十国春秋十國春秋卷三十五 前蜀一 高祖本紀上(王建)
許州舞陽の出身で、若い頃は牛を屠り塩を密売して「賊王八」と呼ばれた王建(字は光図)。忠武軍に身を投じて頭角を現し、唐の僖宗の蒙塵に従って田令孜の養子となり「随駕五都」の一将となった。のち閬州に拠って自立し、陳敬瑄を降して西川を握り、顧彦暉を滅ぼして両川を併せ、山南西道と三峡にも版図を広げた。唐の滅亡に際して皇帝の位に即き、国号を大蜀とした前蜀の建国者・高祖である。
年表(24件)
- 中和三年883年鹿晏弘に従って興元を奪い、属州の刺史とされる
- 884年行在に赴いて田令孜の養子となり、「随駕五都」と号される
- 光啓二年886年僖宗の興元遷幸に玉璽を背負って従い、壁州刺史を遥領する
- 光啓三年887年閬州を襲って自ら防禦使と称し、のち兵を挙げて成都に迫る
- 文徳元年888年唐から永平軍節度使とされ、行営都指揮使を兼ねて陳敬瑄を討つ
- 龍紀元年889年新繁で眉州刺史の山行章の西川軍を大破する
- 大順元年890年簡・資・嘉・戎・雅・邛・蜀の諸州が相次いで降る
- 大順二年891年韋昭度を東へ帰らせて剣門を扼し、成都に入って西川留後を自称
- 大順二年891年唐から検校司徒・剣南西川節度副大使知節度事に任ぜられる
- 景福元年892年彭州の楊晟を囲み、楊守貞・守忠・守厚らの軍を各地で破る
- 景福二年893年同平章事を加えられ、陳敬瑄を新津で殺し田令孜を獄死させる
- 乾寧元年894年龍尾道を築いて彭州を落とし、楊晟を斬る
- 乾寧二年895年華洪が楸林で東川の兵を大破し、梓州を包囲する
- 乾寧四年897年梓州を落として顧彦暉が自ら滅び、両川の地を併有する
- 乾寧四年897年唐から西川節度使・同平章事に任ぜられる
- 光化二年899年閬州を収め、進んで巴・蓬・壁の三州を落とす
- 光化三年900年兼中書令を加えられ、琅琊王の爵を賜る
- 光化四年・天復元年901年西平王に改封され、李茂貞に堅守を勧めつつ山南を狙う
- 天復二年902年興元を落として李継密を降し、山南西道をも併有する
- 天復三年903年守司徒を加えられ蜀王に進封し、夔・忠・万・施を取って三峡を併有
- 天復四年904年李茂貞と婚を結んで屏障とし、昭宗弑逆を聞いて喪服を着ける
- 天復五年905年王宗賀らが金州を落とすが、年末に馮行襲に奪い返される
- 天復六年906年成都に行台を立て、制を承けて封拝すると藩鎮州県に告げる
- 天復七年907年唐の滅亡を承けて皇帝の位に即き、国号を大蜀と定める
出自と初期
- 高祖は姓を王、名を建、字を光図といい、許州舞陽の人。眉が高く額が広く、竜のような目と虎のような視線をもち、機略と武勇は同輩を抜いていた。先祖は餅屋であった。
- 若い頃は無頼で、牛を屠り驢馬を盗み塩を密売して暮らし、里人からは「賊王八」と呼ばれた。
- 父を葬るとき、数尺掘って棺を埋めると棺が跳ね出た。神人が「ここは天子の地だ、庶民のお前が葬れる場所ではない」と告げたが、建は聞かず葬り、三度同じことが起きてようやく葬れたという。
- まもなく罪を得て許昌の獄につながれたが、獄吏が逃がした。武当山に隠れていたとき、僧の処洪が相を見て「骨相はきわめて貴い。従軍して身を立てよ」と勧めた。感じ入って忠武軍に籍を置いた。
- のち節度使の杜審権に抜擢されて列校となり、王仙芝討伐に従って功を立てた。乗馬が死んだので腹を割くと心のあたりから小蛇が出て、密かに自らを異とした。
中和年間の従軍(881-885年)
- 黄巣が長安を陥れ、唐の僖宗が成都へ逃れると、忠武軍将の鹿晏弘が兵八千を率いて監軍の楊復光に属し、賊を討った。黄巣が敗走すると復光はその兵を八都に編成し、各都将が千人を率いた。建は晏弘とともに一都の都頭となった。
- 復光が死ぬと、晏弘は八都の兵を率いて西へ僖宗を蜀に迎えに向かい、道中で略奪を働いた。興元に至って節度使の牛勗を追い出し、自ら留後と称し、建らを属州の刺史とした。中和三年(883年)十二月のことである。
- 翌年(884年)、建は晋暉・韓建・張造・李師泰らとそれぞれ一都を率いて行在に赴いた。僖宗は大いに喜び、十軍観軍容使の田令孜に属させた。令孜は建らを養子とし、莫大な下賜をして諸衛将軍に任じ、「随駕五都」と号した。
- 同年冬十一月、唐は禁兵を派遣して晏弘を討った。晏弘は興元を捨て襄・鄧を略奪しつつ許州に拠り、詔で忠武節度使とされた。
光啓年間(885-888年)
- 光啓元年(885年)、僖宗が長安に還り、建と晋暉らに神策軍を率いて宿衛させた。河中の王重栄が令孜と塩池をめぐって争い、晋の兵を招いて京師に迫ったため、僖宗は再び鳳翔へ逃れた。
