十国春秋十國春秋卷三十七 前蜀三 後主本紀(王衍)

前蜀の第二代にして最後の君主、王衍(字は化源、旧名は宗衍、?–925年)。高祖王建の十一男で最年少ながら、母の徐賢妃と宦者唐文扆の画策で皇太子に立てられた。文才に富み艶体詩集『烟花集』を残したが、政事を宦者の宋光嗣や権臣の王宗弼に委ね、遊宴と土木に明け暮れて国力を損なった。後唐荘宗の派遣した魏王李継岌・郭崇韜の軍がわずか七十日で成都に迫ると降伏し、前蜀は父子二代三十五年で滅んだ。翌年、長安近くの秦川駅で一族もろとも殺された。

年表(18件)
  • 光天元年918年高祖の崩御を受け十八歳で即位し、唐文扆を誅して張格らを貶めた
  • 乾徳元年919年南郊を祀って大赦し、王宗播らが散関から岐を撃つも大雨で退いた
  • 乾徳二年920年北巡と称して成都を発ち、閬州・梓州まで遊幸を重ねた
  • 乾徳三年921年成都に還って皇后高氏を廃し、宣華苑に殿閣を造営して荒淫を極めた
  • 乾徳四年922年文明殿で制科を試み、直言した蒲禹卿を右補闕に抜擢した
  • 乾徳五年923年晋王李存勗が皇帝を称して国号を唐とし、梁が滅んだ
  • 乾徳六年924年後唐の李厳が聘問に訪れ、帰国後に蜀の弱体を報じて両川攻略の計が固まった
  • 乾徳六年924年宦者の王承休を天雄軍節度使とし、竜武軍をその牙兵とした
  • 咸康元年925年群臣と太后の諫止を退け、王承休の請いに応じて秦州へ東遊に発った
  • 咸康元年925年後唐が魏王李継岌・郭崇韜に六万を率いさせて侵入を開始した
  • 咸康元年925年威武城が陥ち、王承捷が鳳・興・文・扶の四州を挙げて唐に降った
  • 咸康元年925年三招討が三泉で大敗し、帝は利州から成都へ逃げ帰った
  • 咸康元年925年王宗弼が帝を西宮に移して璽綬を収め、権西川兵馬留後を称した
  • 咸康元年925年昇遷橋で白衣に璧を銜えて降り、前蜀は滅んだ
  • 咸康元年925年郭崇韜が王宗弼と子の承班らを捕らえて斬った
  • 唐同光三年925年宗族と百官とともに東へ護送され、三月に長安へ至った
  • 唐同光三年925年荘宗の勅を受けた向延嗣により秦川駅で宗族もろとも殺された。時に二十八歳
  • 天成三年928年王宗寿の願いにより明宗が順正公を追封し、長安南の三趙村に葬られた

出自と即位

  • 後主は名を衍、字を化源といい、旧名を宗衍といったが、即位して「宗」の字を除き衍と名乗った。高祖の十一男で、諸子のうち最年少であり、賢妃の徐氏の所生である。
  • 顎は張って口は大きく、垂れた手は膝を過ぎ、目を振り向ければ耳が見えるほどだったという。学問をよくし、少年の頃から文を作り、才思に富んだ。とりわけ華麗な詞を好み、艶体詩二百篇を集めて『烟花集』と名づけた。その作は蜀の人がみな伝誦した。
  • 初め鄭王に封じられ、左奉駕軍使となった。元膺が死ぬと、徐妃と宦者の唐文扆が相士に「衍の相は極めて貴い」と言わせ、さらに宰相の張格に賛成を促した。こうして皇太子に立てられた。
  • 高祖の崩御後、光天元年(918年)六月癸卯、皇帝の位を継いだ。時に十八歳。母の賢妃を順聖皇太后、徐淑妃を翊聖皇太妃と尊び、高氏を皇后に冊立した。宋光嗣に六軍諸衛事を判じさせた。
  • 乙卯、唐文扆と王保晦を殺した。西面招討副使の王全昱に命じて文扆を秦州で殺させ、左保勝軍使領右街使の唐道崇の官を免じた。
  • 文扆が死ぬと、太傅・門下侍郎・同平章事の張格は内心穏やかでなかった。病と称して命を待つよう勧める者もあったが、礼部尚書の楊玢は自分の失勢を恐れ、「公には擁立の功がある。憂えるには及ばない」と言った。
  • 庚午、張格を茂州刺史、楊玢を栄経尉に貶め、吏部侍郎の許寂と戸部侍郎の潘嶠も張格の一党として貶官された。格はまもなく維州司戸に再び貶められ、庾凝績は格を合水鎮に移し、茂州刺史の顧承郾に格の秘事を探らせるよう奏した。王宗侃の妻は格と同姓のよしみで庇おうとし、承郾の母に「息子に、他人のために仇を報じるようなことはさせるな」と告げた。承郾はその言に従ったので、凝績は恨み、公事にかこつけて承郾を罪に落とした。
  • 秋七月、兼中書令の王宗弼を鉅鹿王、宗瑤を臨淄王、宗綰を臨洮王、宗播を臨潁王とし、宗裔・宗夔および兼侍中の宗黯をいずれも琅邪郡王に封じた。甲戌、王宗侃を楽安王に封じた。丙子、兵部尚書の庾伝素を太子少保兼中書侍郎・同平章事とした。
  • 帝は政事を自ら執らず、内外の人事はすべて宗弼から出た。宗弼は賄賂を受け私を行い、上下の恨みを買った。宋光嗣は機転がきき人の意に合わせるのが巧みで帝に寵任され、国はこれによって衰えた。
  • 八月、諸王を軍使とした。甲子、昭聖皇后が没した。乙丑、内給事の王廷紹・欧陽晃・李周輅・宋光葆・宋承蘊・田魯儔らを将軍や軍使として国政に関与させた。司徒の周庠が強く諫めたが聞かれなかった。欧陽晃は住まいが狭いのを嫌い、火を放って西隣の軍営を焼き、翌朝、工匠を呼んで邸を広げたが、帝は咎めなかった。大行皇后に順徳の諡を奉った。
  • 九月、内枢密使の宋光嗣が六軍を判ずる職を王宗弼に譲り、許された。
  • 冬十月、詔して良家の女二十人を選んで後宮に備えた。十一月壬申、神武聖文孝徳明恵帝を永陵に葬り、廟号を高祖とした。十二月、永陵に詣でた。辛酉、翌年正月に南郊で祀ることを詔し、翌年の元号を乾徳と改めた。
  • この年、青神県の長泉里に麒麟が現れた。帝は自らの吉祥として、その地に院を建てさせた。

