十国春秋十國春秋卷四十四 前蜀十 列傳(侯翮ら文士十三人、および刁光ら画人六人)
呉任臣の撰。前蜀に仕えた文人・詞人の伝と、画技で知られた者たちの伝を収める。
侯翮
- 成都の人。風貌が端正で文辞に長け、とりわけ奏記・表章の類を得意とした。
- 唐の光啓年間(885-888年)、抜萃の科で出身し邠寧の従事となった。僖宗が蜀に行幸した際、中書舍人・翰林學士を拝した。
- まもなく官を退き、導江の卧龍館に隠棲して世に出なかった。
- 高祖が西川を鎮めたころ、翮はかつて馮涓に恩を施していた縁で涓に強く推挙され、節度判官・掌書記に招かれ、その職のまま没した。
- 翮はかつて高祖への上書のなかで、歩きながら牋表を仕上げ、坐ったままで檄文を書き上げられると述べた。その自負ぶりはこの程度であった。
王保晦
- 閬州の人。文才に恵まれていたが体裁・格式にはまるで無頓着で、その代わり文意が明快で、相手の言わんとするところをよくくみ取って表現した。
- 高祖が幕府に招き、馮涓とともに掌書記を務めさせた。
- 当時、岐王李茂貞は王超を用いて牋奏を書かせており、その文はいつわりを含みながら弁が立つと評された。高祖はこれをはなはだ好み、保晦をそれに並ぶ者として、二人を「二王」と呼んだ。
- 武成年間(908-910年)に翰林學士承旨となったが、光天元年(918年)に宦官の唐文扆に与したかどで職を奪われ瀘州に流され、後主の即位後に誅殺された。
盧延讓
- 字は子善、范陽の人。唐の光化年間(898-901年)の進士。朗陵の雷満に招かれたが、満が敗れると高祖のもとへ帰した。
- 高祖が帝位に即くと水部員外郎を授けられ、まもなく給事中に移った。
- 以前、延讓が高祖に献じた詩に、栗がはぜて敷物を焼き破り、猫が跳ねて鼎をひっくり返す、という句があった。
- のちに高祖が同平章事の潘峭と夜に辺境の事を論じ、宮人に栗を焼かせたところ、栗がはぜて座の刺繍の敷物を焼いた。また高祖は疑い深く、炉のそばに金の鼎を置いて二人の妃に茶を煮させていたが、その夜、宮中の猫が追いかけ合って誤って鼎を倒した。
- 高祖はしばらく考えこんだのち、延讓の詩巻にまさにその句があったと思い出し、先人の詩には根拠のない情景など無いのだと悟った。翌日、工部侍郎に飛び越えて任じた。のち刑部侍郎に転じて没した。
- 延讓の詩は薛能を師とし奇抜な技巧を好まなかったので、多くの者は浅薄だと嘲ったが、ひとり呉翮だけがその作を重んじて盛んに世に推し、言葉が並でないからいずれ必ず名を残すと評した。
- 延讓は三十五回も受験してようやく及第した。犬が触れて店の戸が開く、飢えた猫が鼠の穴をうかがう、卑しい犬が魚を切る台をなめる、といった句が張濬や成汭に高く買われた。
- 高祖の代になって詩句が偶然の一致から抜擢の縁となったので、延讓は人に、生涯多くの公卿に売り込んできたが、まさか猫や犬に助けられようとは思わなかったと語り、聞く者は大笑いした。
庾傳昌
- 義成の人、北周の庾信の子孫。文藻に富み著述を得意とした。永和府判官から身を起こし、累進して中書舍人・翰林學士となった。
- 『玉堂集』二十巻、『青宮載筆記』二十巻、『金行啓運録』二十巻を撰した。通正元年(916年)に没した。
- 文才は機敏で豊かだったが冗長雑駁に流れる欠点があった。舍人であったころ宰相の張格に面会を求めて断られ、腹を立てて帰るなり数千字の啓事を書き、取次の者に投げつけて去った。
- 後日、格は朝臣たちに、庾舍人が示してくれた長文の書状はめったに得られぬ出来だが、相撲の書きつけを草させても数枚に及んだと聞く、と述べた。要点をまとめる能力に欠けるのを皮肉ったものである。
楊義方
- 眉山の人。若くして進士に及第し、のち蜀に帰った。高祖に仕えて秘書郎となった。
- 性格は強く一徹で詩を吟ずるのを得意とし、自分の才は羅隠にまさると称した。海辺の朝日が半ば水を離れ、天の彼方からの暖かな風が軽やかに花を吹く、という春の詩句が当時の人に称賛された。
- 後主の代、九つの頭を持つ怪鳥が成都に現れた。義方は、羽毛を惜しむならば鬼の棲む穴へ帰れ、災いを残して民を苦しめるな、という句を詠んだ。宋光嗣は自分への当てこすりだと疑って恨み、奏上して沈黎へ流謫させた。
王仁裕
