十国春秋十國春秋卷三十九 前蜀五 列傳(王宗佶以下、高祖の養子・仮子ら四十一人)
呉任臣の撰。前蜀高祖王建が養子・仮子として姓名を賜った将領たちの伝を集める。
王宗佶
- もとの姓は甘氏、洪州の人。高祖が忠武軍の一兵卒であったころ略取され、養子とされた。
- 軍功を重ねて武信軍節度使に至った。天復初(901年)に扈駕指揮使となり、五万の兵を率いて天子を迎えると称して山南の諸州を襲った。のち太師に進み晋国公に封じられた。
- 高祖の実子である元懿らが成長すると、養子である宗佶は不安を覚え、鄭騫らと謀って大司馬となり六軍を統べて元帥府を開き、軍事は事後報告で専断できるよう求めた。高祖は創業の功が多いことから寛大に扱った。
- 唐道襲はもと舞童として寵を得た者で、宗佶は特に軽んじ、樞密使となってからも名を呼び捨てにした。道襲は屈辱に耐えず、内心恨みながら表向きはいっそう恭しく仕えた。
- これを聞いた高祖は怒り「宗佶が我が樞密使を呼び捨てにするのは、謀反する気か」と言った。
- 折しも宗佶が大司馬を求める上奏を三度も出したので、高祖が道襲に諮ると、道襲はわざと高祖の怒りを煽って「宗佶は功臣で、その威望は人心を服させるに足ります。陛下はただちに与えるべきです」と述べた。高祖はますます疑いを深めた。
- 宗佶が参内して重ねて自ら請うたので、高祖は武士に命じて撲殺させ、鄭騫にも死を賜った。
王宗侃と子の承肇
- 宗侃はもとの姓は田氏、雅州の人。高祖の仮子。高祖が西川に入るとき従って西へ向かい、真っ先に敵陣に突入した。
- のち梓州を救援して楊守厚の七つの砦を破り、上表によって雅州刺史に移った。彭州攻めに従い、軍士王先成の献策を採って七か条を進言した。
- 数年後、利州を攻め落として刺史李継顒を斬った。まもなく決雲都知兵馬使となり、続いて応援関陝都指揮使を領し、渝州を攻め取ってその刺史牟崇厚を降した。その後、龍台鎮使に転じ、杜従法討伐に加わって功を立てた。
- 天復七年(907年)に太保兼侍中に進み、武成初(908年)に兼中書令を拝した。
- 永平元年(911年)、高祖が岐と対立すると、宗侃は自ら陣中で力を尽くしたいと願い出て北路行営都統に任じられた。この出兵は歩騎十二万、旌旗が数百里にわたって連なった。
- しかし青泥嶺の戦いで宗侃の軍は大敗し、安遠軍まで退いて守った。高祖は召して「おまえはまた無謀なことをした。赫雷が怖くないのか」と責めた。赫雷とは高祖の刀の名である。宗侃は恐れ入り、功なくして帰った。
- 後主が即位すると楽安王に封じられ尚父を加えられ、さらに魏王に進封されて没した。
- 承肇は宗侃の第三子で、雅州に生まれ、幼名を獦獠児といった。はじめ宗侃の妻崔氏が、高冠にゆったりした袖の人が「周公山の神」と名乗り、五色の獣を引いて衣に迫る夢を見て身ごもり、承肇を生んだ。
- 数年後、崔和尚という異人が承肇を見てその背をなでながら「拙僧の住む周公山の佳気が半減している。ここに霊気が宿ったのか。この子は麒麟の精であり、必ず王者の瑞となる」と言った。
- 承肇は兵法にかなり通じ、累進して武定節度使、太尉を加えられた。国が滅ぶと唐に降り行軍司馬となった。
王宗滌
- もとの姓名は華洪、潁川の人。高祖に従って威信都指揮使となり、李簡らとともに梓州で楊守厚を防いだ際、功が最も多かった。
- さらに彭州を攻めて楊晟の軍を破り、閬州で楊守亮を撃ち、先陣を切って敵陣を陥れた。楸林で顧彦暉を破って邛州刺史に移り、ふたたび兵を率いて東川を攻めた。高祖はその功を賞して王宗滌と改姓改名させ、実子と同列に扱った。
