十国春秋十國春秋卷第四十六 前蜀十二 列傳(唐道襲ら佞倖の臣、および嚴遵美ら宦官)
呉任臣の撰。前蜀の寵臣・外戚と、宮中で権を握った宦官たちの伝を収める。
唐道襲
- 閬州の人。はじめ舞童として高祖に仕えた。眉目が美しく、口先が巧みで打算に長けていた。
- やがて謀議にも加わるようになり、馬軍都指揮使、ついで樞密使に進んだ。王宗佶の死には道襲の働きがあった。高祖はその能力を評価して寵愛を日に日に強め、その郷里を「烈士郷」と名づけて表彰した。
- 永平元年(911年)、岐王李茂貞の兵が東の辺境に迫ると、高祖は道襲を招討使として岐討伐の兵を率いさせた。出発にあたり高祖は大安楼に出御して詩を作り送った。
- まもなく青泥嶺で敗れたが、王宗播が兵を率いて安遠軍を救援したことで岐軍はようやく退いた。
- 久しくして太子少保に進んだ。ほどなく太子の元膺と対立し、元膺は天武の甲士を率いて城の西で道襲を殺した。永平三年(913年)七月のことで、詳細は元膺の伝にある。
- この月、高祖は道襲に太師を贈り、諡を忠壮とし、閬州に碑を建てさせた。
- これより以前、道襲の父の峯は行商から身を起こした者で、その祖先の墓が茂賢の草市にあった。ある術士が見て、この墓の相からすれば子孫は公卿・宰相に至るはずだが、あなたの家では福を受けきれず、盗賊となって畳の上で死ねぬ者が出るだろうと言った。このとき峯はすでに刺史となっており、道襲は果たして高位に上りながら非業の死を遂げた。
- 道襲はかつて夏の日、大雨のなかで飼い猫が軒の滴で戯れているのを見た。すると突然、雷と稲妻が交わり、猫は龍に化して去った。識者は不吉としたが、後に果たして元膺の禍に遭った。
徐瑤
- 字は伯玉、長葛の人。高祖に従って蜀に入った。勇猛で格闘に長けた。
- 高祖が西川を鎮めたばかりのころ、兵はみな入れ墨をして色黒く、身なりも異様だったので、人々は「鬼兵」と呼び、瑤を「鬼魁」と呼んだ。
- 成都を落とすと、瑤は士人や女性を辱めることが多かった。富人の李希の妻俞氏に美貌があったので、瑤は掠って迫った。俞氏が、自分の夫は郷貢進士である、おまえは鬼の子ではないか、無礼を働けようかと言うと、瑤はその気概を壮として釈放した。
- 功を重ねて大昌軍使に至った。太子元膺の変では、瑤と常謙はもとより元膺の親信であった。元膺が天武の甲士を率いて乱を起こすと、瑤と謙も部下を率いて太子を奉じ、唐道襲を攻めた。まもなく王宗黯の兵が入り、瑤は会同殿の前で死に、残りの兵も潰走した。
韓昭
- 字は徳華、長安の人。口先が巧みで人の意を汲むのに長け、潘炕の子の在迎、顧彦朗の子の在珣とともに後主の遊び相手となった。
- 後主が宣華苑を造ると、昭は近臣たちと日夜そこで後主に侍って酒に耽り、男女が入り交じって座り、みだらな振る舞いを極めた。
- 昭はもとより人望がなく、ただ寵愛によって宮中に出入りし、礼部尚書兼成都尹に累進した。
- 乾徳二年(920年)、後主が北巡の詔を下すと、昭は文思殿大学士に進み、地位は翰林承旨の上に置かれた。
- 昭は寵を頼んで飽くことを知らず、通・渠・巴・集など数州の刺史職を売って邸宅の造営費に充てたいと願い出、後主はすべて許可した。さらに昭は王承休・安重霸とともに秦州の山川と風土の美しさをしきりに褒め、後主に行幸を勧めて悪事の機会としようとした。
- 秦州判官の蒲禹卿が強く諫めると、昭は上表を見て激怒し、禹卿に、おまえの上表は受け取っておく、そのうち獄吏に取り調べさせようと言った。
- ほどなく唐軍が蜀に入り、後主が群臣と向かい合って泣いていたところへ、王宗弼が緜谷から馳せ帰り、大玄門に登って、へつらいで国を誤らせたと昭を責め、金馬坊の門で梟首した。のちその首を箱に納めて魏王李継岌のもとへ送った。
- 昭はひととおり文章を書き、琴・碁・書・算術・射術にも手を出していた。朝士の李台瑕はこれを、韓八座の技芸は靴下を縫う糸のようなもので、一寸の長さもない、と皮肉り、当時の人はうまいと評した。
