十国春秋十國春秋卷三十六 前蜀二 高祖本紀下(王建)
前蜀を建てた高祖王建(?–918年)の、即位後から崩御までを記す。武成と改元して郊祀を行い、梁とは兄弟の国として誼を通じつつ、岐の李茂貞と長く争って秦・鳳・階・成の四州を得た。一方で養子の王宗佶を撲殺し、太子元膺の乱で嫡子を失い、劉知俊を疑って斬るなど猜疑が絶えなかった。晩年は病篤く、幼い宗衍を託して没し、宦者宋光嗣の登用によって宦官が政に関わる端を開いた。
年表(21件)
- 武成元年908年天地を郊祀し、境内に大赦して武成と改元する
- 武成元年908年驕慢な養子の王宗佶を撲殺し、遂王宗懿を皇太子に立てる
- 武成二年909年皇太子に六軍を判じさせ、天武神機営を新設して永和府を開く
- 武成三年910年皇太子と不和になった唐道襲を山南西道節度使として外に出す
- 武成三年910年詔を下して農桑を勧め、郡守・県令に民を安んずるよう命じる
- 永平元年911年普慈公主を里帰りさせて留め、岐と絶交する
- 永平元年911年王宗侃ら十三万で岐を伐ち、安遠軍の囲みを解いて岐兵を大破する
- 永平二年912年梁の盧玭らの聘問を受け、兄弟の国として旧好を結び直す
- 永平二年912年什邡で出た銅牌の文に合わせ、皇太子の名を元膺と改める
- 永平三年913年皇太子元膺が唐道襲を斬るが敗れて殺され、庶人に追廃される
- 永平三年913年鄭王の宗衍を皇太子に立てる
- 永平四年914年長和の鄭仁旻の黎州侵入を撃ち、大渡河で数万を俘斬する
- 永平五年915年宮中の火災で百尺楼に貯えた宝貨がことごとく焼失する
- 永平五年915年秦・鳳・階・成の四州を得て大赦し、翌年の元号を通正と定める
- 通正元年916年新宮が完成し、王宗綰・劉知俊らが鳳翔を囲む
- 通正元年916年大赦して天漢と改元し、国号を大漢と改める
- 天漢元年917年唐文扆・張格の讒により毛文錫を茂州司馬に貶める
- 天漢元年917年劉知俊に謀叛の罪を着せて炭市で斬り、光天と改元する
- 光天元年918年大赦して国号を蜀に戻す
- 光天元年918年唐文扆を流し、宋光嗣・王宗弼らに遺詔を受けて輔政させる
- 光天元年918年崩ずる。在位十二年、七十二歳、廟号は高祖
武成元年(908年)
- 春正月癸酉朔、帝は興義楼に登った。ある僧が片目をえぐり出して献じたので、帝は僧一万人に食を施して報いようとした。学士の張格が「小人がゆえなく自らを傷つけたのだから、罪を赦すだけでも幸いです。さらに顕彰すれば風俗を損ないます」と言い、帝は取りやめた。
- 丁丑、韋荘を門下侍郎・同平章事とした。辛巳、天地を郊祀し、壬午、境内に大赦して武成と改元した。
- 二月甲辰、張格を中書侍郎・同平章事とした。帝は「権勢に頼らず、私を行わず、ただ至公を守るのが宰相の務めだ」と諭したが、格は宰相となると帝の意に迎合し、自分より優れた者は計略で排除した。
- 王宗佶を太師として政事から退けた。宗佶は帝の養子のうち最年長で、功を恃んで驕り、党友を多く作ったので、帝は内心これを憎み、罷免したのである。
- 甲子、我が兵が帰州に入り、梁の刺史・張瑭を捕らえた。
- 三月癸巳、宗佶は宰相を罷めて怨望し、密かに死士を養って乱を企てた。そして上表し、「臣は官は大臣に列し、親族としては長子である。国家の休戚は同じくする。いま儲君が定まらねば必ず禍の端が生じる。陛下が宗懿に継承の才ありとされるなら早く冊立し、臣を元帥として六軍を総べさせるべきである。時が困難で宗懿が幼いというなら、臣が謙譲して重任を辞退することはできない。陛下は南面の位にあるのだから、軍旅の事は臣下に委ね、臣に元帥府を開き六軍の印を鋳させ、征戍徴発を専行させていただきたい。太子は朝夕の膳を看、臣は環衛の兵を握る。万世の基業を陛下がお決めください」と述べた。
