十国春秋十國春秋卷五十一 後蜀四 趙季良ら後蜀の功臣列伝

趙季良

  • 趙季良、字は德彰、濟陰の人である。
  • はじめ後唐に仕え、荘宗のもとで魏州司録となった。魏州は税の未納が多く、荘宗が晋王であったとき厳しく督促した。季良は「殿下はいま攻取を謀っておられるのに百姓を愛しまなければ、ひとたび人心が離れれば河北は殿下のものでなくなりましょう」と諫め、荘宗は大いに敬重した。のち累進して塩鉄判官・太僕卿となった。
  • 明宗の天成元年(926年)、官告を携えて高祖(孟知祥)を侍中に拝し、そのまま三川制置使として蜀の犒軍の余銭を京師に送る任にあたり、あわせて両川の徴賦を管掌した。当時、西川に鎮する高祖は詔をあまり奉じておらず、季良とは旧知であったので、そのまま引き留めて帰さず、西川節度副使とすることを請い、事の大小を問わず多くを参画させた。
  • 久しくして唐は季良を果州団練使に移そうとしたが、高祖は制書を隠し、上表して季良の留任を請うたが許されず、さらに使者を京師に送って論じ請うたので、明宗はやむなく曲げて従った。これより季良は身を傾けて高祖に仕え、腹心となった。
  • 季良は聡敏で謀略に長けた。当時、董璋が人を遣わして婚姻を求め結びつこうとしたが、高祖は璋を恨んで許さなかった。季良は唐に対抗するには合従すべきだと説き、高祖は従った。
  • 長興のころ、進奏官が「唐主は大兵を発して両川を討とうとしている」と報じた。季良は「東川に先に遂州・閬州を取らせ、そのうえで兵を合わせて劍門を守れば、大軍が来ても後顧の憂いはありません」と献策した。
  • まもなく唐将の石敬瑭が、遂州・閬州がすでに破られたのを見て陣営を焼いて北へ帰った。前線から早馬で高祖に報が届いたが、高祖はその書を隠したまま季良に「北軍が近づいてきた。どうする」と問うた。季良は指を弾いて「緜州より先には来ず、必ず逃げ帰ります」と言った。理由を問うと「こちらは逸、あちらは労。敵は千里に孤軍を懸けており、糧が尽きれば走るしかありません」と答えた。高祖は大笑して書を見せ、その智に深く服した。
  • 間もなく高祖は董璋に異心ありと疑い、季良を遣わして探らせた。季良は帰って報じた。「璋は豺狼の声、狗鼠の行い。苛斂誅求して殺を好み生を憎み、志は剛強で人事を量らず、用兵は勝ちを好んで天の時を弁えません。朝令暮改、座って喜んだかと思えば立って怒る。兵には闘う心があっても将には戦う意がない。いま小をもって大を謀り、民を疲弊させ姦を利し、四海を窺う心を抱いており、ついには両川の患いとなりましょう。兵を訓練し城塁を修め、こちらの将を招き使臣をくじいている以上、必ず雷電のごとく動いて山河の誓いを顧みますまい」。
  • 果たして璋は高祖と反目し、兵を挙げて白楊林を破り、勢いは盛んであった。高祖が憂色を見せると、季良は説いた。「璋は勇でも恩がなく、士卒はなつきません。城を守られれば落としがたいが、野戦なら擒にできます。いま巣穴を守っていないのは公の利です。璋の精鋭はことごとく前鋒にあるので、公は弱兵で誘い、精兵で待つべきです。初めは小敗しても、最後は大勝します。また璋は日ごろ威名を負っているため西川は恐れています。公がみずから出て防げば人心はおのずと定まりましょう」。のちすべて季良の言のとおりとなり、璋はこれによって敗れた。
  • まもなく季良は武泰留後を領し、ほどなく高祖は墨制で節度使に任じた。同じ年、唐の明宗も制を下して季良を武泰軍節度使とした。
  • 高祖が即位すると司空兼門下侍郎・同平章事に拝された。
  • 高祖の病が重くなり臨終の際、季良は李仁罕・趙廷隱・王處囘らとともに顧命を受けた。高祖が没して喪を秘していたとき、處囘が夜に季良を訪ねて泣きやまなかった。季良は顔を正して「いま強大な諸侯が兵を握って時機を窺っている。義として急ぎ嗣君を立てるべきだ。ただ泣き合っていてよいものか」と言い、處囘とともに後主を立て、そののち喪を発した。擁立の功により司徒を加えられた。
  • のち太保に進み、母昭裔・張業とともに三司を分掌して戸部の事を兼ねた。
  • 廣政九年(946年)秋八月に没し、文肅と諡された。
  • 子の元振は、明德の初めに都知殿直となった。

