわせた。荘宗が即位すると瓊華長公主に封ぜられた。
  • はじめ高祖が西川に鎮したとき、后は子の仁贊とともに太原に留まっていた。明宗が即位すると高祖は使者を送って迎えたが、そのころ李嚴が殺されたため、后らが鳳翔を通ったところで鎮の臣が留めて行かせなかった。明宗は恩によって高祖を懐柔しようと、李仁矩に命じて后を蜀へ送らせた。
  • のち福慶長公主と改封された。唐の有司は「前代の公主の受封はみな降嫁前のことで、使者を藩国に遣わして冊命する儀式はありません」と述べたが、明宗は従わず、有司に新しい儀式を作らせ、秘書監の劉岳を冊使として遣わした。岳が鳳翔まで来たとき高祖の挙兵を聞き、引き返した。
  • 長興三年(932年)に薨じた。唐は使者を送って賻を贈り、晋国雍順長公主を冊贈した。九月、成都の星宿山に葬られた。高祖が即位すると皇后を追冊した。
  • 後唐の乱で荘宗の子らの多くは剃髪して僧となり、間道を通って成都に来た。高祖は后のゆえに厚遇し、賜与は千を数え、器用局に命じて沈香や降真香の鉢、木香の匙・箸を作らせるほどであった。
  • 后は幼いころから雌雄二匹の猫を飼い、一匹を御花朶、一匹を麝香騟妲己と名づけて溺愛した。蜀人はこの話をよく伝えている。

太后李氏

  • 太后李氏は太原の人で、もと後唐荘宗の嬪御であった。荘宗が高祖に賜ったものである。
  • ある日、大きな星が懐に落ちる夢を見て瓊華長公主(すなわち高祖皇后)に告げると、長公主は「そなたには福相がある。貴い子を生むだろう」と言い、以後つねに府舎の管理を任せた。まもなく後主を生んだ。
  • 人となりは聡明で分別があり、はじめ夫人に封ぜられ、明德元年(934年)に貴妃に進み、後主の即位により皇太后と尊ばれた。
  • たびたび征伐に従って艱難を経てきたため、性質は慈愛と倹約を尊び、つねづね後主に福寿を固めるよう戒めた。後主も治世の初めはよくこれに従った。
  • 廣政の末年、兵権を握る者に適材が少なかった。太后は後主に諭した。「昔、荘宗が黄河を挟んで梁と戦うのを見、先帝が并州で契丹を防ぎ、蜀に入って両川を平定するのも見た。将は大功がなければ兵を主らせず、だから士卒は畏れ服したのだ。いま王昭遠は下働きの出、伊審徵・韓保貞・趙崇韜はみな裕福な家の乳臭い子で、兵事に習わず、旧恩だけで人の上に置かれている。平時は誰も物を言えぬが、急に辺境に事が起これば大敵を防げようか。私の見るところ、ただ高彦儔だけが太原以来の旧臣で、心は忠実、経験も豊かで、決してそなたを裏切るまい。ほかに任せられる者はない」。後主は従わなかった。
  • 宋に帰した後、宋太祖は厚く優遇し、御衣一襲、金器三百両、銀器一千両、絹一千段、綿・被・氈・褥などを相応に賜り、詔書では「国母」と呼んだ。宮中では輿に乗ったまま宮庭まで上がることを許し、宮嬪に扶けさせ、みずから酒を酌んで「母よ、自愛なさい。蜀を思って憂えることはない。いずれ母を故郷へ送ろう」とねぎらった。太后が「わが家はもと太原です。もし故郷に帰れるなら望外の幸せです」と答えると、当時まだ北漢が存続していたので、太祖は大いに喜び「劉鈞を平らげたら母の願いどおりにしよう」と言った。
  • 後主が没したとき、太后は泣かず、酒を地に注いで祝して言った。「そなたは社稷に殉じられず、生き恥をさらした。私が死を忍んできたのはそなたがいたからだ。今さら何のために生きようか」。そして食を断って死んだ。
  • 宋太祖はこれを聞いて痛み、賻贈を厚くし、鴻臚卿の范禹偁に喪を護らせ、後主と同じく洛陽に葬った。
  • 太后は成都にいたとき、宮中の衛聖龍神が宮外へ移り住みたいと乞う夢をしばしば見た。太后は像を圓覺寺に移させた。人々はみな吉兆でないと言ったが、国が亡んでその通りとなった。