- 帝は堪えて動かなかったが、唐道襲の言葉が帝の怒りを煽った。己亥、宗佶が拝謁したとき言葉つきも顔色も傲慢であった。帝が二度諭しても退かないので、衛士に叱して撲殺させた。その一党である御史中丞の鄭騫を維州司戸、衛尉少卿の李綱を汶川尉に貶め、いずれも道中で死を賜った。
- 夏五月、将を遣わして岐の兵五万と合し、梁の雍州を攻めた。晋の張承業も兵を率いて応じた。六月丙辰、梁の将・劉知俊と佑国節度使の王重師が幕谷で岐の兵を大破し、我が兵も晋の兵も引き揚げた。
- この月、遂王の宗懿を皇太子に立てた。群臣は帝に英武聖皇帝の尊号を奉った。灌州が武部郎中の張道古の死を報じた。
- 秋七月、武定に騶虞が現れた。八月丙子、皇后に周氏を冊立した。
- 冬十月、後宮の張氏を貴妃、徐氏を賢妃、その妹を徳妃とした。庚戌、星宿山で講武し、歩騎三十万を集めた。
- この年、帝は誕生日を寿春節とした。僧たちは辟支仏の牙を進め、道士は武成混元図を献じた。
- 詔して梓潼県に百神廟を再建した。もと唐の大将軍・呉行魯が路傍に百神の廟を置いたが、のち焼失した。帝が即位後、神が大いに祠を求める夢を見たので、この命があった。
武成二年(909年)
- 秋七月、梁の平淮指揮使・李洪が自ら襄州留後を称して我に帰属し、房州刺史の楊虔も城を挙げて帰属した。
- 八月、皇太子の宗懿に六軍を判じさせ、天武神機営を新設し、永和府を開き、朝士から精選して僚属とした。辛酉、梁の均州刺史・張敬方が我が房州を落とした。王鍇を中書侍郎・同平章事とした。
- 九月丁酉、梁の将・陳暉が襄州城を陥れ、我に降っていた将の李洪と楊虔を捕らえて洛陽へ送り殺した。
- 冬十月甲子、司天監の胡秀林が『永昌暦』を献じ、詔して施行した。
- 十二月、蜀州刺史の王宗弁が病と称して罷め帰り、門を閉ざして出なかった。
- この年、広都で嘉禾が穂を合わせた。昌明県の道士・李懐杲が乱を謀り誅された。
武成三年(910年)
- 春三月、皇太子と内枢密使の唐道襲が不和となり、互いに帝へ訴えた。帝は関係の悪化を恐れ、道襲を山南西道節度使・同平章事とした。
- 道襲は宣徽北院使の鄧頊を内枢密使に推した。頊は任命の日、道襲の兄弟が内庫の金帛を盗用したことを調べようとした。道襲は恐れて「頊は狭量で急であり大任に堪えない」と奏し、丙午、頊を果州刺史として外に出し、宣徽南院使の潘炕を内枢密使とした。
- 夏五月、岐王の李茂貞が巴・剣の二州を求めた。帝は「私は茂貞にずいぶん尽くしてきた。しかし土地を与えるのは民を捨てることだ」と言い、絹・茶・布帛七万を与えた。
- 六月、詔を下して農桑を勧めた。その趣旨は、昔、劉先主が蜀に入ったとき諸葛武侯は関を閉じて民を養い十年ののち挙兵し関内を震わせた、朕はつたない身で人の上に居り、民が久しく戦乱に苦しんで農桑に力を尽くす暇がないのを思う、いま国はしだいに安らいで民は休息できる、郡守・県令は恵み安んずることに努め、侵さず擾さず、我が赤子が田畑を楽しみ豳風「七月」の詠を得られるようにせよ、というものであった。
- 六月癸亥、漢州刺史の孟彦暉が、径一寸の金亀が西湖の蓮葉の上に遊んだと奏し、図に描いて報告した。
- 秋七月、門下侍郎兼吏部尚書・同平章事の韋荘が没した。
- 八月、洵陽の水中に牛・馬・驢・羊のような形の竜が五十現れ、漢江に入った。五色が入りまじっていたという。
- 冬十月、壁州に麒麟が現れた。
- 十一月、皇太子の宗懿の名を元坦と改めた。庚戌、甥の宗鐬を昌王、一族の子の宗寿を嘉王、養子の宗範を夔王、宗翰を集王に封じた。皇子では宗仁を普王、宗輅を雅王、宗紀を褒王、宗智を栄王、宗沢を興王、宗鼎を彭王、宗傑を信王、宗衍を鄭王とし、一族の子の宗裕を通王に追封した。
- 十二月庚午、御史中丞の周庠と戸部侍郎判度支の庾伝素を中書侍郎・同平章事とした。辛巳、大赦して翌年の元号を永平と改めた。
- この年、淯井を檄して土刺史の羅元楚に監務を厳しくさせた。
永平元年(911年)
- 春正月丙戌朔、日食があった。