潘在迎
- 兼侍中であった潘炕の子。内皇城使を歴任し、のち雅州に左遷された。後主の北巡に際してふたたび馬歩使に充てられた。
- 在迎は柔順さで後主の遊興に侍り、あるいは艶めいた歌を唱和して、酒色に耽らぬ日がなかった。
- また常々、後主に諫臣を誅して国を謗らせぬようにと勧めた。まもなく果州団練使に移った。
- 国が滅ぶと唐に降り、左都押衙・金紫光禄大夫・検校司空・守蜀州刺史・上柱国に至った。
徐延瓊
- 字は敬明、順聖太后の弟。外戚として武徳軍節度使兼中書令を授けられ、趙国公に封じられて食邑五千戸を得た。
- まもなく弟の延珪とともに太師を加えられた。乾徳の末(924年ごろ)、京城内外馬歩指揮使に充てられ、王宗弼に代わって兵権を握った。権勢を頼んだので、諸将はみな不満を抱いた。
- 唐軍が国境に入ると、宗弼は後主の寵臣をことごとく殺したが、延瓊は潘在迎らとともに家財を投じて宗弼に賄賂を贈り、死を免れた。
- これより先、延瓊は土木を営み、錦水の応聖橋の西に邸宅を構えたが、数街区にまたがる規模であった。
- 成都には牡丹がきわめて少なかったので、延瓊は秦州の董成村の僧院に牡丹が一株あると聞き、金帛を厚く持たせて三千里の道を運ばせ、新しい庭園に移し植えた。
- そのころ内外の皇親に新宅祝いをせよとの詔が出て、後主も自ら延瓊の邸に行幸した。後主はふと壁に「孟」の字を戯れ書きしてからかった。蜀の言葉で「孟」は縁起がよくないという意味である。延瓊はこれを重んじ、赤い薄絹でその字を覆い、特別の寵の証しとして示した。
- 国が滅んだのち、後蜀の高祖(孟知祥)がこの邸に住むことになった。その兆しは以上のようであったという。
安重霸
- 雲州の人。はじめ晋王李存勗に仕えたが罪を得て梁に奔り、まもなくまた高祖のもとへ奔った。
- 人となりは狡猾で知恵が回り、人に取り入るのが巧みだったので、高祖は親将とした。後主が立つと簡州刺史となった。
- 宦官の王承休が権を握ると、重霸は深く承休に取り入って身を寄せ、承休に秦州の鎮を求めるよう勧めた。後主は承休を節度使、重霸をその副使とした。
- 重霸と承休は秦州の花木を多く取り寄せて献上し、後主に東方への行幸を求めた。
- 唐軍が国境に迫ると承休は大いに恐れて重霸に相談した。重霸は、剣門は天下の険で精兵があっても越えられない、しかし公は国恩を受けた身であるから、難を聞いて赴かぬわけにはいかない、ご一緒に西へ向かいたいと言った。承休はもとより彼を信頼していたので同意し、軍を整えて出発しようとした。
- 秦州の人々が城外で送別の酒宴を開き、酒がすんで承休が道に就くと、重霸は承休の馬前に立って、秦隴の地を失うわけにはいかない、どうか残って公のために守らせてほしいと別れを告げた。承休は裏切られたと知りながら、すでに出立してしまった以上どうにもならなかった。
- 唐軍が成都に入ると、重霸はただちに秦・成・階の三州を挙げて唐に降った。
- 明宗の代に閬州団練使となり、罷めて左衛大将軍。久しくして匡国軍節度使となった。廃帝(末帝)の代に京兆尹・西京留守となり、大同へ鎮を移されたが、病を理由に帰り、潞州で没した。
- 重霸は貪欲で飽くことを知らなかった。簡州にいたとき、州民に鄧生という油商人がいて、碁が打てて家もかなり豊かだった。重霸は召して対局させ、朝から晩まで傍らに侍らせた。一手打つたびに西北の窓の下へ退いて立たせ、自分が読み終わるのを待たせたので、一日かかっても十数手しか進まなかった。鄧生は立ちづめで疲れ、ひどく空腹になって耐えられなかった。翌日もまた前と同じように召された。ある人が、刺史は賄賂を好むのであって碁が目当てではない、贈り物をして辞退を願い出てはどうかと勧めた。結局、金十鋌を献じてようやく免れた。
嚴遵美