後主妃張氏

  • 妃の張氏、名は太華。若いころから並外れた美貌で、眉目は絵のようであった。後主に仕えて寵愛を独占した。
  • 廣政の初め、輿を同じくして青城山に遊び、九天丈人観に泊まって一月あまり帰らなかった。奉鑾肅衛都虞候の李廷珪がしばしば諫めたが聞き入れられなかった。数日して雷雨が激しくなり、白昼が真っ暗になり、太華は落雷で命を落とした。紅錦の龍褥に包んで観の前の白楊樹の下に葬った。翌日、後主は急ぎ還御し、悲嘆はやまなかった。
  • 数年後、錬師の李若冲が夕暮れに白楊樹のかたわらを歩いていると、恨みを含んだ詩を吟ずる女に出会った。「人か、鬼か」と問うと、女は襟を正して「わたくしは蜀の妃、張太華です。行幸に陪して落雷に遭いました。どうか済度を賜りたい」と言った。若冲は中元節に長生金簡を修めて応えた。まもなく夢に太華が現れ、「わたくしはすでに人界に生まれ変わりました」と謝し、壁に黄土で詩を残して去った。後主はこれを聞いて若冲に厚く賜った。
  • これ以後、後宮の寵を独占したのは花蕋夫人であった。

慧妃徐氏

  • 慧妃徐氏は青城の人。幼くして才色を備え、父の国璋が後主に納れた。後主は寵愛して貴妃に拝し、花蕋夫人と別号し、さらに慧妃に号を進めた。
  • あるとき後主とともに楼に登り、龍脳の粉を塗った白扇を落として人に拾われた。蜀人は争ってその作りをまね、「雪香扇」と名づけた。
  • また後主が摩訶池のほとりで避暑した折、彼女を讃える小詞を作った。国中に流布した。
  • 徐氏は詩をよくし、平素から王建に倣って宮詞百首を作り、当時の人に称賛された。
  • 国が亡んで宋に入ると、宋太祖は召して詩を述べさせ、亡国の由来を語らせた。その詩には「十四万人斉しく甲を解く、一個として男児たるは無かりき」の句があり、太祖は大いに喜んだ。
  • 徐氏は心に蜀を忘れず、つねに後主の像を掛けて祀り、子を授ける神だと偽って言った。
  • 一説に、墓は閩の崇安にあるという。

史論

  • 論に曰く。逸史の伝える張太華の話はきわめて奇異で、漢の李夫人の類であろうか。花蕋夫人については、宋が蜀を平らげたとき別将が夫人を護送して汴京へ向かう途中、節操を失う言葉を発し、のちに晋邸(宋太宗)に射殺されたとする説、また蜀の俘虜として織室に送られ、ついに罪を得て自尽を賜ったとする説があるが、いずれも誤りである。前蜀と後蜀に花蕋夫人は二人おり、王氏の蜀では導江の費氏、孟氏の蜀では徐国璋の娘である。さらに南唐の宮人で詩に長じ、宋に帰した後に「小花蕋」と目された者もいる。いずれも同じ称号によったものである。

高祖の子 雅王仁贄

  • 仁贄、字は忠美、高祖の子である。後主より年少で、はじめ左威衛将軍同正となった。
  • 廣政十三年(950年)、雅王に封ぜられ検校太傅となった。二十年(957年)に保寧軍節度使を領し、二十四年(961年)に検校太尉を加えられた。
  • 宋軍が国境に入ると、後主は仁贄を宋の朝廷に遣わして上表し罪を待たせた。宋太祖は廣德殿で召見し、襲衣・玉帯・鞍勒の馬を賜り、まもなく雲麾将軍・検校太傅・右神武統軍兼御史大夫・上柱国・平昌県開国伯・食邑七百戸を授けた。
  • 母の喪に服したが起復して大同軍節度・西京都巡検使を領し、開寶四年(971年)に薨じた。年四十四。太子太師を贈られた。