- 字は徳輦、天水の人。若いころは学問を知らず犬と馬、弾弓と射術を楽しんでいた。二十五歳でようやく学問を始めたが、生来の俊才で文辞によって秦・隴の間に名を知られた。
- 秦の帥に招かれて秦州節度判官となり、それを機に成都へ入って後主に仕え、中書舍人となった。
- 後主が東方を巡幸した際、翰林學士の李浩弼らとともに従い、道中は毎日のように詩を応酬した。
- 国が滅ぶと唐に降り、後晋・後漢を経て翰林學士承旨・戸部尚書に累進した。乾祐初(948年)に科挙を主宰し、合格者二百十四人を得て、これを誇りとする詩を掲げた。のち兵部尚書・太子少保となって退いた。
- 後周の顕徳三年(956年)に没した。享年七十七、太子少師を贈られた。
- 音律に通じていた。清泰年間(934-936年)、同僚が梁苑の折柳亭で朝廷の客をもてなし楽が奏されると、仁裕は怪しんで、今日は必ずもめごとが起こる、楽が羽の調子を出しながら宮の声を交えている、羽は水、宮は土で水と土は相克するのだから憂いがあろう、と言った。ほどなく宴が散じ、范延光が賓客を率いて大がかりな狩りをした際、暴れ馬から落ちた。
- また後晋の高祖が雅楽を定めて永福殿で群臣に宴を賜り黄鍾を奏したとき、仁裕は、音が清らかに引き締まらず調和の声がない、宮中に争いを起こす者が出るだろうと言った。まもなく両軍の校尉が昇龍門の外で闘い、その声が宮中まで聞こえた。人々は神業と評した。
- 詩を好んだ。若いころ、自分の腸胃を切り開いて西江の水で洗う夢を見、そのとき江中の砂石がすべて篆書・籀書の文字になっているのを見た。以来、文才が日々進んだという。
- 生涯に一万首の詩を作り、蜀の人は「詩窖子(詩の穴蔵)」と呼んだ。『紫閣集』『乗軺集』『西江集』『王氏見聞録』『玉堂閒話』『入洛記』『開元天寶遺事』などが世に伝わる。また『國風總類』五十巻を編み、当時しばしば称賛された。
李珣
- 字は徳潤、梓州の人。昭儀李舜弦の兄。
- 詞(小辞)によって後主に賞された。浣溪沙の詞に、早くから巫峡の夜に逢えぬ身であるのに、どうして錦江の春をむなしく過ごせようか、という句があり、詞人たちの間で互いに伝誦された。
- 著書に『瓊瑤集』若干巻がある。
尹鶚
- 成都の人。詩と詞を得意とし、賓貢出身の李珣と親しかった。
- 珣はもとペルシア系の血筋であった。鶚は滑稽を好む性質でしばしば詩を作ってこれをからかい、珣の名声はにわかに損なわれた。
- 累進して翰林校書に至った。
張蠙
- 字は象文、清河の人。唐の乾寧年間(894-898年)の進士。校書郎・櫟陽県尉を歴任し、犀浦令に移った。
- 高祖が開国すると膳部員外郎を拝し、のち金堂令として地方に出た。
- 後主が即位したのち、太后を奉じて大慈寺に遊んだ際、壁の題詩に、垣の上の細雨が細い草を垂れさせ、水面のつむじ風が落花を寄せ集める、という句があるのを見た。太后が深く感嘆して寺僧に尋ねると、蠙の作だと答えた。
- そこで霞光牋五百枚を賜り、自作の詩を書いて献上させた。蠙は箱に蔵していた詩二百編を集めて献じた。後主はこれを気に入り知制誥に召そうとしたが、内侍の宋光嗣が蠙は軽々しく傲慢だとして阻んだため、白金を賜って労うだけに終わった。
- 蠙は生まれつき聡明で詩を好み、咸通年間には張喬・許棠・喻坦之・劇燕・任濤・呉宰・周繇・鄭谷・李棲遠・温憲・李昌符とともに「十哲」と称された。
- 幼少のころ、白日が地中から出て黄河が天上から来る、という句を詠み、当世で大いに称賛された。
牛嶠
- 字は松卿、別の字は延峰、隴西の人。唐の宰相牛僧孺の子孫。博学で文才があり、歌詩で名を知られた。
- 乾符五年(878年)に進士に及第し、拾遺・補闕・校書郎を歴任した。高祖が節度使として西川を鎮めたとき判官に招かれ、開国後は給事中を拝して没した。
- 文集三十巻、歌詩三巻がある。自ら李賀の長歌を慕い、筆を執ればいつもそれに倣うと語っていた。
- とりわけ小辞(詞)に巧みで、女冠子の「繡帯芙蓉帳、金釵芍薬花」、菩薩蠻の「山月照山花、夢囘燈影斜」などが佳句とされる。
牛希濟
- 後主の代に翰林學士・御史中丞へ累進した。国が滅ぶと洛陽に入った。