乾徳元年(919年)

  • 春正月辛巳、帝は南郊を祀り、国内に大赦した。群臣は聖徳明孝皇帝の尊号を奉った。
  • 二月、雲南が使者を送って来朝した。
  • 三月丙戌、北路行営都招討・武徳節度使の王宗播らが散関から岐を撃ち、渭水を渡って岐の将・孟鉄山を破ったが、大雨に遭って引き返し、兵を分けて興元・鳳州および威武城を守らせた。戊子、天雄節度使・同平章事の王宗昱が隴州を攻めたが落とせなかった。
  • 仗内教坊使の厳旭を蓬州刺史とした。旭は士民の女子を強奪して宮中に入れ、それで官を得たのである。
  • 帝は奢侈で節度がなく、日々、太后・太妃とともに貴臣の家で遊宴し、近郡の名山にも遊んで費用は数え切れなかった。太后と太妃はそれぞれ教令を出して刺史や令録などの官を売った。
  • 夏四月、天策府の諸将に、勝手に屯所を離れてはならぬと命じた。
  • 五月丁卯朔、左散旗軍使の王承愕・承勲・承会が命に違ったが、帝はみな赦した。これ以後、禁令は行われなくなった。
  • 夏六月、二重の虹が福感寺の後堂に入り、光が廊や軒を貫き、しばらくして消えた。
  • 秋七月庚辰、応聖節に、堋口鎮将の王彦徽が羅真人の宮内で白亀を得て進上した。
  • 冬十二月、雄武節度使兼中書令の王宗朗が罪を得て官爵を削られ、姓名を全師朗に戻された。武定節度使兼中書令の桑弘志に討伐を命じた。
  • この年、乾徳通宝銭を鋳造した。竜躍池を宣華苑と改めた。

乾徳二年(920年)

  • 春正月戊辰、桑弘志が金州を落とし、全師朗を捕らえて成都に献じた。帝はこれを釈放した。
  • 三月、子城の西北に夾寨の堤を築き、水を引いて大内に入れ、御溝を東へ流して仁政楼から出した。
  • 夏六月、司徒兼門下侍郎・同平章事の周庠を同平章事のまま永平軍節度使に充てた。
  • 閏月庚申朔、高祖の原廟を万歳橋に立てた。帝は后妃・百官を率い、けがれた供物を用い鼓吹を鳴らして祭った。華陽尉の張士喬が上疏して非礼だと述べると、帝は怒って誅そうとしたが、太后が止めたので官を削って黎州に流した。士喬は水に投じて死んだ。
  • 乙卯、詔して北巡することとし、礼部尚書兼成都尹の韓昭を文思殿大学士とし、位を翰林承旨の上に置いた。昭は文学の素養がなく、佞りへつらいで寵を得てこの職に抜擢されたのである。
  • 秋八月戊辰、帝は成都を発ち、同平章事の王鍇に六軍諸衛事を判じさせた。帝は金の甲を着け珠の帽をかぶり、戈と矢を執って進んだ。旌旗と戈甲は百余里に連なって絶えず、百姓はこれを望んで灌口の妖神かと言った。后妃は昇仙橋で見送り、宮女二十人を随行させた。
  • 漢州に至ると西湖に滞在し、宮人と舟を浮かべ音楽を奏して終日宴飲した。雒県令の段融が「都を遠く離れるべきではなく、征討は大臣に委ねるべきです」と上言したが、従わなかった。
  • 九月、安遠城に宿営した。冬十月、帝は武定軍へ赴き、数日で安遠に戻った。
  • 十一月戊子朔、兼侍中の王宗儔を山南節度使・西北面都招討行営安撫使とし、天雄節度使・同平章事の王宗昱、永寧軍使の王宗晏、左神勇軍使の王宗信を三招討として副えた。兵を率いて岐を伐ち、故関を出て咸宜に陣し、良原に入った。
  • 丁酉、宗儔が隴州を攻めた。岐王は自ら一万五千を率いて汧陽に駐屯した。癸卯、裨将の陳彦威が散関を出て箭筈嶺で岐の兵を破ったが、我が兵は食糧が尽きて引き揚げた。宗昱は秦州、宗儔は上邽、宗晏と宗信は威武城に駐屯した。
  • 庚戌、帝は安遠城を発った。十二月庚申、利州に至った。閬州団練使の林思諤が来朝し、その治所への行幸を請い、許された。
  • 癸亥、江を下った。竜舟や彩色の舸が江面を照らし輝かせ、行く先々の供応に人々は堪えられなかった。壬申、閬州に至った。船頭たちはみな錦繡を着せられた。帝は自ら「水調銀漢の曲」を作り、楽工に歌わせた。
  • 州民の何康の娘が美しく、嫁ごうとしていたところ、帝はこれを奪い、婚家に絹百疋を与えた。夫は一度慟哭して死んだ。
  • 癸未、梓州に至った。
  • この年、南漢の主・劉巌が我と好を通じた。

乾徳三年(921年)