- 父の季実は唐の掖庭局博士であった。大中年間(847-860年)、宮人が宣宗を弑そうと謀った夜、季実は咸寧門の下で当直しており、異変を聞いて入り、射殺した。翌日、宣宗は、おまえがいなければ危うく難を免れなかったと労い、北院副使に抜擢した。内樞密使で終わった。
- 遵美は左神策観軍容使を歴任した。常々嘆いて、北司の供奉官はかつて胯衫で仕えたのに今は笏を執るまでになった、樞密使にはもともと役所がなく三間の書物蔵があるだけだったのに、今は堂状や帖黄で政務を決している、これは楊復恭が宰相の権を奪った弊害だ、と言った。当時の宦官の横暴を憎んでの言である。
- のち昭宗が鳳翔に移るのに従い、梁州で引退を願い出た。光化四年(901年)、両軍中尉・観軍容処置使として召されたが、遵美は、一軍でさえ引き受けられないのに、まして両軍はと言って固辞し、応じなかった。
- 天復二年(902年)、蜀軍が興元を落とすと、遵美は従って成都に移った。翌年、唐は所在の宦官をすべて死を賜えと詔したが、遵美と西川監軍の魚全禋は高祖にかくまわれて助かった。
- 高祖が即位すると内侍監に任じられ、待遇は手厚かった。久しくして辞して青城山の麓に別荘を構えて住み、八十余歳で没した。子は高祖に仕えて閣門使に至った。
- 遵美は忠実かつ謙虚で、寵を受けても驕らず、田舎の老人や無学な者にも親しく接した。著書に『北司治乱記』八巻があり、宮中の宦官の忠邪を詳しく記して世に伝わる。
唐文扆
- 高祖の代、宦官として内飛龍使となり、宰相の張格と結んだ。
- 後主が太子となれたのは、文扆が順聖太后の寵を頼んで格にほのめかし賛成させたためである。これによって順聖太后は内心これを徳とし、格も付き従って悪事を働き、毛文錫を追い庾傳素を左遷したのは文扆の力によるところが大きい。
- そのころ高祖は年老いて判断が鈍り、文扆は禁兵を掌って機密に参与し、事は大小を問わずみな彼の手で決した。
- 高祖が病むと、文扆は兵を率いて宿衛に入り、大臣たちをことごとく除こうと謀り、人を遣って宮門を守らせた。王宗弼ら三十余人は毎日朝堂に来ながら入って謁見できなかった。
- 文扆はさらに一味の皇城使潘在迎に外の様子を探らせたが、在迎は事が失敗した場合を恐れ、その謀を宗弼に漏らした。宗弼らは扉を押し開けて入り、文扆が変を起こそうとしていると告げた。
- 翌日、文扆は眉州刺史に落とされ、まもなく官を削られて雅州へ流され、後主の即位後に誅された。弟の天雄節度使文裔も殺された。
宋光浦
- 後主に仕えて内侍監となった。
- 乾徳年間(919-924年)、後主は際限なく宴飲した。あるとき重陽の日、宣華苑で群臣に宴を賜り、夜半に酔いが回ると後主は韓琮の柳枝詞をうたった。
- 光浦はこれに諷して諫めるつもりで、胡曾の詩を吟じた。その詩は、呉王は覇業を頼んで優れた人材を捨て、姑蘇の地で酒に酔いしれることばかりを貪り、銭塘江の上の月がひと夜のうちに西から越の兵を送り込んでくるのに気づかなかった、というものである。後主は聞いて不興となり、宴は終わった。
宋光嗣(附・弟の光葆)
- 福州の人。人となりは機敏で打算に長け、それゆえ宦官として普寧公主に仕えた。公主は岐王の甥の李継崇の妻であったが、夫に顧みられずに帰り、光嗣は公主に従って成都に至った。
- 高祖は彼を留めて帰さず、閣門南院使とした。天光年間に宣徽南院使に転じた。
- 高祖は危篤の際、大将や大臣の多くが許昌以来の古い仲間で必ずしも太子に使われまいと考え、人を選ぼうとしたが得られず、そこで光嗣を樞密使とし、王宗弼らとともに顧命を受けて輔政させた。
- 後主が即位すると、ただちに光嗣に六軍諸衛の事を判じさせた。光嗣は権柄を得ると後主の意に迎合するのが巧みで、後主は大いに寵任した。これによって内給事の王廷紹・歐陽晃・李用輅・宋承蕰・田魯儔らと上下ぐるみで私を営み、徒党を組むことが多くなり、国政は日ごとに衰えた。
