十国春秋十國春秋卷四十五 前蜀十一 列傳(胡秀林ら術数・技芸の士、および黄崇嘏・李夫人)
呉任臣の撰。前蜀の暦法・占術・音楽などの技によって知られた者たちと、二人の女性の伝を収める。
胡秀林
- 出身地は伝わらない。暦法に精通し、多くの誤りを正した。
- 唐の景福初(892年ごろ)に司天少監となった。当時、宣明暦のずれが大きくなっていたので、太子少詹事の邊岡・均州司馬の王稚とともに新法に改めて上進し、「景福崇玄暦」の名を賜った。
- 光化年間(898-901年)に司天監へ移った。
- 宦官の劉季述が昭宗を廃したとき、威を示すため秀林を殺そうとした。秀林が、軍容使ともあろう者が君父を幽閉したうえ、さらに罪なき者を多く殺そうというのかと言うと、季述はその正論を憚ってやめた。
- のち高祖に仕え、高祖が即位すると引き続き司天監を務めた。『武成永昌暦』二巻、『正象暦経』一巻を著し、後の人々はみなこれを規範とした。
馬處謙
- 扶風の人。幼くして失明し、安陸の市中で占いを売って暮らしていた。
- あるとき占いを求めに来た者が進み出て、あなたの占いはまだ極致に達していない、私から秘法を受けてはどうか、と言った。處謙が従っていくと、陶仙観で星による推算の術十七行をひそかに授けられた。
- 姓名を尋ねると、姓は胡、名は恬と答え、あなたには官禄があるが五十二歳までである、私のことを王侯の門で口にしてはならぬ、と戒めた。
- 處謙はこれ以来、易占がきわめて精妙になった。まもなく趙匡明に従って蜀へ来た。高祖はその名を聞き知り、ひそかに広成先生の杜光庭に寿命を問わせた。處謙は、主上は元陽の気を四斤八両受けておられる、と答えた。高祖はその後七十二歳で没した。四斤八両を両に換算すると七十二両になるのである。
- 處謙は中郎に累進して金紫を賜り、五十二歳で没した。
趙温珪
- 秦州の人。祖父の省躬は数術に通じ、乱を避けて蜀に移った。
- 温珪は人相を見るのに巧みで、あわせて三式(占術の三法)に精通したので、成都の人は「趙聖人」と呼んだ。高祖の代に司天少監となった。
- 永平元年(911年)、高祖が岐と対立し、王宗侃が軍を統べて進撃したいと願い出た。温珪は、李茂貞はまだ国境を侵していないのに、諸将が功を貪って深入りすれば兵糧の道が遠く隔たり、国益にならないと諫めた。高祖は聴かず、案の定、青泥嶺の敗北を招いた。
- 武人の王暉がある日、朝門で温珪に出会った。温珪は人払いして、あなたの顔には殺気がある、刃物を懐にして人を狙っているのではないか、しかしあなたは遅く芽が出る運で、三度郡守となり一度は節度使にもなる、人を害して災いを招くべきではない、と告げた。
- 暉は大いに驚き、懐から匕首を投げ捨てて涙し、自分はある者に押しのけられ、憤りに堪えず刺し殺してから自決するつもりだった、思いがけずあなたに出会って解き明かされた、これで思いとどまると言い、拝謝して去った。暉はまもなく刺史となり、のち秦州節度使に移った。すべて温珪の言のとおりであった。
- 温珪はしばしば高祖のために吉凶を占ったが、少しでも外れると叱責を受けた。臨終の際、子孫に、数術は我が家代々の生業だが、自分は乱れた国に仕えて罪を得、危うく死にかけたことが何度もあった、他の道で仕官できるならこの術によらずともよい、と戒めた。
何奎(附・孫雄)
- 閬州の人。どのような術によるのか分からないが、事を言い当てることが多く、当時の人は「何見鬼」と呼んだ。公卿や貴顕もみな慕った。
- 成都の銀細工に白癩(皮膚の難病)を二代にわたって患う者がいた。奎は、あなたの苦しみの原因はもう分かっている、家にある仏幢の飾り網はかつて鬼を祀っていた古物で、行き場のない霊が祟っているのだ、早く取り除けば病は害をなさない、と告げた。
- 銀細工が帰って取り払わせると病は治った。その他、不思議に的中した例は数え切れない。
- 奎は仕官に汲々とせず、晩年に術によって取り立てられ、庶民の身から金紫を賜り興元少尹に任じられたが赴任せず、心はさっぱりとしていた。ある夜、自分の死期を前もって告げ、急ぎ閬州に帰って没した。
- また夾江の孫雄という者がおり、人は「孫卯齋」と呼んだ。事を言い当てる点でも奎に次ぐと評された。後主が唐に降る際、宦官の宋愈昭と数名の将軍が洛陽行きの吉凶を尋ねると、雄はうつむいて、この旅は災いも福もないが、野狐泉まで行けば新旧いずれの主も見えなくなる、と答えた。のち後主が秦州で禍に遭い、続いて莊宗も鄴都の変で難に遭ったが、それがまさにその地であった。すべて雄の言うとおりであった。
趙延乂
- 字は子英、趙温珪の子。後主に仕えて司天監となり、やはり数学によって世に知られ、とりわけ星の運行と風角の術に長けた。
- 乾徳六年(924年)、後主が詔して秦州を巡幸することになり、成都を出発する日、天地は暗く、鴉の群れが旗竿にとまって悲しげに鳴いた。梓潼に至ると大風が屋根を吹き飛ばし木を引き抜いた。延乂は、これは貪狼の風で、千里の外で必ず軍が破れ将が殺される凶事がある、と進言した。まもなく唐軍が三泉に至り、三人の招討使がみな砦を捨てて夜逃げした。まさにその応験であった。