- 光啓二年(886年)春三月、僖宗は興元へ移った。建は清道斬斫使として玉璽を背負って従った。当塗駅に至ったとき李昌符らが桟道を焼き、道はほぼ断たれたが、建は僖宗の馬の轡を取って煙と炎の中を通り抜けた。坂の下で宿営したとき僖宗は建の膝を枕に眠り、目覚めると涙を流し、御袍を解いて「涙の跡がついているから」と言って賜り、あわせて金券を与えた。
- 興元に着くと、建に壁州刺史を遥領させた。将帥が州鎮を遥領する例はそれまでなく、実に建から始まったという。
- このとき令孜は、天子の流離が自分のせいであることを恐れ、同母弟である西川節度使の陳敬瑄のもとへ逃れようと、自ら西川監軍を求め、枢密使の楊復恭を観軍容使の後任に推した。まもなく復恭は令孜の一党を退け、建を利州刺史として外へ出した。
- 光啓三年(887年)、山南西道節度使の楊守亮が建の驍勇を忌み、しきりに呼びつけたが、建は従わなかった。亡命者や渓洞の蛮族を集めて八千の衆を得、嘉陵江を下って閬州を襲い、刺史の楊茂実を追って自ら防禦使と称した。守亮は次第に抑えられなくなった。
- 牙将の張虔裕は「天子が弱いのに乗じて一州を専有しても、唐室が復興すれば身の破滅です。使者を送って上表し、大義を掲げて兵を動かすべきです」と説き、部将の綦母諫も「士を養い民を愛して天下の変を待て」と説いた。建はいずれも受け入れた。
- 東川節度使の顧彦朗が建と親しかったので、敬瑄は両者の接近を恐れて令孜に相談した。令孜は「王八は私の子だ、一筆で呼び寄せて配下に置ける」と言い、書状で「中原は乱れ、三蜀だけが安んじられる。陳公は度量が広く疑うところがない。我ら父子が輔ければ万全だ」と誘った。
- 建は喜んで梓州へ行き、彦朗に「十軍の阿父が私を招いた。成都で陳公に会って一鎮を求めたい」と告げ、家族を彦朗に託し、精兵二千と甥の王宗鐬、養子の宗瑤・宗弼・宗侃・宗弁らを率いて成都へ急いだ。
- 鹿頭関まで来たとき、西川参謀の李乂が敬瑄に「王建は虎だ、なぜ室内へ引き入れるのか」と諫めた。敬瑄は悟って急ぎ使者を出して止め、守備を固めた。建は激怒して関を破って進み、綿竹で漢州刺史の張頊を破って漢州を取った。
- 彦朗も兵を出して助け、学射山に軍を並べた。敬瑄は偏将の句惟立に迎え撃たせたが、建は蚕北で破り、さらに徳陽を抜いた。敬瑄が使者を送って責めると、建は「十軍の阿父に呼ばれて来たのに門前で拒まれた。顧公にも疑われ、退くべき場所がない」と答えた。令孜が楼に登って慰撫すると、建は諸将とともに髪を切って居並び拝し、「もはや帰る所がない。阿父に別れを告げて賊となる」と言った。
- 彦朗は弟の彦暉を漢州刺史とし、兵を出して成都攻めを助けたが、三日で落とせず退いて漢州に駐屯した。敬瑄は朝廷に急を告げ、僖宗は中使を遣わして和解させ、李茂貞にも書を送って諭させたが、いずれも従わなかった。
文徳元年(888年)
- 春三月、建は彭州を攻めたが、敬瑄が救援したため囲みを解いて還った。以後、西川十二州を大いに略奪し、いずれも被害を受けた。
- この月、昭宗が即位した。建と敬瑄が争っていたため、貢賦は途絶していた。
- 建は部将に「軍中に長くいて見てきたが、天子の重みに拠らなければ人心は離れやすい。敬瑄の罪を数え、朝廷に大臣を帥として立てさせ、これを補佐すれば功は成る」と語り、周庠に上表を起草させ、敬瑄討伐によって罪を贖いたいと願い、あわせて邛州を求めた。彦朗もまた建の赦免と敬瑄の他鎮への移動を上表した。
- 昭宗は即位したばかりで藩鎮の跋扈に憤っており、夏六月、韋昭度を中書令兼西川節度使・両川招撫制置等使とし、敬瑄を龍武統軍として召還した。敬瑄はいよいよ兵を整え、黄頭軍三都を編成した。
- このころ建は新都に駐屯した。綿竹の土豪である何義陽・安仁・費思懃らが各地で兵を擁して自保し、多い者は一万、少ない者でも千人を数えた。建は養子の宗瑤を遣わして説得させ、次々と帰属させ、糧食を給した。建の軍は再び振るった。
- 秋七月、昭度が成都に至り、城下に旌節を備えたが、敬瑄は交代を受け入れなかった。昭度が「新任使がここにいるのに、なぜ門を閉ざすのか」と言うと、敬瑄は左右に城下へ罵らせ、「鉄券がある。先帝の命に背けようか」と答えた。
- 冬十二月丁亥、唐は韋昭度を行営招討使とし、山南西道節度使の楊守亮を副とし、東川節度使の顧彦朗を行軍司馬とした。邛・蜀・黎・雅を割いて永平軍を置き、建を節度使として邛州に治し、行営都指揮使を兼ねさせて敬瑄を討たせた。翌戊子、敬瑄の官爵を削った。
龍紀元年(889年)
- 春正月戊申、建は新繁で眉州刺史の山行章を大破し、一万余を捕獲し、屍は四十里に横たわった。行章はかろうじて身一つで逃れた。
