十国春秋卷四十三 列傳 馬全
要約
馬全は前蜀の高祖・後主父子に仕え、官を重ねて永平軍節度使兼侍中に至った。同光四年、後主がすでに後唐に滅ぼされたのち、六月、蜀の百官がこぞって洛陽に参上し、宰相王鍇以下それぞれ官を授けられる中、馬全だけは慨然として「国がここに亡んだ、生きているより死んだほうがましだ」と言い放ち、食を絶って命を落とした。
史論はこの巻に列伝を連ねる前蜀末期の忠臣・文人たちを総括するものである。乾徳・咸康の年間、朝廷には忠義を尽くして憚らぬ気風が乏しく、民間にも節を曲げぬ士が少なかったとしつつ、段融は馬前に立って諫め、張士喬は身を水に沈め、蒲禹卿は世を捨てて隠れ、いずれも烈しい行いをもって知られたとする。中でも蒲禹卿が後主に奉った長大な上表は、この巻の中心をなす記事で、堯・舜・湯・周の明君が諫言を求めて自らを戒めた故事を引き、後主が歓楽にふけり時勢の変化を顧みないことを憂え、秦州への行幸を強く思いとどまらせようとした。険しい桟道や瘴癘の地である秦州辺境への行幸がいかに危険で無益か、行幸に伴う諸州県の疲弊や官庫の浪費、唐との友好関係を損ないかねない不用意な国境接触の危うさを、具体的な地勢や故事を挙げて縷々説いている。かつて閬苑で舟が沈みかけ青城で女官が溺れかけた失態を引き、驚きと憂いを自ら招く無意味さを説き、玉京の金殿や瑶池瓊圃といった宮中の楽しみを十分に味わえばよく、あえて荒れた辺塞を見に行く必要はないと諭す。また巡狩の本来の目的は民を弔い罪を伐つことにあるはずが、後主のたび重なる遊歴は何ら教えを示すことなく山川を踏破するだけであると批判し、蜀の都が繁華に見えるのは地方の郡が荒廃した民が集まっているに過ぎず、諸州には荒れた田と盗賊が多いという内情を直視するよう求める。さらに劉禅が鄧艾にたやすく降り、李勢が桓温に急いで帰服した蜀漢・成漢の故事を引き、直言を退け政事を顧みなかった君主が国を滅ぼした教訓を示し、後主に堯舜のような至聖至明を保ち、都に留まって中原の変を待てば八方の国が自ずから来朝し天下は帰服するであろうと訴えている。林罕・劉賛・張雲・李龜禎らも、あるいは寓言に託して諷諫し、あるいは逆鱗に触れながらも諫言した文人として並び挙げられ、いずれも忠公の心をもって臣道に恥じるところがなかったとされる。また前蜀滅亡を悼む詩の一節も付記され、璧を銜えて臣を称した旧主が一族もろとも滅ぼされたことを嘆き、漢の子嬰・魏に封じられた劉禅の故事になぞらえて、力弱くしていかに君恩に報いるべきかを長安に向かって嘆じる内容であった。周彥章の頑固で節を曲げぬ姿勢や、馬全が命を投げ出して主君に殉じたことに至っては、「疾風に勁草を知る」の言葉にまさにふさわしいものとして称えられている。
現代語訳全文
馬全
- 馬全は髙祖父子に仕え、官を重ねて永平軍節度使兼侍中に至り、その後、後主に従って唐に帰した。唐の同光四年、後主がすでに秦川の禍(後唐による滅亡)に遭った後、六月、蜀の百官はみな洛陽に参上し、宰相王鍇以下、それぞれ官を授けられたが、全は慨然として「国がここに亡んだ、生きているより死んだほうがましだ」と言い、食を絶って没した。
史論
- 論じて言う。乾徳・咸康の年間、朝廷には忠義を尽くして憚らぬ気風が乏しく、民間にも節を曲げぬ士が少なかった。段融が馬前に立って諫め、張士喬が身を水に沈め、蒲禹卿が世を捨てて隠れたことなど、烈しい行いと言わずして何であろうか。林罕・劉賛・張雲・李龜禎らは、あるいは寓言に託して諷諫し、あるいは逆鱗に触れながらも諫言したが、要するにみなその心は忠公にあり、臣としての道義に恥じるところはなかった。周彥章の頑固で節を曲げぬことや、馬全が命を投げ出して主君に殉じたことに至っては、まことに「疾風に勁草を知る」というべきであろう。