- はじめ帝の娘の普慈公主は岐王の甥で秦州節度使の李継崇に嫁いでいたが、宦者の宋光嗣を遣わして絹に書いた手紙で「継崇は驕り高ぶり酒を好み、酔って賢良を害し、民心は乱を思っています。帰って親に侍り、危うい国で死を免れたい」と伝えてきた。帝はすぐに公主を里帰りさせ、辛亥に成都へ着くと留めて帰さなかった。ここで初めて岐と絶交した。
- 三月、岐王が兵を集めて東の辺境に迫った。帝は群臣に「茂貞が朱温に苦しめられて以来、私はその窮乏を助けてきた。それが恩に背いて寇となった。誰が私のために撃つか」と言った。兼中書令の王宗侃が行きたいと請うた。
- 帝は宗侃を北路行営都統とし、兼侍中の王宗祐、太子少師の王宗賀、山南節度使の唐道襲を三招討使、左金吾大将軍の王宗紹を宗祐の副として、歩騎十三万を率いて岐を伐たせた。壬辰、宗侃らは成都を発ち、旌旗は数百里に連なった。
- 夏四月乙卯朔、岐の兵が興元を侵したが、唐道襲が撃退した。
- 五月、帝は利州へ赴き、皇太子に監国させた。六月癸丑朔、利州に至り、諸将は岐の兵をたびたび破った。
- 秋七月、帝は西へ還り、御営使の昌王・宗鐬を利州に駐屯させた。八月庚申朔、帝は成都に着いた。
- 甲子、岐王は劉知俊と李継崇に兵を率いさせ我を撃たせた。乙亥、王宗侃・王宗賀・唐道襲・王宗紹が青泥嶺で戦い、我が軍は敗れた。馬歩使の王宗浩は興州へ逃れる途中、江に溺れて死に、道襲は興元へ逃れた。
- これより先、歩軍都指揮使の王宗綰が西県に城を築いて安遠軍と号していた。ここに至って宗侃・宗賀らは散兵を収めてその地に走り込んで守った。知俊と継崇は追ってこれを囲んだ。
- 興元を捨てるべきだという議が出たが、道襲は「興元がなければ安遠もなく、利州は敵地となる。私は死んでも守る」と言った。
- 帝は昌王の宗鐬を応援招討使、定戎団練使の王宗播を四招討馬歩都指揮使として安遠軍を救わせた。廉・譲の間に陣を構え、唐道襲と合わせて岐の兵を撃ち、明珠曲で大破した。翌日また鳧口で戦い、その成州刺史・李彦琛を斬った。
- 九月、柳堤を築いた。冬十月、帝は宗侃らを援けるため利州へ赴き、皇太子に監国させた。決雲軍虞候の王琮が岐の兵を破って将の李彦太を捕らえ、三千五百級を俘斬した。乙卯、捉生将の彭君集が岐の二寨を破り三千級を俘斬した。
- 王宗侃は裨将の林思諤を遣わし、中巴のあたりを間道伝いに泥渓まで来させて帝に急を告げた。帝は開道都指揮使の王宗弼に兵を率いて安遠を救わせ、斜谷で劉知俊と戦って破った。
- 十一月、太保・中書令の周徳権が没した。壬辰、王宗弼が金牛で岐の兵を破り、十六寨を抜いて六千余級を俘斬し、将の郭存らを捕らえた。丙申、昌王・宗鐬と王宗播が黄牛川で岐の兵を破り、将の蘇厚らを捕らえた。
- 丁酉、帝は利州から興元へ移った。援軍が集まると、安遠軍はその旗を望み、宗侃らは鬨をあげて出撃し、援兵と挟み撃ちにして岐の兵を大破し、二十一寨を抜いて将の李延志らを斬った。己亥、岐の兵は囲みを解いて逃げ去った。唐道襲があらかじめ斜谷に兵を伏せて迎え撃ち、またこれを破った。
- 庚子、帝は西へ還り、十二月丁巳、成都に至った。群臣は英武睿聖光孝皇帝の尊号を加え、皇后には昭聖皇后の尊号を加えた。
- この年、新しい宮の造営を始めた。四部の書を集めさせ、名儒を選んで専任させた。内枢密使の潘炕を武泰軍節度使とし、炕の従弟で宣徽南院使の潘峭を内枢密使とした。永平元宝銭を鋳造した。
永平二年(912年)
- 春正月、群臣がさらに英武睿聖神功文徳光孝皇帝の尊号を加えた。漢の張魯を扶義公、諸葛亮を安国公に封じた。
- 二月(日付欠)朔、帝は龍華禅院に行幸し、僧の貫休を召して座を賜り、茶・薬・綵段を賜った。