- これに先立ち、田令孜は旧将の楊晟を威戎節度使代理として彭州を守らせていた。建が再び彭州を攻めると、敬瑄は行章に五万を率いて新繁に駐屯させ救援させた。この敗戦のあと、晟も恐れて三交に移った。敬瑄はさらに七万を発して行章に加え、濛陽で建と百余日にらみ合った。
- 冬十二月甲子、建は広都で行章と西川騎将の宋行能を破った。行能は成都へ逃げ帰り、行章は眉州に退いて守り、壬申に建へ降伏を請うた。
大順元年(890年)
- 春正月壬寅、建は邛州を攻めた。敬瑄は将の楊儒を遣わして刺史の毛湘の守りを助けさせたが、まもなく儒が降ってきた。建は養子とし、王宗儒と改名させた。
- 乙巳、建は永平節度判官の張琳を邛南招安使として残し、兵を率いて成都へ戻った。敬瑄は兵を分けて犀浦・郫・導江などの県に砦を築き、城中の民戸から一丁ずつ徴発して、昼は壕を掘り石を運ばせ、夜は城に登って拍子木を打たせた。
- 唐の行営招討使・韋昭度は唐橋に陣した。建は東閶門外に陣し、昭度には非常に恭しく仕えた。
- 辛亥、簡州の将・杜有遷が刺史の員虔嵩を捕らえて降り、建は有遷に州事を知らせた。二月己未、資州の将・侯元綽が刺史の楊戡を捕らえて降り、元綽に州事を知らせた。
- 夏四月乙丑、敬瑄は蜀州刺史の任従海に二万を率いさせ邛州を救わせたが、敗れて蜀州ごと建に帰属しようとしたため、敬瑄はこれを殺し、徐公鉢を蜀州刺史とした。丙寅、嘉州刺史の朱実が州を挙げて降った。丙子、僰道の土豪・文武堅が戎州刺史の謝承恩を捕らえて降った。
- 六月丁巳、茂州刺史の李継昌が兵を率いて成都を救おうとしたが、己未、建がこれを撃って斬った。辛酉、資簡都制置応援使の謝従本が雅州刺史の張承簡を殺し、城を挙げて降った。
- 秋八月、建は漢州に退いて駐屯した。九月、邛州の食糧が尽き、刺史の毛湘は都知兵馬使の任可知に「私は田軍容(令孜)を裏切るに忍びないが、吏民に罪はない。私の首を持って建に降れ」と告げた。壬戌、可知は湘とその二子を斬って降った。甲戌、建は永平の旌節を掲げて邛州に入り、張琳に留後を知らせた。
- 冬十月、建は兵を率いて成都に戻った。蜀州の将・李行周が徐公鉢を追い出し、城を挙げて降った。
大順二年(891年)
- 春二月、唐では韋昭度が三年かけても陳敬瑄を破れず、諸道の兵十余万を集めながら兵糧輸送が続かないため、兵を収める議が起こった。三月乙亥、詔して敬瑄の官爵を復し、建と顧彦朗にそれぞれ鎮へ帰るよう命じた。
- このころ敬瑄は徴督院を置いて富民の財を取り立て、手枷や笞で責め立てたので民は生活できなかった。城中は食糧が乏しく、行営に潜り込んで米を城内へ売る者が現れ、直径一寸半・深さ五分の竹筒一つが百余銭という値になり、餓死者が続出した。軍民は強い者が弱い者を虐げ、将吏が斬っても止まず、腰を断ち斜めに割く酷刑に改めてもなお止まなかった。城を出て降ろうとする民が多くなると、敬瑄はその一族を捕らえて皆殺しにした。
- ここで罷兵の制書を見た建は「大功が成りかけているのに、なぜ捨てるのか」と言い、幕僚の周庠に密かに謀った。庠は「韋公には朝廷へ帰ってもらい、単独で成都を取って自分のものにするのが上策」と強く勧めた。建は上表して、陳敬瑄と田令孜の罪は赦せない、命を懸けて成功を図りたいと述べた。
- 昭度がどうにもできずにいると、建は折を見て説いた。「公は数万の兵で両川の民を苦しめながら久しく功がない。罪は誰に帰しますか。唐室は多事で、東方の諸鎮が互いに併呑し、兵は都の近くに迫っています。これこそ腹心の病です。相公は帰って天子を輔け、中原を鎮めて根本を固めるべきです。敬瑄など疥癬にすぎず、私に任せれば片付きます。西の蛮国に留まる値打ちはありません」。
- 昭度が決めかねていると、庚子、建は密かに東川の将・唐友通らに命じ、昭度の側近の吏・駱保とその下僕・保祿を軍門で捕らえ、切り刻んで食べさせた。建は昭度のもとへ行き「兵が飢えたのでこれを食としました」と告げた。
- 昭度は大いに恐れ、ただちに符節を建に預け、三使留後兼行営招討使を知らせて、その日のうちに東へ帰った。建は新都まで送り、馬前に跪いて杯を捧げ、泣いて拝し別れた。昭度が去るや、建は兵で剣門を扼し、両川はこれによって外部から遮断された。
- 建は戻って成都を攻め、城を囲む烽火台と塹壕は五十里に及んだ。犬の屠殺を業とする王鷂という者が、罪を得て逃げ込んだふりをして城内に入り、敬瑄と令孜に「建の軍は食糧が尽きて逃げ去るだろう」と偽り、市で茶を売りながら、密かに吏民には建の英武と軍勢の盛んなことを説いた。こうして敬瑄らは守備を怠り、人心は危惧に傾いた。
- 秋八月、建の攻撃が激しくなった。建は牙将の韓武を顧みて「城が落ちたら、私と公とで代わる代わる節度使になろう」と言い、武らはいよいよ力戦した。敬瑄は出撃するたびに敗れた。