趙廷隱

  • 趙廷隱は開封の人である。
  • はじめ梁に仕えて禆将となった。王彦章が捕らえられたとき、廷隱は都監の張漢傑、曹州刺史の李知節、偏将の劉嗣彬らとともに唐の荘宗に捕らえられた。のち高祖に従って西川に入った。
  • 廷隱は剛勇で智略があり、高祖の麾下に及ぶ者がなかった。功を積んで金紫光禄大夫・検校司空・守漢州刺史・上柱国となり、左廂馬步軍都指揮使を兼ねた。
  • まもなく唐軍と劍門で戦った。寒さの厳しい折で士卒は様子を窺って進まなかったが、廷隱は涙を流して「いま北軍の勢いは盛んだ。おまえたちが力戦して敵を退けねば、妻子は他人のものになるぞ」と諭したので、みな奮い立った。
  • 唐将の石敬瑭が歩兵を率いて廷隱を撃つと、廷隱は射手五百人を選んで敬瑭の帰路に伏せ、矛を交えたところで旗を揚げ喊声を上げ、ついに破った。
  • 次いで李仁罕の副として遂州を攻め、真っ先に城に登った。折しも唐将の李彦琦が利州を棄てて逃げたので、廷隱は昭武軍留後に遷った。
  • 廷隱は使者を馳せて高祖に説いた。「董璋は詐りが多く、必ず公の患いとなります。劍州へ来て軍を労うのに乗じて図り、両川の衆を併せれば天下に志を得られましょう」。高祖は許さず、廷隱は「わが謀を用いぬのでは、禍いは終わるまい」と嘆いた。
  • 久しくして廷隱は昭武を李肇に譲り、成都に帰った。
  • 翌年、董璋が侵入すると、行営馬步軍都部署として三万を率いて防いだ。璋は偽の書状を作って廷隱や趙季良らが璋と通じていると誣告した。高祖がそれを廷隱に見せると、廷隱は地に投げ捨てて「反間にすぎません。公に副史と私を殺させようというだけのことです」と言った。
  • まもなく兵を率いて梓州を攻め、璋が部将に殺されると、その首を取って献じた。
  • 高祖が両川を領有すると、あらためて閬州に保寧軍を置き、廷隱を保寧軍留後とし、ほどなく墨制で節度使に抜擢した。明宗もただちに制を下して保寧軍節度使とした。
  • 明德元年(934年)春、左匡聖步軍都指揮使に充てられた。高祖の病が篤くなると趙季良らとともに遺詔を受けて輔政した。
  • 後主が立つと侍中を加えられ六軍副使となり、のち太傅に進み、国に大事あるごとに邸に赴いて諮問された。
  • やがて李仁罕・張業が相次いで罪を得て死ぬと、廷隱は致仕して家に引きこもった。最後の官は太師・中書令、封は宋王である。廣政十一年(948年)冬十二月に薨じ、忠武と諡された。