- まもなく東川留後に任じられた。翌年、宗滌は「東川の封域は五千里に及び、文書の往復に日数がかかる。遂・合・瀘・渝・昌の五州を分けて別に一鎮としたい」と述べ、高祖はその説を朝廷に上奏した。のちに遂州へ武信軍が置かれたのは宗滌の力による。
- 数か月後、唐は宗滌を東川節度使に任じ、久しくして同平章事を加えた。まもなく興元で李継密を破り、唐は詔して山南東道節度使とした。
- 宗滌は勇略があり将士の心を得ていたので、高祖は内心これを忌んだ。折しも成都に府門を築いて朱で塗ったのを、人々が「画紅楼」と呼んだ。高祖は宗滌の姓名(洪)がこれに応ずるとみなし、加えて王宗佶がその功を妬んで根拠のない噂を仕組んだ。
- 高祖が召して詰問すると、宗滌は「三蜀はほぼ平定されました。大王が讒言を信じて功臣を殺されるのならそれもよいでしょう」と言った。高祖は親随指揮使の唐道襲に酒を飲ませたうえで縊り殺させた。成都では市が閉じられ、人々は肉親を失ったように泣いた。
- 武成元年(908年)、高祖は即位して境内に赦を下し、詔して宗滌を追贈した。詔は、宗滌が早くから重用され功績を重ね、遠征を厭わず常に士卒に先んじて敵に当たった労臣であること、しかし富貴によって驕りを生じて自ら災いを招き、初志を守らず不遜の心を抱いたため、人情が憤り国法として処断せざるをえなかったこと、いま新たな治世の初めに旧臣を思って名誉を回復し霊を慰めるべきこと、を述べる。そこで生前の官爵はすべて元通りに戻された。
王宗翰
- もとの姓は孟氏、高祖の姉の子。高祖が養って子とし、姓名を賜った。
- 武成三年(910年)に集王に封じられ、まもなく同平章事を加えられた。
- 永平五年(915年)に東北面招討副使となって岐の鳳州を攻め、続いて青泥嶺を出て固鎮を落としたが、秦州の将郭守謙と泥陽川で戦って敗れ、鹿台山に退いて守った。
- 翌年(916年)ふたたび第一招討使となって兵を率い岐を伐ったが、まもなく死んだ。
王宗弼
- もとの姓名は魏宏夫。高祖が仮子として今の姓名に改めさせた。
- 楊守厚が梓州を攻めたとき、高祖は華洪らを遣わして顧彦暉を救わせ、慰労にかこつけて彦暉を捕らえようと謀った。宗弼はこの密計を彦暉に漏らしたが、高祖は意に介さず以前どおりに遇した。
- のち高祖に従って東川を攻めた際、東川の兵に捕らえられた。彦暉は旧恩を思って養子とした。彦暉が敗れると、ふたたび高祖のもとに戻った。
- 功を重ねて兼中書令に至り、北面行営招討使を兼ねた。高祖の病が重くなると、沈着で謀に富むことから馬歩都指揮使に召され、他の臣とともに遺詔を受けた。
- 後主が即位すると太師兼中書令を守り、六軍を統べて輔政し、さらに鉅鹿王、のち斉王に進封された。
- このころ後主は政務を執らず、内外の人事はすべて宗弼から出た。賄賂を受け私を行い、上下の怨嗟を招いた。
- 唐兵が国境に入り、王宗勲らの軍が三泉に至って戦わずに退くと、後主は宗弼に綿谷を守らせ、あわせて宗勲らを誅せよと詔した。ところが宗弼はかえって宗勲らと結んで唐に帰順を申し入れ、成都に戻ると太玄門に登り、兵を厳重に配して自衛した。
- 後主と太后がみずから慰労に赴いたが、宗弼は驕慢で臣下の礼を失っていた。まもなく太后・後宮・諸王を西宮に移し、璽綬を取り上げた。さらに腹心の吏に義興門で内庫の金帛を横取りさせ、子の承涓は剣を手に宮中へ押し入って後主の寵姫数人を奪い去った。
- 宗弼は宋光嗣・景潤澄・韓昭らを殺してその首を箱に納め唐へ送り、日ごろ気に入らない者はみな口実を設けて誅した。潘在迎ら多くの者は家財を尽くして賄賂を贈り、難を免れた。