- 国が滅ぶと唐に入って星官となり、清泰年間(934-936年)に翰林天文の官に就いた。端明殿学士の李專美らと中興殿で交代で宿直し、大いに厚遇されて、話は毎度夜半に及んだ。
- 廃帝(末帝)が石敬瑭を鄆州へ移そうとしたとき、延乂は天象が乱れているから静かにして災いを避けるべきだと力説し、事は取りやめとなった。しかしまもなく薛文遇の言を用いたため、ついに反乱を招いた。
- 延乂はのち後晋に仕え、契丹が晋を滅ぼすと契丹に従って鎮州に至った。李筠・白再榮が麻答を追い出して漢に帰そうと謀ると、延乂は術数にかこつけてこれを後押しした。
- ほどなく後漢に仕えて司天監となった。隱帝が即位すると宮中でしばしば怪異が現れ、瓦や石が投げられ扉が揺さぶられた。帝が祓う方法を尋ねると、延乂は、自分の職掌は天象であって祓いのことは知らない、ただ聞くところではおそらく山魈の仕業であろう、と答えた。
- 周の太祖が魏から都へ入り、延乂を召して、漢の命脈が短かったのは天数かと問うた。延乂は、王者は仁恵と徳沢によって天下を治めるべきなのに、漢の法は苛酷で天下が冤を訴えた、それが滅んだ理由だ、と答えた。この縁で後周に仕えて太府卿・判司天監となり、病で没した。
馮見鬼
- 本名は伝わらない。遂州の人。目に何かが見えるらしく、人の吉凶を言い当てた。
- 当時、陳絢が武信軍留後であったところへ中書令の劉知俊が代わりに任じられ、知俊は絢の過去の事をあれこれ拾い上げて重ねて奏上した。馮は絢に、府主は元帥と称してはいるが前に旌節が立っていない、あの引き立ては長くは続くまい、心配なさるな、と言った。一年も経たぬうちに知俊は果たして誅された。
- 林泳という官人はもと閩の人で、常々同僚に、生きた人間が終日鬼を見るなどということがあろうか、あの妄言を信じるなと言っていた。馮はこれを聞いて大いに憤り、ある日、人々の前で、あなたは官職を全うできないことが多い、かつて一人の女子を無実の罪で殺したのが祟っているのだ、その姓名まで言えると告げた。泳は恥じ入って服し、その冤を解いてくれるよう頼んだ。
韓伸
- 渠川の人。酒をよく飲み、亀卜に長けた。王侯の門を訪ね歩き、いつも亀甲を一つ懐に入れて、前もって翌日の兆しを占い、吉なら賭けをし、凶ならやめた。またある方角が吉と出ればそちらへ行って人から金を取ること、取り立てのようであった。
- 気ままで束縛を嫌う性質だった。ある日、賭けごとに興じて豪飲していると、妻が女中を率いて背後から伸の頭を殴りつけた。伸は気づきもせず「池水清」の詞をうたい、その声が梁を巡って響いた。世人はこれをからかって伸を「池水清」と呼んだ。
石潨
- もと唐の楽人。別号を石司馬といい、また琵琶石潨とも呼ばれた。
- 若いころ宰相の令狐綯に賞され、その子の渙・渢らと並べて、水偏の字で名を付けさせてもらった。
- 乱後に蜀へ来て、多くの顕官の家に出入りし、賓客として遇された。
- ある夜、数人の軍将と酒を飲んだ。潨は琵琶で座を取り仕切ったが、居合わせた者は音楽の分かる者ではなく、まるで耳を傾けなかった。潨は琵琶の胴を叩いて、自分はかつて朝廷の宰相に召し抱えられた者なのに、今日は兵隊相手に弾いて聴いてももらえぬ、なんとひどいことかと罵った。当時の識者はみなこれを嘆き、驚いたという。
黄崇嘏
- ふだんから男装して両川を歩き回っていた。周庠が高祖に従って邛の南にあり、邛州の政務を代行していたとき、臨邛県から失火の科人が州へ送られてきた。それが崇嘏であった。
- 庠が獄につないでおくよう命じたところ、崇嘏は詩を差し出して召見された。郷貢進士と称し、年のころは三十ばかり、受け答えが詳細で機敏だったので、そのまま釈放された。
- 数日後にまた長編の歌を献じた。庠はいよいよ非凡と見て学院に招き、自分の子や甥たちと交わらせた。崇嘏は琴と碁をよくし、書画にも巧みであった。
- まもなく推薦されて司戸参軍を代行した。胥吏は畏れ服し、文書事務はすっきりと片づいた。
- 庠はその英明を重んじ、風采をも好ましく思い、一年ほどして自分の娘を嫁がせようとした。崇嘏は辞退の書状を作り、あわせて詩一編を献じて意中を示した。
- 庠は詩を見て驚愕し、急ぎ召して問いただした。実は黄使君の娘で、幼くして両親を失い老婆と暮らし、まだ誰とも婚約していなかった。庠はますますその貞潔を称えた。
- 崇嘏はまもなく辞職を願って臨邛に帰り、その後の消息は分からない。
李夫人
- 蜀の人。文章をよくし、とりわけ書画に巧みであった。
- 唐の郭崇韜が兵を率いて蜀を取りに来たとき、掠われた。夫人は崇韜が武人であるため気がふさいで楽しまなかった。
- 月夜にひとり南の軒に坐していると竹の影がゆらめいていた。そこで立って筆を湿し、窓の紙にその影を写し取った。翌日見ると生気が満ちていた。世人はこれに倣い、墨竹の画が多く生まれたという。