李仁罕

  • 李仁罕、字は德美、陳留の人である。
  • 唐の同光年間、李紹琛が叛して漢州を攻め破ったとき、高祖は仁罕を遣わして任圜・董璋と合流させ、これを撃破した。仁罕はこれによって勇戦の名を得た。
  • 明宗が立つと功を積んで左廂馬步都指揮使となり、さらに光禄大夫・検校太保・守彭州刺史・上柱国に進み、諸軍馬步軍都指揮使を兼ねた。
  • 仁罕がかつて張業とともに宴を設けて高祖を招いたとき、事前に「二将は宴の日に乱を起こす計画だ」と告げる者があったが、高祖は信じなかった。当日、護衛をすべて退けて単身で仁罕の邸に赴くと、仁罕は叩頭して涙を流し、「公は赤心を人の腹中に置いてくださる。老兵はただ死を尽くして徳に報いるのみです」と言った。
  • 高祖が成都で挙兵すると仁罕を行営都部署とし、兵を率いて遂州を攻めさせた。城が落ちて唐将の夏魯竒は自殺した。その功で武信軍留後に抜擢された。ついで峽路行営招討使となり、進んで忠州を抜き、萬州を破り、雲安監を陥れ、帰路に夔州を落とした。峽江の勝利は仁罕の功が最も多い。
  • のち趙廷隱と東川の鎮を争って廷隱と折り合わず、高祖は仁罕を遂州へ帰らせた。
  • 長興四年(933年)、高祖は墨制で武信軍節度使に任じ、明宗もそのとおりに追認した。
  • 高祖が即位すると、仁罕を衛聖諸軍馬步軍指揮使とし、武信の節鎮を引き続き領させた。ほどなく遺詔を受けて輔政し、後主を帝位に即けた。
  • 当時、諸将の多くは高祖の旧友であり、後主に仕えていよいよ驕り、法を守らず、邸宅を広げ、人の良田を奪い、その墳墓を暴いた。仁罕と張業はとりわけ甚だしかった。仁罕は高祖の時からすでに奢侈をほしいままにし、前蜀主の宮嬪に絶世の美人がいたのを娶ろうとしたが、高祖に咎められるのを恐れてやめたほどであった。
  • ここに至って跋扈の志が芽生え、功を恃んで六軍判事を求めた。後主は請いを曲げて容れ、中書令を加え六軍の事を判じさせたが、内心の憤りに堪えなかった。折しも張公鐸・韓繼勲・韓保貞・安思謙らはみな後主の藩邸以来の側近で、日ごろ仁罕を怨んでおり、そろって「仁罕には異心がある」と讒言した。廷隱も仁罕と隙があったのでこれに与した。
  • 後主はついに仁罕の入朝に乗じて捕えて殺し、その一族も誅した。当時、李肇が鎮所から入朝し、杖を突いて拝謁して病と称し拝礼しなかったが、仁罕の死を聞くとただちに杖を捨てて拝した。

張業

  • 張業は仁罕の甥である。初名は知業であったが、のち高祖の偏諱を避けて業と一字にした。
  • 驍勇で戦にすぐれ、仁罕とともに高祖に従って蜀に入り、諸方の盗賊を分担して討ち、ことごとく平定した。
  • 天成年間、右廂馬步軍都指揮使・金紫光禄大夫・検校司空・守簡州刺史・上柱国となった。長興元年(930年)、先鋒都指揮使として三万を率いて遂州を攻め、功があった。久しくして寧江軍留後に拝され、のち高祖が墨制で節度使に任じた。唐の明宗が高祖に蜀王の爵を賜ると、詔して業に寧江軍節度使を領させた。
  • 高祖が尊号を称すると、業を右匡聖步軍都指揮使に充て、寧江の節鎮はそのまま管させた。後主の時に検校太尉を加えられた。
  • 仁罕が誅されたとき、業はちょうど禁兵を掌っていた。後主はその離反を恐れ、宰相に用いて安んじようとし、同平章事を命じた。廣政元年(938年)、左僕射兼中書侍郎・同平章事に進み、まもなく司空を加えられて度支を判じた。
  • 業は性質が豪奢で、人の田宅を無理に買い上げ、逃亡者を匿い、また私邸に牢獄を設けて負債者を繋ぎ、なかには年を越して獄死する者もあった。蜀人は大いに怨んだ。
  • 業の子の繼昭は検校左僕射を官とし、剣術を好んで僧の歸信とともによく剣を使う者を訪ね歩いた。
  • 左匡聖都指揮使の孫漢韶は日ごろ業と不和で、業父子が謀反を企てていると密告した。後主は大いに怒り、その専横の実状を調べ上げ、李昊・安思謙と謀って業の入朝を待って捕らえ殺し、詔を下してその罪悪を公表し、家を没収した。廣政十一年(948年)のことである。業は仁罕の死から十五年後に死んだことになる。

