十国春秋十國春秋卷三十八 前蜀四 列傳(前蜀の后妃・皇子・宗族・公主)
検討官の呉任臣が編纂した巻。前蜀高祖・後主に仕えた后妃、高祖と後主の子、高祖の従子・族子、および公主の伝を収める。
順徳皇后周氏
- 許州の出身。武成元年(908年)に高祖が即位すると冊立されて皇后となった。
- 永平年間(911年〜)のはじめに尊号を加えられて昭聖と称された。
- 天光元年(918年)に高祖が崩御すると、悲嘆のあまりやせ細り、数か月後に世を去った。永陵に合葬され、順徳と諡されて太廟に合祀された。
- 同母弟の周徳権は后の縁で無官から刺史に取り立てられ、功を重ねて太保・中書令にまで進んだ。別に伝がある。
順聖皇太后徐氏
- 唐の眉州刺史であった徐耕の娘。父の徐耕は寛容な人柄で、田令孜・陳敬瑄が成都を守っていたころ内外都指揮使をつとめ、数千人の命を救った。
- 令孜から「生殺の権を握りながら一人も処刑しないのは異心があるからか」と疑われ、やむなく夜のうちに捕虜数人を処刑して報告した。
- 徐耕には美貌の娘が二人あり、人相見が「青城山に王気が立ちのぼっている。十年のうちに真人が天命を受け、この娘は后妃となる。あなたの富貴は二人の娘によってもたらされる」と告げた。長女がのちの太后である。
- 太后は高祖に仕えて賢妃となり、妹の淑妃とともに容色によって寵を得て、後宮を独占して権勢をふるい、宦官の唐文扆らと結んで外朝の政治にも干渉した。
- 太子元膺が殺されたのち、高祖は雅王宗輅が自分に似ていること、信王宗傑が才気に富むことから、どちらかを立てようとした。賢妃は自分の子である鄭王(後主)を立てたく、唐文扆を通じて宰相張格に働きかけさせ、ついに後主が立てられた。
- 後主が即位すると賢妃は順聖皇太后、淑妃は翊聖皇太妃に尊ばれ、父の徐耕も驃騎大将軍にまで累進した。
- 太后・太妃はそれぞれ教令を出して官職を売り、刺史以下の官に欠員が出るたび数人を競わせて高額を納めた者に与えた。
- 日々後主を連れて貴臣の邸で遊宴し、丈人観・金華宮・三学山など近郡の名勝をめぐって酒を飲み詩を賦し、莫大な費用を費やした。青城山に遊んだ折には宮人の衣服にすべて雲霞を描かせ、遠望すると仙人のようであった。後主はみずから「甘州曲」を作ってそのさまを述べた。前蜀が滅んだのはこうした奢侈が原因であった。
- 唐(後唐)軍が漢州に入ると、後主は早馬で唐の臣李厳を招き、太后に引き合わせて身を託したうえで唐に降った。
- 唐の荘宗は向延嗣を遣わして秦川駅で王氏一族を誅殺させた。太后は刑に臨んで「わが子は一国を挙げて降伏したのに、その報いが誅殺とは。信義はともに捨てられた。おまえたちの禍も間もなく来るであろう」と叫んだ。
翊聖皇太妃徐氏
- 徐耕の次女。高祖の時に淑妃に進み、宮中では花蕊夫人と呼ばれ、小徐妃ともいわれた。
- 光天元年(918年)夏六月、皇太妃に尊ばれた。
- 咸康元年(925年)に後主に従って唐に降り、翌年(926年)李継曮らに護送されて洛陽へ向かう途中、天回駅で太后とともに詩を賦した。その悲痛さは聞くに堪えないほどであった。
- まもなく秦川駅の惨事に遭い、太后とともに命を落とした。
貴妃張氏
- 梓州郪県の人。太子元膺の生母である。武成年間(908年〜)に貴妃の号を与えられた。
- 一説に元膺の母は白氏だともいう。
- 高祖の後宮には他に馬姫・宋姫・陳姫・喬姫・褚姫がいたが、ここでは詳述しない。
夫人蕭氏
- 高祖の後宮の一人。容姿にすぐれ聡明で、たいそう寵愛された。