  • 春正月甲寅、帝は成都に還り、皇后の高氏を廃した。
  • 帝の荒淫は度を越えていた。二十輪の「流星輦」を作って駿馬に牽かせ、また蹴鞠を好み、錦の步障を引き回してその中で毬を打ち、しだいに街市にまで及んでも気づかなかった。
  • 常に名香を昼夜絶えず焚いたが、久しくして飽きると、皂角を焚いてその香りを乱した。絹を結んで山を作り、その上に宮殿や楼観を築いた。また前に二つの綵亭を立て、金銀の鍋や斧のたぐいを並べ、御厨の食材をそこで煮炊きさせ、帝は綵楼に凭れて眺め、「当面厨」と呼んだ。風雨で壊れれば新しく作り替えた。
  • 絹の山で飲み楽しめば十日も降りず、山の前に渠を掘って禁中に通じ、時には夜、舟で帰り、宮女千余人に蝋燭を持たせて照らさせ、水面は昼のようであった。
  • この月、井監使の馬全義が陵州の焰陽洞を再び開いた。
  • 夏五月、宣華苑の内に十里にわたって重光・太清・延昌・会真の殿、清和・迎仙の宮、降真・蓬萊・丹霞・怡神の亭、飛鸞の閣、瑞獣の門を造らせた。土木の工は奢侈と巧緻を極めた。帝は狎客や婦人とその中で戯れ、夜通し飲んだ。
  • 六月、大慈寺で避暑し、唐の明皇(玄宗)と僖宗の御容を拝観し、華厳閣で群臣を宴した。
  • 秋七月、帝は七夕に宮人とともに丹霞楼で乞巧を行った。

乾徳四年(922年)

  • 春二月、帝は文明殿に出御して制科の策を試みた。策文の趣旨は次の通り。漢は治を致すためまず賢良を策問し、唐は皇を思って茂異を求めた。邦国治乱の体を講じ、天人精祲の原を陳べさせたのは、虚文を競うためでなく碩徳を先んじたのである。朕は守器の重さを思い、君たるの難しさを知り、奇才を得て庶績を成そうと故事に倣って前修を継ぐ。子大夫らは道を抱いて時に逢い、書を投じて詔に応じた以上、必ず長策があって朕の期待に副うだろう。どうすれば三農が生を楽しみ、五兵を用いずにすみ、刑獄に冤がなく、賦斂を加えずにすむか。いかなる策で中原を定め、いかなる道で長く世を保てるか。朕は自ら覧るゆえ、面従してはならぬ、と。
  • 白衣の蒲禹卿の対策は率直で厳しく、執政はみな歯噛みして誅そうとしたが、帝はその言に益ありとして右補闕に抜擢した。
  • 三月、士民に大きな裁帽をかぶるよう命じた。蜀の人は富んで遊びを好み、風俗として小さな帽子を競ってかぶったが、帝は大帽を好んだのである。帝は酒場や妓楼にも至らぬところなく、筆を取って「王一来(王ここに来たる)」と書いた。人に見咎められるのを嫌い、それでこの令が出たのである。
  • 夏四月、軍使の王承綱の娘を奪った。承綱が返還を請うと、帝は怒って茂州に流した。承綱の娘は髪を切って父の罪を贖おうとしたが許されず、自殺した。
  • 秋七月、紅楼に肥遺が現れた。
  • 九月、帝は重陽の節に宣華苑で群臣を私宴し、夜半になっても終わらなかった。帝が韓琮の「柳枝辞」を唱い、内侍の宋光溥が胡曽の詩を詠じると、声調が悲しげであった。帝はこれを聞いて不興となり、宴を罷めた。
  • この年、五月から九月まで雨が降らず、林木はみな枯れ、千里が赤地となり、各地で盗賊が起こった。

乾徳五年(923年)

  • 春正月、雲南が江豬を進めた。
  • 三月、帝は上巳の節に怡神亭で宴し、自ら拍子板を執って「霓裳羽衣」を唱い、内臣の厳凝月らが競って「後庭花」「思越人」の曲を歌った。婦女が入り交じって座り、履物は乱れ、明け方まで酣飲した。
  • 夏四月、浣花渓に行幸した。竜舟と彩舫は十里にわたって連なり、百花潭から万里橋まで、遊ぶ士女の珠翠が両岸を埋めた。正午、暴風が起こり雷電で暗くなり、白い魚が躍り上がって蛟の形に変じ、空へ昇り去った。溺死者は数千人に及び、帝は恐れて宮に還った。
  • このころ帝は文思殿大学士の韓昭、内皇城使の潘在迎、武勇軍使の顧在珣を狎客として遊宴に侍らせ、艶歌を唱和し、卑俗で無礼な戯れを常としていた。また大内に村や市場を作らせ、宮嬪に青衫を着せ簾を掛けて食物を売らせ、男女が入り交じって取引する様を演じさせ、帝は妃嬪とこれを笑い楽しんだ。
  • また枢密使の宋光嗣らが国事を専断し、思うままに威虐をふるい、主の欲に迎合して国権を盗んだ。宰相の王鍇と庾伝素はそれぞれ寵禄を保つばかりで、正そうとする者はなかった。潘在迎は常に、諫める者は誅して謗らせぬようにと勧めた。
  • この月、晋王の李存勗が皇帝を称し、国号を唐とし、同光と改元した。
  • 秋七月、天富倉の米の中に、小蜂のようで尾が米粒のような虫が生じ、それを引きずって動いた。
  • 八月、嘉州司馬の劉贊が陳の後主の三閣図を献じた。帝は罪しなかったが、用いることもできなかった。
  • この月、帝は苑中で道籙を受け、杜光庭を伝真天師・崇真館大学士とした。上清宮を建てて王子晋の像を塑り、聖祖至道玉宸皇帝として尊び、また高祖と帝自身の像を左右に侍立させた。さらに正殿に玄元皇帝と唐の諸帝の像を塑り、法駕を備えて朝した。
  • 九月、詔して賢良方正・博通経史・明達吏治・識洞兵機・沈滞邱園の五科を置き、黄衣の選人と白衣の挙人に策を投じて試験を受けさせた。
  • 庚戌、重陽の節に近臣を宣華苑で宴した。酒が半ばに至ったとき、嘉王の宗寿が折を見て社稷の危うさを述べ、涙を流した。韓昭らはふざけ笑ってこれを紛らした。
  • 冬十月、韓昭を吏部侍郎・判三銓とした。昭は賄賂を受けて私を行い、選人は鼓院に赴いて鼓を打ち訴えた。また嘲りの句が作られた。「嘉・眉・邛・蜀は侍郎の骨肉、導江・青城は侍郎の親戚、果・閬の二州は侍郎の自留、巴・蓬・集・壁は侍郎も惜しまず」。帝がこれを聞いて召し問うと、昭は「これらはみな太后・太妃・国舅の縁者であって、臣の親族ではありません」と答え、帝は黙してしまった。
  • 彗星が輿鬼の星域に現れ、長さは一丈余りであった。司天監は「国に大災あり」と言い、詔して玉局化に道場を設けて天変に応えた。右補闕の張雲が「百姓の怨気が天に達したので彗星が現れた。これは亡国の兆で、祈祷で払えるものではない」と上疏した。帝は怒って雲を黎州に流し、雲は途上で死んだ。
  • この年、梁が滅んだ。