高祖の子 彭王仁裕

  • 仁裕、字は鳴謙、これも高祖の子で後主の弟である。左威衛将軍同正から身を起こし、仁贄と同じ日に彭王に封ぜられ検校太傅となった。
  • 廣政二十年(957年)に武泰軍節度使を領し、二十四年(961年)に検校太尉を加えられた。
  • 宋に帰すると検校太傅・右監門衛上将軍を授けられ、右羽林軍に遷った。開寶三年(970年)に薨じた。年四十四。太子太傅を贈られた。

高祖の子 嘉王仁操

  • 仁操も後主の弟である。はじめ右領軍衛将軍同正となり、仁贄らと同じ日に嘉王に封ぜられ検校太傅となった。
  • 廣政二十一年(958年)に永寧軍節度使を領した。梔子園で後主の射に侍したとき、続けて三度的中させた。二十四年(961年)に検校太尉を加えられた。
  • とりわけ仏教に帰依し、禅理を深く究めた。
  • 宋に帰すると右監衛上将軍を授けられ、累進して右龍武統軍となり、雍熙三年(986年)に薨じた。
  • なお宋の陸游は、旧蜀の燕王宮の海棠の見事さは成都第一だったと言うが、燕王が誰かは詳らかでない。ひとまずその封号を記して後考を待つ。

後主の子 太子玄喆

  • 玄喆、字は遵聖、後主の長子である。幼くして聡明で隷書をよくした。
  • 十四歳で秦王に封ぜられ、検校太尉・同平章事として六軍諸衛の事を判じた。みずから姚崇の「口箴」を書いて石に刻ませ、後主から銀器や錦綵を賜った。
  • 廣政二十一年(958年)に武德軍節度使を領し、二十四年(961年)に侍中を兼ね、二十五年(962年)に皇太子に立てられた。
  • 宋軍が迫ると、後主は玄喆を元帥とし、精兵一万余を与えた。旌旗はみな文繡を織り込み、竿は錦で包んであった。その日は小雨が降ったので、玄喆は濡れるのを心配して旗を外させ、まもなく雨がやんで再び掲げさせたが、数千の旌旗の多くが竿に逆さに結ばれていた。識者は不吉なことと見た。
  • 玄喆は成都を出るとき姫妾と伶人数十人を連れ、朝も夜も遊び戯れて軍政を顧みなかった。緜州に至って劍門の陥落を聞き、東川へ逃げ、数日で軍を棄てて遁走した。
  • 宋に入ると後主と同日に制を宣せられ、検校太尉・泰寧軍節度使を拝した。その制文はおよそ次のような趣旨である。魏が蜀を降したとき君臣はともに散官に列し、隋が陳を平らげたときも子弟が封爵を受けたとは聞かない。わが皇家は景風に順って賞を行い、時雨のごとく師を済けた。敵境が服さぬうちは戒厳の令を下し、危邦が命を請えば恵沢の恩を垂れる。まして降婁は古の封地、掌武は高い官秩であり、曲阜は伯禽の国、太尉は周勃の官である。山河は九州の要衝を扼し、紱冕は三公の貴を冠する。これを賞典に用いるのはまことに異例の恩である。蜀国の長子孟玄喆は礼法を守って荘重、風采は英秀で、若くして遠い道を駆け、蜀川に名声を広めた。正朔はまだ列国と同じでなかったが人は世子と称し、車書がすでに大朝に統一された今は良臣である。汝はかつて三川にあって二職を兼ね、父の帰順を助け、祖母の高齢を守った。予はその心を嘉する。どうして常制に限られようか。そこで東夏の将壇に昇らせ、南宮に武事を整えさせ、憲秩をもって侯に封じ、格別の恩沢を輝かせる。臨戎の任を表すとともに光禄の勲を加える。汝は天子の憂いを分かち、将軍の号令を出せ。弦を張り替えて調べを変えるよりは、従容として民を安んずるがよい。政を布き条を頒つことに予は期待をかける。家を栄えさせ国に奉ぜよ、努めよ——と。
  • 後主が没すると、宋太祖は玄喆に羊五百頭・酒五百壺を賜り、玄喆は馬二百匹に白玉・水晶の鞍勒を添えて献じた。
  • まもなく貝州に移鎮し、在鎮十余年に及んだ。太平興国の初めに定州へ移り、三年(978年)に開府儀同三司を加えられた。四年(979年)、太原平定に従い、そのまま鎮州駐泊兵馬鈐轄となった。また幽州征討に従い、部下を率いて城の西面を攻めた。撤退にあたっては、軍器庫使の樂可瓊、深州刺史の念金鏁、左龍武将軍の趙延進、殿前都虞候の崔翰、四方館使の梁迴、翰林使の杜彦圭とともに兵を率いて定州に駐屯するよう命じられた。まもなく諸将校とともに徐河で契丹を破り、その功で滕国公に封ぜられた。
  • 入朝して左龍武軍統軍・判右金吾衛仗となり、まもなく滑州を知した。淳化の初め、病を理由に小郡での療養を求め、滁州に移って薨じた。年五十五。侍中を贈られた。
  • 玄喆は貝州にいたとき、税を納める民にすべて商算を出させ、その余剰を留使の費用に充てていた。景德年間、都官員外郎の孔揆が河北に使いしてこの件を上表し、はじめて廃止された。
  • 子は十五人おり、隆記・隆詁・隆説・隆詮はいずれも進士に及第した。

