毛文錫(平珪)
- 毛文錫は字を平珪といい、高陽の人で、唐の太僕卿毛亀範の子である。十四歳で進士に登第した。まもなく成都に来て高祖に仕え、翰林学士承旨となった。永平四年、礼部尚書に遷り、枢密院の事を判じた。これより先、峡谷に堰があり、ある者が高祖に、江水が増水したときにこれを決壊させて江陵を水攻めにするよう勧めたが、文錫は諫めて言った。「高季昌はその民を服従させていないのであって、民に何の罪がありましょうか。陛下はまさに徳をもって天下を懐柔しようとされているのに、隣国の民を魚や鼈の餌食にするに忍びられましょうか。」高祖はそこで思いとどまった。通正元年、文思殿大学士に進み、さらに司徒を拝し、枢密院を判じることはもとのままであった。
- 天漢年間、宦官の唐文扆が宰相張格と表裏となって、文錫と権勢を争った。折しも文錫が娘を僕射庾傳素の子に嫁がせ、枢密院で親族を招いて宴を催した際、音楽を用いるのに事前に奏聞しなかった。高祖が鼓吹の音を聞いて不審に思うと、文扆はこれ幸いと口をきわめて文錫の落ち度をあげつらい、文錫は茂州司馬に貶され、子の詢は維州に流され、家産は没収された。国が亡ぶと後主に従って唐に降り、まもなく再び孟氏(後蜀)に仕え、歐陽烱ら五人とともに小詞(艶麗な詞曲)をもって後蜀の主に賞された。文錫には『前蜀紀事』二巻、『茶譜』一巻があり、とりわけ艶麗な言葉遣いに巧みで、その作った「巫山一段雲」の詞は、当世にもてはやされ詠じられた。