- このころ威武節度使の楊晟がしきりに食糧を送っていたので、建は兵を分けて新都に拠り、彭州との道を絶った。
- 辛丑、令孜が城に登って「老夫とお前とは親しい仲だ。何の恨みでここまでするのか」と呼びかけた。建は「軍容の父子の恩は忘れません。しかし交代を受け入れぬ者を討つのは天子の命です。太師が考えを改めるなら、私に何の求めもありません」と答えた。
- そこで令孜は夜、建の軍に入り、節度観察の印と牌を建に授けた。建は泣いて謝し、もとの通り父子の交わりを願った。壬寅、敬瑄は門を開いて迎え、癸卯、建は入城して西川留後を自称し、軍人・百姓を安撫した。敬瑄を花林坊の邸に、令孜を碧鶏坊の邸に帰らせた。
- のち敬瑄の子・陳陶を雅州刺史とするよう上表し、令孜を監軍使とした。敬瑄は陶の任地へ従った。癸丑、兵卒を諸州に分けて食糧を得させた。敬瑄の将佐で才幹ある者は、建はみな礼遇して用いた。
- 九月、東川節度使の顧彦朗が没し、軍中は弟の彦暉を推して留後を知らせた。
- 冬十月癸未、唐は少師の薛廷珪を遣わし、建を検校司徒・成都尹・剣南西川節度副大使知節度事・管内観察処置雲南八国招撫等使とした。甲申、永平軍を廃した。
- 建は西川を得てから政事に心を用い、直言を容れ、施しを好み士を愛し、謙虚で質素であり、人を用いてそれぞれの才を尽くさせた。ただし猜疑心が強く殺しを好み、功名ある諸将は事寄せて誅されることが多かった。
- 十二月、唐は顧彦暉を東川節度使とし、中使の宋道弼に旌節を賜わらせた。楊守亮は綿州刺史の楊守厚に道弼を捕らえさせ、梓州を攻めさせた。癸卯、彦暉が建に救援を求め、甲辰、建は華洪・李簡・王宗侃・王宗弼を遣わして守厚を討たせた。
- 彦朗の死以来、建は東川併合を狙いながら口実がなかった。そこで洪らの出発にあたって密かに「守厚を破れば彦暉は必ず出て軍を犒う。お前たちは行営で返礼の宴を開き、そのまま連れ帰れ。二度手間はかけさせるな」と命じた。
- 宗侃は守厚の七砦を破り、守厚は綿州へ逃げ帰り、唐の旌節を道弼に返して釈放した。彦暉は節を受け取ると犒いの支度をし、諸将が返礼の宴を開いた。しかし宗弼が建の企みを彦暉に漏らしたため、彦暉は病と称して出席せず、建の計は不発に終わった。以後、彦暉を図る心はいよいよ切迫した。
景福元年(892年)
- 威武節度使の楊晟が楊守亮らと申し合わせて兵を挙げ、攻めてきた。二月丁丑、晟は出兵して新繁・漢州の境を略奪し、将の呂蕘に二千を率いさせ楊守厚と合流して梓州を攻めさせた。建は行営都指揮使の李簡を遣わして蕘を撃ち斬った。
- 辛丑、建は一族の子で嘉州刺史の王宗裕、雅州刺史の王宗侃、威信都指揮使の華洪、茂州刺史の王宗瑤に五万を率いさせて彭州を攻めた。晟は迎え撃って敗れ、宗裕らはこれを囲んだ。
- 守亮は将の符昭を遣わして晟を救わせ、まっすぐ成都へ向かい三学山に陣した。建は急ぎ華洪を呼び戻した。洪は駆けつけたが後続はまだ揃わず、数百人で夜、昭の陣の数里手前まで進んで盛んに更鼓を打った。昭は建の大軍が来たと思い、夜のうちに兵を退いた。
- 三月、守亮の養子で左神策勇勝三都都指揮使の楊子実・子遷・子釗が渠州から兵を率いて晟を救おうとしたが、守亮の敗北を見て取り、壬子、二万を率いて降った。
- この月、晟は楊守貞・楊守忠・楊守厚に書を送って東川を攻めさせ、彭州の囲みを解こうとした。守貞らはこれに従った。当時、神策督将の竇行実が梓州に駐屯しており、守厚は密かに内応を誘っていたが、守厚が涪城に至ったとき企みが露見し、顧彦暉が行実を斬った。守厚は逃げ去った。
- まもなく守貞・守忠の軍は行き場を失い、綿州と剣州の間をさまよった。建は親校の吉諫を遣わして守厚を襲い破らせた。癸亥、李簡は鍾陽で守忠を迎え撃ち、三千余を斬獲した。夏四月、簡はさらに銅鉾で守厚を破り、三千余を斬獲し、一万五百人を降した。守忠・守厚はいずれも逃げた。
- 秋八月辛丑、李茂貞が興元を攻め落とし、楊復恭・楊守亮・楊守信・楊守貞・楊守忠・満存が閬州へ逃れた。冬十二月壬午、建は華洪を遣わして閬州の守亮を撃ち破らせた。
- この年、陳敬瑄は子の陶とともに雅州から罷めて帰り、新津に寓居し、一県の租賦で養われた。
景福二年(893年)
- 春正月、東川留後の顧彦暉はすでに建と不和であったため、李茂貞はこれを支えようとして、唐に彦暉へ改めて節を賜るよう請うた。唐は彦暉を東川節度使とする詔を下した。茂貞はさらに知興元府事の李継密を遣わして梓州を救わせた。まもなく建の軍が利州で東川・鳳翔の兵を破り、彦暉は和を求めて茂貞と絶つことを申し出た。
- 二月甲戌、唐は建に同平章事を加えた。建はしきりに陳敬瑄と田令孜の処刑を請うたが、昭宗は許さなかった。