陛下は生まれながらに富貴の身にあり、天下を手中にされていますが、ただ歓楽を好み、時勢の変化を考えられません。臣は陛下が名教(礼教)によって自らを節し、礼楽によって自らを戒め、道徳の規範を修め、師傅の教えを受け、社稷を保つことの容易でないことを知り、農事の最も難しいことを思い、高祖の築かれた基盤を大切にし、太宗の御世のように臨まれることを望みます。賢を賢として色を軽んじ、こつこつと努める心を持ち、根拠のない言葉を軽々しく聞き入れず、諮らぬ謀を用いず、五音(音楽)よりも諫言に耳を傾け、三鏡(銅・古・人の鏡)によって自らを照らし、諸所の林亭に宿泊する回数を減らし、前代の帝王の書史をより多く閲覧され、別に上なる徳を修めて遠大な計をお立てになり、色にふけることなく、酒に惑わされることなく、常に政事に親しまれ、みだりに遊興にふけられませんように。 臣がひそかに聞くところでは、陛下は成都を出て辺境の砦をご覧になろうとしているとのことですが、そもそも天は雄大で地は遠く、道は険しく行くのが困難です。険しい桟道は雲にかしぎ、危うい峰は天の川に突き刺さり、わずかな雨で桟道は吹き崩され、わずかな泥で山道は滑りやすくなり、御車を走らせることさえかなわないのに、まして鑾を鳴らすことなどできましょうか。また秦州は敵地に指呼の間にあり、辺境の邑は荒涼として、住民には羌族の異民族が入り混じり、地には疫病や瘴気が多く、他に風雅な景色や優れた地もなく、景勝や静寂を選び求めることもできません。隴水の音は清らかで、辺境の笛の音は咽ぶように響き、陣営の中はただ甲冑を着た兵ばかり、城の上では戈を枕に眠る兵ばかりです。孤峰に上がる烽火を見ては朝ごとに疑い恐れ、絶壁の嶺に翻る旗を見ては日ごとに警戒します。これは山が多く雲のたなびく地であり、すぐに動乱が起こりやすく安んじがたい境域です。麦積崖には眺めて心を寄せるべきものもなく、米谷峡もとりたてて聞くほどのものもありません。たとえ通り過ぎて山を嘆いても、水への怨みは避けられません。秦の穆公が馬を放牧させたような荒れた地、隗囂が僭称して立ったような邦です。 その上、一人の帝が行幸すれば、あらゆる役所が随行し、千の群れが霧のように取り巻き、万の衆が星のように馳せ参じます。道すじの州県は疲弊し、宿場宿場の駅は手狭で、宿泊さえ容易ではなく、供給はまことに至難です。たとえ宮中からの指図によって官庫の銭物を割り当てたとしても、その途上で騒ぎを起こし、行く先々で圧迫を加えることを免れません。これを細かく論ずれば、軽々しく動座なさるべきではありません。あの蒼龍が海から出るように、雲を興し雨を降らすように、どうして波静かに風穏やかであることを期待できましょうか。必ずや苗を傷め物を損なう結果となるでしょう。それゆえ鑾輿は止まるべきであり、天子の歩みは動かしがたいのです。まして近年、御車はわずかに山南に至っただけでも、関を下ることさえできず、兵士を進発させるだけでした。この度は直ちに天水にまで至るとのことですが、その処置がどのようなものになるか、いまだ分かりません。かつて梁原の城池を打ち破り、義寧の民を掠奪した際には、手首を切られた者が一人二人ではなく、斬首された者はその倍にも上りました。これは彼の地の人心を生かすことにならぬばかりか、陛下の聖徳をも損なうものでした。今、洛京からそう遠くない地にあって、また御車が重ねて来ると聞けば、彼らはあらかじめ計略をめぐらすでしょうし、こちらもそれに応じて征討せねばならなくなります。まして鳳州は久しく仇敵の地であり、必ずや姦計を蓄えているはずです。ゆえなく妖言を弄して衝突の火種を作ることを深く懸念いたします。また陛下は唐国とちょうど友好を結ばれたところで、使者や贈り物が絶えず行き交っておりますが、聖駕が自ら行幸すると聞けば、かえって疑いや猜疑を抱かせることになりましょう。その事はもっぱら使者を派遣して行うべきです。陛下に境界での会盟をお願いするとしても、御自ら行くべきかどうかは分かりません。もし行かれれば秦・趙が強さを競ったように、互いに屈しがたくなるでしょうし、もし行かれなければ魯・衛のように不和となり、戦が盛んになるでしょう。