- 鳳翔の将であった李彦某が降ってくると指揮使に任じ、王丞弇と改姓改名させ、蕭氏をその妻として与えた。
- まもなく丞弇が死に、蕭氏は子のない寡婦となった。
- 唐の転運接応使李継曮(もとの岐王の子)は魏王に従って成都に入ったが、陳昭符という者がひそかに蕭氏を求めて献上した。
- 同衾の夜、継曮は屏風越しにその美しさに驚き、来歴を問うと王丞弇の妻であったと知れた。継曮はただちに中止して「丞弇は恩に背いて蜀に投じた、確かに許しがたい。しかしかつては私の従兄弟の身分にあった者であり、義として妻を取ることはできない」と言い、蕭氏を送り帰した。
後主廢后高氏
- 兵部尚書高知言の娘。後主が太子であったとき、高祖が冊立して皇太子妃とした。
- 長く寵を得られず、後主の即位で皇后に立てられた。
- 乾徳初(919年)に韋妃が入宮すると、いよいよ疎んじられて後主に相手にされず、ついに廃されて実家に送り返された。父の知言は驚きのあまり倒れ、食を絶って死んだ。
皇后金氏
- 名は飛山、成都の人。父は農を業とし、家はかなり富んでいたが子がなく、妻と互いに敬い合って暮らしていた。
- 母は十か月あまり身ごもり、出産の際に大風雨となって赤い龍が庭をめぐるのが見え、そこで后が生まれた。この日、山が飛んで来て家に至ったので飛山と名づけられた。
- 十六歳、容姿は当世に並ぶ者なく、絵画にも長じていた。乾徳初(919年)に後宮に選ばれて入り、高后が廃されると皇后に冊立された。
- まもなく自身も廃されたが、貴妃銭氏が力を尽くして弁護したため、ふたたび中宮の位に復した。
- 咸康元年(925年)に後主に従って唐に降り、そこで死んだ。
元妃韋氏
- もと徐耕の孫娘。ぬきんでた美貌であった。
- 後主が徐氏の家を訪れた折に見初め、太后がとりもって宮中に入れた。
- 後主は母方の一族から娶ることを嫌い、表向きは韋昭度の孫と称した。はじめ婕妤となり、累進して元妃に封じられた。
貴妃錢氏・順妃蘇氏
- 銭氏は後主に仕えて累進し貴妃に封じられた。皇后金氏は復位できたのを深く恩に感じた。まもなく後主に従って唐に降り、そこで死んだ。
- 蘇氏は家系がはっきりしない。後主の時に累進して順妃に至った。
昭儀李氏と宮人李玉簫
- 李氏、名は舜弦、梓州の人。文才にきわめて富み、後主に昭儀として立てられた。世に李舜弦夫人と称される。
- 著作の「蜀宮応制詩」「随駕詩」「釣魚不得詩」などの諸篇は、文人の鑑賞するところとなった。
- 同じころの宮人李玉簫は、舜弦に次ぐ寵愛を受けた。後主はかつて宣華苑で近臣を饗応した際、玉簫に自作の「月華如水」宮詞を歌わせて嘉王宗寿に酒を勧めさせた。声は美しくうねり抑揚も程よく、一座みな心を奪われた。宗寿は禍を恐れて杯を飲み干した。
宮人劉氏
- 出身地は不明。豊かな黒髪と美貌の持ち主であった。
- 秦川駅の変のとき、刑を執行する者が助命しようとしたが、劉氏は「家も国も滅んだ以上、義として辱めは受けない」と言い、そのまま死についた。
高祖の長子 衛王宗仁
- 高祖の長子。生母は馬氏。幼くして病のため世継ぎの資格を失い、累進して校書郎となった。
- 武成三年(910年)に普王、乾徳六年(924年)に衛王に改封された。
庶人元膺
- 字は昌美、高祖の第二子で貴妃張氏の生んだ子。初名は宗懿。無官から秘書少監となり遂王に封じられた。まもなく皇太子に立てられ、ほどなく元坦と改名した。
- 永平年間(911年〜)に什邡で銅牌が得られ、高祖はこれを瑞祥の符讖とみて、名を元膺と改めさせた。