- 夏四月乙亥、建は人を遣わして敬瑄が謀反を企てたと告発し、新津で殺した。さらに令孜が鳳翔と通じた書があると告げて獄に下し、死なせた。
乾寧元年(894年)
- 夏五月、建の彭州攻めは久しく落ちず、城内は人が人を食う有様となった。彭州内外都指揮使の趙章が出て降った。
- 建は王先成の献策を用い、龍尾道を築いて女墻に接続させた。丙子、建の兵が城壁に登ったが、楊晟はなお衆を率いて力戦し、刁子都虞候の王茂権がこれを斬った。
- 彭城の馬歩使・安師建を捕らえ、建は将に用いようとしたが、師建は泣いて謝し「私は楊司徒と生死を共にすると誓った。改めて別の日月を仰ぐには忍びない」と述べた。そこで殺し、礼をもって葬り祭った。趙章を王宗勉、王茂権を王宗訓と改名させた。
- 秋八月、綿州刺史の楊守厚が没し、その将の常再栄が城を挙げて降った。
乾寧二年(895年)
- 春三月、建は新たに雑税を課した。綾一疋につき百文、絹一疋七十文、布一疋四十文、豚一頭百文である。
- 夏五月、三鎮(王行瑜・李茂貞・韓建)が兵を擁して闕下に迫った。秋九月、建は簡州刺史の王宗瑤らに兵を率いて援けに行かせ、甲戌、綿州に軍を進めた。
- 冬十一月、雅州刺史の王宗侃が利州を抜き、刺史の李継顒を捕らえて斬った。十二月甲申、鳳翔の将で閬州防禦使の李継雍、蓬州刺史の費存、渠州刺史の陳璠が、それぞれ部下の兵を率いて建のもとへ奔った。
- 建は利州・閬州で身を起こして以来、親騎軍四百余人を擁し、いずれも武勇の士で紫の旗を執り、それぞれ名号があった。戦況が不利になるとこの紫旗を振って援けさせ、敵は必ず崩れた。
- また中軍には隠語があった。剣を「奪命竜」、刀を「小逡巡」、槍を「肩二」、斧を「鉄餻糜」、甲を「小斤使」、弓を「潘尚書」、弩を「百歩王」、矢を「飛郎」、鼓を「聖牛児」、鑼を「響八」、旗を「愁眉錦」、鉄蒺藜を「冷尖」と呼んだ。西川の軍は規律が厳しく、向かうところ敵なしであった。
- 楊晟が死ぬと、建は再び東川に手をつけ、顧彦暉が難に兵を出さず輜重を奪ったこと、また瀘州刺史の馬敬儒を遣わして峡路を断ったことを挙げて、討伐を請うた。
- 戊子、華洪は楸林で東川の兵を大破し、その将の羅璋を斬り、数万を捕獲して楸林寨を抜き、進んで梓州を囲んだ。丙申、建の攻撃で別将の王宗弼が東川の兵に捕らえられた。彦暉は宗弼を養子とした。
- 戊戌、通州刺史の李彦昭が二千を率いて降った。
乾寧三年(896年)
- 春正月、王宗夔が龍州を攻め落とし、刺史の田昉を殺した。閏月丁亥、果州刺史の張雄が降った。
- 夏五月、昭宗は宦者の袁易簡を梓州へ遣わし両川を和解させた。建は詔を受けて成都に還ったが、なお兵を連ねて解かなかった。
- このころ荊南節度使の成汭がその将の許存とともに長江を遡って沿岸の州県を悉く取り、武泰節度使の王建肇は黔中を捨てて豊都に退いて守った。存はさらに兵を進めて渝・涪の二州を抜いた。汭は将の趙武を黔州留後、存を万州刺史とした。武がしばしば豊都を攻め、建肇は守りきれず、存とともに建に降った。まもなく建は存を王宗播と改名させた。
- 秋八月癸丑、唐は建を鳳翔西面行営招討使とした。
乾寧四年(897年)
- 春二月戊午、建は邛州刺史の華洪、彭州刺史の王宗祐に五万を率いさせ東川を攻めさせ、戎州刺史の王宗謹を鳳翔西面行営先鋒使とし、玄武で鳳翔の将・李継徽らを破った。
- 庚申、建は決雲都知兵馬使の王宗侃を応援関峡都指揮使とし八千を率いて渝州へ、決勝都知兵馬使の王宗阮を開江防送進奉使とし七千を率いて瀘州へ向かわせた。辛未、宗侃は渝州を取り刺史の牟崇厚を降した。癸酉、宗阮は瀘州を抜き刺史の馬敬儒を斬り、峡路がようやく通じた。鳳翔の将・李継昭が梓州を救おうとし、偏将を残して剣門を守らせたが、王宗播が撃ってこれを捕らえた。
- 夏四月、唐は右諫議大夫の李洵と判官の韋荘を両川宣諭使として顧彦暉と建を和解させ、建に罷兵を命じた。
- 五月丙戌、建は節度副使の張琳に成都を守らせ、自ら五万を率いて東川を攻め、華洪を王宗滌と改名させた。
- 六月、李茂貞が、建が隣境を侵し数年にわたり兵を連ねていると上表した。甲寅、唐は建を南州刺史に貶め、乙卯、覃王の嗣周を鳳翔節度使とし、茂貞を西川節度使に移した。
- 癸亥、建は梓州の南寨を落とし、将の李継寧を捕らえた。丙寅、宣諭使の李洵らが梓州に至り、己巳、張把砦で建に会ったが、建は詔を奉ぜず、旗を執る者を指して「戦士の心は奪えない」と言った。建と彦暉は五十余度戦った。九月癸酉朔、ついに梓州を包囲した。
- この月、茂貞が交代に応じなかったため、唐は改めて建を西川節度使・同平章事とした。
- 冬十月壬子、知遂州の侯紹が二万を率い、乙卯、知合州の王仁威が千人を率い、戊子、鳳翔の将・李継溥が援兵二千を率いて、いずれも建に降った。建の梓州攻めはますます激しくなった。