- 唐軍が来て後主が兵を率いて利州に至ったとき、光嗣は王宗弼とともに、東川と山南の兵力はなお健在です、陛下はただ大軍で利州を押さえておられればよい、唐人が孤軍で深く入り込めるはずがありません、と申し上げた。後主はもっともと思い、まるで意に介さなかった。
- やがて唐軍が日ごとに迫ると、宗弼は二心を抱いて利州を捨てて西へ帰った。三人の招討使が白艻で追いつくと、宗弼は詔を取り出して見せ、光嗣が自分におまえたちを殺せと命じていると言い、そこで示し合わせて唐に降った。
- まもなく宗弼は、我々君臣は久しく帰順を望んでいたのに光嗣らが幼主を惑わせたのだと称して、みな斬り、その首を箱に納めて唐軍の陣前へ送った。
- 光嗣が樞機を掌っていたころ、国の法令を裁決するのがおおむね児戯のようで、判決文にはふざけた言葉や韻を踏んだ句をよく用いた。軍機を軽んじる態度もすべてこの類であった。
- 当時、光嗣には従弟の光葆という者がいた。字は季正、光嗣に従って宦官となり、給事黄門・宣徽北院使を務め、東川節度使まで累進した。
- これより先、唐の使者李厳が来聘したとき、光葆は終日語り合ってその弁舌に感服し、厳は東蜀に対して鄧艾のような計略を用いるに違いないと見た。そこで後主に、先皇は天命を承けて蜀全土を治め鼎足の勢いを得た、いま厳の口ぶりを見ると我々を姦雄になぞらえており、これは我が国を侮るものである、厳を斬って天下に威を示すべきだと申し上げたが、後主は従わなかった。
- のち光葆は、厳が帰って蜀を図ることを急いでいると聞き、ふたたび上疏して守備を固めるよう請うたが、後主はこれも用いなかった。
- 国が滅んだのち病と称して閬州に住んだが、唐の明宗の代に安重霸が閬州団練使となり、光葆は彼に殺された。
王承休
- 後主に仕えて宣徽北院使となり、追従の巧みさで後主の心をつかんだ。
- 承休は諸軍から驍勇な者一万二千人を選んで駕下に置き、左右龍武軍とするよう請うた。後主はそのまま承休を都指揮使として統率させた。
- 副将の安重霸は狡猾さで承休に仕え、承休は奏請して自分の副とした。古参の将たちは誰もが憤り恥じた。
- 承休は秦州で節旄を得たかったが、きっかけがなかった。折を見て後主に、秦州には美人が多いので陛下のために選んで献じたいと進言し、そのまま天雄軍節度使に任じられ魯国公に封じられた。
- これより先、唐の昭宗の代には宦官が盛んであっても一方の鎮に節旄を建てた者はいなかった。宦官が節度使となったのは承休に始まる。
- 承休は着任するや役所を壊して行宮を作り、大がかりな労役を起こし、民間の子女を強制的に集めて歌舞を教え、その姿を絵に描いて韓昭に送り、後主に伝えさせた。さらに花木の図を献じて秦州の山川風土の美をしきりに称え、車駕の東行を請うた。
- こうして後主は心を動かされ東巡を決意し、道中は騒然として人々はその苦しみに堪えなかった。
- ほどなく唐軍が深く侵入し、承休は文扶から南へ帰ったが、凍えと飢えで死ぬ兵が数知れず、残りはわずか二千ほどであった。まもなく王宗汭とともに成都に至った。
- そのとき魏王李継岌はすでに蜀に入っており、長く責め立てて、強兵を擁しながら戦いもせず降りもしなかったのはなぜかと問うた。さらに羌の地に入った兵は何人で、帰った者は何人かと問うと、承休は一万二千人で出て今二千人が帰ったと答えた。継岌は、それならばおまえの命で一万人の死を償えると言い、宗汭ともども殺した。
- 承休の妻の厳氏はとりわけ美貌で、後主はこの上なく寵愛した。秦州行きも、後主はかなりの部分、厳氏のゆえに行幸したのである。到着すると化粧鏡を賜り、その銘には、形を練り上げて神々しく冶え、良工が質を磨き上げた、眉に向かえば翠を写し、頬に対すれば紅を施す、珠が箱から出るごとく、月が空にとどまるごとく、飾り窓や刺繍の帳もみなその影を映す、と刻んだ。その馴れ合いぶりはこのようであった。