- 宗弼はますます勝手にふるまい、みずから権西川兵馬留後と称し、使者を遣わして魏王継岌に書を奉り西川節度使の地位を求めた。継岌は「これは我が家のものだ。献上を受ける必要などない」と答えた。
- 数日後、宋光葆が梓州から来て、宗弼が光嗣らを無実の罪で殺したと訴えた。また郭崇韜が軍への慰労金数万を宗弼に徴発したが、宗弼は惜しんで出さなかったため、士卒は怨り怒って夜に火を放ち騒ぎ立てた。崇韜は宗弼を殺して身の潔白を示そうとした。
- 継岌は宗弼と宗勲・宗渥を捕らえ、不忠の罪を数え上げて一族もろとも誅し、家財を没収した。国人は争って宗弼の肉を食らった。
- これより先、乾徳年間(919年〜)の童謡に「私は一帖の薬を持つ、その名は阿魏、十八子に売ろう」とあった。これは魏氏が国を李氏に売る前兆であり、宗弼がまさにこれに当たった。
王宗黯
- もとの姓名は吉諫。高祖の帳下に属して牙将となった。
- 景福元年(892年)に楊守厚を破って功を立て、王宗黯の姓名を賜った。
- 天復初(901年)、杜法従が昌・普・合の三州で反乱を起こすと、高祖は宗黯を行営兵馬使として東川・武信の兵と合流させ、これを平定させた。まもなく兼侍中に進んだ。
- 太子元膺の乱では、大安門から城壁を越えて入り、会同殿の前で徐瑤らと戦い、ついに瑤を敗死させた。この事変は突発的に起こったもので、宗黯の働きがなければ結末は予測しがたかった。
- 後主の即位後、功を論じて琅邪郡王に封じられた。
王宗弁
- もとの姓名は鹿弁。高祖から今の姓名を賜り子とされた。
- はじめ高祖に従い、宗瑤・宗弼・宗侃とともに西川に入り、功を重ねて蜀州刺史に至った。
- ある日、病と称して職を辞し成都へ帰りたいと願い出た。高祖は功をたのんで不満を抱いているのかと疑い、検校太保を加えたが、固辞して受けなかった。
- 宗弁は常々「清廉な者は満足して憂えず、貪欲な者は憂えて満足しない。私のような小人がこの地位まで来たのは十分だ。際限なく昇進を求めてよいものか」と語った。高祖はその志を嘉して許し、宗弁は天寿を全うした。
王宗本
- もとの姓名は謝従本。陳敬瑄に仕えて資簡都制置応援使であった。
- 高祖が成都を攻めると、従本は雅州刺史張承簡を殺して城ごと降った。高祖はその功を認め、敬瑄が平定されたのち養子として王宗本と改めさせた。
- 久しくして渝州刺史に抜擢されたが、まもなく官を退いて成都に帰った。
- 天復三年(903年)、宗本は荊南を取るための出兵を願い出た。高祖は開道都指揮使に任じ、兵を率いて三峡を下らせた。夔州刺史侯矩を降し、夔・忠・万・施の四州を平定した。
- のち武泰留後に移った。武泰軍はもと黔州を治所としていたが、宗本は瘴癘が多いとして涪州への移転を請い、高祖はこれを許した。
王宗阮
- もと僰道の土豪、文武堅という。剣器の舞を能くし、当時「文大剣」と呼ばれた。
- 高祖が陳敬瑄を攻めたとき、武堅は戎州刺史謝承恩を捕らえて降った。成都平定後、王宗阮と改姓改名させられ、決勝都知兵馬使を領した。
- まもなく開江防送進奉使となり、七千の兵を率いて瀘州へ向かい、ほどなく瀘州を破って刺史馬敬儒を殺した。峡路はもと東川の門戸であったが、これによって初めて通じた。これは宗阮の力による。
- 高祖はただちに宗阮に渝州を知らせた。天復四年(904年)、趙匡凝が夔州を攻めると、宗阮は軍を率いて撃退し、匡凝は敗走した。宗阮はのち病で死んだ。