- 初め彦暉の養子の瑤は城の危うさを見て、諸将吏に「公にお仕えする以上、生死を共にすべきだ」と言い、佩びた賓鉄の剣を指して「急のとき叛く者があれば、これで始末する」と述べた。
- 城が落ちようとした庚申、彦暉は宗族・将吏と瑤を集めて共に飲み、王宗弼を建のもとへ帰した。酒がたけなわになると瑤に自分と同席者を殺させ、瑤も自殺した。城はこうして陥落した。
- 建が梓州に入ると、城中にはなお兵七万がいた。王宗綰に兵を分けて昌・普などの州を巡らせ、王宗滌を東川留後とした。ここに両川の地を併有した。
- 十二月壬戌、建は梓州から還り、戊辰、成都に着いた。
- この年、南詔の蒙隆舜が臣の楊登に弑され、子の舜化が立って使者を黎州に送り修好を求めた。唐が詔書で報いようとしたところ、建は「小さな蛮夷に詔を辱めるには及ばない。臣が西南にいる限り、彼らが辺塞を犯すことはない」と言い、その通りになった。
乾寧五年・光化元年(898年)
- 春正月、唐は兵部尚書の劉崇望を同平章事・東川節度使に充てた。夏五月、昭宗は宗滌がすでに東川留後になっていると聞き、崇望を呼び戻し、宗滌をそのまま留後とした。
- 秋八月甲子、唐はこの年を光化元年と改元した。
- 己丑、王宗滌が「東川は境域が五十里にわたり、文書の往来に数か月かかる」として、遂・合・瀘・渝・昌の五州を分けて別に一鎮とすることを請い、建は上表してこれを朝廷に願い出た。
- 冬十月丁巳、唐は王宗滌を東川節度使とする詔を下した。
- この年、江辺の池の魚が数え切れぬほど死に、車で郭外に運ばせた。
光化二年(899年)
- 夏五月甲午、唐は詔して遂州に武信軍を置き、遂・合など五州を属させた。
- 六月、唐は王宗佶を武信節度使とした。建の請いによるものである。
- 秋八月、建は決雲軍使の田師偘に三指揮使を率いさせて閬州を収め、進んで巴・蓬・壁の三州を落とした。
光化三年(900年)
- 春二月庚申、唐は詔して建の私邸に戟を立てることを許し、兼中書令を加えた。三月、師偘の軍を移して渝州に鎮させた。
- 夏六月癸亥、唐は王宗滌に同平章事を加えた。秋七月甲寅、唐は建に西川節度使として東川・武信軍両道の都指揮制置等使を兼ねさせた。
- この年、琅琊王の爵を賜った。
光化四年・天復元年(901年)
- 春三月、東川節度使の王宗滌が病により交代を求め、王(建)は一族の子で馬歩使の宗裕を留後とするよう上表した。唐は王を西平王に改封した。
- 夏四月丁丑、唐は天復と改元した。
- 閏六月、道士の杜従法が妖言で昌・普・合三州の民を誘って乱を起こした。王は王宗黯に兵を率いさせ東川・武信の兵と合わせて討たせ、まもなく龍台鎮使の王宗侃らがこれを撃滅した。
- 冬十一月、韓全誨らが唐の帝を脅して鳳翔へ移した。東平王の朱全忠は兵を率いて鳳翔に至り、岐王の李茂貞を問罪した。全誨が我(蜀)に徴兵し、全忠もまた援軍を乞うたが、王は表向き全忠と好を修めて茂貞の罪状を挙げつつ、裏では人を遣わして茂貞に堅守を勧め、出兵の援けを約した。
- 武信節度使の王宗信、前東川節度使の王宗滌らを扈駕指揮使とし、五万を率いさせ、車駕を迎えると称したが、実は山南の諸州を襲うためであった。
天復二年(902年)
- 春二月、我が兵が利州に至り、昭武節度使の李継志は鎮を捨てて鳳翔へ逃れた。王は剣州刺史の王宗偉を利州制置使とした。
- 三月、舟師三万五千を発して峡口を封鎖した。
- 秋八月、王宗佶らが興元に道を借りようとしたが、山南西道節度使の李継密は兵を遣わして三泉を守り、我が軍を拒んだ。辛丑、前鋒将の王宗播は攻めきれず山寨に退いて守ったが、やがて兵卒に「お前たちと決戦して功名を取る。さもなくばここで死ぬ」と告げ、金牛・黒水・西県・褒城の四寨を破った。
- このとき軍校の秦厚が西県を攻め、矢が左目を貫いて右目まで達し、鏃が抜けなかった。王は自らその傷を舐め、膿が潰れて鏃が抜けた。
- 宗播は馬盤寨に駐屯した。継密は敗れて漢中へ逃げ帰り、我が軍は勝ちに乗じて城下に至った。王宗滌が衆を率いて先登し、ついに興元を落とした。継密は降を請い、兵三万・馬五千匹を得た。宗滌が入って漢中に駐屯し、唐は詔して宗滌を山南西道節度使とした。
- しかし同じ日、王は宗滌が人心を得ていることを疑い、親随馬軍都指揮使の唐道襲に命じて縊り殺させ、指揮使の王宗賀を興元留後代理とした。
- 九月戊申、武定節度使の李思敬が洋州を挙げて降った。冬十月、興州を落とし、軍使の王宗浩を興州刺史とした。王はここに山(南)西道をも併有した。
- この年は大水で、嘉州の被害がとくにひどかった。
天復三年(903年)
