十国春秋卷四十二 列傳 張道古
要約
張道古は滄州蒲台の人(一説に青州臨淄の人)で、若くして文才があり朱雲・梅福の節義を慕った。唐の乾符年間に王鎔の幕府に仕え、景福年間に進士に挙げられて著作郎、右拾遺を歴任したが、方鎮割拠の中で「五危二乱」を説く上疏を奉り、その中に「今まさに劉備・孫権のような者が世に生まれている」との一節があったため皇帝の怒りを買い施州司戸参軍に左遷された。左補闕として召還されたものの陳敬瑄・田令孜の乱で西南への道が塞がれ、高祖に恨まれることを恐れて姓名を変え、導江・青城の市中で占いを売って過ごしていたところを韋荘に見出され、高祖の節度判官に推挙された。改めて五危二乱を説く詩を高祖に奉ったが、同僚に妬まれて茂州に安置された。高祖の開国後に武部郎中として召されたものの、玉塁関で親しい者に「唐室の諫臣であった自分が鶏や犬のような屈従の扱いを受けることには耐えられない、死んだら関の東に葬り『唐左補闕張道古墓』と記してほしい」と語り、案の定再び茂州に左遷されて武成元年、灌州で没した。予め自ら墓穴を掘り墓表を刻んでいたとの逸話も伝わり、その死を聞いた鄭雲叟が弔詩を作ると、高祖はこれを憐れんで妻とともに合葬させた。易の彖伝・象伝に深く通じ『易題』数巻を著して世に行われた。
現代語訳全文
張道古
- 張道古は滄州蒲台の人(一説に青州臨淄の人)で、若くして文才があり、朱雲・梅福の節義を慕った。唐の乾符年間、王鎔の幕府にあった。景福年間、進士に挙げられ、初めて仕えて著作郎となり、右拾遺に遷った。天子の播遷(都落ち)ののち、方鎮が兵を構えていたので、道古は上疏して「五危二乱」の七事を述べ、その中に「今まさに劉備・孫権のような者がすでに世に生まれているのです」との一節があったため、施州司戸参軍に謫せられた(『資治通鑑』には乾寧四年、張道古が上疏して「国家には五危二乱があります。昔、漢の文帝は即位してまもなく国事に習熟しましたが、今、陛下は即位してすでに十年を経ながら、なお君主として臣下を御する道を知りません。太宗は内には中原を安んじ、外には四方の異民族に門戸を開き、海の彼方の国もみな臣として服さぬものはありませんでしたが、今や先朝からの領域は日に日に狭まり、ほとんど尽きようとしています。臣は身分卑しいとはいえ、ひそかに陛下の朝廷と社稷を思い、これでは初めは奸臣に弄ばれ、終いには賊臣の手に落ちてしまうことを憂えます」と述べたとあり、上(皇帝)は怒って道古を施州司戸に貶し、さらに詔を下して道古の罪状を諫官に示させたと記す)。
- ほどなく左補闕として召還されたが、陳敬瑄・田令孜の乱で西南への道が塞がれ、さらに高祖に恨まれることを恐れて、姓名を変え、導江・青城の市中で占いを売って過ごした。韋莊がその名を知り、節度判官として推薦した。道古はまた高祖に詩を奉って五危二乱のことを述べた(その詩に言う。「上表はようやく冕旒の御前に達したが、詔書は俄かに玉座を離れて退けられた。二乱はどうして明主が用いたことに由るであろうか、五危はついに佞臣の弾劾を受けた。西へ鳳翔府に巡ったのは基盤を固めるためではなく、東へ鑾輿を播(うつ)してもついに安んじられなかった。諫めの疏は今もなお在るはずだが、誰がまた読み返してくれようか」)。同僚に妬まれ、茂州に安置された。
- 高祖が開国すると武部郎中として召されたが、玉塁関に至って親しい者に語った。「私は唐室の諫臣であった。ついに拳を突いて跪き、鶏や犬と同じ扱いで食を受けるようなことには耐えられぬ。召されればまた必ず貶められるだろう。私が死んだ日には、関の東の不毛の地に私を葬り、『唐左補闕張道古墓』と記してほしい。」朝廷に入ると、果たして時世に容れられず、再び茂州に貶され、武成元年、灌州で没した(『鑑戒録』には「王建がこれを誅し、五墓の地に埋めた」とあるが、誤りであろう)。鄭雲叟は華州にいてその死を聞き、詩を作って弔い、その一句に「道古は害に遭い、妻もまた後を追って亡くなった」とある。高祖はこれを憐れみ、夫婦を合葬させた(『北夢瑣言』にはまた「道古は常に自ら占いをしていたが、凶卦に遭って、あらかじめ墓穴を造り、その墓表に『唐左補闕張道古墓』と記した。後に果たして害に遭い、そこに葬られた」ともある)。道古は易の彖伝・象伝に深く通じ、『易題』数巻を著し、世に行われた。後の人がその高祖への上書の草稿を得たが、そこには幕僚たちが自分の才学を覆い隠し、名声を広めようとしなかったことを強く述べていた。それゆえ同僚の多くが彼を忌み嫌ったのである。