- 宗阮はかつて瀘州の方山廟の祭に立ち会った。夜半、犠牲の腸が犬の子に食われた。まもなく雷鳴の音がして、白い衣冠の人が堂に上がって事にあたり、獠鬼十数体が階下を走り回り、黄衫の者一人を捕らえて「おまえが供物を盗んだ者ではないか」と責め、十五回打たせた。翌朝見ると犬の子は尻が潰れ、血肉のなかでのたうっていた。人々は皆これを不思議なことと驚いた。
王宗播と子の承傑
- 宗播はもとの姓名は許存。もと荊南節度使成汭の将であった。汭と存は長江をさかのぼって土地を切り取り、沿江の州県をことごとく取ったので、存を万州刺史とした。しかし存は志を得られず、乾徳年間に高祖に降った。
- 高祖は存の勇略を忌んで殺そうとしたが、掌書記の高燭が「公はいま英雄を集めて覇業を図ろうとしています。窮して帰順した者をどうして殺せましょう」と諫めた。
- そこで高祖は存を蜀州に駐屯させ、ひそかに知蜀州の王宗綰に監視させた。宗綰は「存は忠勇で謙虚、良将の才がある」と密報し、高祖はこれを信じて王宗播と改姓改名させ、実子と同列に扱った。
- 久しくして前鋒将となり三泉で李継密を攻めた。孔目官の柳脩業が「公は一族を挙げて人に帰したのだから、死力を尽くして戦わねば身を保てません」と言った。宗播は兵に「私はおまえたちと決戦して功名を取る。さもなくばここで死ぬ」と告げ、金牛など四つの砦を破った。継密は敗れて漢中へ退いた。
- 柳脩業はさらにたびたび、慎み静かにして禍を避けるよう勧めた。以後、宗播は強敵に遭うと必ず身を先んじ、功があっても病と称して功を誇らなかった。そのため功名を保って生涯を終えた。
- 子の承傑は驕り高ぶって身分を越えることが甚だしく、文書や印章に少しでも滲みがあれば書き直させたので、書記の者は苦しんだ。茂州刺史を歴任し、蕃人に殺された。
王宗儔
- 高祖の養子。戦功を重ね、無官から排陣使となった。武成年間(908年〜)に秦州留後を授かり、のち天雄軍節度使兼侍中となった。
- 乾徳三年(921年)に山南節度使に抜擢され、西北面都招討行営安撫使を兼ねて岐を伐ち、隴州を攻め、さらに上邽に駐屯したが、長く功がなかった。
- まもなく唐が客省使の李厳を聘問に遣わした。厳は唐の威徳を盛んに称して天下統一の志を語り、あわせて「朱氏が簒奪したのに、勤王の師を起こす諸侯が一人もなかった」と述べた。宗儔はその言葉が蜀への当てこすりだとして斬るよう請うたが、後主は聞き入れなかった。
- のち後主の荒淫が日ごとに甚だしくなると、宗儔は宗廟の祭祀が絶えるのを憂え、ひそかに王宗弼と伊尹・霍光の故事にならう廃立を約した。しかし宗弼は迷って決断せず、宗儔は憂憤のうちに死んだ。
- 宗弼は樞密使の宋光嗣・景潤澄らに「宗儔は私におまえたちを除くよう託していたが、もう心配はない」と告げた。光嗣らは平伏して泣き礼を述べた。宗弼の子承班はこれを聞いて「我が家は禍を免れまい」と人に語った。
- 宗儔が岐を伐った折、白石鎮に戻ったとき、副招討の王宗信が普安禅院に泊まり、伎女十数人を抱えてそれぞれ床に寝ていた。突然、一人の姫が火の炉に飛び込み、燃える炭の上でのたうった。宗信が急ぎ救い出すと、履物も衣服も少しも焦げていなかった。続いてまた一人が同じように飛び込み、これも救った。伎女たちは出たり入ったりして皆錯乱し声を失った。
- 腹心の吏が驚いて宗儔に報せた。宗儔が来て腕を取って引き出すと、衣の裾は少しも損じていなかった。事情を尋ねると、皆「蕃僧に捕らえられて火の中に入れられ、慰みものにされた」と我に返って言った。
- 宗信は激怒して僧たちを残らず引き据え、伎女に見分けさせた。周和尚という背が高く髯の濃い僧を皆が指したので、宗信は幻術を疑って百叩きにしたが、事態は解けなかった。宗儔は無実と見抜いて釈放させた。結局どのような怪異であったかは分からなかった。