李肇

  • 李肇は汝陰の人である。はじめ後唐に仕えて陝虢都指揮使となった。
  • 高祖は漢州の役で李紹琛を追撃して捕えた際、肇と侯宏実の二人も得た。その才を非凡と見、心が通じ合ったので、ただちに肇を牙内馬步都指揮使に任じた。
  • まもなく唐軍が劍門を破ると、高祖は肇に兵を与えて劍州を守らせ、「倍の速さで進め、唐軍など恐れるに足らぬ」と戒めた。肇は劍州に着いて河橋に陣した。唐の騎兵が陣を突こうとしたが、肇が数百の強弩を伏せて射たので、唐の騎兵は進めず退いた。まもなく肇は成都に帰った。
  • 昭武留後の趙廷隱がその軍を三度まで肇に譲ったので、高祖は肇に代わって利州を守らせた。
  • 董璋が挙兵したとき、偽って肇に書を送り、あたかも共謀者であるかのように装ったが、肇はその使者を訴え出て獄に繋ぎ、みずからも兵を擁して自衛を図った。璋が敗れると、肇は璋の使者を斬って献じた。
  • 長興四年(933年)、高祖は墨制で肇を昭武軍節度使に任じ、唐の明宗もすべてそのとおりに認めた。まもなく奉鑾肅衛都指揮使を兼ねた。
  • 後主が即位すると侍中を加えられたが、肇は先朝の功臣を恃んで期日どおりに入朝せず、漢州に留まって親族と酒宴を開き、十日あまりを費やした。久しくして杖にすがって後主に見え、病と偽って拝礼しなかった。後主は李仁罕を誅したのち、肇に対しても心穏やかでなかった。側近が肇の傲慢を理由に処罰を求め、後主はついにその軍務を解いて太子少傅に改め、邛州に移し、そこで死んだ。

史論(趙季良ら五人について)

  • 論に曰く。文肅(趙季良)ら諸人は高祖の創業の勲臣であり、史書にいう五節度使がこれである。覇主に影のごとく従い、豹のごとく変じ雲のごとく興った様は、盛んと言わずにいられようか。とりわけ策を運らし敵愾して始終を全うした点で、二人の趙(季良・廷隱)の功績は大きい。仁罕は誅に伏し、業は非業の死を遂げ、肇は邛州で老いて死んだ。功が高く志が満ちて禍を招き咎を得たのは、いずれもみずから招いたものにほかならない。