- 容貌は口が突き出て歯並びが悪く、蛇のような目で色黒、視線が定まらなかった。性格は猜疑深く残忍だったが、技芸には長けており、射れば銭の穴を貫き、みずから画毬を抱えて馬上に投げ上げ、馬を走らせながら射て外すことがなかった。
- 太子となったのは十七歳のとき。六軍を統べ、天武神機営を新設し、永和府を開いて官属を置き、きわめて重んじられた。
- 高祖は年少で大任を負う元膺のため、道士の広成先生杜光庭を師とし、清廉な徳のある者を選んで東宮に侍らせるよう命じた。光庭は名儒の許寂・徐簡夫を推薦したが、元膺は彼らと口をきかず、日々楽人や取り巻きと際限なく遊び戯れた。
- 内枢密使唐道襲は高祖の寵臣であったが、元膺は彼を軽んじ、朝廷でたびたびからかった。高祖は両者の不和を恐れて道襲を興元節度使として出したが、まもなく召し返して再び機密を掌らせた。元膺が朝廷で道襲の過失を並べ立てると、高祖はひどく不快に思った。
- 七夕の前日、元膺は諸王・大臣を招いて酒宴を開き、道襲も列席した。しかし王宗翰・潘峭・毛文錫が来ないので、元膺は怒って「集王(宗翰)が来ないのは、潘峭と毛文錫が入れ知恵したからだ」と言った。
- 大昌軍師の徐瑤・常謙は元膺が親任していた者で、酒がまわると何度も道襲に目をやった。道襲は恐れて退出した。
- 翌日、元膺は高祖に「潘峭と毛文錫が諸王を離間している」と訴え、高祖は怒って二人を貶め逐うよう命じた。ほどなく元膺が退出し道襲が入ると、高祖はその一件を語った。道襲は「太子は反乱を企て、諸王・諸将を集めて兵で囲い込み、そのうえで事を起こすつもりです」と述べた。高祖は疑いを抱き、道襲は屯営の軍を召して宮中を守らせるよう請うた。
- 元膺ははじめ何の備えもしていなかったが、召兵を聞いて自分が誅されると思い込み、伶官の安悉香、軍将の喩全殊とともに天武の兵を率いて身を守り、潘峭・毛文錫を捕らえて死にかけるほど打ち据え、東宮に幽閉した。さらに成都尹潘嶠を捕らえて得賢門に閉じ込めた。
- 翌日、徐瑤・常謙と懐勝軍使厳璘らが謀を合わせ、手勢を率いて元膺を擁して道襲を討とうとした。元膺は馬に甲を着せて兵を進め、王宗賀の門前で共に進むよう誘ったが、宗賀は「名分のない挙兵には従えない」と拒んだ。
- そこで元膺は清風楼に道襲を攻めた。道襲は屯営を率いて防戦したが流れ矢に当たり、城の西まで追われて殺された。
- 高祖は王宗侃・宗賀・宗黯らに兵を発して乱を討たせた。徐瑤は戦死し、兵はみな潰走した。常謙は元膺とともに躍龍池の船中に隠れたが、翌日出て食を乞うたところ国人に見破られて通報された。
- 高祖は王宗翰を遣わして説得させようとしたが、到着前に元膺と常謙は衛士に殺されていた。高祖は宗翰が殺したのではと疑い、慟哭してやまなかった。
- そこへ張格が軍民を慰諭する掲示文を呈し、「斧鉞の誅を行わなければ社稷の計を誤る」というくだりを読むと、高祖は涙をぬぐって「朕はどうして私情で公事を害せようか」と言った。元膺は追って庶人に落とされた。
- 宗翰は太子を手にかけた者を誅するよう奏し、元膺の側近数十人が連座して死んだ。
- はじめ梓潼県では張悪子という蛇神を祀っていた。元膺が誅された夜、祝(神職)が夢で悪子に「私は長く成都に留められていたが、今ようやく帰ってきた。祠がこれほど荒れ果てているとは何事か」と責められた。このため蜀の人々は元膺を廟の蛇の精だったと語り伝えた。
豳王宗輅・趙王宗紀・韓王宗智・宋王宗澤
