十国春秋十國春秋卷三十四 南唐二十 列傳(王栖霞・陳允升・史守冲・譚峭・潘扆・陳曙・許堅・聶紹元・耿先生・楊保宗)
巻の構成
- 検討・呉任臣の撰。南唐二十にあたる列伝の巻で、道士・方術者ら十人を立伝する。
- 収録は王栖霞、陳允升、史守冲、譚峭、潘扆、陳曙、許堅、聶紹元、耿先生、楊保宗の順。
王栖霞
- 別名を敬真、字は玄隠。斉魯の生まれで、七歳のとき神童として及第した。
- 天祐年間(904-907年)の戦乱を避けて南へ渡り、道士の聶師道について道法を受けた。のち茅山に住み、鄧啓遐から大洞経の口訣を授かった。
- 烈祖(李昪)が呉の政を輔けていた頃に召され、金陵の玄真観に住まわされた。昇元初年(937年)に金印紫綬を加えられ、玄博大師の号を賜った。山へ帰りたいと上表したが許されず、さらに真素先生の号を加えられた。
- 当時、烈祖は史守冲の丹薬を服用しており気が短く怒りっぽかった。烈祖が「どうすれば太平になるか」と問うと、栖霞は「王者はまず心と身を治め、次に家と国を治めるもの。陛下はいまだ空腹で苛立ち満腹で機嫌がよくなる程度を脱していないのに、太平を語れましょうか」と答えた。簾の内でこれを聞いた元敬皇后は至言だと感嘆したという。
- 栖霞が醮祭を行い上章しようとしたとき、烈祖は壇を築かせようとしたが、栖霞は「国費が乏しい折に手を回すべきでない。焚いた章が燃え上がらなかったときに改めて願い出ればよい」と辞退した。烈祖からの下賜品はすべて受け取らなかった。
- 保大元年(943年)四月に六十二歳で没した。銭二十万を賻贈され、冠と剣を捧げて雷平山に帰葬された。碑文は徐鉉が撰した。
陳允升
- 饒州の人。当時の人は「陳百年」と呼んだ。若い頃から寡黙で道を好んだ。家は代々狩猟を業としたが、允升だけは獣肉を口にせず、人と言葉も交わさなかった。
- 十歳で龍虎山に入り道に入った。人里離れた奥に隠棲し、その顔を見た者はまれだった。
- 天祐年間の末、撫州の麻姑山で允升を見たという者があった。家を出てから七十年を数えるのに容貌は昔のままだったという。
- 刺史の危全諷はかねてその異能を知っており、迎えて郡内に置いた。一室に独居し、静坐しているかと思うと忽然と姿を消すこともあった。
- 全諷が「豊城の橘が旨いので食べたい」と言うと、允升は「ちょうど橘を積んだ船が牢城港に泊まっている、取ってこよう」と答えた。港は城から十五里あったが、まもなく布袋に数百個を提げて戻り、皆で分けて食べた。
- 全諷が婚礼のため黄金を買い集めたが郡内では足りず、部下を叱責した。允升は「怒るには及ばない」と言い、厚紙に薬を塗って火に投じさせると、すべて黄金になった。
- のち全諷が呉軍と戦うとき、允升は立ち去りながら「けっして口中に入るな」と言い残した。全諷は意味を解せぬまま、象牙潭で敗れた。
- 昇元年間(937-943年)にもなお撫州の山中を往来していたが、最期は知られていない。
史守冲
- 出身地は不明。烈祖はかつて夢で神丹を得、目覚めて側近にその者を探させようとした。ちょうどそのとき守冲が宮門に現れて丹方を献じ、潘扆も続いて処方を進めた。
- 烈祖は二人を神仙とみなし、金石を煉って丹を作らせた。服用するうちに烈祖はしばしば激昂し、群臣が上奏するたびに厳しい声色で詰問するようになった。
- 烈祖はこの薬を李建勲にも賜った。建勲は折を見て「わずか数日で体が燃えるように苛立ちます。常用してよいものでしょうか」と諫めたが、烈祖は「自分は長く服しているがそんなことはない」と退けた。
- まもなく烈祖は疽を発して危篤となり、臨終に元宗へ「金石を服して長寿を求めた結果がこれだ。お前は戒めとせよ」と告げた(943年)。
譚峭
- 字は景昇。唐の国子司農であった譚洙の子。父は進士の学業を授けようとしたが、峭は黄老の書を偏愛した。
- 嵩山の道士に十余年師事し、辟穀と養気の術を得た。
- 夏は烏の毛皮を着、冬は緑の布衫一枚で過ごした。風雪の中に一日横たわり、死んだと思われても、見れば身体から気が立ちのぼっていた。
- のち南嶽で丹を煉って成し、水火に入り姿を隠すことができるようになった。草鞋履きで三茅山に遊んだ。
- 金陵を通ったとき宋斉丘に会い、仙骨がありながら権謀に溺れている点が常人と異なると見て、自著『化書』を授け、「この書の変化は窮まりない。序を付して後世に伝えよ」と言った。斉丘はこれを奪って自分の名で世に伝えた。
- のち青城山に入って仙去した。