王宗謹
- もとの名は釗。乾寧元年(894年)に彭州攻めで功があり、高祖は陣中で子として録し、宗謹と改名させて実子たちと同列に置いた。
- 戎州刺史を授かり、のち鳳翔四面行営使を領し、玄武で鳳翔の将李継徽を破った。
王宗綰
- もとの姓名は李綰。乾寧元年(894年)に王釗らとともに高祖の義児となり、今の姓名に改めた。累進して知蜀州となった。
- 高祖が東川を破ると、宗綰に兵を分けて昌・普などの州を巡撫させた。まもなく武定軍節度使を領した。
- 司馬卿が唐の昭宗の喪を告げに来たとき、高祖は宗綰に命じて大義をもって責め、弑逆の理由を問い詰めさせた。その語気は激烈で、司馬卿はついに国境に入れなかった。この件は高祖紀に詳しい。
- 永平年間(911年〜)、高祖が岐と戦火を交えると、宗綰は馬歩都指揮使となり、あらかじめ城西県を安遠軍として整えた。利州方面はこれを頼みとして防壁とした。
- まもなく兼中書令を詔され、ふたたび北面行営都制置使となって秦州を攻めた。金沙谷で岐兵を破って岐の将李彦巣を捕らえ、再び成州を落として刺史李彦徳を捕虜とし、続いて秦州を陥れ、鳳州を抜いた。高祖が秦・鳳・階・成の地を得たのは宗綰の第一の功である。
- 通正元年(916年)、また東北面都招討を領して岐を伐ち、大散関を出て岐兵を大破し、宝鶏を取って鳳翔を包囲した。岐の人々は震え上がった。
- 光天年間(918年)に王宗瑤らとともに顧命を受けて輔政し、後主の即位で臨洮王に封じられた。
- 宗綰は寛厚で慎み深く、高い功があっても誇らなかった。かつて許存の忠勇と他意のないことを密かに進言して存を死から救ったが、ついに存自身にはそれを知らせなかった。生涯の行いはおおむねこうした類である。
王宗儒
- もとの姓名は楊儒、彭城の人。はじめ陳敬瑄に仕えて大将となった。
- 高祖が邛州を攻めたとき、敬瑄は儒に三千の兵を与えて刺史毛湘の守備を助けさせた。湘は出撃してたびたび敗れた。儒は城壁に登って高祖の軍の強さを見、「唐の命運は尽きた。王公は軍の統率が厳格でありながら残虐ではない。民を庇うことができるだろう」と嘆じ、手勢を率いて降った。
- 高祖は仮子として録し、王宗儒と改姓改名させた。
王宗浩
- 高祖の義子。腕力と勇気があり騎射を得意とした。高祖に従って西川に入り軍使となった。
- 天復二年(902年)、高祖が興州を落とすと刺史に抜擢された。
- 青泥嶺の戦いのとき馬歩使をつとめていたが、敗れて興州へ逃れる途中、川に溺れて死んだ。
王宗朗
- もとの姓名は全師朗、金州の人。唐の昭信節度使馮行襲が金州に拠っていたころ、その麾下の親校であった。
- 王宗賀が行襲を攻め、行襲が均州へ逃れると、師朗は城ごと降った。高祖は功を嘉して王姓と宗朗の名を賜り、実子たちと同じ字を連ねさせ、金州観察使に任じ、渠・巴・開の三州を割いて属させた。
- 三か月後、金州はふたたび行襲に奪われ、宗朗は守りきれず成都へ逃れた。のち蜀兵が再び金州を落とすと、そのまま宗朗を刺史とした。
- 武成三年(910年)、宗朗は次のように上奏した。洵陽県の洵水のほとりに青烟廟があり、数日にわたって廟の上に煙と雲が立ちこめて昼夜を分かたず、音楽が奏でられた。突然、水面が波立ち、龍の群れが水上に現れて漢江へ入っていった。大きいものは数丈、小さいものも一丈あまり、黄・黒・赤・白・青の色があり、牛や馬、驢馬や羊のような形をしていた。大小あわせて五十ほどが次々と連なって漢江へ入り、また廟のもとへ引き返すこと数里、三日にわたって現れたり隠れたりしたのち止んだ。