乾徳六年(924年)

  • 春正月、民が「危脳帽」をかぶることを禁じた。その形は狭くわずかに額を覆う程度で、うつむけば落ちるので、在位者は不祥として嫌う者が多かった。
  • 三月己亥朔、近臣を怡神亭に宴した。君臣は酣飲して喧噪をきわめ、知制誥の李亀正が強く諫めたが聞かれなかった。
  • 夏四月己巳朔、唐が客省使の李厳を遣わして聘問した。厳の朝見のときの笏記はおよそ次の通り。朱温が逆を行い、昭宗の運に及んで、三年西秦に痛ましく別れ、一朝にして東洛へ逼られ遷された。南北を誅残し宮闈を焼き、列藩はみな唐臣でありながら、その偽命に従わぬところはなかった。それゆえ大唐中興皇帝は、高祖・太宗の業がにわかに崩れたことを念い、朱温・崔胤の徒が簒弑を謀ったことに憤り、神機を発し、滄溟を竭くしても鯨鯢を戮すと誓い、林莽を刈って虎兕を除こうと決した。十年対塁し万陣に鋒を交え、久しく生霊を苦しめるのを慮って死士を選び挑ませ、汾水を過ぎるや王彦章を馬前に縛り、彝門に及んで朱友貞を楼上で斬った。剣はまだ鞘に収まらず槍の輝きも消えぬうちに、段凝は八万の雄師を率いて戈を倒して降り、趙巌は一人の運を知って首を伸べて誅を待った。かくて賊将は寒心し謀夫は手を拱き、乾坤を取るのに八日を労し、塗炭を救って四維を定めた。いま秦庭は表を貢し、両浙は臣を称し、淮南は帰附を陳べ、回紇は朝天の礼を備えた。宇宙が安んじ干戈が息み、なお梟兇を除く議が続いている。ところが大蜀皇帝は遠近を柔らかに懐け、安きに居て危きを慮り、我が帝祚の中興と群妖の掃滅を嘉して、特に蘇秦・張儀のごとき使者を遣わし、唐と蜀の誼を追われた。吾が皇はこれに深く感じ、遠く厚礼に酬いられた。自分は玄造を承け皇華の使を奉じ、天顔にまみえて恐れ入るばかりである、と。
  • 厳は後主と語って唐主の威徳を盛んに称し、天下を混一する志があると述べ、また朱氏が簒奪したとき諸侯に勤王した者はなかったと言った。王宗儔はその言葉が我を侵すものだとして斬るよう請うたが、帝は従わなかった。
  • 帝は枢密使の宋光嗣に酒宴を設けて厳を招き、中国の事情を尋ねさせた。厳は「一昨年、皇帝は鄴宮で大号を建て、鄆から汴へ向かい、旬日たたずに天下を定めた。梁の降兵はなお三十万。東は海に及び、西は甘涼を極め、北は幽陵を懾させ、南は閩嶺を越え、四方万里に臣従せぬものはない。淮南の楊氏は累世の強を承け、鳳翔の李公は先朝の旧を恃むが、いずれも子を入侍させ稽首して藩を称した。荊湖・呉越が貢賦を修め珍奇を献じ、列郡に比せられたいと願い出る者は日々絶えない。皇帝は徳をもって懐け威をもって震わせ、天下の勢いは一つにならざるをえない」と答えた。
  • 光嗣が「荊湖・呉越は私の知るところではないが、鳳翔は蜀の姻戚である。あの人物は反覆常なく、信じられようか。また契丹が日ごとに強盛だと聞く。大国も憂えぬわけにゆくまい」と言うと、厳は「契丹の強さは偽梁と比べてどうか」と問い返した。光嗣が「梁よりはやや劣る」と答えると、厳は「唐が梁を滅ぼしたのは朽ち木を折るようなものだった。まして及ばぬ相手なら言うまでもない。唐の兵は天下に布かれ、一鎮の衆を出せば旦夕に勝負を決せられる。天子が問題にしないのは、兵を窮め武を黷したくないからだ」と述べた。国人はこの応対を聞き、いよいよ厳を非凡と見た。
  • 宣徽北院使の宋光葆が「晋王には我が国を凌ごうという意がある。将を選び兵を練り辺境に屯戍し、糧を積み戦艦を整えて備えるべきです」と上言した。帝は光葆を梓州観察使・武徳軍節度留後に充てた。
  • 五月戊申、帝は李厳を帰した。
  • もと唐は厳の来訪に託して馬をもって珍玩や錦繡を買おうとした。しかし蜀の国法では錦綺や珍奇の品を中国へ出すことを禁じ、粗悪なものだけ交易を許して「入草物」と呼んでいた。厳が帰ってそれを報じると、唐主は怒り、「衍こそ入草の人(草に入る=落ちぶれ者)を免れまい」と言った。
  • 厳の滞在中、帝は厳とともに上清宮に参ったが、成都の士庶は簾や帷を掛け珠翠を飾って道を埋め尽くした。厳はその人物の富盛と君臣の驕りを見て取った。帰国後、「帝は実に幼稚で放埒、小人を近づけている。政を執る臣の王宗弼・宋光嗣らは諂諛し専恣で貪欲きわまりない。大兵がひとたび臨めば瓦解土崩、足を上げる間に落ちる」と述べた。唐主は深く同意し、両川攻略の計を固めた。
  • 秋七月、礼部尚書の許寂を中書侍郎・同平章事とした。
  • 八月戊辰、右定遠軍使の王宗鍔を招討馬歩使とし、二十一軍を率いて洋州に駐屯させた。乙亥、長直馬軍使の林思諤を昭武軍節度使として利州に駐屯させ、唐に備えた。己亥、唐が李彦稠を使者として遣わした。
  • 庚戌、前山南節度使兼中書令の王宗儔が、帝の失徳を憂え、王宗弼と密かに廃立を謀ったが果たせず、憂憤のうちに没した。宗弼は枢密使の宋光嗣、景潤澄らに「宗儔は私にお前たちを殺せと勧めていた。もう心配ない」と言い、光嗣らは平伏して泣いて謝した。宗弼の子の承班は「我が家は難を免れがたい」と言った。
  • 乙卯、前鎮江軍節度使の張武を峡路応援招討使とした。
  • 冬十月、左右竜武の四十軍を親軍として置き、驍勇一万二千を充て、兵器や下賜は他軍より厚くした。宣徽北院使の王承休を竜武軍馬歩都指揮使、裨将の安重覇を副とした。旧将で憤り恥じぬ者はなかった。
  • 十一月乙未、翰林学士・兵部侍郎の欧陽彬を唐国通好使とした。辛丑、李彦稠を東へ帰した。
  • 丙午、唐との修好により威武城の戍を罷め、関宏業ら二十四軍を成都に呼び戻した。戊申、また武定・武興の招討である劉潜ら三十七軍を罷めた。辛酉、天雄軍の招討を罷め、王承騫ら二十九軍を成都に還らせた。
  • 十二月乙丑朔、右僕射の張格を再び兼中書侍郎・同平章事とした。もと格が罪を得たとき、中書の吏である王魯柔が窮地に乗じて迫ったので、格は権を得ると杖で殺した。金州の屯戍を罷め、王承勲ら七軍を成都に還らせた。
  • 庚午、宦者の王承休を天雄軍節度使とし、魯国公に封じ、竜武軍をその牙兵とした。これより先、承休は「秦州には美女が多い」と言い、選んで献じたいと申し出ていたため、この任命があったのである。
  • 乙亥、前武徳節度使兼中書令の徐延瓊を京城内外馬歩都指揮使とした。延瓊は外戚として王宗弼に代わり旧将の上に立ったので、不平を抱く者が多かった。
  • 辛卯、翌年の元号を咸康と改めた。
  • この年、普王の宗仁を衛王、雅王の宗輅を豳王、褒王の宗紀を趙王、栄王の宗智を韓王、興王の宗沢を宋王、彭王の宗鼎を魯王、忠王の宗平を薛王、資王の宗特を莒王に移し、宗輅・宗智・宗平はいずれも軍使を罷めた。