- 宗輅は高祖の第三子。後宮の宋氏の生んだ子。武成三年(910年)に雅王に封じられた。元膺の死後、高祖は宗輅が自分に似ていること、宗傑に才気があることから一人を選んで立てようとしたが、実現しなかった。乾徳六年(924年)に豳王に改封され、軍使の職を解かれた。
- 宗紀は高祖の第四子。武成年間に褒王に封じられ、乾徳年間に趙王に改封された。
- 宗智は高祖の第五子。母は陳妃。はじめ栄王に封じられ、のち韓王に改封された。
- 宗澤は高祖の第六子。後宮の褚姫の生んだ子。武成三年(910年)に興王に封じられ、乾徳年間に宋王に改封され、軍使を解かれた。
魯王宗鼎
- 宗澤・宗平と同母の兄弟。翊聖太妃の生んだ子だともいう。高祖の第七子。武成年間に彭王に封じられた。
- 後主が即位して諸王がみな軍使となったとき、宗鼎は兄弟に「親王が兵を握るのは禍乱のもとだ。今は君主が幼く臣下が強く、讒言による離間が起ころうとしている。武備を整え兵を訓練するのは我々のすべきことではない」と説き、軍使を固辞した。以後は書斎を営み松竹を植えて自ら楽しんだ。
- 乾徳六年(924年)に魯王に改封された。のち宗輅・宗紀・宗智・宗澤・宗平・宗特とともに秦川駅で死んだ。
信王宗傑
- 高祖の第八子。母は喬妃。武成三年(910年)に信王に封じられた。
- 元膺の死後、潘炕がしきりに太子を立てるよう請うたとき、高祖は諸子のなかで宗傑が最も賢才だとして立てたいと考えた。しかし順聖太后が寵を得ていたため、結局は兄たちを越えて後主が立てられた。
- 光天元年(918年)、宗傑はたびたび時政について意見を述べ、高祖はその才を高く買い、ひそかに廃立を考えた。ところがまもなく急死したので、高祖は深く不審を抱いた。
薛王宗平・莒王宗特
- 宗平は高祖の第九子で宗澤の同母弟。光天元年(918年)に忠王に封じられ、乾徳年間に薛王に改封され、軍使を解かれた。
- 宗特は高祖の第十子で宗智と同母。光天元年(918年)に資王に封じられ、乾徳六年(924年)に莒王に改封された。
- 高祖の子は全部で十一人あり、後主が末子である。史書に見える名には異同があり、宗智は宗献、宗平は宗賢、宗特は宗時あるいは宗覇とも記されるが、ここでは一貫して欧陽脩の蜀世家を典拠とする。
高祖の従子 昌王宗鐬
- 高祖の従子。若くして智勇があり、高祖の麾下に属して親校となった。
- 西川の乱に際して田令孜が早馬で高祖を西上させたとき、宗鐬は王宗瑤らとともに兵を率いて事を定めた。のち陳敬瑄が心変わりすると、進撃して鹿頭関を破り、漢州を抜き、徳陽を陥れ、成都を攻めた。この戦功は宗鐬の力によるところが大きい。
- 武成年間に昌王の爵を賜り、久しくして御営使を領した。
- 永平元年(911年)、蜀軍は岐と戦って青泥嶺で大敗し、安遠軍まで退いて守った。高祖は宗鐬を応援招討使に任じ、黄牛川の戦いで岐兵を大いに殲滅し、その将蘇厚を捕らえた。高祖は有能と認めて厚く賞した。
- まもなく病死した。
高祖の族子 嘉王宗壽
- 字は永年、王氏の一族。高祖が同姓のよしみで養子とした。琴と囲碁を能くし、控えめな人柄で道家の術を好んだ。
- 武成年間に嘉王の爵を賜り、久しくして鎮江節度使を領した。後主の即位で太子太保に進み、朝請に列し、錬丹と養気を楽しみとした。