- 丁巳、梁が光禄卿の盧玭と閣門副使・少府少監の李元を遣わして聘問した。梁は帝を兄として立て、書にはおよそ次のように述べた。唐虞は禅譲によって治を致し、殷周は人と神の願いに応じて基を開いた。神器を承けるのは天命と人心に関わる。皇帝八兄と自分とは前朝でともに異姓に封ぜられ、将相の尊を超え、久しく兄弟の契りを結んでいたが、間諜のせいで音信が絶えた。土徳が衰えて金行の運が応じ、自分は多難をほぼ平らげ、瑞祥のもとに帝位に就き、都を河洛に置いた。皇帝八兄が西陲を領有し三蜀を統べ別に位号を尊んだと聞き、両国が誼を通じ、曹・劉の故事や楚・漢の前例にならい、それぞれ君臣を有し疆域を分かって、ともに華夏を清め生霊を活かしたい。昨年、岐隴の猖狂が褒斜の境を脅かしていると聞き、牽制のため永平軍節度使の劉鄩に委ね、使者を先に遣わして意を伝え、精兵を差し向けて妖巣を撃たせたところ、敵は退いて滅亡に近づいた。犄角の謀は成り、輔車の利を得た。近ごろ同州・華州の奏報を見て事情をよく理解した。改めて金石の交わりを論じ、塤篪の分を定め、山河とともに永く、日月とともに長くあらんことを望む、と。
- この月、尚食使の欧陽柔が田令孜の旧邸を修理して地を掘り、玉璽を得て献じた。その文は「有徳承天 其祚永昌」であった。もと令孜が唐の国宝を盗んで蜀に来て埋めたものが、ここで柔に見つかったのである。
- 三月、詔して中書侍郎・同平章事の張格に開国以来の実録を編纂させた。
- 夏四月、維州の羌・董琢が反したので、保鑾軍使の趙綽を遣わして討ち平らげた。
- 五月、剣州で木が連理となった。丙寅、門下侍郎・同平章事の王鍇を罷めて兵部尚書とした。己丑、境内に大赦した。
- 六月、文州に麒麟が現れた。梁の使者の盧玭らを汴へ返し、帝は梁王への返書でおよそ次のように述べた。かつて皇帝とともに昌運に遇い前朝に仕え、ともに恩顧を受け安危を託された。王室が焼け崩れ大事は取り返しがつかず、乱が八方に及び宗廟も衰えた。そのとき皇帝とともに封土を分かち邦家を統べたが、危うきを扶ける力は及ばず、兵を握っても策がなかった。自分は同盟の分に列し、幸いにも蜀を平らげる功を得た。兵甲を治めて封疆を固め、租賦を集めて進貢を修めるべく、皇使を待ったが年を越えても来ず、都へ向かう道も期し難かった。遠く、皇帝が天に応じ人に順って基を開き、生霊を塗炭から救い、恩信を及ぼしたと聞いた。東南の王気は河洛に帰し、瑞祥はことごとく至り、四門は開かれ百度は正しい。自分は国を興す意図はなく、ただ仁を施して物を済うのみであった。分限を内に量れば天下経綸の器ではないが、七十州は指揮するに足り、八千里の半ばは自ら開拓したもので、万民の議が一致し八国が来朝した。史冊の文にも変通の説はある。東漢の乱後に三国がともに興り、西州の弱かった時に六雄が競い起こったのも、いずれも強を恃んで禅を迫ったのではなく、道を行い時を済ったものである。まして西蜀は山を開いた国、桟道を焼く謀もあり、一隅にありながら雄を称し、二帝を安んじた例もある。鼎峙の規模はなお存し、山呼の気象も残っている。梁と蜀の誼を永く言い、兄弟の国と認めたい。いま皇上が旧好を尋ね嘉音を降されたことで、間諜の疑いは去り、始終の約を改めて述べる。疑いは春の氷のように解け、通じれば東海にも帰せよう。栄光は子孫に及び、朝野に行き渡ろう。今は身を励まし勤倹をもって賢者を率い、風に草の靡くさまを望んで天の道を継ぎたい。厚い賜り物、十匹の駿馬、珍奇の品々を得た。宝帯は異方の貢、名香は遠国の珍、鋭い刃は雪霜より鋭く、雅器は金玉に価する。専使の盧卿らを帰し、志のあらましを述べる、と。
- この月、梁主の朱晃が子の友珪に弑された。
- 秋八月、漢州什邡県で古い銅牌が一つ見つかった。「王建」「王元膺」以下六十二字が刻まれていた。県民の郭逈がこれを持って献じた。帝は什邡県を通計県と改め、太子の元坦の名を元膺、字を昌美と改めた。銅牌の「膺」「昌」の文に合わせたのである。識者は「膺は胸であり、胸は凶に通じる。吉兆ではない」と言った。