咸康元年(925年)

  • 春正月甲午朔、朝賀を受けて大赦し、咸康元宝銭を鋳造した。
  • 三月、帝は永陵に詣でた。自ら夾巾を作り、あるいは錐のような尖った巾を裹き、民衆もみなこれを真似た。還って怡神亭で宴し、妃嬪はみな金の蓮花冠をかぶり道士の服を着た。酒がたけなわになると冠を脱ぎ、髷はざんばらとなり、さらに顔から額まで朱粉を厚く塗って「酔粧」と呼んだ。
  • 夏四月、帝は群臣を私宴した折、突然、杯を挙げて不機嫌に「北に後唐があり、南に蛮詔がある。朕は弔伐できない。それが憂いだ」と言った。特進の顧在珣が「朝廷には十臣がおります。陛下に何の憂いがありましょう」と答え、太子洗馬の林罕はそこで「十在文」を著して進めた。
  • 六月、詔して閏十二月を加えた暦を紙に印刷して施行した。もとの頒暦には閏月がなかったが、唐の暦が閏を置いているのを見て補ったのである。
  • 秋七月丙午、帝の応聖節に、得賢門の下に山棚を並べたところ、暴風で折れて地に落ちた。翌日、雷が応聖堂を震わせ、二本の柱が傾いた。
  • 九月、帝は太后・太妃を奉じて青城山に祈った。宮人はみな雲霞の衣を着た。帝は自ら「甘州曲」を作って宮人に歌わせたが、その詞は哀怨で、聞く者は悲しんだ。
  • さらに丈人観・玄都観・丹景山・金華宮・至徳寺を巡り、上清宮に朝して醮を設け福を祈り、高祖の塑像に詣でた。帝と太后・太妃はそれぞれ詞を作って石に刻んだ。
  • そのまま彭州の陽平山、漢州の三学山に至り、夕暮れに聖灯を観て詩を賦して還った。天苴駅でもそれぞれ詩を賦した。
  • 帝は毎年つねに子来山で狩りをしていたが、このときはさらに諸山をあまねく巡って楽しんだ。
  • 天雄節度使の王承休が帝の東遊を請うた。帝が秦州へ赴こうとすると、諫める群臣は非常に多く、王宗弼も上表して諫めたが、帝はその表を地に投げ捨てた。太后は涙を流して食を絶ち止めようとしたが、聞かれなかった。前秦州節度判官の蒲禹卿はおよそ二千言の疏で極諫したが、これも聞かれなかった。承休の妻の厳氏は非常な美人で、帝はこれと通じていたため、行くことに執着したのである。
  • 庚子、唐は魏王の李継岌を西川四面行営都統、郭崇韜を東北面行営都招討制置等使とし、李令徳・李紹琛・張筠・毛璋・董璋・李厳らを率いて六万の兵で侵入させ、さらに任圜と李愚を軍機に参与させた。
  • 冬十月庚申朔、百官を召して芳林園で縦梔花を賞した。この花は青城山に産し、花弁は六つに分かれ、紅と青が特に珍しい種であった。
  • 癸亥、帝は成都を発った。甲子、漢州に至った。武興節度使の王承捷が早馬で「東朝の興聖令公が兵を統べて西上している」と報じた。帝は群臣が謀り合わせて自分を妨げているのだと疑い、「私はまさに武を耀かそうとしているのだ」と大言して東へ進んだ。
  • 鴉の群れが旗竿にとまり、その鳴き声は甚だ哀しかった。また自ら張悪子廟に祈って籤を引くと「逆天者殃」の四字が出たが、帝は少しも意に介さなかった。
  • 道中、成都尹の韓昭、翰林学士の李浩弼、中書舎人の王仁裕と唱和して吟詠しない日はなかった。
  • 帝が梓潼に宿ると大風が屋根を飛ばした。太史は「この風は千里の外で国が破れ臣を称する者が出る兆し」と言ったが、帝は悟らなかった。
  • そのころ唐の排陣斬斫使・李紹琛は李厳とともに驍騎三千・歩兵一万を率いて前鋒となった。招討判官の陳乂が宝鶏に至って病と称し留まりたいと願うと、学士の李愚は「乂は利を見れば進み、難を恐れれば止まる。斬るべきだ」と大声で言った。これによって唐軍に躊躇する者はなくなった。
  • 丁丑、紹琛が威武城を侵し、指揮使の唐景思と城使の周彦禋が叛いて唐に降った。紹琛は威武の糧二十万斛を奪い、我が敗兵一万余を放って、道を倍して秦州へ向かった。
  • この日、郭崇韜は散関に至り、その山を指して「我らは進んで功なくば還ることはできぬ。今日こそ全力で決すべきだ。しかも兵糧の輸送は尽きかけている。まず鳳州を取り、その糧に拠るのが得策だ」と言った。諸将はみな「蜀の地は険固だから、兵を止めて隙を窺うべきだ」と言ったが、李愚は「蜀の人はその主の荒淫に苦しみ、用に立とうとしない。人心の崩れに乗じ、風のように駆け雷のように撃てば、彼らは自ら胆を破る。緩めてはならぬ」と述べた。折しも紹琛の勝報が届いたので、崇韜は兵を指揮して大挙前進した。
  • 戊寅、王承捷が鳳・興・文・扶の四州の印と節を持って叛き唐に降った。唐は兵八千と糧四十万斛を得た。崇韜は大いに喜び「蜀を平らげたも同然だ」と言い、都統の牒で承捷を武興軍節度使に充てた。