- まもなく金州は雄武軍と改められ、宗朗は本軍節度使兼中書令を領した。
- 後主の時、罪により官職を削られ、もとの姓名に戻された。桑宏志が兵を率いて討ちに向かい、捕らえて成都に連れ帰ったが、罪は許された。久しくして病死した。
王宗渥
- もとの姓名は鄭渥、京兆の人。はじめ高祖に仕えて牙校となった。
- 高祖が成都を攻めたとき、渥に偽って降らせ城中の虚実を探らせた。陳敬瑄は愚直な人柄でただちに降伏を受け入れ、渥を大将として城壁の守備につけ、蜀軍に当たらせた。渥は隙を見てふたたび偽って抜け出し、成都の情勢をすべて持ち帰った。高祖は厚く賞して義子に列し、王姓と宗渥の名を賜った。
- 咸康元年(925年)、魏王継岌に殺された。
王宗範
- 出身地は不明。母の張氏はもと高祖の後宮であった。
- 宗範ははじめ母に従って高祖のもとに来たので、母の姓を冒して張と称した。高祖は養って子とし、今の姓名を賜った。
- 高祖の陳敬瑄討伐に従い、戦功を重ねて夔王に封じられた。
- 長和の蛮が黎州に侵入すると、宗範は軍を率いて討ち、潘倉嶂でその兵を破り、さらに山口城で破り、続いて武侯嶺の十三の砦を落とし、大渡河でまた破った。西南は震え上がり、誰もが恐れ服した。数年後に没した。
王宗瑤
- 高祖の義子。高祖が成都を包囲したとき、宗瑤は王宗弼らとともに西上して鹿頭関を破り、漢州を抜き、徳陽を陥れた。この功は宗瑤が最も多かった。
- 高祖の軍が新都に駐屯したころ、土豪の安仁費・思懃・何義陽らが各地で兵を擁して服さなかった。高祖が宗瑤に利害を説かせると、仁らはみな衆を率いて帰属し、そのうえ物資や兵糧を贈ったので、軍は大いに振るった。
- 景福初(892年)に茂州刺史となり、兵を率いて彭州を攻め、城下で楊晟を破った。まもなく簡州に移った。
- 乾寧二年(895年)、三鎮が朝廷に反すると、宗瑤は軍を率いて救援に赴き綿州に駐屯した。その軍容は盛んで、国人は口々に称賛した。
- 高祖の即位で兼中書令を詔された。永平五年(915年)に東北面招討使となって鳳州を攻めて落とし、のち遺詔を受けて輔政した。後主の即位で功を論じ、臨淄王に封じられた。
王宗訓
- もとの名は茂権。はじめ刁子都虞侯であった。高祖の彭州攻めのとき、茂権は陣前で楊晟を斬り、最高の賞を受けて宗訓の名を賜り、実子たちに並んだ。
- 永平年間(911年〜)に累進して武泰軍節度使となり黔州に鎮した。
- 宗訓は恩寵をたのんで貪欲かつ横暴で、驕り高ぶって制を越え、詔に従わず勝手に成都へ戻ってはさまざまな要求をした。高祖は宗訓を見るや激怒し、衛士に命じて撲殺させた。
王宗勉
- もとの姓名は趙章。楊晟に従って内外都指揮使となった。
- 彭州が包囲されると、章は衆を率いて降った。高祖は李綰らとともに子として録し、王宗勉と改姓改名させた。
王宗鍔
- 若くして技芸と武勇に富み、高祖に従って西川に入り仮子となった。
- 後主の即位後、定遠軍使を歴任した。乾徳末(924年ごろ)、招討馬歩使となって二十一軍を率い、洋州に駐屯して唐軍に備えた。その後の消息は分からない。
王宗夔
- もと高祖の養子。はじめ高祖の麾下に属して親校となった。進んで龍州を落とし、刺史田昉を殺す功を立て、累進して兼中書令に至った。
- 高祖の臨終に際し、王宗弼・宗瑤・宗綰らとともに遺詔を受けて輔政した。後主の即位で琅邪郡王に封じられた。
王宗裔
- こちらも高祖の養子。兼中書令を歴任し、後主の即位当初に琅邪郡王に封じられた。
王宗矩
- 易州の人。もとの姓名は侯矩。天復年間(901年〜)に夔州刺史となり、荊南節度使成汭に従って兵を率い鄂州を救援したが、汭が死んだので逃げ帰った。