- 帝は元膺が年少なので、学士に文を作らせて戒めた。その趣旨は次の通り。自分は三尺の剣を提げて家を国とし、自ら訴訟を裁いて冤罪をなくし、恭倹畏慎・勤労慈恵で、私情に流れた事も物を傷つけた言もない。だから百官吏民は朕を父母のように愛し天地のように敬う。お前は襁褓の頃から富貴で創業の艱難を知らない。名を改めたのは図讖に応じたものである。驕らず矜らず、満ちず忌まず、ただ敬み、戒め、謙り、和せ。内は九族と睦み、外は百姓を安んじ、赤心で群臣に接し、恩信で士卒を愛せ。刑罰は人の命に関わる、愛憎に従うな。奸邪は国の賊である、讒言を信じるな。狩猟の楽しみを絶ち、声色の禍を察せよ。そうしてこそ社稷を保ち民臣に君たりうる。朝夕の戒めを忘れぬよう、机上に置いて出入りのたびに読め、と。
- 九月辛巳、剣南東川を武徳軍と改めた。
- 十二月、富義江に黄竜が現れ、また大昌池にも現れた。戊寅、行営都指揮使の王宗汾が岐の文州を攻め落とし、守将の李継夔が逃げた。
- このとき雲安監を昇格して安州とし、詔して『正象暦』を施行した。
永平三年(913年)
- 春正月、永泰に麒麟が現れた。二月壬午、大赦した。
- 丙申、唐道襲が興元から戻り、再び枢密使となった。皇太子の元膺が朝廷でその悪事を並べ、機要を再び任せるべきでないと述べた。帝は不快とした。庚子、道襲を太子少保とした。
- この月、梁では朱友珪が誅され、均王の友貞が大梁で立ち、名を瑱と改めた。
- 夏四月、兵部尚書の王鍇を中書侍郎・同平章事とした。将作監の李紘を梁へ遣わして弔問させた。印文は「大蜀入梁之印」であった。
- 五月、壁山に騶虞が現れ、二頭の鹿が従っていた。この月、天狗が成都に墜ちた。鶏鳴の時、雷のような音がして電光が数丈流れ、明滅した。占いは「その下で万人が殺される」と出た。
- 六月丙子、道士の杜光庭を金紫光禄大夫・左諫議大夫とし、蔡国公に封じ、広成先生の号を進めた。
- 秋七月丙午、皇太子の元膺が諸王・大臣を招いて宴を開いたが、集王の宗翰、内枢密使の潘峭、翰林学士承旨の毛文錫が来なかった。丁未、太子が帝に告げると、帝は峭と文錫を退け、前武泰節度使兼侍中の潘炕を内枢密使とした。
- ちょうどそのとき唐道襲が、太子が乱を起こそうとしていると誣告し、兵を徴発して宿衛に入れた。太子は徐瑶・常謙らを率いて清風楼の下で道襲を攻め、城西まで追って斬った。
- 帝は兼中書令の王宗侃・王宗賀、前利州団練使の王宗魯を召して兵を発し乱を討たせ、西毬場門に陣を敷いた。兼侍中の王宗黯は大安門から梯子で城に入り、瑶・謙と会同殿の前で戦った。瑶は敗れて死んだ。
- 己酉、太子は衛士に殺された。詔して太子の元膺を追廃して庶人とした。庚戌、唐道襲に太師を贈り、忠壮と諡した。改めて潘峭を内枢密使とした。
- 冬十月、潘炕が太子を立てるよう請うた。賢妃の徐氏と飛竜使の唐文扆、宰相の張格が合意して鄭王の宗衍を立てることにし、甲午、宗衍を皇太子とした。冊立が済むと、潘炕は朝廷に事なしとして病と称し辞職を願い、許された。国に大きな疑事があれば使者を遣わして諮ることとした。
- この年、邛州の江に白竜が現れた。また犀浦県の田の中に青黒色の小竜が一匹いて、二つに割かれたが、まもなく姿を消した。
永平四年(914年)
- 春正月丙子、皇太子に六軍を判じさせ、崇勲府を開き僚属を置いた。のち天策府と改称した。
- 荊南の兵が夔州を侵し、刺史の王成先が撃退した。当時、鎮江節度使の嘉王・宗寿が中州に鎮していたが、成先が甲冑を求めても白布の袍しか与えなかった。成先はそれを率いて迎え撃った。渤海王の高季昌が火舟を放って浮橋を焼こうとすると、招討副使の張武が鉄綱を張って阻み、舟は進めなかった。折から風向きが変わり、荊南の兵は多数溺死し、渤海王は小舟で逃れた。成先は密かに人を遣わして甲を与えられなかった事情を奏したが、宗寿はその使者を捕らえ、成先を召して斬った。
- 夏四月、帝は鎮江軍の治所を夔州に移した。
- 秋八月、武泰節度使の王宗訓は黔州に鎮していたが、貪暴で法を犯し、勝手に成都へ帰った。庚辰、宗訓が拝謁して多くの要求をしたので、帝は衛士に命じて撲殺させた。
- 戊子、内枢密使の潘峭を武泰軍節度使・同平章事とし、翰林学士承旨の毛文錫を礼部尚書・判枢密院とした。夏秋の増水に乗じて峡の堰を切り江陵を水攻めにせよと勧める者がいたが、文錫が強く諫めたので帝は取りやめた。
