十国春秋卷四十六 前蜀十二 列傳 宋光嗣

要約

宋光嗣は福州の人。通敏で心計に長け、宦官として普寧公主に仕え、公主が夫に受け入れられず里に帰った際も従って成都に至った。高祖に留められて閤門南院使、のち宣徽南院使を歴任し、高祖の病篤きに及んでは、大将・大臣の多くが唐の旧臣で太子に必ずしも忠実でないことを憂えた高祖から枢密使に抜擢され、王宗弼らとともに後主輔佐の顧命を受けた。

後主即位後は六軍諸衛の事を判せしめられて権柄を握り、内給事の王廷紹・欧陽晃らと上下で私利を図って朋比をなし、国政は日に衰えた。唐の軍が利州に迫ると王宗弼とともに「大軍で利州を扼せば唐軍は深く侵入できない」と楽観的な進言をして後主を誤らせたが、まもなく王宗弼が異心を抱いて利州を棄てて帰り、招討使らを欺いて宋光嗣らへの罪を着せて唐に寝返ると、宋光嗣らは殺されてその首は函に入れられ唐軍に送られた。国事の裁断を児戯のような戯れ言や韻を踏んだ句で済ませるなど、軍機を軽んじる態度が常であったという。従弟の宋光葆は東川節度使まで進み、唐の使者李厳の弁舌から蜀併呑の意図を見抜いて誅殺を進言したが後主に容れられず、前蜀滅亡後は病と称して閬州に隠棲したが、後唐の代に安重霸が閬州団練使となると殺された。

現代語訳全文

生涯

  • 宋光嗣は福州の人である。人となり通敏で心計に長け、宦者として普寧公主に給事した。公主は岐王の従子繼崇の妻となったが夫に受け入れられず里に帰った。宋光嗣は公主に従って成都に至った。高祖はこれを留めて手放さず、閤門南院使とした。天光年間、宣徽南院使に転じた。
  • 高祖は病が篤くなると、大将・大臣の多くが許昌(唐)の故人であり、必ずしも太子のために用いられないだろうと考え、人を選ぼうとしたが得られなかった。そこで宋光嗣を枢密使とし、王宗弼らとともに顧命を受けて輔政させた。
  • 後主が即位すると、ただちに宋光嗣に六軍諸衛の事を判せしめた。宋光嗣は権柄を得てから後主の意によく取り入り、後主も彼を大いに寵任した。これによって内給事の王廷紹・欧陽晃・李用輅・宋承蕰・田魯儔らとともに上下で私を行い、朋比(徒党を組むこと)することが多く、国政はついに日々衰えた。
  • 唐の兵が来るに及んで、後主は兵を率いて利州に至った。宋光嗣は王宗弼とともに後主に「東川・山南の兵力はなお完全です。陛下はただ大軍をもって利州を扼していれば、唐人はどうして軍を懸けて深く侵入することができましょうか」と言った。後主はそうだと思い、まったく意に介さなかった。
  • まもなく唐の軍が日に日に迫り、王宗弼は異心を抱いて利州を棄てて西に帰った。三人の招討使がこれを追って白艻に至ると、王宗弼は詔を探り出してこれを示し、「宋光嗣が私にお前たちを殺させようとしている」と言い、そこで合謀して唐に降った。まもなく王宗弼は「我々君臣は久しく帰命しようと思っていたのに、宋光嗣らが幼主を惑わした」と称し、皆を斬ってその首を函に入れて唐の軍の前に送った。
  • 宋光嗣は枢衡(枢密使の要職)を掌握していた当時、国事の裁断は多く児戯(子供の遊び)のようなもので、判語(決裁の文言)はおおむね戯れの言葉や韻を踏んだ句を用いた。その軍機を軽んじもてあそぶさまはみなこの類であった。

従弟光葆

  • 当時、宋光嗣に従弟の光葆という者があり、字は季正、宋光嗣に従って宦官となり、給事黄門官・宣徽北院使を経て、累進して東川節度使となった。
  • これより先、唐の使者李厳が聘(訪問)に来た際、宋光葆はこれと終日語り、その機弁に感服したが、李厳が東蜀を必ず鄧艾の謀(蜀漢を滅ぼした魏の将軍鄧艾の策略)のように図るであろうと推測し、そこで後主に「先皇(高祖)は天の正命を承けて全蜀を恵養し、鼎足(三国鼎立)の勢いを保っています。今、李厳の言辞を観察するに、ついに姦雄をもって相喩(説得)しようとしています。これは我々を軽んじるものです。李厳を斬って天下に威を示すことを請います」と言上した。後主はこれに従わなかった。
  • まもなく宋光葆は李厳が帰ったことを聞き、急ぎ蜀を図ることを憂え、再び上疏して守備を固めることを請うたが、後主はまたこれを用いることができなかった。国が滅びた後、病と称して閬州に住んだ。唐の明宗の時、安重霸が閬州団練使となり、宋光葆はそこで殺された。