- 春正月、唐の帝が長安に還り、王は茶や布など十万を貢いだ。この月、唐は各地に宦官を捕らえるよう命じた。王は他の囚人を殺して詔に応じたので、西川監軍の魚全禋は致仕し、枢密使の厳遵美も無事であった。
- 夏四月、王は秦・隴へ出兵した。岐王・茂貞の弱体に乗じたものである。
- これに先立ち、王は判官の韋荘を唐へ入貢させる一方、梁王・全忠とも好を修めていた。ここに至って全忠は押牙の王殷を答礼に遣わした。王が宴を設けると、殷は「蜀の甲兵は確かに多いが、馬が足りない」と言った。王は色をなして「当道は山川が険阻で騎兵の用いようがない。しかし馬も不足していない。共に検分しよう」と言い、諸州の馬を集めて星宿山で大閲兵を行った。官馬八千、私馬四千、部隊は整然としており、殷は大いに感服した。
- 王は騎将から身を起こしたので、蜀を得たのち文・黎・維・茂などの州で盛んに蕃馬を買い入れ、十年でこの数に達したのである。
- 秋八月庚辰、唐は王に守司徒を加え、爵を進めて蜀王とした。
- 冬十月、王は江陵の成汭の変に乗じ、王宗本を開道指揮使として夔・忠・万・施の四州を攻め落とした。議者が瞿唐こそ蜀の要害だと言うので、王は帰州・峡州を捨てて夔州に軍を駐屯させた。ここに三峡の地を併有した。王宗本を武泰留後とし、武泰軍の治所を涪州に移した。宗本の請いによる。
天復四年(904年)
- 春二月、梁王・全忠が唐の帝に遷都を請う表を出した。帝は密使を遣わし御札で王に急を告げた。
- 王は邛州刺史の王宗祐を北路行営指揮使とし、兵を率いて鳳翔の兵と合流し車駕を迎えさせたが、興平で汴の兵に遭い進めず引き返した。王はこのときから墨制(自前の任命書)で官を除授しはじめ、車駕が長安に還ったら上表して報告すると称した。
- 夏四月、梁王・全忠は唐の帝を脅して洛陽へ移した。閏月、唐の帝は光政門に出御して天下に大赦し、天祐と改元した。王は唐と絶っていて知らず、そのまま天復の年号を用い続けた。
- 五月、山南東道節度使の趙匡凝が水軍を遣わして我が夔州を攻めたが、知渝州の王宗阮が撃退した。万州刺史の張武は鉄の綱を張って江の中流を絶ち、両端に柵を立て、これを「鎖峡」と呼んだ。
- 六月、王は岐王・茂貞、李継徽と兵を合わせて朱全忠を討ち、全忠は河中でこれを拒いだ。
- このとき諸将の多くが鳳翔攻略を勧めたが、王は節度判官の馮涓に諮った。涓は「兵は凶器であり、民を損ない財を費やすもので、際限なく用いるべきではありません。いま梁と晋が虎のように争い両立できませんが、もし一つに併されて兵を蜀に向ければ、孔明が生き返っても敵しえません。鳳翔は蜀の防壁です。和親して婚姻を結び、無事のときは農を務め兵を訓練して境を固め、事あるときは機を窺って動くのが万全です」と答えた。
- 王は「茂貞は凡庸だが強悍の名がある。全忠と力を争うには足りぬが、自ら守るには余りある。我が屏障となれば利は多い」と言い、茂貞と好を結んだ。
- 丙子、茂貞は判官の趙鍠を遣わして聘し、甥の天雄節度使・継崇のために婚を乞うた。王は娘を嫁がせた。茂貞はしばしば我に財貨や武具を求め、王はいずれも与えた。
- 秋八月、朱全忠が唐の帝を椒殿で弑し、太子の祝が即位した。王は将吏・百姓を率いて挙哀し喪服を着けた。
- この年は大旱魃で、褒・梁の地は数千里にわたって赤地となり、人が人を食う者もあった。山中の竹は大小を問わずみな花を咲かせ実を結び、民はこれを採り搗いて米として食い、それによって生き延びた。
天復五年(905年)
- 夏五月甲申、忠義節度使の趙匡凝が使者を送って我と好を修め、梁王・全忠を拒もうとした。
- 秋八月、王は前山南西道節度使の王宗賀らに兵を率いさせ、金州の昭信節度使・馮行襲を撃たせた。行襲はこのとき全忠に付いていた。
- 九月丁卯、荊南節度使の趙匡明が汴の兵に迫られ、二万を率いて城を捨て西へ奔った。この月、王宗賀らは向かうところすべて勝った。丙子、馮行襲は金州を捨てて均州へ逃げ、その将の全師朗が城を挙げて降った。王は師朗を王宗朗と改名させ、金州観察使に補し、渠・巴・開の三州を割いて属させた。
- 冬十月、唐は昭信軍を戎昭軍と改めた。
- 十一月、唐は告哀使の司馬卿を遣わして昭宗の喪を告げさせ、ここでようやく蜀の境に入った。掌書記の韋荘が王のために謀り、武定節度使の王宗綰に諭させた。「蜀の将士は代々唐の恩を受けている。昨年、車駕が東へ移ったと聞き、二十通の上表をしたがいずれも返答がなかった。まもなく汴から来た兵卒により、先帝がすでに全忠の弑逆に遭ったと知った。蜀の将士は日夜、枕を戈にして先帝の仇を報じようとしている。今回の使者が何を宣諭に来たのか分からぬ。舎人はみずから進退を図られるがよい」。卿はそのまま帰った。
- この月壬申、趙匡明が成都に至り、王は客礼をもって遇した。