- 九月、帝が宝暦寺に行幸し、后妃も従った。その日は重陽の節であった。宮女四人が僧に匿われ、翌日、民家で見つかり、僧二十二人とともに亀化橋の下で斬られた。
- 冬十月、前内枢密使の潘炕が没した。
- 十一月、昌州に麒麟が現れた。乙巳、長和の驃信・鄭仁旻が黎州に侵入した。帝は夔王の王宗範、兼中書令の王宗播、嘉王の宗寿を三招討として撃たせた。丙辰、潘倉嶂で破り、その清平官の趙嵯政を斬った。壬戌、また山口城で破った。
- 十二月乙亥、武侯嶺の十三寨を破り、辛巳、また大渡河で破って数万級を俘斬した。宗範が浮橋を架けて河を渡ろうとしたが、帝は召して成都へ帰らせた。
- 癸未、興州刺史兼北路制置指揮使の王宗鐸が岐の階州および固鎮を攻め、細砂など十一寨を破って四千級を斬った。甲申、指揮使の王宗儼が岐の長城などの関の四寨を破り、二千級を斬った。
- このとき大足県の南で竜馬が生まれ、一日に千里を走ったという。
永平五年(915年)
- 春正月己亥、帝は得賢門に出御して蛮の俘虜を受け、大赦した。
- もと黎州・雅州の蛮である劉昌嗣・郝玄鑒・楊師泰は㚋金堡三王と呼ばれ、名目は内属していたが密かに南詔(すなわち長和の蛮)と通じて手引きしていた。帝はたびたび軍謀が漏れたことを理由に成都の市で斬り、㚋金堡を壊した。これ以後、南詔は辺境を侵さなくなった。
- 秋九月、兼中書令の王宗綰を北路行営都制置使、兼中書令の王宗播を招討使として秦州を攻めさせ、兼中書令の王宗瑤を東北面招討使、同平章事の王宗翰を副使として鳳州を攻めさせた。
- 冬十一月己未の夜、宮中で火災があり、成都を得て以来、百尺楼に貯えていた宝貨がすべて灰燼に帰した。諸軍都指揮使兼中書令の王宗侃らが衛兵を率いて救援に入ろうとしたが、帝は門を閉ざして入れなかった。庚申の朝もなお火は消えず、帝は義興門に出て群臣に会い、有司に太廟の神主を収めさせ、都城を分けて巡視させ、言い終わると再び宮に入って門を閉ざした。将相はみな帷幕と飲食を献じた。壬戌、大赦した。
- 己巳、王宗翰が兵を率いて青泥嶺を出て固鎮を落としたが、秦州の将・郭守謙と泥陽川で戦って敗れ、鹿台山に退いて守った。辛未、王宗綰らが金沙谷で秦の兵を破り、将の李彦巣を捕らえ、勝ちに乗じて秦州に迫った。王宗鐸は階州を落とし、刺史の李彦安を降した。甲戌、宗綰は成州を落とし、刺史の李彦徳を捕らえた。我が軍が上染坊に至ると、秦州節度使の李継崇はその子の彦秀に牌印を奉じさせて降を迎えた。宗綰は秦州に入り、排陣使の王宗儔を留後とするよう上表した。
- このころ梁の叛将・劉知俊は岐にあって邠州を半年攻めたが落とせなかった。秦州がすでに降り、知俊の妻子がみな成都へ移されたと聞き、囲みを解いて鳳翔へ戻り、夜、親兵七十人を率いて関を斬り破って出、庚辰、我が軍に奔った。
- 宗綰は河池・両当から兵を進め、王宗瑤と合わせて鳳州を攻め、癸未に落とした。我はここに秦・鳳・階・成の四州の地を得た。
- 十二月丁未、帝は大安門に出御して秦・鳳・階・成の俘を受け、境内に大赦し、翌年の元号を通正と改めた。鳳州に武興軍を置き、文・興の二州を割いて属させ、前利州団練使の王宗魯を節度使とした。
- このとき長雨が続き、帝は奇相の祠に祈った。この神は、蒙氏の女が黄帝の玄珠を盗んで江に沈み死んだものだという。
- この年、竜興宮に寿昌殿を建てて帝の像を壁に描き、また扶天閣を建てて諸功臣の像を描いた。
通正元年(916年)
- 春正月、李継崇を武泰軍節度使兼中書令・隴西王とした。梁が使者を遣わして聘問した。
- 二月、翰林学士の庾伝昌が没した。三月、弘農郡王の晋暉が薨じた。通正元宝銭を鋳造した。
- 秋八月、王宗綰を東北面都招討、武信節度使の劉知俊を第一招討、天雄節度使の王宗儔を第二招討、匡国軍使の唐文裔を第三招討として、十万を率いて秦州から岐を伐たせた。