潘扆
- 大理評事・潘鵬の子。若い頃は和州に住み、鶏籠山で薪を採って親を養った。
- あるとき長江を渡って金陵へ行き、秦淮の河口に舟を泊めていると老父が同乗を求めた。扆はその老いを敬って許した。大雪の日で、扆は酒を買って共に飲んだ。江の中ほどで酒が尽きると、老父は髻の巾を解いて小さな瓢箪を取り出し、傾けるといくら飲んでも尽きなかった。
- 岸に着くと老父は「お前は親孝行で道気もある、教えるに足る」と言い、道術を授けた。以後、扆は江淮の間を往来して奇術を示し、自ら野客と称した。世に潘仙人と呼ばれた。
- 水銀を手に置いて掬うと白金になった。ある家で池に落ち葉が多いのを見て「これで遊べる」と言い、掬い取らせて地に撒くと葉の大小に応じてすべて魚になり、水に戻すとまた葉に戻った。また未見の書を背後から暗誦でき、束ねて封をしてあってもその中の書き入れや消し跡まで違わず言い当てた。
- のち海州刺史の鄭匡国に身を寄せたが厚遇されず、馬小屋の傍らに置かれた。ある日、匡国が近郊で狩りをしている間に、その妻が厩に立ち寄り、扆の居室が葦の筵と竹箱だけの粗末なさまを見て、箱を開け錫の丸二つを見つけて不審に思った。戻った扆は検めて驚き、「どこの婦人がわが剣に触れたのか。私がその光芒を抑えていたからよいが、さもなくば首と胴が離れていた」と言った。
- これを聞いた匡国は恐れ入り、その術を学びたいと願った。扆は「ためしに一度だけ」と言って静かな院に共に行き、懐から錫の丸二つを掌に置いた。やがて指先から二筋の白虹のような気が出て匡国の首をめぐり、金属音を発した。匡国が汗だくで「先生の術は神業、これに極まる」と言うと、扆は笑って手を引き、気は元の錫の丸に戻った。
- 匡国は烈祖に扆を推薦し、あわせて丹方を献じた。扆は紫極宮に住むよう召され、数年で没した。臨終に桐の棺で近くに葬るよう願い、のちに尸解すると述べた。烈祖はその通りにし、宦官を遣わして金波園に葬らせた。保大年間、元宗が墓を発いて確かめたが、何の異変もなかった。
陳曙
- 蘄州善壇観の道士。人は百歳と言ったが、実際の年齢は誰も知らなかった。
- 一日に数百里を歩いた。郷里で集まりや祭神があると、招かれずとも現れ、酔い飽きると辞去した。そのため人々は席を空けて酒を用意し待つようになり、同じ日に数軒へ姿を見せることもあった。
- 住まいには寝台一つと数巻の書があるだけで、蛇や虎と雑居し、窓も戸も設けず、雨や雪が室内に吹き込んでも平然としていた。留守を狙って覗こうとする者があると、必ず外から曙が戻ってきた。数十年たっても顔や鬢に変化がなかった。
- 烈祖がこれを聞いて召したが、使者が着く前に「私は老いた。国に何の益もないのに、いたずらに召された」と嘆いた。数日後に再び召されたが、ついに応じなかった。
- 保大年間、夜ひとり庭で焚香し天を仰いで拝し祈ったのち、退いて慟哭した。まもなく淮上で戦端が開かれ、人々は予知だったと考えた。
- のち長江を渡り永興の景星廃観に住んだが、その姿を見た里人はまれだった。没して数日、棺に納めるとき全身から汗が出たという。
許堅
- 家系は不明で、晋の長史・許穆の後裔とも言われる。容貌は異様で醜かった。雲泉寺のあたりを往来し、住んだ地は山が重なり喬木が茂って、人は小蔣山と呼んだ。
- 詩を好み、夢の中でもよく吟じた。朝になると布袋一つを背負い、廬山・白鹿洞・茅山・九華のあたりを歩いた。
- 魚を好み、鱗を落とさぬまま火で炙って食べた。頭巾も帯もつけたまま渓流に入って浴し、上がってから乾かした。理由を問われると「天象は昼も明らかに並び連なっている。裸になどなれようか」と答えた。
- 異術があった。太虚観の池に、炙った魚を放つと、まもなく生きた魚となって泳ぎ去った。
- 保大年間、異人として召されたが、堅はその名を恥じて応じなかった。幽栖観に題した詩には、仙翁が昇天したあとの丹井、天台につらなる山色、湖光の広がり、無人の玉洞と老檜に棲む鶴を詠み、いずれ青蛇(剣)を引いて碧落へ翔けたいと結んだ。
- 数年後、陽羨に移ったが、人は誰とも知らなかった。ある日、西津を渡るのに波の上を平地のように歩き、皆が神異と見た。
- かねて樊若水と親しく、若水が北へ渡ったのち江南で輸送に従事していたとき、簡寂観で堅に出会い仕官を勧めたが、堅は黙して答えず、のち行方を知られなかった。
聶紹元