侯宏実

  • 侯宏実は千乗の人である。
  • 幼くして家が貧しかった。十三歳のとき軒下でうたた寝していると、暑い季節の大雨のなか、黄河から虹が水を飲むように立ちのぼり、やがて宏実の口を貫いてしばらくして消えた。母はこれを見て不思議に思い、目覚めたときに何か変わったことがあったかと尋ねた。宏実は「河に浸って水を汲み、腹いっぱいにして帰る夢を見ました」と答えた。
  • 数か月後、蜀の僧が門を訪れ、宏実の母に「女弟子は九九(八十一歳)の後に、子の力で福を得るでしょう」と言った。母が宏実を呼んで人相を見てもらうと、僧はじっくり見て「これは蜺龍です。真の龍ではないが、官位は必ず顕貴となる。ただし故郷を離れ、江海のほとりで禄を食む定めです。三宝を敬い崇めれば良い最期を得られましょう」と言った。
  • のち後唐に仕えて河中都指揮使となった。同光三年(925年)、魏王繼岌の蜀征討に際して李紹琛の部下に属した。紹琛が漢州を破ったとき、高祖が兵を率いて紹琛を捕らえ、宏実と李肇はともに高祖の捕虜となった。高祖は宏実を牙内馬步指揮副使に任じた。
  • まもなく兵を率いて董璋と合流して閬州を攻め落とし、真っ先に城に登り陣を破って、全軍に推重された。彌牟鎮の戦いでも宏実は陣中にあり、董璋が敗れると宏実も論功にあずかった。
  • 高祖が即位すると奉鑾肅衛指揮副使に改められた。その年、遺詔を受けて趙季良らとともに輔政し、侍中に秩を進めた。
  • 宏実は眉州刺史、寧江・武泰節度使を歴任した。一つの官と二つの鎮はいずれも大江に近かった。晩年には禅院を建て、転蔵経を開き、邸宅を広く構え、ついに天寿を全うした。母は八十一歳まで生き、のち太夫人に累封された。すべて蜀の僧の言のとおりであった。

張公鐸

  • 張公鐸は太原平樂の人である。高祖がはじめ義勝・定遠などの諸軍を置いたとき、公鐸を都知兵馬使とした。
  • 長興三年(932年)、高祖が東川の兵と彌牟鎮で戦い、指揮使の毛重威・李瑭がともに討たれ、趙廷隱らも失利して進めなかった。このとき公鐸は陣の後方にいたが、高祖が馬の鞭を揚げて指し示すと、公鐸は兵を指揮して進み、衆を率いて大声を上げた。その部下の兵は一人残らず一騎当千の働きをし、東川の兵はまったく不意を突かれて踏みにじられ総崩れとなり、死者は数千に上った。この戦いにおける董璋の敗北は、実に公鐸の一戦で決したのである。
  • ほどなく捧聖控鶴都指揮使に遷った。明德元年(934年)、五人の重臣とともに顧命を受けた。後主が即位すると検校太尉を加えられた。李仁罕と権を争って折り合わず、仁罕の死には公鐸も力があった。
  • まもなく保寧軍節度使を領し同平章事を兼ねた。廣政四年(941年)に軍使を解かれ、八年(945年)に没した。
  • 公鐸は若いころ文史を渉猟し、政を執っては清廉厳正で、赴任先の民はその恩恵を受けた。没した日、後主は哭して「厳しくとも猛からず、清くとも狭からず。ただ張公あるのみだ」と言った。

龎福誠

  • 龎福誠は太谷の人である。高祖に仕えて牙内指揮使となった。
  • 長興の初め、唐兵が両川を征したとき、福誠は昭信指揮使の謝鍠とともに閬州の来蘇村に駐屯していた。劍門陥落を聞くと二人は「北軍にさらに劍州を取られては、二蜀の情勢は危うい」と語り合い、ただちに部下の兵千余人を率いて間道から劍州へ向かい、千衙城に拠った。着いたところで北山から駆け下ってきた唐軍一万余に遭遇したので、福誠らは河橋へ走って迎え撃ち、北軍はやや退いた。
  • 日が暮れたところで二人は「衆寡敵せず、夜が明ければ我らは全滅だ」と謀り、福誠は夜に数百人を率いて北山の頂に登り、まわり込んで唐軍の陣営の背後に出て大声で騒ぎ立てた。鍠は残る兵に弓弩と短兵を執らせて正面から急襲した。唐軍は驚き乱れ、陣営を空にして逃げ去り、鍠は勢いに乗じて追撃した。唐軍はそこで劍門に退いて守った。人々はみな福誠の兵略を称えた。
  • 廣政年間、韓保貞とともに鳳翔を撃ったが、功なく引き返した。