- 文思殿を建て、清資の五品正員に命じて群書を購入して収めさせ、内枢密使の毛文錫を文思殿大学士とした。大昌池に黄竜が現れた。
- 九月庚申、新宮が完成した。旧宮の北にある。
- 冬十月甲申、宗綰らが大散関を出て岐の兵を大破し、俘斬は万を数え、宝鶏を取った。己丑、宗播らが故関を出て隴州に至った。庚寅、岐の保勝節度使・李継岌が二万を率い隴州を捨てて我に奔った。我が兵は進んで隴州を攻め、継岌を西北面行営第四招討とした。知俊は宗綰らと合流して鳳翔を囲んだが、岐の兵は出て来なかった。
- 大雪となったので、帝は知俊らの軍を成都に呼び戻した。李継岌の姓名を桑弘志に改め、唐文裔を天雄軍節度使として秦州に鎮させた。己亥、大赦した。
- 十二月戊申、再び大赦し、翌年の元号を天漢と改め、国号を大漢とした。広成先生の杜光庭を戸部侍郎とした。
- この年、大きな禿鶖の鳥が摩訶池の上を飛んだ。鶢鶋だという者もあった。また溝や港、城の堀にすべて白蓮の花が開き、識者は不祥とした。
天漢元年(917年)
- 春正月、張儀を昌化王、張飛を霊応王、鄧艾を彰順王に封じた。天漢元宝銭を鋳造した。
- 夏五月、黄帝を南郊に祀り、翌日、地祇を方丘に祀った。
- 六月、百官に飛雪丸を賜った。この月、導江令の黄璟が、大雷雨があって江神がにわかに巨大な堰を作ったと奏し、群臣が祝賀に入った。
- 秋七月庚戌、桑弘志を西北面第一招討、王宗宏を東北面第二招討とした。己未、兼中書令の王宗侃を東北面都招討、武信節度使の劉知俊を西北面都招討とした。
- 八月庚寅、司徒・判枢密院事の毛文錫を茂州司馬に貶め、その子で司封員外郎の毛詢を維州に流し、家を籍没した。文錫の弟で翰林学士の文晏を栄経尉に貶めた。左僕射兼中書侍郎・同平章事の庾伝素を罷めて工部尚書とし、翰林学士承旨の庾凝績に内枢密院事を権判させた。
- これより先、飛竜使の唐文扆が宮中で権を振るい、張格がこれに付いて文錫と権を争っていた。折しも文錫が娘を伝素の子に嫁がせようとして枢密院で親族を宴し、事前に奏聞せずに音楽を用いた。帝が楽の音を聞いて怪しみ、文扆がそれに乗じて讒言したので、この処分となった。
- 冬閏十月戊申、庾凝績を吏部尚書・内枢密使とした。
- 十一月丙子朔、冬至に円丘で昊天上帝を祀ったが、大風が木を抜き、幕も帷もことごとく裂けた。
- 劉知俊が都招討使となったものの、諸将はみな旧功臣で知俊の命に従わぬ者が多く、そのため岐討伐に功がなかった。帝は密かにその才を忌み、唐文扆もしばしば謗ったので、謀叛の罪を着せた。十二月辛亥、炭市で知俊を斬った。
- 癸丑、大赦して翌年の元号を光天と改めた。
- この年、戎州の蛮・胡連らが反し、七州捕盗使の王球が討ち平らげた。
光天元年(918年)
- 春正月乙亥朔、大赦して国号を蜀に戻した。光天元宝銭を鋳造した。
- 皇太子の宗衍は酒色と遊びを好んだ。帝はかつて夾城を通ったとき、太子が諸王と闘鶏や毬打ちに興じて騒ぐ声を聞き、「私は百戦して基業を立てたが、この者たちに守れようか」と嘆いた。これによって張格を憎んだが、賢妃が内から支えたため、ついに退けられなかった。
- 二月癸亥、信王の宗傑が急死した。宗傑は才略があり、たびたび時政を論じており、帝は内心、廃立を考えていた。その死に帝は深く疑いを抱いた。
- 三月、西域の番僧・満多三藏が峨眉山に遊びに来て、まもなく西国へ帰った。
- 夏四月癸卯朔、皇子の宗平を忠王、宗特を資王に立てた。岐王が再び使者を送って我に好を求めた。
- 寝室に狐が現れ、帳の中で鵂鶹が鳴いた。このとき峨眉山の婆羅花の色がすべて白くなった。
- 五月、北面行営招討使兼中書令の王宗弼を成都に呼び戻し、馬歩都指揮使とした。帝は永平末年から病を得て意識が混濁し、このころ悪化していた。宗弼は沈着で謀があるので召し返したのである。
- 文州が白鷹を、茂州が白兎を進めた。群臣は「陛下の本命は兎です。鷹と兎は相刑しますから、並べ置くべきではありません。鷹を退けて兎を留めれば、御病は必ず癒えましょう」と議したが、帝は従わなかった。