- 後唐の明宗が宰相の王鍇・張格・庾傳素と希濟にそれぞれ一つの韻字を与え、蜀主が唐に降ったことを詠む五十六字の詩を課した。鍇らはみな後主の僭称・放縦・亡国を風刺したが、希濟だけは「川」の字を得て、ただ運命が尽きたことを述べるにとどめ、旧君と父祖を謗らなかった。
- 明宗は詩を得て、希濟のように才知が鋭く、しかも唐・蜀いずれをも傷つけず忠孝を全うする者はまれだ、と嘆じ、ただちに雍州節度副使に任じた。
- 希濟はもとより詩詞で名高く、臨江仙二闋には、月が傾く川の上で船出の櫂が明け方の鐘を揺らす、また、誰もが人の世にまさると言うが、放蕩者は死をも投げ打って美人のために尽くすものだと知るがよい、といった句があり、詞人のなかでも秀作とされた。
- また牛嶠の女冠子に次韻して四闋を作り、同時代の人々がしきりに称えた。なお女冠子という調べの名は、もと唐の駱賓王が王靈妃に代わって李榮に贈った長編詩に由来する。
趙㽔
- 梓州鹽亭の人。博学で兵法に通じ、世を経営する術に長けていた。
- 夫婦ともに節操を守り、招聘に応じなかった。乾徳年間(919-924年)に『長短経』十巻を著し、世に行われた。
鄭藝
- 後主に仕えて翰林學士となった。文辞は機敏で豊かであり、書いた文に手直しを加える必要がなかった。
- 最も名高い作は武徳軍節度使・趙國公の徐延瓊の碑銘で、蜀の人々はしばしばこれを誦した。
史論
- 侯翮と王保晦は、急ぎの書状や檄文を草する才があった。盧延讓・庾傳昌・楊義方・王仁裕・李珣・尹鶚・張蠙・牛嶠らはいずれも文苑の名士であり、国の華と呼ぶにふさわしい。
- 牛希濟は詔に応じて詩を賦しながら旧君を謗らなかった。詩人本来のあり方を得ていたと言える。
- 趙㽔はもとより節操で知られ、その著作も見事であるから、埋もれさせてはならない。
- 鄭藝は文辞が豊麗で、時におもねる筆致があり事実を誇張することもあるが、それも文人にありがちな性癖である。
刁光
- 長安の人。天復の初め(901年ごろ)に蜀へ来た。湖石・花竹・猫兎・鳥雀の類を描くのに巧みであった。
- 交友を慎み、付き合うのは立派な人物ばかりであった。黄筌と孔嵩はともに師事し、批評家は、孔は座敷に上がった程度、黄は奥の間まで入り込んだ、と評した。
- 八十を越えてなお学ぶことをやめなかった。成都の寺々には彼の遺筆が多く残るという。
滕昌祐
- 字は勝華、もと呉の人。のち両川に遊んでそのまま蜀の人となった。
- 志が高潔で、結婚もせず仕官もせず、静かな土地に居を構えて花や竹、枸杞や菊を植え、草木の栄枯を眺めて思いを託した。
- 長く観察するうちにその形をとらえ、花鳥や蝉蝶を巧みに描くようになり、のちには鵞を描いて名を得た。前蜀・後蜀の両代を経て八十余歳で没した。
房從真
- 成都の人。人物や異民族の馬を描くのに巧みであった。高祖に仕えて翰林待詔となった。
- 宮中の板の衝立に諸葛武侯が瀘水を渡る図を描き、人馬も甲冑も生き生きとして神業のようであった。高祖はここを通るたびに車を止めて進まず、うっとりと、見事な武装の騎馬だと嘆じた。
- 勢いのある筆致で鬼神を描くのも得意で、寧王射猟図・陳登斫鱠図・常建冒雪入京図などが世に伝わる。
宋藝
- 蜀州の人。肖像を写すのに巧みで、後主の代に翰林待詔となった。
- 唐朝歴代の御真影、および道士の葉法善、禅僧の一行、沙門の海會、内臣の高力士らの像を大慈寺に描いた。
髙道興
- 成都の人。光天・乾徳年間(918-924年)に内図画庫使となった。
- 仏教・道教の画や雑画に巧みで、運筆がきわめて速く、どの題材にも精通していた。当時の言い草に、高君は筆を落としてもそれが絵になる、というものがあった。
杜齯龜
- 先祖はもと秦の地の人で、安禄山の乱を避けて蜀に移り住んだ。
- 若くして博学、経書・史書を広く読み、絵の技は人の思いも及ばぬほど巧妙であった。はじめ常粲に学んで肖像や雑画を描き、とりわけ仏像と羅漢を得意とした。
- 乾徳年間(919-924年)、後主は高祖が唐から受けた恩を思い、唐道襲の私邸を上清宮に改め、王子晋の像を造って遠祖として上清祖殿に安置し、齯龜に唐の二十一帝の御真影を殿堂の四壁に描かせた。
- また高祖の肖像と太后・太妃の真影を青城山の金華宮に、杜天師光庭の像を君平観に、祐聖天師光業の像を大聖慈寺に描かせた。
- 翰林侍詔に任じられ紫金魚袋を賜った。蜀で肖像を描く者のうち、齯龜が第一と称された。