  • 己卯、帝は利州に至った。威武の敗兵が逃げ帰って、ようやく唐兵の来襲を信じた。王宗弼と宋光嗣は「東川と山南の兵力はなお健在です。陛下が大軍で利州を扼せば、唐人が孤軍で深入りできましょうか」と言い、帝はこれに従った。
  • 庚辰、随駕清道指揮使の王宗勲、王宗儼、兼侍中の王宗昱を三招討として迎撃させた。このとき随行の兵は綿・漢から深渡まで千里に連なっていたが、みな「竜武軍の糧餉は他軍の倍だ。他軍がどうして敵を防げようか」と憤った。
  • 紹琛らの兵が長挙を過ぎると、興州都指揮使の程奉璉が部下五百を率いて叛き唐に降り、あらかじめ橋と桟道を修めて待つと申し出た。これにより唐兵は険阻に妨げられずにすんだ。
  • 辛巳、興州刺史の王承鑒が城を捨てて逃げた。紹琛は興州を落とし、崇韜は唐景思に興州刺史を摂させた。乙酉、成州刺史の王承朴が城を捨てて逃げた。
  • 三招討は三泉で紹琛らと遭遇して大戦し、我が兵は敗れ、五千級を斬られた。唐は三泉の糧十五万斛を得て、軍食は十分となった。
  • 帝は宗勲らの敗報を聞き、利州から道を倍して西へ走り、桔柏津の浮橋を断ち、綿谷を経て還った。中書令・判六軍諸衛事の王宗弼を残して大軍で利州を守らせ、あわせて三招討の宗勲らを斬れという詔を下した。紹琛は昼夜兼行で利州へ向かった。
  • このとき武定留後の宋光葆が郭崇韜に書を送り、唐兵が境内に入らぬなら管下を挙げて内附する、約に従わぬなら城を背にして決戦し本朝に報いる、と申し出た。崇韜は撫して受け入れた。
  • 己丑、魏王の継岌が興州に至った。光葆は梓・綿・剣・竜・普の五州を、武定節度使の王承肇は洋・蓬・璧の三州を、山南節度使の王宗威は梁・開・通・渠・麟の五州を、階州刺史の王承岳は階州をもって、いずれも款を送って唐に降った。
  • 崇韜は宗弼らに書を送り利害を説いた。紹琛が利州に迫ると、宗弼は城を捨てて西へ帰り、白艻で三招討の宗勲らに追いつくと、詔書を取り出して示し、「宋光嗣が私にお前たちを殺せと命じた」と言った。そこで抱き合って泣き、共謀して継岌に降ることにした。
  • 十一月庚寅朔、丙申、帝は成都に至った。百官と後宮が七里亭に出迎え、帝は宮人に交じって回鶻隊を組んで入城した。丁酉、文明殿に出御して群臣と向かい合い涙を流したが、国難を救う一言も出なかった。
  • 戊戌、紹琛が利州に至り、桔柏の浮橋を修めた。昭武節度使の林思諤はすでに城を捨てて閬州へ逃れていた。
  • 甲辰、魏王の継岌が剣州に至った。武信節度使兼中書令の王宗寿が遂・合・渝・瀘・昌の五州をもって唐に降った。
  • 乙巳、宗弼は成都へ駆け戻り、太玄門に登って兵を厳しく構えて自衛した。帝と太后が労いに赴いたが、宗弼は驕慢で臣下の礼を失っていた。その夜、帝と太后・後宮・諸王を脅して西宮に移し、帝の璽綬を収め、別に人を遣わして内庫の金帛・器玩および諸王・節度使・宰相の邸内の宝物を取らせた。丙午、自ら権西川兵馬留後と称した。
  • 紹琛は進んで綿州に至ったが、倉庫も民家もすでに我が兵に焼かれ、綿江の浮橋も断たれて渡る舟もなかった。紹琛は李厳に「我らは孤軍で深入りしている以上、速戦こそ利だ。蜀人が胆を潰している今、百騎でも鹿頭関を越えれば、彼らは降を迎える暇もない。橋の修繕を待てば数日は滞る。誰かが王衍に近い関を固く閉じさせて我が兵勢を挫けば、十日も延びて勝敗は測りがたくなる」と言った。そこで厳とともに馬に乗って泳ぎ渡り、鹿頭関に入った。
  • 丁未、進んで漢州を占拠した。三日いてようやく後軍が到着した。宗弼は使者を送って幣・馬・牛・酒で軍を労い、あわせて帝の自筆の書で李厳を招いて「公が来られれば私はただちに降る」と伝えた。「公は蜀征伐の策を最初に建てた人だ。成都へ行けば禍は測りがたい」と言う者もあったが、厳は聞かず、欣然と京城へ駆け入って吏民を撫し諭し、大軍が続いて至ると告げた。