事が起こる前によく考え、先を見通されることを陛下にお願い申し上げます。 臣がひそかに聞きますところ、古来、帝王が地方を巡狩するのは、民を弔い罪を伐ち、大義を広め民情を観察するためであり、その後は速やかに宮中に帰り、あらためて万民を安んずるものです。しかし陛下はたびたび遊歴されながら、いまだ一つの教えも聞かず、ただ山川を踏破し人馬を駆り立てるばかりです。閬苑では舟がほとんど沈みかけ、青城では女官たちが溺れかけたといいます。自ら驚きと憂いを招くことに、いったい何の意味があるのでしょうか。都に還られてからも、これらのことを軍民に説明されることはなく、多くの人々の思いを鬱屈させ、帝徳を明らかにすることもありませんでした。思えば昔、先皇帝が世におられたときは、理由のない巡遊はございませんでしたが、陛下が位を継がれてこの方、楽しみのままにたびたび宮闕を離れておられます。このたびもまた以前と同じように行幸の準備を整え、さらに遠く宮居を離れようとされています。昔、秦王(始皇帝)の御車は還らず、煬帝の龍舟は戻りませんでした。陛下の聖明は秦の始皇帝に勝り、隋の煬帝よりも優れておられ、しかも北方に城を築く憂いもないのに、どうして東への遊幸の弊害があってよいでしょうか。陛下は寛仁大度、広い孝と深い慈しみをお持ちで、農事の困難を知り、古人の成敗を識っておられ、自ら得失を防ぎ、思いのままに振る舞われることはないはずです。どうして先祖の廟を退けるようなことに忍びられましょうか。(欠字)道が断たれれば、多くの民は何を頼みとし、慈しみ深い母君は何の罪でそのような目に遭うのでしょうか。もし危亡のことを慮らなければ、まことに仁孝の道に背くことを恐れます。まして玉京の金の御殿、真珠の楼閣、内苑や上林苑、瑶池や瓊圃には香風が欄干に満ち、瑞々しい露が盤に満ち、天上の音楽たる九韶が奏でられ、雪の舞うような舞が八佾(八列の舞)で演じられ、紫禁城には神仙が群れ集い、皇宮には真珠や翡翠が輝いております。万乗の君主として論ずるならば、これはまさに三清(道教の理想郷)の境地であり、人の世の最高の趣であって、天下にこれ以上のものはありません。時にはこれを追い求めて遊び、その珍しい趣を観るのも十分でしょう。どうして遠い辺塞を顧み、あの荒れた山を見るために、玉体を惜しまれる必要がありましょうか。何の益もございません。 今、中原にはなお人材があり、大事はまだ終わっておりません。ただ国の民が疲弊を受け、盗賊が横行しているだけのことです。たとえ辺境に烽火の心配がなくとも、内地には腹心の患いがございます。陛下は千年に一度の天運を受けられ、一国の君として尊ばれ、文徳武功はまさに天地を経緯するほどで、孝は舜に勝り、仁は湯王よりも優れ、あらゆる行いに欠けるところなく、あらゆる政務に揺るぎなく、聡明で見識が広く達し、変化に通じ、深く規模を備え、ひとり英明な洞察をお持ちです。まさに大宝の位にあられ、しかもなお若く、社稷の基を継がれながら、あわせて山河の険しさをも保っておられます。どうして遠くを見渡し広く聞き入れ、安きにあって危うきを思い、四方に門を開いて賢を求め、あらゆる政務を統べて行い、ことごとく一つの徳を修め、端然と宮中に座して、恩威をともに行き渡らせ、賞罰を必ず正しく行い、両方の道(恩と威)を平らかに配分し、傷ついたところをそれぞれ癒し、表裏ともに寛やかに、子孫の繁栄を保ち、民に恵み深い政治を敷き、万物を救う玄妙な功を立て、精鋭の軍を選び鍛え、大計を思案し、あの猛々しく威張る勢いを打ち払い、この虎の睨みのごとき威を高め、馬を秣い兵を訓練し、糧を豊かにし武器を鋭くし、彼らにわずかでも隙が生じれば、直ちに一挙に平らげ、正しく好機をとらえ、大いに王道を行われるのがよろしいでしょうか。そうすれば自然と多くの神霊が加護を垂れ、四海は仁に帰し、衆心は城のように固まり、天下は治まるでしょう。 