- 字は伯祖。母の程氏は懐妊中、天人がその腹を指して「この子は必ず道果を証する」と告げる夢を見た。生まれると聡明で、他の子と異なっていた。長じて書史を好み、とくに老子・荘子・文子・列子に精通した。
- 金陵に赴いて道士の高朗昭に師事し、戒籙を受けた。その夜、ある城に入る夢を見た。朱衣の者が几に凭れて「ここは司録の役所だ、自分で名簿を見よ」と言うので開くと、「聶紹元は十八で入道、二十で上清畢法を授かり、二十六でまた南嶽に赴く」とあり、そこで巻を閉じて目覚めた。
- のち問政山に戻って庵を建てて住み、自ら無名子と号した。
- 当時、後主は仏教を偏愛し、道士たちの多くが髪や鬚を落として迎合した。紹元は上疏して厳しく諫めた。
- まもなく病没した。その日、四羽の鶴が屋根に集まり、神光が空から降って、見た者は火事かと疑った。同じ日、紹元が緋と緑の衣の道士三人および数十人の従者と馬で南へ去るのを見た者があり、紹元は振り返って「私は南嶽へ行く」と言ったという。
- 『宗性論』『修真秘訣』を著し、学士の徐鉉・徐鍇はこれを見て「呉筠も施肩吾もこれ以上ではない」と感嘆した。
耿先生
- 軍の大校・耿謙の娘。幼くして聡明で容色に優れ、書を好み絵を善くし、詩を作ればしばしば佳句があった。黄白の術(錬金)に通じ、鬼魅を拘束することもでき、その由来は誰にも分からなかった。
- のち女道士となり、天自在山人と自称した。保大年間、宋斉丘の縁で入宮した。元宗は別院に住まわせ「先生」と呼んだ。
- 常に碧霞の帔を着け、風采は際立ち、弁舌は流暢だった。手は鳥の爪のようで用をなさず、飲食はすべて人の手を借り、歩くのも好まなかったので、宮中では人に抱えられて動いた。折々に壁へ詩を題した。自ら「比大先生」と称し、天に比するの意だとも言われた。
- 元宗が暇なとき黄白の事を尋ね、試させるとすべて験があった。元宗が「これは皆火の力で成るもの、火を用いずにできるか」と問うと、「できます」と答えた。元宗が水銀を硾紙で幾重にも包み厳重に封をして渡すと、耿はそれを懐に入れ、しばらくして布を裂くような音がした。元宗が見ると封は元のままだが、開けると銀に変わっていた。
- また大雪の日、火鉢を囲みながら金の盆に雪を盛らせ、雪を削って銀の錠のかたちにして熾った炭に投じた。しばらくして取り出すと真っ赤に焼けており、地に置くとすべて白い銀の鋌になり、削った刃の跡までそのまま残っていた。裏返すと酥や乳が垂れたような形で、初めに火で溶けた跡だった。
- こうして耿の作る「雪銀」は数多く、元宗の誕生日には器物に仕立てて長寿を祝った。
- また宮女が塵芥を運ぶのを見て「もったいない、捨てさせるな」と言い、鍋に入れて煮つめさせるとすべて白金になった。開宝年間(968-976年)になっても金陵の内庫にはこの「糞壌銀」が残っていた。
- 元宗が真珠数升を買い、丸いものを望んだとき、耿は「たやすい」と言い、小麦を銀の釜で炒ると、すべて光り輝く円い珠になった。
- 大食国が龍脳油を献じ、元宗は秘蔵していたが、耿は見て「上物ではない」と言い、白龍脳数斤を絹の袋に入れて吊るすと、まもなく注ぐように液が滴り、香味は献上品に勝った。
- まもなく寵を受けて懐妊し、側近に「私の子は普通の生まれ方ではない、必ず異変があろう」と語った。ある夜、雷電が部屋を巡り大雨が降り注ぎ、晴れたときには胎はなくなっていた。元宗が驚いて問うと、「夜の雷電の中で子を生み、すでに神物となって連れ去られた」と答えた。
- しばらくして宮中から宋太后が姿を消し、耿も隠れた。数か月、内外が大いに騒いだが、都城外二十里の方山宝華宮にいると告げる者があった。元宗はただちに斉王・李景達を遣わして迎えさせたところ、太后は数人の道士と酒宴の最中だった。太后は宮に迎え戻され、道士たちは皆誅殺された。耿も再び入宮を許されず、江淮を往来して市で薬を売っていたとも伝えられる。
楊保宗
- 出身地は不明。幼い頃から聡明で、成人して婚約もしていたが、突然の悟るところがあって女道士となることを願い出た。
- 廬山に入り、上霄峰の崇善観に住んだ。穀を断ち形を煉り、俗念を捨て去った。丹薬と符籙で人の病苦を救った。
- 元宗はこれを聞いて特に召し、禁中に迎えて、道を好む妃嬪たちに会わせた。金銭千万を施して観の建物を新しくさせ、観の額を賜り、尚書郎の韓熙載に記を撰させた。さらに保宗に紫衣を賜り、臣下に詩を作って送らせた。
- 保宗は高齢ながら顔色は子どものようだった。没しても容貌は生けるがごとくで、棺は非常に軽く、人は尸解したと考えた。