  • 戊申、唐主の勅を宣べた。その趣旨は次の通り。朕は蜀部の封疆がもと我が唐の領土だと思う。兵革以来、江山に隔てられ、偽梁が簒弑したとき宗廟が震驚する難を招き、割拠が生じて安きに就いた。号を建てる謀を行ったのも権に従う道であった。まして蜀主の亡父はもと本朝の旧臣で、常に忠孝の心を抱き、興隆の運を待ち、恢復を期して尽力した。朕は寇讐を殄ぼし社稷を興したばかりで、撫諭の恩は広く憂勤の意は深い。綏和に務め混一を諧えるべく、元子に命じ宰臣を兼ね遣わした。遠く安んじて君を待つ心は、王に来る願いと合う。王師の行李がすでに彼の地に及び城池が遠くから降ったと想う。詔書を明らかに示し諭す。その素志は必ず夙心に契うであろう。魚水の歓に符し、永く山河の誓いを保つがよい。偽蜀の文武官僚らは、本朝の旧族か当代の英賢、あるいは軍戎に節を守り郷曲に名を著した者である。久しく隔たっていたことを常に心にかけてきた。顧みる恩を知り、それぞれ誠を尽くす節に励め。今、勅を降して諸道の兵帥に戒め約す。西川が果断に帰降するなら、城に到っても驚かし擾してはならぬ。ただ順に効うことを思い、疑いを抱くな、と。
  • 帝は厳を引いて太后に会わせ、母と妻を託した。宗弼はなお城に登って守備していたが、厳はすべて楼櫓を撤去させた。
  • 己酉、魏王の継岌が綿州に至った。帝は翰林学士の李昊に降表を起草させた。また中書侍郎・同平章事の王鍇に降書を起草させた。その趣旨は、先人が坤維に職を受けて唐室の藩となり、土宇を開いて四十年、梁の孽が災いを起こし皇綱が解けたとき、逆に助力できずやむなく権に従い、輿情に迫られて三蜀に王たるにとどまった。臣が継承してからは怠らず、土地を保って民を安んじてきた。皇帝陛下は唐虞の業を継ぎ湯武の師を興し、中区を定め服さぬ者を征し、梯航は集まり文軌は大同した。臣がまさに図を改め款を納れようとした矢先に討伐を聞き、驚き恐れた。今、千里の封疆を委ねてことごとく王土に帰し、万家の臣妾がみな皇恩に浴することを願う。棺を輿して帰し、荊を負って罪を請う。日月の照らしを及ぼし、斧鉞の誅を特に寛くされたい。徳音を待って反側する者を安んじたい、というものであった。これを兵部侍郎の欧陽彬に奉じさせ、魏王の継岌と都招討の崇韜を迎えさせた。
  • 宗弼は「我が国の君臣は久しく帰命を願っていたが、内枢密使の宋光嗣、景潤澄、宣徽使の李周輅、欧陽晃が少主を惑わしたのだ」と称して、いずれも斬り、首を函に入れて魏王の軍前に送った。また文思殿大学士・礼部尚書・成都尹の韓昭を佞諛の罪で責め、金馬坊門に梟首した。
  • 内外馬歩指揮使の徐延瓊、果州団練使の潘在迎、嘉州刺史の顧在珣ら貴戚の多くは恐れおののき、家財と伎妾を傾けて宗弼に賄い、死を免れた。
  • 辛亥、魏王が徳陽に至った。宗弼は使者を送って牋を奉じ、すでに少主を西第に移し、軍城を安撫して王師を待っていると伝えた。また子の承班に宮人と珍宝を載せて魏王の継岌と崇韜に献じさせ、節鎮を求めた。継岌はその物を留め、承班は帰した。
  • このとき李紹琛は漢州に八日留まって都統を待った。甲寅、継岌が漢州に至り、宗弼が出迎えた。乙卯、成都に至った。
  • 丙辰、李厳が帝と百官・儀衛を導いて昇遷橋で降伏させた。帝は白衣で璧を銜え羊を牽き、草縄を首に巻いた。百官の王鍇らは喪服で裸足となり、棺を輿して号泣し命を待った。継岌は璧を受け、崇韜は縄を解き棺を焼き、制を承けて罪を赦した。君臣は東北に向かって拝謝した。
  • 丁巳、唐の大軍が入城した。継岌は東内に居り、崇韜は天策府に止まった。崇韜は軍士の略奪を禁じ、市は店を閉じることもなかった。
  • 唐が兵を挙げてからここまで七十日であった。得たものは節度十、州六十四、県二百四十九、兵三万で、鎧・武器・銭糧・金銀・繒錦は千万を数えた。
  • また継岌は苑中の馬を選んで二十余匹を得た。麝香騟、錦耳驄、駱十二、趁日驄、偏界王、陥氷騟、長命騮、孫児驄、籠菘白、八百哥、掠地雲、錦地竜、雪面娘、月影三、玉尾騟、撒沙騮、天花落、旋風白、窣地嬌、六尺金、銜蟬奴という。もと帝は数百頭の馬を持ち、いずれも上等の馬であったが、その中でもとりわけ足の速いものを選んだのである。
  • また南詔の俘虜の蛮人数十人と、かつて南詔に使いした旧唐の判官・徐藹を得た。魏王は藹に金帛を持たせて南詔を招撫させ、俘虜をすべて返し、威徳を諭した。
  • 十二月己巳、崇韜は継岌に申し出て王宗弼・宗勲・宗渥を捕らえて斬り、あわせて宗弼の子で駙馬都尉の承班を殺した。榜には「前記の者らは擅に本主を廃し、内臣を専殺し、密かに財貨を奪って自分のものとした。城邑を収降して以来、三軍に犒賞もしていない。いずれも元凶であり、公に誅すべきである」と掲げた。
  • 閏十二月丁酉、唐主は詔して、我が国の任じた官のうち四品以上は等級に応じて降し、五品以下はすべて田里に帰らせた。
  • また詔して帝を慰め、「必ず土地を裂いて王とする。険しきによって人を薄遇はしない。三辰が上にあり、一言も欺かぬ」と述べた。帝は詔を捧げて欣然と「安楽公にはなれる」と言った。