- 後主が淫乱にふけるたび、宗寿ひとりが切に諫めた。重陽の日に宣華苑で酒に侍った折、機を捉えて社稷の危機を極言し、涙を流してやまなかった。潘在迎・韓昭らは「嘉王はいつもの酒の悲しみ癖だ」と言い、狎客たちと戯言でからかい、座はざわめいて後主は反省しなかった。後主はさらに宮人李氏に自作の新詞を歌わせて宗寿に酒を勧めさせ、宗寿は禍を恐れて一息に飲み干した。潘在迎がその宮人を宗寿に賜ってはと請うと、後主は「王はきっと受けまい、余計な面倒をかけるな」と言ってやめた。
- まもなく武信軍節度使に移った。唐軍が攻め入り各地が降伏するなか、魏王継岌が書を送って招いた。宗寿ははじめ降伏を拒んだが、のち遂・合・渝・瀘・昌の五州を差し出して帰順した。続いて後主が璧をくわえて降ったと聞き、慟哭した。
- 後主に従って東へ移り、岐陽に至ったとき、番人に賄賂を贈って後主に面会した。後主は涙で襟を濡らし「早く王の言葉に従っていれば、今日のようなことはなかった」と言った。
- 後主の死後、宗寿は澠池で唐の荘宗が弑逆されたと聞き、熊耳山に逃げ込んだ。明宗の天成二年(927年)、洛陽に出向いて上書し、後主の宗族を葬ることを願い出た。明宗はその忠を認めて宗寿を保義軍行軍司馬に任じ、後主を公に追封して諸侯の礼で葬ることを許した。宗寿は王氏十八人の遺骸をことごとく引き取って葬り、葬送の日には徒歩で従った。
- のち淄州刺史となり、さらに平盧節度使となって天寿を全うした。
- 宗寿は文章もよくし、平生から能仁院の僧との書簡が二十余帙あり、その墨蹟の多くは冲妙観に納められた。
- また宗寿はかつて江原で古い鉄鏡を得た。裏には篆書十二字で「龍宮宝蔵、神和子鋳、永年万歳」とあった。ふだんは曇って見えなかったが、ある日にわかに光を放って市中の家々を照らした。総角の青衣の小児が酒家の楼にうずくまっていたので人を遣って尋ねさせると、小児はついて来て「これは神物である。私はこれを失って百年になる。返してもらいたい」と言い、自分の腹を裂いて鏡を納め、深く一礼して去った。人々はみな鏡の妖と考えた。のちに宗寿は辟穀延年の法をよくしたが、それはこの青衣の小児から得たものだという説がある。
高祖の族子 通王宗裕
- こちらも高祖の族子。唐の昭宗の時に高祖に従って西川に鎮し、嘉州刺史となった。
- のち王宗侃らとともに彭州で楊晟を包囲し、城を攻め土地を切り取って戦功第一とされた。まもなく馬歩使を領した。
- 天復元年(901年)、王宗滌に代わって東川留後となり、のち漢州刺史に改められ、ほどなく死んだ。
- 宗裕は謙虚で慎み深く、高祖が東川を平定したとき諸将が功を争うなか、一人枯木の下に立って自慢することがなかったので、当時「枯樹太保」と呼ばれた。
- 武成三年(910年)に通王を追封された。
後主の子 承祧・承祀
- 承祧は後主の長子。封爵は伝わらない。豳王宗輅らとともに秦川駅で死んだ。
- 承祀は後主の次子。やはり封号は伝わらず、承祧とともに死んだ。
高祖の女 普慈公主
- 高祖の娘。幼くして聡明で、高祖はこのうえなく可愛がった。
- 天復年間(901年〜)、岐王が判官の趙鍠を遣わして聘問し、甥の李継崇のために縁組を求めたので、高祖は公主を嫁がせた。従者や供回りは華やかで、千里にわたって行列が続いた。
- しばらくすると継崇は驕り高ぶって酒におぼれ、公主に無礼を重ねた。公主は宋光嗣に帛書を託して高祖に帰国を願い出た。高祖は皇后が死んだと偽って使者を走らせ、弔問のためと称して公主を呼び戻した。
- 永平元年(911年)、公主は成都に着き、そのまま留め置かれて帰されなかった。岐王は怒り、以後高祖と不和になった。青泥嶺の戦いは、実にこの一件が発端であった。