- 折しも王宗本が軍を統べて三峡を下ると、矩は城ごと降った。高祖は功を嘉してあらためて夔州刺史とし、姓名を宗矩と改めさせ、実子たちの列に加えた。
王宗祐
- 高祖に仕えて仮子となり、従って西川に入って彭州刺史を授かった。のち兵を率いて東川を攻めて功があり、邛州刺史に移った。
- 唐の昭宗が東遷したとき、高祖は宗祐を北路行営指揮使として車駕を迎えに向かわせた。累進して兼侍中となった。
- 永平元年(911年)の岐討伐では、王宗賀・唐道襲とともに三招討使の一人となった。青泥嶺の戦いで蜀兵は大敗し、宗祐は功なく帰った。まもなく没した。
王宗汾
- こちらも高祖の義子。永平年間(911年〜)に行営都指揮使として岐を伐ち、進んで文州を落とし、岐の将李継夔を敗走させた。
王宗信
- 高祖の仮子。功を重ねて左神勇軍使に至った。高祖の時には目立った功績はなかった。
- 後主の即位後、王宗昱・宗晏とともに三招討副使として王宗儔に属し岐を伐った。威武城に進駐して武備を整えたが、結局は何の功もなく帰った。
- 宗信は残忍な性質で人を殺すのを好んだ。かつて鳳州に鎮していたとき、角觝取りの蘇鐸に巡警を任せていたが、鐸は麾下の孫延膺と仲が悪かった。
- ある日、鐸が錦の袍に帯を締め、遠出のような身なりをしていた。宗信は楼に登ってこれを見、延膺に鐸はどこへ行くのかと尋ねた。鐸はもと岐の人であったので、延膺は「鐸は公に養われながら禍心を包み隠し、久しく敵地へ逃げ帰ろうとしていたのです」と讒言した。
- 宗信は激怒して鐸を捕らえ、舌を切り、切り刻んで斬った。将士は皆これを冤罪と嘆いた。翌年、延膺も謀反を企てて殺された。
王宗賀
- 出自は不明。高祖に仕えて姓名を賜り子とされ、指揮使となった。
- 天復二年(902年)、山南西道節度使王宗滌が罪により死ぬと、高祖は宗賀を権興元留後とした。
- 数年後、兵を率いて金州の馮行襲を攻め、向かうところ勝ち続けた。
- 永平元年(911年)に王宗祐らとともに招討使として岐を伐ったが、青泥嶺の戦いで軍は全滅した。まもなく中書令を加えられた。
- 太子元膺の変では、乱を鎮める功があった。久しくして没した。
王宗紹
- 高祖の養子。累進して左金吾大将軍に至った。
- 高祖が岐王李茂貞と対立すると、王宗祐らを三招討使として討伐させ、宗紹をその副とした。歩騎十二万を率い、軍容ははなはだ盛んであったが、青泥嶺の戦いで大軍は敗れ、ついに功はなかった。
- 数年後、劉知俊とともに鳳翔を包囲したが、召還された。その後の消息は不明である。
王宗宏
- 爵位も出身地も史に伝わらない。やはり高祖の養子である。
- 天漢元年(917年)に東北面第二招討として岐を伐った。その後の事跡は記録が欠けている。
王宗鐸
- 若くして高祖に従い仮子となり、無官から興州刺史となった。
- 永平四年(914年)に北面制置指揮使を兼ね、岐の階州および固鎮を攻め、細砂など十一の砦を続けて破り、捕獲した人馬は数えきれなかった。
- 翌年(915年)に階州を抜き、その刺史李彦安を降した。高祖が秦・鳳・階州の地を得たのには、宗鐸の功があった。
王宗魯
- 出身地は原本で欠字となっている。高祖が養って子とし、従って成都に入った。
- のち龍州を攻め落とし、刺史田昉を殺した。久しくして利州団練使を授かった。
- 太子元膺の変では兵を出して西毬場門に布陣し、乱を鎮める功が大きかった。
- 永平末(915年ごろ)、鳳州に武興軍が置かれると、宗魯はその節度使を領した。
王宗昱
- 家系も出自も不明。高祖が仮子として録し姓名を賜り、実子たちと同列とした。天雄軍節度使・同平章事を歴任した。