今、蜀の都は強盛で、他国はこれに及ばず、賢士は朝廷に満ち、聖人としての位を極めるべき時にあります。臣が願いますことは、百姓が貞観の治のような繁栄を楽しみ、万乗の君が太宗のように明らかであられ、薬石の言(良薬のように苦い忠言)を採り入れ、蒭蕘(きこりや草刈りのような身分低き者)の説をお聞きになり、社稷を愛し増し加え、君と民とを同じように医し、武王が諤々たる直言によって国を栄えさせ、卑しむべき商の紂王が唯々諾々として国を滅ぼしたことを鑑とされ、非を飾って諫言を退けることのないよう、面と向かって朝廷で争う者を大切にし、それによってわが国の春を固め、わが皇化を保たれますように。 陛下は住む人の多く集まっているのをご覧になって、都が繁華であるとお思いになってはなりません。それは地方の郡が凌辱され荒廃して住むこともままならず、そのために競って都に集まり、しばらくの間、安逸をむさぼっているに過ぎないのです。今、諸州は空虚な統治が多く、百姓は生業を失いつつあり、荒れた田も少なくなく、盗賊が群れをなしております。伏して願わくは、陛下はいささか腹心の情をお示しになれば、すぐにこれをお聞きお目にとどめられることでしょう。蜀国はもとより創業に際して長久の計に乏しく、その徳が二代の君に及ばなかったり、その運命が七代と続かなかったりしております。劉禅は忽ちにして鄧艾に降り、李勢は急に桓温に帰服しました。これはみな直言を取り上げず、政事を顧みず、王道を行わず、民の暮らしを思わなかったために、国を亡ぼすに至ったのです。人心はどうして保たれましょうか、山河の険しさも頼みとするに足りません。陛下は至聖至明にして、堯や舜のようであられ、どうして後主(劉禅)のような者に比べられましょうか、どうして子仁(劉禅の字か)のような者と同列にされましょうか。陛下には寛大慈悲にして至孝という誉れがあり、遠く見通す明晰な策をお持ちで、へつらう者を信用せず、荒淫に耽ることもなく、出入りするところではみな微細な兆しを防ぎ、動くにも静かにするにも道理を欠くことなく、必ずや万年の大業を成し遂げ、ついには四海の君主となられることでしょう。願わくは陛下は、しばらく御車を留め、都を離れず、中原に事なきを待たれれば、八方の国々は自ずから来朝し、天下の人心はみな我が君に帰することでしょう。あたかも多くの流れが海に注ぐように、多くの蟻が生臭いものに集まるように、道があれば自ずから明らかになり、服従せぬ者はなくなりましょう。ただ天水を見るだけでなく、直ちに長安に座ることさえできましょう。これは微臣の切なる願いであり、国を挙げての深い望みでございます。 臣が聞きますところ、昔、天子には七人の争臣(諫めを厭わぬ臣)があれば、たとえ無道であっても天下を失うことはなかったといいます。それゆえ舟を傾けるほどの覚悟で(欠字)を仰ぎ、聖明に諫言申し上げるのです。臣は官の栄達を頼みとせず、名誉を求めるのでもなく、その心は主上を謗るのではなく、その理は主君を愛することに切実であります。たとえ檻を折るほどの能力はなくとも、逆鱗に触れる罪を犯すことは辞さず、誅殺されることをも避けず、ここに天子の御前に申し上げる次第です。臣が死ぬことは、あらゆる生き物の中から一匹の蟻けらを除くようなものに過ぎません。しかし陛下がもしまったくこれをお考えにならず、なお辺境へと赴かれるならば、聖母(皇太后)に憂いをお残しになり、多くの臣下に心痛を強いることになりましょう。得失を見誤り、自ら疲労を招き、もし不測の事態が起これば、悔いても及びません。臣は陛下が少しでも諫言の道をお開きになり、いささかなりとも臣の言葉をお納めになり、聖母のお気持ちに背かず、国人の望みをお容れになり、大計を存し、辺境へお出かけになりませんことを願います。冕旒(帝の御位)を犯し奉ることは、憂慮に堪えず、死を冒して罪をお待ちし、激しく心を痛めながら、謹んで表を奉り、直言をもってお耳に達する次第です。臣某、まことに恐れ多く、頓首頓首いたし、死罪死罪、謹んで申し上げます。」