後主の子 褒王玄珏

  • 玄珏は後主の次子である。はじめ褒王に封ぜられ、玄喆と同じ日に封拝を受け、検校太保を兼ねた。
  • 幼くして端正機敏で、後主の射に侍したとき二本の矢を続けて的中させたので、後主は驚いて銭三十万を賜った。
  • 当時、玄珏は就学したばかりで、起居舍人の陳鄂が教授に選ばれていた。玄珏は賜った銭を鄂に与えたいと自ら申し出、後主は嘉して許した。鄂は唐の李澣の『蒙求』、高測の『韻対』に倣って『四庫韻対』四十巻を作って献じ、玄珏はいよいよ彼を賞した。
  • 廣政二十三年(960年)、玄珏は保寧軍節度使を領し、久しくして検校太傅を加えられた。
  • 宋に帰すると千牛衛上将軍となり、乾德五年(967年)に右神武統軍に遷って玄喆に代わり金吾衛仗を判じた。太平興国九年(984年)に宋・曹・兖・鄆の都巡検として出、また右屯衛上将軍に改められた。淳化元年(990年)四月にふたたび右神武統軍となり、六月に滑州の知事として出、三年(992年)に薨じた。

後主の子 遂王玄寶

  • 玄寶は後主の幼子である。生まれつき際立って優れ、数歳で日々に詩書一万言を誦した。七歳で夭折した。
  • 太常は「無服の殤には追贈の典例がありません」と述べたので、後主が宰相の李昊に問うたところ、昊は「昔、唐の德宗の皇子評は生後四歳で没しましたが、揚州大都督を贈られ肅王に封ぜられました。これが先例です」と答えた。そこで後主は玄寶に青州大都督を贈り、遂王を追封した。

高祖の女 崇華公主

  • 崇華公主は高祖の娘である。太原の伊延瓌に嫁した。延瓌は陵州・嘉州・眉州の三州刺史を歴任した。伊審徵は公主の子である。

後主の女 鳳儀公主

  • 鳳儀公主は後主の娘である。宰相李昊の子の少連が娶った。少連は累進して太常少卿・資州刺史となった。

後主の女 鑾国公主

  • 鑾国公主も後主の娘で、工部尚書母守素の子の克恭に嫁した。克恭は公主のゆえに、はじめ検校水部員外郎を授けられ、累進して光禄少卿となり、宋に帰した後は左監門衛将軍に抜擢された。
  • 後主の時にはほかに韓崇遂・趙文亮・伊崇度もみな公主を娶ったが、史書にその封号が伝わらないので記さない。