- 光天年間(918年)に西面招討副使となり、その年に隴州を攻めたが落とせなかった。
- 翌年、王宗儔らとともに岐を伐ち秦州に駐屯した。まもなく兼侍中に進んだ。
- 後主が東へ遊幸していたとき唐軍が侵入すると、宗昱は招討使を領して三泉で迎え撃ったが、唐の将康延孝に敗れた。のち唐に降った。
王宗勲
- 高祖に仕えて義子となり姓名を賜った。乾徳年間、後主の東巡に際して清道指揮使となった。
- まもなく唐軍が国境に入ると、王宗儼・宗昱とともに三招討としてこれを防いだ。三泉の戦いで大敗すると、後主は王宗弼に陣中で宗勲らを誅して士気を上げるよう命じた。しかし宗弼が逃げ帰ったので、宗勲は白艻で追いついた。宗弼が詔書を取り出して見せると、そのまま唐に降った。まもなく魏王継岌に殺された。
王宗晏
- 高祖の時に姓名を賜って子となり、永寧軍使をつとめた。
- 乾徳二年(920年)に王宗儔とともに岐を伐ち、軍は威武城に進んだが功はなかった。その後の事跡は詳しく伝わらない。
王宗汭
- 高祖の仮子。後主の時に招討副使として秦州に駐屯した。
- 唐軍が国境に入って成都への道が絶たれると、宗汭は王承休とともに文州・扶州から南下し、不毛の地を越えて戦いながら進んだ。茂州に着いたときには残る兵はわずか二千であった。
- まもなく成都に帰り、魏王継岌に殺された。
王宗偉
- 若くして高祖の帳下に属し養子となった。天復初(901年)に剣州刺史となり、のち利州制置使に移った。
王宗憲
- もとの姓は許。高祖から姓名を賜り子として録された。天復初(901年)、某江軍節度使となった(軍名の一字は原本で欠字)。
王宗儼
- どこの郡県の人か不明。高祖が養って子とし、無官から指揮使となった。
- 永平年間(911年〜)に岐の長城など四つの関砦を破って功を立てた。
- 乾徳年間、後主が秦州へ行幸すると随駕清道指揮使に任じられた。唐軍が侵入すると王宗勲・宗昱とともに三招討使となり、のち唐に降ったが殺された。
王宗威
- 高祖の義子。累進して山南節度使兼侍中に至った。
- 唐兵が国境に入ると、宗威は梁の開通渠に臨む五州を挙げて降った。
王承檢
- 高祖に仕えて姓名を賜り、孫の世代と同列に置かれた。乾徳年間に秦州節度使となった。
- 防蕃城を築いて上邽山の麓に至ったとき、瓦の棺を掘り当てた。中に死体はなく、ただ舌が一片だけ残り、肉の色は紅く潤って鉄石のように硬かった。またどくろが一つあり、その中に古銭一枚が納められ、二匹の蠅が羽音を立てて飛び去った。
- さらに下から石刻の篆字が出た。それには、隋の開皇二年(582年)、渭州刺史張崇の妻である夫人王氏は二十五歳、崇に嫁して三年目に身ごもったが、その懐妊を嫌って死んだ、とあった。
- 銘にはこうあった。「車道の北、邽山の南。深く玉を送り、香を厚く埋める。この堅い石に刻んで遺芳を輝かせる。地は丘や谷に変わり、険しく城隍が並ぶだろう。乾徳の丙の年、これを壊す者は合郎である」。
- この年は乾徳六年丙子(924年)にあたり、合郎とはまさに承検の幼名であった。
史論
- 唐末には宦官が兵権を握り、しばしば壮士を養子として身辺の護衛に用い、諸将もこれに倣うことが多かった。沙陀氏に至っては義児軍という一軍を設けるほど盛んになった。
- 史書によれば高祖の仮子は総勢百二十人に及び、いずれも功臣であった。姓を冒し名の一字を連ねながら、互いの婚姻は禁じられなかった。
- そこで名の知れた者、王宗信(宗佶)以下四十一人を本篇に載せた。それ以外はもはや概要すら知ることができない。