- 乙亥、帝は大臣を寝殿に召し、自筆の書を示した。その趣旨は、朕は乱離に遭い干戈で秦・蜀を定め、卿らの忠勤な補佐によって名号を正し神器を得た。兢々として重責に堪えぬことを恐れたが、天地と宗廟の助けで四方は定まり、民は安楽で気候も和し五穀も実った。しかし万機の重さに日夜勤労してこの重病を得、薬石も効かない。太子は幼く賢徳があるとはいえ次男で立つべき順ではないが、卿らが外から強く請い、后妃が深く愛したため違えられず、儲君に立てた。力を尽くして輔け、我が国家の休命を落とすな、というものであった。
- 帝はさらに「太子が大業に堪えぬなら別宮に置け。どうか殺すな。王氏の子弟から選んで輔立してよい。徐妃の兄弟は俸禄を厚くするだけにとどめ、兵を握らせて禍を早めるな」と告げた。
- 当時、唐文扆は長く禁兵を握っており、この変に乗じて大臣たちを除こうと、人を遣わして宮門を守らせた。王宗弼ら三十余人は毎日朝堂に来ても入れなかった。ところが文扆の一党である内皇城使の潘在迎がその謀を宗弼に漏らしたので、宗弼らは門を押し開いて入り、文扆の罪を訴え、天策府掌書記の崔延昌に六軍事を権判させ、皇太子を召して看病に侍らせた。
- 丙子、文扆を眉州刺史に貶め、翰林学士承旨の王保晦は文扆に与したとして職を削られ瀘州に流された。
- 丙申、詔して、中外の財賦、中書の除授、諸司の刑獄・案牘をすべて庾凝績に処分させ、都城および行営の軍旅の事は宣徽南院使の宋光嗣に主管させた。丁酉、文扆の官爵を奪い雅州に流した。
- 辛丑、宋光嗣を内枢密使とし、兼中書令の王宗弼・宗瑤・宗綰・宗夔とともに遺詔を受けて輔政させた。はじめ帝は唐の制に倣って枢密使を置き、もっぱら士人を用いていたが、文扆が罪を得ると、諸将の多くが許州以来の旧友であるため幼主に用いられまいと恐れ、光嗣をこれに代えた。宦者が政に関わるのはここから始まった。
- 六月、帝はまた痢を病み、痛みのため日々錦の袋に座って過ごした。壬寅、帝は病中に左右を顧みて「朕は無数の百姓が牀前に並び、『重い賦と厳しい取り立てのために傷つき死んだ、いま天帝に訴えた』と罵るのを見た。朕は下民がこのようだとは知らなかった。今どうすればよいのか」と語った。
- まもなく帝は崩じた。梁の貞明四年(918年)のことである。一説には、帝が信王の急死を疑ったため、徐妃と張格が密かに尚食に鶏の焼餅を進めさせ、帝は毒に当たって没したという。
- 帝はもと武人であったが、儒臣を好んで厚く礼遇した。平素、左右に「私が神策軍将だった頃、禁中に宿衛して天子が夜、学士を召し、出入りに制限がないのを見た。将相の及ぶところではなかった。いま私の恩顧は当時の十分の一にすぎない」と語った。
- 自分の暮らしは倹素であったが、整った清潔さを好む性であった。西川衛前軍将の李思益が華美な衣服を着ており、左右が皆怪しんだが、帝は「思益は私のために軍府を輝かせようとしている」と言い、江貨場の管理を任せて衣装の費に充てさせた。
- 工房で職人が小朶の帽子をかぶり、前は鷹の嘴のよう、後ろは後頭部が露わなのを見て、その帽を切り落とさせた。また楼に登って行人が破れた蓆帽をかぶっているのを見ると、「破れた頭に爛れた額、どこが結構なものか」と蔑んだ。その好みはおおむねこの類であった。
- 在位十二年、七十二歳。神武聖文孝徳明恵皇帝と諡し、廟号を高祖とし、永陵に葬った。
史論
- 論に曰く。先主(王建)は驍雄の資質を負い、世に出ぬ謀略を奮って、智によって田令孜・陳敬瑄を追い、力によって楊晟・顧彦暉を併せ、北は岐隴に問罪し、南は長和の侵略を防いだ。その功はまことに盛んであった。
- しかし禍は身内から起こり、殺害は嗣子にまで及んだ。何と酷い巡り合わせか。結局は寵妃が母としての愛に溺れて子を抱え、年長を捨てて年少を立て、一代を伝えぬうちに国を失った。これがどうして子孫のために謀り後裔を庇うということであろうか。ああ、廃立の際は重んじなければならぬのである。