武漳

  • 武漳は文水の人である。高祖に仕えて牙内指揮使となった。
  • 天成のころ、命を受けて高祖の家族を晋陽に迎えに行ったが、鳳翔で李從曮に留められた。漳は百方に説いたが出発できず、唐の明宗が蜀への帰還を許す詔を下してはじめて放たれ、成都に帰った。

沙延祚

  • 沙延祚は太原の人である。高祖の麾下に属して義勝都頭となった。
  • 長興の初め、唐兵が文州へ向かい龍州を襲おうとしたとき、延祚は定遠指揮使の潘福超とともに兵を率いて防ぎ、唐軍は敗れて去った。

潘仁嗣

  • 潘仁嗣は、出身地は原文が欠けている。高祖に仕えて馬軍都指揮使となった。
  • 董璋が侵入すると、仁嗣は三千を率いて漢州に赴いて偵察し、赤水のほとりで璋と戦って敗れ、璋の捕虜となった。ほどなく高祖がみずから旗鼓を執って東川の兵を大破したので、仁嗣は戻ることができた。
  • のち累進して武定軍節度使・源壁等州観察営田処置等使となった。

高敬柔

  • 高敬柔は高祖に属して都押牙となった。
  • 李仁罕が遂州を囲んだとき、敬柔は資州の義軍二万を率いて長城を築いて囲み、ついに城を落とした。
  • 高祖が董璋を防いだ際には、敬柔は趙季良とともに成都に留まって鎮守した。憂いなく済んだのは敬柔の力である。
  • その後の消息は不明である。

季鎬

  • 季鎬は出自が詳らかでない。高祖の幕府にあって判官となった。
  • 高祖が董璋と兵を整えて戦おうとしたとき、高祖はわざと余裕を見せてみずから書を書いて璋に送ろうとしたが、筆を執って誤り「董」を「重」と書いてしまい、久しく不機嫌であった。かたわらの鎬だけがひそかに喜び、諸将を引き連れて馬前で祝賀した。高祖が「事の帰趨はまだ分からぬ。何を祝うのか」と問うと、鎬は「大王が草書で書かれた『重』は、董の頭が取れた形です。必勝の兆しです」と答えた。果たして一戦して璋は敗れた。人々は鎬を機敏な人物と評した。

李筠

  • 李筠はもと前蜀の永平節度使であった。のち高祖に仕えて大将となった。
  • 唐軍が両川を征したとき、筠は四千を率いて龍州の要害を守り、敵兵は侵入できなかった。筠には防御の功が大きかった。
  • のち累進したが、官名は原文が欠けている。没した。

朱偓

  • 朱偓は出身地が原文で欠けている。
  • 長興の初め、高祖が張武を峽路行営招収討伐使としたとき、偓は戦上手であったため先鋒将となり、兵を分けて黔州・涪州へ向かった。偓が涪州に至ると唐の武泰節度使楊漢賓は城を棄てて逃げ、そのまま黔南を取り、豐都まで追撃して引き返し、涪州を落とした。黔・涪の平定は偓の力が大きい。

袁彦超

  • 袁彦超は水戦に長け、高祖の帳下に属して左飛棹指揮使となった。
  • 張武が峽江を征したとき、彦超はその副将であった。まもなく武が渝州で死ぬと、高祖はただちに彦超に代わってその衆を統べさせた。水軍の雄としては、蜀人は彦超を第一とした。

史論(侯宏実ら諸将について)

  • 論に曰く。宏実は謹直にして沈毅、公鐸は剛勇にして清厳であり、将相の位に置いて恥ずかしくない。福誠は奇策で勝ちを制した。孫子・呉子の遺法を得た者と言ってよかろう。武漳以下はみな和陵(高祖)に従って身を起こした将士で、優れた人材が多い。一つでも長所が記すに足る以上、選び取ってこの篇に載せた。