- 十二月、馮行襲が我が金州を奪い返し、王宗朗は守りきれず城邑を焼いて成都へ奔った。
天復六年(906年)
- 秋八月乙酉、岐王・茂貞が子の侃を人質として我に送った。王は侃に彭州を知らせた。
- 冬十月丙戌、王は初めて成都に行台を立て、東に向かって舞踏し号泣し、「大駕が東へ移って以来、制命が通じない。李晟・鄭畋の先例に倣って権に行台を立て、制を承けて封拝したい」と称し、榜帖で管下の藩鎮・州県に告げ諭した。
- このとき忠州に鎮江軍を置き、夔・忠・万の三州を領させた。
天復七年(907年) — 蜀の建国
- 春三月、唐の帝(昭宣帝)が梁に禅位した。夏四月壬戌、梁王・全忠は名を晃と改め、甲子に皇帝を称し、開平と改元し、使者を遣わして王に諭したが、王は拒んで受け入れなかった。
- 王は弘農王の楊渥とともに諸道に檄を飛ばし、岐王の李茂貞・晋王の李克用と兵を合わせて梁を討とうとしたが、四方はその誠意のなさを知り、みな応じなかった。
- このころ青城山に巨人が現れ、夏六月には万歳県に鳳凰、嘉陽江に黄竜が現れた。諸州はそれぞれ甘露・白鹿・白雀の瑞を報じた。また会昌廟の岸辺の穴に四匹の亀が生まれ、いずれも二三寸で、背に金文字で「王」の字があった。大吉とされた。
- 王は晋王に書を送り、それぞれ一方に帝を称そうと請うたが、晋王は返書で許さず、「この生涯において節を失うことはせぬと誓う」と答えた。
- 秋九月、王は将佐を集めて帝を称すことを議した。皆が「大王は唐に忠であられたが、唐はすでに滅びた。これこそ天の与えるものを取らぬというものです」と言った。判官の馮涓だけが蜀王のまま制を称するよう勧めたが、王は従わず、安撫副使・掌書記の韋荘の策を用い、吏民を率いて三日哭した。
- 己亥、皇帝の位に即いた。国号を大蜀とした。帝は卯の年の生まれで、この丁卯の年に即位した。左右が「兎が金の牀に上る」という讖を献じたので、帝は金で飾った座を作らせた。詔して蜀は金徳をもって王たり、唐の運を承けるとした。
- 辛丑、前東川節度使兼侍中の王宗佶を中書令、韋荘を左散騎常侍・判中書門下事、閬州防禦使の唐道襲を内枢密使、任知己と潘峭を宣徽南北院使、鄭騫を御史中丞、張格と王鍇を翰林学士、周博雅を成都尹とした。次子で秘書少監の宗懿を遂王に立て、一族の子の宗裕を太傅、王宗侃を太保兼侍中とし、唐の観軍容使であった厳遵美を内侍監とした。唐室の旧臣である王進ら三十二人に官爵を差をつけて授け、また宋玭ら百余人もみな信任して用いた。
- 帝は文字を知らなかったが、儒生と談論するのを好み、その理をかなり解した。当時、唐の名家の多くが乱を避けて蜀にいたので、帝は礼遇して用い、政事を整えさせた。そのため蜀の典章文物には唐の遺風があった。
- 冬十月、詔して堂宇・庁舎を宮殿と改めた。その趣旨は、帝王の居は天の星象に応じ、朝貢が集まり華夏が会同する場であり、宮闕殿閣の厳かさ、台省府事の壮大さには名号を分けて観瞻を美しくする必要がある、いわんや自分が大業を興し嘉瑞が相次いで天の恵みに叶い万世の基を輝かせる以上、厨や厩の標題、倉庫の配列に至るまで改めて新たにすべきである、というものであった。
- 改称は次の通り。大衙門を宣徳門、獅子門を神獣門、大庁を会同殿、毬場門を神武門、毬場庁を神武殿、蜀王殿を承乾殿、清風楼を寿光閣、西亭子庁を咸宜殿、九頂堂を承乾殿、会仙楼を竜飛楼、西亭門を東上閣門、亭子西門を西上閣門、節堂南門を日華門、行庫角門を月華門、万里橋門を光夏門、笮橋門を坤徳門、大東門を万春門、小東門を瑞鼎門、大西門を乾正門、小西門を延秋門とし、北門は従来通り大玄門とした。
- 子城の南門を崇礼門、中隔を神雀門、東門を神政門、西門を興義門、鼓角楼を大定門、北門を大安門、中隔を玄武門、昌橋を応興橋とした。旧宅を昭聖宮、その堂を金華殿、摩訶池を竜躍池、設庁を韶光殿と改めた。
- 軍資庫を国計庫、衙庫を内蔵庫、衙内麴佑庫を斉天庫、衙内雑庫を広潤庫、賞設庫を常盈庫、賞設行庫を殿前庫、南倉を天富倉、贍軍東庫を左金蔵庫、北倉を大倉、甲仗庫を天武庫とした。
- 旧三使院を彰信門とし、尚書省は旧使院に、御史台は府司に置いた。府城を皇城使・防城使の司として従来通りとし、両馬歩使を左右街使、廂虞候を街巡使、後槽を飛竜厩、客使を客省使、楽営を教坊使、厨を御食厨とし、戟門に三十六戟を増設し、神策営を糧料司、六軍を支計院とした。成都府は子城の外の便宜な場所に移して府所を立てさせ、新西宅を天啓宮、その堂を玉華殿とした。
- この年、官を遣わして塩井の玉女の神を祭らせた。その神は半面だけを現して饗を受けたという。もともと帝は塩井で裸体の婦人を見、「あなたはわが国の土地の主となり、富貴が至るでしょう」と告げられたので、この命があったのである。