十国春秋卷四十六 前蜀十二 列傳 王承休

要約

王承休は後主に宣徽北院使として仕え、へつらいによって寵愛を得た。諸軍中の驍勇な者一万二千を選んで側近に置き左右龍武軍とすることを請い、自らその都指揮使となった。狡黠な裨将安重霸を副官に取り立てて旧将たちの憤りを買い、さらに「秦州には美人が多い、選んで献上しましょう」と後主に進言して天雄軍節度使・魯国公に任じられ、宦官が一方の節度使となる先例を開いた。

秦州に赴任すると府署を壊して行宮を築き、民間の子女を強制的に徴用して歌舞を仕込み、その姿絵や秦州の花木の図を後主のもとに送って東遊を熱心に請い、ついに後主の心を動かして東巡を決意させ、道路は騒然としてその苦しみに堪えなかったという。唐の兵が深く侵入すると、王承休は文州・扶州から兵を南に引いたが、士卒は凍え饑えて次々に死に、一万二千の兵はわずか二千ほどに減った。成都に至ると魏王継岌に「一万の死に値する」と詰責され、王宗汭とともに殺された。妻の厳氏は並外れた美貌の持ち主で後主の寵愛を一身に受け、秦州行幸の際には後主がしばしば臨幸し、化粧鏡に艶やかな銘を刻ませるほどの狎れ親しみようであったと伝わる。

現代語訳全文

生涯

  • 王承休は、後主に仕えて宣徽北院使となり、便佞(へつらい)をもって後主の心を得た。王承休は諸軍中の驍勇な者一万二千人を選んで側近に置き、左右龍武軍とすることを請うた。後主はそこで王承休を都指揮使としてこれを統べさせた。
  • 裨将の安重霸という者は狡黠(ずるがしこい)をもって王承休に仕え、王承休は彼を自分の副官として上奏した。旧将たちは誰もが憤り恥じない者はなかった。
  • 王承休はすでに秦州で節を建てる(節度使になる)ことを望んでいたが、その機会がなかった。機に乗じて後主に「秦州には美しい婦人が多くいます。陛下のために採り選んで献上しましょう」と進言し、そこでついに天雄軍節度使に任じられ、魯国公に封じられた。これより先、唐の昭宗の世、宦官は盛んであったが、いまだ一方に節を建てる者はなかった。宦者が節度使になるのは王承休より始まったのである。
  • 王承休は官に到ると、すぐに府署を壊して行宮を作り、大いに力役を興し、民間の子女を強制的に取り立て、歌舞を教え、さらにその姿を図に描いて韓昭に送り、後主に言上させた。また花木の図を献じて秦州の山川・土風の美を盛んに称え、車駕(皇帝)の東行を請うた。ここにおいて後主は心を動かし、東巡することを決意した。道路は騒然として、その苦しみに堪えなかった。
  • まもなく唐の兵が深く侵入し、王承休は文州・扶州から南に帰ったが、士卒は凍え饑えて死ぬ者が数え切れず、残った軍勢はわずか二千ほどであった。まもなく王宗汭とともに成都に至った。この時、魏王継岌はすでに蜀に入っており、詰責してしばらくしてから「強兵を擁しながら、戦うこともせず降ることもしないとは何故か」と言った。さらに「羌に入った兵は何人で、帰った者はどれほどか」と問うた。王承休は「一万二千人が出て、今二千人が帰りました」と答えた。継岌は「これは一万人の死に償うことができる」と言い、王宗汭とともに殺された。
  • 王承休の妻の厳氏は殊色(並外れた美貌)があり、後主は寵愛をこの上なく加えた。秦州行幸の際、後主は厳氏のためにしばしば臨幸した。至れば化粧鏡を賜って銘に「形を鍊り神を冶し質を瑩(みが)く。良工は眉に当たりて翠を写し、臉に対いて紅を傅(ぬ)る。珠のごとく匣を出で、月のごとく空に停まる。綺しき窓、繍の帳、ともに影を涵(ひた)す」と刻ませた。その狎れ親しみぶりはこのようなものであった。