唐同光三年(925年)以後 — 王氏の最期

  • 唐の同光三年(925年)春正月戊午朔、前戎州刺史の蕭懐武と眉州刺史の鮮于皋が兵を挙げて誅された。
  • 庚申、魏王は李継曮と李厳に命じて、帝とその宗族、および宰相の王鍇・張格・庾伝素・許寂、翰林学士の李昊ら、さらに将佐の家族数千人を東へ護送させた。
  • 三月乙巳、帝は長安に至った。唐の荘宗は詔してそこに留めた。
  • この月、伶人の景進が荘宗に「魏王はまだ到着せず、康延孝が乱を起こしています。王氏の族党は少なくなく、車駕が東征すると聞けば急変を起こすかもしれません。除いてはいかがか」と言った。荘宗は中使の向延嗣に勅を持たせて帝を害させた。勅には「王衍の一行はすべて殺戮せよ」とあり、すでに印が押されていた。枢密使の張居翰がこれを検め、殿の柱に当てて「行」の字を削り「家」の字に改めた。これによって百官および王氏の僕役で助かった者は千余人に上った。
  • 夏四月丁亥朔、己丑、延嗣が長安に至り、帝とその宗族を秦川駅で殺し、蜀中の珍宝をすべて奪った。帝は時に二十八歳であった。
  • 六月、百官が洛陽に至り、平章事の王鍇らはみな諸州府の刺史・少尹・判官・司馬に量って任じられた。ただ永平節度使の馬全だけは食を絶って死んだ。
  • 天成三年(928年)、王宗寿が唐の明宗に上書して王氏一族の遺骸を葬りたいと願った。明宗はその忠を嘉し、後主を順正公に封じ、諸侯の礼で長安の南の三趙村に葬ることを許した。
  • はじめ高祖が後主を嗣子に立てたとき、仏寺に銅鐘を鋳させ、部下に「私がこの鐘を作ったのは太子のためだ。その音が遠く響けば、東宮の将来の慶事となろう」と言った。ところが八日後、鐘は落ちて竜の頭部が砕けた。後主は果たして八年で滅んだ。
  • 高祖は唐の大順二年(891年)に成都に入って西川節度使となり、天復七年(907年)九月に号を建て、翌年に改元した。後主は咸康元年(925年)に国が滅び、父子二代、合わせて三十五年であった。

史論

  • 論に曰く。私は前蜀後主の紀を作って、興亡の際に深く感じるところがあった。
  • そもそも荘宗は司馬昭に比べられる人物ではなく、継岌や崇韜も鍾会・鄧艾の仲間ではない。しかもこのとき唐はようやく天下の半ばを得たにすぎず、強藩は割拠して経略の余裕もなかった。もし後主が政事に励み、隣国と親睦し、財貨を与え情誼を結んでいれば、なお国祚を延ばし、真の主を待つこともできたはずである。
  • それなのに、宦官が外朝で権を握り、母后が閨内で政を左右し、山川に遊び回り、郡国で淫を恣にした。ついに秦川の変に遭い、罪なくして命を落とした。古来、蜀の滅亡のうちで、王氏ほど禍の惨烈なものはなかった。哀しまずにいられようか。